東京/東京大神宮
交番に辿り着く直前、小蒔は歩みを進めるのに躊躇いを覚えた。
同行する憧は足を怪我し、彼女を背負う京太郎も決して楽ではないだろう。一刻も早く休める場所に辿り着くべきだと言うのに、行きたくないと本能が訴えかける。思慮深い小蒔らしかぬ気持ちの芽生えに、本人が一番当惑した。
たった数時間の付き合いが、小蒔の心を激しく揺らした。
憧ともっとお話ししていたい。
京太郎の傍で、ずっと佇んでいたい。
こんな気持ちを抱くのは、初めてだった。幼い時分より供に過ごしてきた六女仙は、そこにいるのが当たり前になっている。これからもずっと一緒だと確信できる。しかし、京太郎たちは違う。そんな当たり前は通じない。
巫女として修行を積んできた小蒔は非凡な経験と才覚を有しているが、それでも箱入り娘であるのも確かである。二人との冒険は何もかもが初めて尽くしだった。彼女にとって、忘れられない思い出になるのは当然だ。
だからこそ、名残惜しい。
ここでお別れしてしまえば、二度と会えなくなるかも知れない。そう思うと、きゅっと喉の下が締め付けられる。独りでいたときと似た、それでいてもっと苦みを伴った寂しさ。
それが良い意味で裏切られたのは、小蒔にとって全くの考慮の外であった。
「――小蒔ちゃん!」
迎えに来た車で、ようやく小蒔が目的地たる東京大神宮に到着したのと同時。
車を降りた小蒔に、霞が駆け寄ってきた。弱まっているとは言え、雨はまだ降っている。彼女はそれでも構わず、傘を投げ捨て小蒔を抱き締めた。
「大丈夫? 危ない目に合わなかった? 怪我してない? こんなに汚れちゃって……」
「か、霞ちゃん……」
「心配していたのよ。ずっと」
霞が小蒔の肩に顔を埋める。
彼女のこんな姿を見るのは初めてで、小蒔は困った。平時であれば、ずっとおろおろしてばかりでいただろう。
しかし、今日の小蒔は少し違った。すぐに落ち着きを取り戻して、霞に囁く。
「ごめんなさい、霞ちゃん。ご迷惑をおかけしました」
霞の髪を手櫛でときながら、小蒔は彼女の体を抱き締め返す。ふと気付けば、初美たちがやや意外そうに小蒔たちの様子を見つめていた。小蒔は苦笑を浮かべて、
「皆も、ごめんなさい。ずっとお待たせしてしまいました」
「良いのですよー。姫様が無事なら」
初美がいつもの無邪気な笑顔で言った。巴も春も、同意するように頷く。そこでやっと、小蒔は元の居場所に帰ってきたのだと感じた。
丁度そのタイミングで。
「あのー……」
小蒔の背後、車の後部座席から声がかかる。
「神代さん、そろそろあたしたちも降ろしてくれない?」
「あっ、ご、ごめんなさいっ。どうぞ、新子さん、須賀くん」
小蒔は霞の手を引いて、道を空ける。これも普段とは違う光景だった。
まず京太郎が、そして彼の手に引かれて憧が車を降りる。霞たちにとっては知らない顔。だが、小蒔は気後れなく接する。
それどころか、
「あー、疲れた。早くお風呂入りたーい。ねね、神代さん一緒に入ろ」
「ええ、是非ともっ」
「あ、今須賀エッチなこと考えたでしょ?」
「し、してねぇよバカ。俺はさっさと御飯食べたいんだ。な、神代さんだって、お腹空いただろ」
「言われたら急にお腹空いてきました……」
三人は親しげな様子を見せつける。どちらかと言えば人見知りするタイプの小蒔として認識していた六女仙は、口をぽかんと開けてしまう。
最初に我に返った巴が訊ねる。
「姫様、その子たちは……?」
「ええっとですね」
説明を求められた小蒔が答えるよりも早く、父から声がかかる。早く屋内に入るように、とのことだった。
大人の影は三つ。小蒔、憧、京太郎、それぞれの父親だった。
「後で、ゆっくり紹介しますね」
小蒔は余裕を持って答える。霞たちは、頷く他なかった。
◇
境内には、団体客が宿泊することのできる施設があった。ちょっとした旅館みたいなもので、小蒔たちは大浴場で一息つく。
それから通されたのは、小学生用として宛がわれた大部屋の寝所だった。部屋の隅には布団が積まれ、テーブルの上には食事が用意されていた。
「あ、須賀くんこちらです」
「……お、お邪魔します」
男湯に入っていた京太郎が、浴衣姿で合流する。小蒔の手招きで、京太郎はおずおずと彼女の隣の席に着く。
「ええと、それでは改めて紹介しますね」
小蒔、憧、京太郎の向かい側に、六女仙が座る形となる。
「こちら、須賀京太郎くん。長野の須賀神社の一人息子さんです。私の父の同期生とのことで、今日は私たちと同じ立場で――この、合同勉強会に参加するためいらっしゃったそうです」
小蒔は我がことのように、誇らしげに語る。
「私が迷子で困っていたとき、助けてくれたんです。とても……ほんとうにとっても…………お世話になりました」
最後に少し、俯き顔をうっすら赤らめながらも、小蒔は言い切った。
一言二言、京太郎が霞たちと挨拶を交わすのを聞きながら、小蒔は呼吸を整える。
初めから、「お世話になった」と小蒔は言うつもりだった。だが、はっきりと言葉にする段階になって、口を衝いて出そうになったのは「格好良かった」という賛辞だった。
何も意識していなかった頃なら、さらっと言ってしまったのかも知れない。しかし今の小蒔では、どうにも無理そうだった。
「……それから、こちらは新子憧さんです。新子さんも私たちと同じ立場です」
「で、あたしも一緒に迷子になってたってワケ」
「姫様がお世話になりました」
「ううん、むしろあたしが助けられたくらいだから。気にしないで」
巴のお礼に、憧は手をひらひら振って応える。照れくさそうだった。
「でも、凄い偶然」
春がぽつりと言った。確かに、と霞が頷く。
「目的地が同じ場所だったから、近い場所で迷ったんでしょうね。……いずれにしても、新子さんと須賀くん。本当にありがとう。小蒔ちゃんが無事だったのは、二人のおかげよ」
「いや、ほんと、俺は全然大したことしてないから」
「そんなことありませんっ!」
京太郎の謙遜を、小蒔は反射的に否定した。彼女自身意識したよりも大きな声で、しかもその場に立ち上がって。
皆が呆気にとられる。付き合いの長い六女仙でさえも、ぽかんと口を開けていた。
「……そんなことはありませんので…………」
今度ははっきり赤面し、小蒔はさっとその場に座り直す。
霞たちは、「もしかすると」「ふんふむ」「ですよー」「黒糖」などと話し合うが、悶える小蒔の耳には入らない。
――どうしてこんな風になってしまうのでしょう。
小蒔は自問するが、答えが返ってくるわけもない。京太郎が絡むと途端に平静を失ってしまう。昼間はもっと穏やかに過ごせていたのに、どういうことだろう。時間を置いて落ち着いたら、真っ直ぐに彼の顔を見られなくなってしまっていた。
正体不明の感覚に振り回されっぱなしで、小蒔は困り果てる。それでいて、不思議と嫌な気はしないのがもう訳が分からない。
「とりあえず御飯食べちゃうですよー」
初美がにやにや笑いながら言った。小蒔はほっとしながら箸を持つ。食事に集中していれば、京太郎のことを考えずに済む。
「あ、テレビ点けて良い? はやりんの麻雀講座始まっちゃってる」
言うよりも早く、憧はテレビのリモコンに指をかけていた。六女仙からすれば食事中テレビを見るなど以ての外ではあったが、各家庭で文化は異なる。厳格な霞も、恩人の憧が相手となると注意できなかった。
きらびやかなBGMと共に、牌のおねえさんが画面の中で踊る。麻雀を嗜む小蒔もよく知るアイドルだ。
憧は純粋に麻雀講座を楽しんでいるようだ。おねえさんの説明を熱心に聞いている。
「新子さんも麻雀するの?」
「お姉ちゃんがやっててね。お姉ちゃん、一応インハイ団体戦も出たことあって、ちょくちょく打って貰ってるんだ」
「私たちも打つのよ。折角だから滞在中にいつか打ちましょう」
「うん!」
六女仙ともすぐに打ち解けた様子で、憧は笑顔で頷く。
京太郎はどうなのだろう、と小蒔は彼のほうを盗み見る。彼も麻雀を打つのなら、一緒に打ってみたい。
――と、彼女は思ったのだが。
京太郎が牌のおねえさんを見る目は憧のそれと明らかに違って、完全に頬が緩んでいる。
小蒔はむっとする。
むっとした自分に気付いて、小蒔は首を傾げる。むっとする要素が今、どこにあったのだろうか。やはり京太郎が絡むと訳が分からない。
「……須賀くんは、麻雀するんですか?」
とにかく彼の視線をテレビから引き剥がしたくて、小蒔は話しかける。
「んー? 麻雀は全然やったことない。そこまで手が回ってないから」
「では、他に何かお稽古事を?」
「今はサッカーと野球とバスケとハンドボールやってる」
「見事に体育会系、しかも節操ないわねあんた……」
憧の突っ込みにも京太郎は意を介さない。
「親父がやりたいことはなんでも今の内にやっとけって言うんだよ。絞るのは後からで良いし、その内やりたいこともやれなくなるときがあるからって」
「だからってもうちょっと別のことやっても良いんじゃない? これからはね、人生頭が良い人が勝つのよ」
「なんだよ。鍛えてたおかげで新子背負えたんだから、感謝して欲しいくらいなのに」
「そそそそれは今関係ないでしょっ」
憧がそっぽを向く。そんな二人がおかしくて、小蒔は笑った。やっぱりこの二人と一緒に過ごす時間は楽しい。
食事を終えると、皆で後片付けし、布団を敷く。
「林間学校みたいで楽しいですよー」
「あ、あたし枕投げしたい!」
「良いですよー! やりましょー!」
「いけません」
流石に霞が憧と初美を止める。
そんな三人を尻目に、京太郎は「それじゃ」と小蒔に手を振った。
「俺親父の部屋に戻るから。また明日な」
「あ……」
踵を返し、去って行こうとする京太郎。
彼の浴衣の袖を、小蒔は思わず指先で摘まんでいた。くるりと京太郎が振り返る。
「神代さん? どうした?」
「す、須賀くんもこの部屋で泊まりましょうっ」
――ああ、私は何を言い出しているのでしょうか。
小蒔はすぐさま自分の発言を後悔した。京太郎は目をぱちくりとさせ、「意味がよく分からない」という顔をしていた。
だが、意外にもこの意見は通ってしまった。
女子ばかりの部屋に男子一人、という状況に一番躊躇を覚えたのは京太郎自身だった。こんなことがクラスメイトにバレでもしたら、からかわれるのは目に見えている、と。もっとも、バレる筋などないのだが。
しかし六女仙たちが了承し、憧も賛成はしないが反対もしない態度を見せると、京太郎はそれ以上逆らえなかった。
布団を並べて、皆床につく。
電気を消してからも七人はあれやこれやと話していたが、長旅の疲れも手伝って一人、また一人と眠りに落ちていった。
こういうとき、真っ先に眠るのは自分だろう。そう小蒔自身思っていたのだが、彼女は中々寝付けなかった。
原因は、お昼寝が長かったのと――そしてもう一つ。
隣の布団に入った、京太郎の存在だった。
寝息だけが、部屋を支配する。
「……須賀くん、起きてますか?」
小蒔は、京太郎の背中に向けてダメ元で話しかけてみる。返事はすぐに返ってきた。
「ん、起きてるよ」
「今日は、本当にありがとうございました」
「も、もうお礼は良いって。耳にタコができるくらい聞いたよ」
「でもやっぱり……嬉しかったから」
今こうしているときでさえ、小蒔はホームでの孤独感を思い出せる。そこから救い出してくれたあの声を、掴んでくれたあの手を、無碍に扱うことなどできない。
「明日、もっと遊んでくれますか?」
「当たり前じゃん。親父たちだって遊びに来たようなもんなんだぜ、この旅行。楽しまないのは損だよ損。そうだ、明日は東京観光しようぜ。今日はゆっくり街を見て回る余裕もなかったし。新子と、石戸さんたちとも一緒にさ」
「――はい」
小蒔は布団のシーツにぎゅっと掴み、頷く。
「どこへでもついて行きます、京太郎様」
「さ、様?」
突然の敬称に京太郎が狼狽え、小蒔の側へと寝返りを打つ。二人の鼻先がぶつかり、どちらからともなく顔を逸らした。
「きゅ、急にどうしたんだよ」
京太郎に訊ねられても、小蒔は上手く言葉を繰れない。だが、これが正しいのだと彼女は思っていた。細かい理屈よりも、直感が告げていた。
「いけませんか」
「うーん……神代さん俺より年上だし、俺そんな呼び方されるキャラでもないし、長ったらしくて無骨というか」
「では、京様で如何でしょう」
「よし。まず様から離れよう」
京太郎にそこまで拒絶されると、小蒔としても再検討せざるを得ない。出てきた妥協案は、
「……京くん」
「ん、ん?」
「京くん」
「はい」
「京くんでお願いします」
「……ああ、うん、それで良いと思う」
やや投げ槍だったが、了承は得た。呼び方一つで、小蒔は彼との距離が縮まった気がした。
「私のことは、小蒔とお呼び下さい」
「年上を呼び捨てにするのはちょっと……じゃあ、小蒔ちゃんで」
「はい」
名前を呼ばれると、首元がくすぐったい。でも、それが心地よい。
多幸感に包まれながら、小蒔は眠りに落ちた。
◇
霧島神境の巫女の朝は早い。憧もまた日々規則正しい生活を送っており、彼女たちの起床に合わせるのは難しいことではなかった。
ただ一人、京太郎だけが起きてこない。ずっと、起きてこなかった。
次回:四/新子憧/献身と指先