夏は過ぎ去り、秋もすっかり深まって、いつしか肌寒さを覚えるようになった。この春吉野に引っ越してきたと思ったら、もう冬の入口に差し掛かっている――瞬く間、という言葉を京太郎は噛み締めていた。
乗客の少ない電車を降り駅舎を出て、見上げるのは吉野の山。つい先日までは深緑に塗れていたのに、既に葉は赤く色づき、中にはすっかり枯れ果てた樹木もある。美しくも物寂しい世界に、しばらく京太郎はその場に立ち尽くしていたが、
「なーに黄昏れてんのよ」
「っと。なんだよ、いきなり」
背中を叩かれて、我に返る。振り返るよりも早く目の前に躍り出てきたのは、幼馴染の新子憧だった。
「ほら、さっさと帰るわよ。晩ご飯の支度しなきゃ。今日は鍋よ、鍋」
「はいはい、分かった分かった。そう慌てるなって」
苦笑いしながら、京太郎は憧と連れ添って歩き出す。二人のそれぞれの手には、大きな買い物袋が提げられている。憧と同じ大学に進学してからこちら、休日は彼女と過ごす時間が一番長かった。土曜日の夕餉は、彼女の家で共にするのがいつの間にか不文律となっていた。
今日もまた、いつもと同じ休日。
繰り返される、いつもの時間。
けれども世界に、いつもはない。ふと気付けば、その姿を変えている。
「あれにさ」
意図せず、口から言葉が零れていた。
「ん?」
「あれに、一度しか乗ったことがないんだよな」
何かを誤魔化すように、京太郎は歩みを進めて言った。指差した先にあるのは、吉野山の玄関口とも言えるケーブルカー。丁度、上りと下りの車両がすれ違うタイミングであった。
憧は目を瞬かせてから、京太郎の横顔を覗き込む。
「意外ね。ここに来てもう半年以上経つのに」
「初めて来た日に、記念に乗って以来なんだよな。いつも歩くか、迎えに来て貰ってるし」
「確かにそうね。私も暫く乗ってないや。シズに付き合ってても、ずっと歩き通しだし」
「そっか」
軽く頷く京太郎の視線は、ケーブルに注がれたまま固定されている。
一瞬の間があった。
その後、
「……乗る?」
窺うように憧が訊ねてきて、
「……乗る」
京太郎は、誘われるかのように頷いていた。
券売機で二人分の乗車券を買い、改札をくぐる。斜面を見上げるホームに立つのは、京太郎と憧の二人だけだった。
降りてきた箱形のケーブルカーにも、乗客の姿はなかった。必然、二人だけで乗り込むことになる。
止まっていても揺れる車内には、四人がけの席が向かい合わせで一組ずつ。京太郎が山下側に腰掛けると、憧はその正面に座った。
山間に沈みゆく西日が、二人を乗せるケーブルカーに差し込んでくる。昼の夜の狭間、静かな時間だった。
出発の時刻になっても、結局他の乗客は一人も入ってこなかった。扉が閉じられ、二人だけを乗せたケーブルカーがゆっくりと動き出す。
「ねぇ」
上り始めたケーブルカーの中で、先に口を開いたのは憧だった。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃないわよ。どうしたの、あんた」
どきりとした。心臓が飛び跳ねた。衝動的に顔を背けようとする京太郎だったが、じっと見つめてくる憧の視線からは逃れられない。元々この密室に、逃げ場なんてなかった。助けを求める相手も、いなかった。
「どうしたのって、別にどうしてもねぇよ」
それでも京太郎が虚勢を張ってしまうのは、昔からの付き合い故か。彼女には――あるいは彼女たちには――格好悪いところを見せたくないという、子供染みた欲求。今更取り繕う関係でもないというのに。京太郎自身、悪癖だとさえ自覚していた。
「嘘ばっかり」
そんな態度を取られても憧が微笑むのは、やはり昔からの付き合い故か。彼のことなら全て理解している――なんておこがましい言葉、彼女は決して口にしない。けれども、少なくとも隠し事なんて全くの無意味だった。
「もしかして、焦ってるの?」
「……ん」
端的な憧の指摘に、京太郎は小さく頷いていた。頷かされていた。こいつには敵わない、と京太郎は白旗を上げる。
「もう、俺がこっちに来て半年以上だろ」
ぽつり、と京太郎は自嘲気味に呟く。そう、彼はこの奈良阿知賀、吉野山に希望を抱いて引っ越してきた。そのためだけに、進学先を決定した。
「なのに、何一つ進展してない」
全ては、彼女と再会するため。大手を振って、真正面から堂々と、誰にも文句を言わせず、彼女にもう一度会いに行くため。
あの夏の日に隔たれた、彼女との関係。
自らの存在は、彼女にとって危険なものになってしまった。それを解消するためには、自分の可能性に縋るしかなかった。
その可能性が、その希望が、どこまでもか細いことは理解していた。否、理解していたつもりだった。
ここのところ、変化の手応えを感じていないのだ。長野を飛び出したときと、何ら変わっていない。このままで良いのだろうか。このままの状態で彼女と再会するなんて夢を、叶えられるのだろうか。
「なあ、憧」
三年前、誓った日には迷いなんてなかった。だと言うのに今は、疑問と不安が止めどなく溢れて仕方がない。
「俺は――小蒔ちゃんに、会えるんだろうか」
言ってから、すぐに後悔が襲ってきた。
その弱音を口にしてしまうと、現実になってしまいそうで怖かったからだ。だから、何でもない風を装って、この話題になるのを忌避してきたのだ。
燃え上がるような色の紅葉がアーチを形作り、その下をケーブルカーがくぐっていく。美しい吉野山の光景も、俯く京太郎の瞳には映らない。
「ねぇ、京太郎」
相手が憧だ、厳しい言葉で叱咤されることを覚悟していた。
しかし意外にも、彼女の声色はどこまでも優しかった。
「小蒔とまた会えたら、何がしたい?」
「いや、だから、会えるかどうか――」
「ごちゃごちゃうるさい。良いから答えなさい。ねぇ、あんたは何がしたいの?」
一転、強い言葉で詰問される。
彼女の意図は分からなかった。
だが、答えなければならないと思った。深く考えはしなかった。反射的に、一番に思いついたことを口にしていた。
「西瓜」
「ん?」
「昔、あそこで食べた西瓜」
思い浮かんだのは、あの縁側の光景。あそこで一緒に食べた、あの甘い西瓜。夏の風を受けて、祭り囃子を聴いて、他愛もないことで笑い合ったあの日。
「もう一度、一緒に食べたい」
だって、あんなに美味しい西瓜はもう二度となかったから。
「食べたいんだ」
「うん」
あまりに単純な望みに、しかし憧は頷き笑いかけてくれる。
「大丈夫よ」
「え……」
「きっと一緒に、食べられるよ」
胸の内にあった澱が、すっと消えていく。
見失っていた目標が――否、本当は定まっていなかった目標が、自分の中ではっきりとした。いつの間にか、自分が何をしたいのか、どうしたいのか分からなくなってしまっていた。
がたん、とケーブルカーが大きく揺れ停止する。
山上の駅に、到着したのだ。
京太郎は立ち上がり、座る憧を見下ろす。
「ありがとな、憧」
彼女は何も言わず、小さく肩を竦めた。
ケーブルカーに乗っていた時間は、たったの三分程度だっただろう。けれども三分前とは、何もかも違っていた。こんな短い時間で、僅かな会話で、彼女は全てを変えてくれた。
まるで魔法みたいだ、と京太郎は感心してしまう。
迷ったり、間違えそうになったりしたとき、彼女はいつも背中を押してくれる。小蒔もそうだと、嬉しそうに語っていた。
開かれた扉から、京太郎は車外に出る。眩い夕陽に背中を向け、未だ座ったままの憧に向かって掌を向ける。
「憧」
「何よ」
どれだけ目が曇っていたのだろうか。彼女の顔にも、翳りがあったのを見逃していた。彼女だって、ずっと不安だったのだ。いや、今も不安なのだろう。
「会いに行こうぜ」
「え?」
「お前が言い出したんだろ」
情けなくても、腕を伸ばし続ける。それが今、彼にできる精一杯。
「一緒に会いに行こう、ってさ」
「――……ばか」
憧は頬を染めて、恥ずかしそうに目を逸らして――それからゆっくり立ち上がり、彼の手を取った。
「行こう」
「うん」
赤に染まる吉野の山を、二人は寄り添い登っていく。
冬の寒さを乗り越えて、その先にある季節を迎えるために。
もう一度、二人が三人になるために。
三分の魔法 おわり
今年の冬コミ(C91)に参加します。
配置は
12/30(金) 東地区“a”ブロック-42a
です。サークル名:愛縁文庫
頒布予定はSummer/Shrine/Sweetsの文庫本(フルカラーカバー+挿絵付)、
文庫本には短編(Summer/Shrine/Sweets関連)のペーパーを付ける予定です。
また、別途短編のペーパーも書き下ろす予定です。
表紙はこちら。
【挿絵表示】
短編1:幕外八/新子憧/愛縁なくとも
短編2:幕外九/神代小蒔/愛縁結びて
※内容は予告なく変更になる場合があります。
頒布物情報などは
○Twitter@ttp1515
○活動報告
○サークルブログhttp://blog.livedoor.jp/aienbunko/
などで告知予定です。
委託なども検討中ですが、現状未定です。
よろしくお願い致します。