長野の土を踏むのは、実に十年以上ぶりだった。
清涼な空気は、霧島神境に通じるところがある。初めて訪れたあの日も、そう感じたものだ。古い記憶に浸りながら、石戸霞は一つ深呼吸をした。
背後に控えるのは、狩宿巴と滝見春の二人だけ。あの当時と比べると、人数は半減した。心細くないと言えば、嘘になる。
電車を降りて、バスの停留所に向かう。時刻表が古ぼけていた。時間の流れを、霞は今更ながら感じる。
バスに揺られて、三十分。
三人は、目的地へと辿り着いた。
見上げるのは、須賀の社に続く石段。
――ここを登れば、彼に会える。
霞の胸の中は、多くの不安と僅かな期待で一杯になる。足と地面がくっついてしまったかのように、動かなくなる。
「行きましょう」
促したのは、巴だった。
「ん」
最初の一歩を踏み出したのは、春。
彼女たちに背中を押される形で、霞はようやく歩き始めた。そもそもここを訪れると決意したのは自分だ。どんな理由であろうと、臆してばかりではいられない。
全ては、彼女のため。
そして、彼のため。
あるいは――自分のため。
石戸霞は、石段に足をかけた。冬の時節、葉はすっかり落ちて、昔見た枝木のアーチは寂しいものになっていた。夏と比べて命の気配は薄く、まるで世界に三人だけ取り残された気分になる。
石段の中腹で、霞はぽろりと零した。
「ごめんなさいね、付き合わせてしまって」
「どうしたんですか、今になって。それに私たちは付き合わされた、なんて思ってませんよ。あくまで自分の意思です」
若干呆れ気味に巴が答え、春は無言のまま石段を登り続ける。霞は小さな溜息を吐いた。
石段を登り切った先、迎えてくれたのは赤い鳥居。かつて訪れたとき、その先にいたのはあの少年だった。
だが、今回出迎えてくれたのは違う人物。霞たちにとっても幼馴染で、大切な友達。
「憧ちゃん――」
「二ヶ月ぶり、霞さん、巴さん、春」
巫女装束を身に纏う彼女からは、かつての少女らしさはほとんど抜け落ちて、代わりに年相応の落ち着いた空気を漂わせていた。
「遠いところ、お疲れ様。荷物、こっちで預かるから。泊まるところは、前と同じ」
「色々ありがとうね、憧ちゃん」
「好きでやってることだから」
憧は微笑みながら、三人を社務所の客間へと案内する。
何もかも、懐かしい部屋だった。たった二泊だが、霞は鮮烈に覚えている。捨て置くことなどできない思い出だ。
記憶にあるよりもやや老けた彼の父と挨拶を交わし、ひとまず今日はこのまま休むことになる。時刻は既に夕方、旅の疲れも溜まっているだろうという配慮だった。――目的を果たすためには体調が万全であったほうが良い。逸る気持ちを抑え付けて、霞は了承した。
憧が作ったという夕食は、とても美味しかった。ここで過ごしたときの思い出話に花を咲かせながら、彼女たちは笑い合った。
四人で布団を並べて、横になる。
いつもなら眠りに落ちている時間だったが、霞はなかなか寝付けなかった。春は早々に、巴もほどなくして静かな寝息を立て始める。
何度も寝返りを打ちながら、霞は意識が落ちるのを待った。だが、どうにも目が冴えてしまっている。やはり緊張しているのだろうか。
ふと、隣で眠っていたはずの憧が立ち上がった。
「霞さん」
小さな声で呼びかけられ、霞も立ち上がる。
「どうしたの?」
「眠れないんでしょ? 実は私も。ちょっとお話しない?」
着いて来て、と憧が部屋を出て行く。追いかけない理由もなく、霞も寝所を出た。
憧は、社務所の窓口の椅子に座っていた。彼女が眺める先に広がるのは、暗闇ばかりである。
「大丈夫なの?」
短く訊ねられ――霞はしっかりと頷いた。
「私は京太郎くんと憧ちゃんを信じてるから」
「あたしもかー」
背中は霞に向けられているが、憧が苦笑したのはすぐに分かった。
「太鼓判を押したのは、京太郎くんをずっと見ていた憧ちゃんだもの」
「そりゃそうだけどね。責任、重大だな」
「もしも駄目でも、恨んだりしないわ」
「そんなもしもは、要らないから」
「……そうね」
霞が須賀神社を訪れたのは、言うなれば「実験」だ。
彼が、霞や霧島神境の姫にとって、本当に無害化されているかどうかの確認である。聞いた話を総合すれば、彼の修行は終わり十二分な結果も得られている。後は実際に問題ないか確認するだけ――ではあるが、いきなり姫と会わせるというのは、方々から待ったがかかった。何の実証もない内は、まだ危険であると。
そこには政治的な意図が見え隠れしたが、反論する確かな材料もなかった。
故に、霞は申し出た。
――私の身で確かめます、と。
こんなときのための、自分である。姫と同質の力を持つ自分ならば、彼の結果を確かめるに相応しいだろう。――そのため、今回姫には黙ってこの地を訪れたのだ。
「憧ちゃん」
「なに?」
「……ごめんなさい、なんでもないわ」
思わず無神経なことを訊ねてしまいそうになり、霞は口をつぐむ。憧はさして気にする様子もなく、
「霞さん」
「どうしたの?」
「霞さん、もしかしてあいつのこと、好きだった?」
逆に、直球を投げてきた。思わず、霞の体が硬直する。
「ね、どうだったの?」
重ねて、憧は訊ねてくる。霞は深呼吸を繰り返し、それから答えた。はっきりと、答えた。
「――いいえ」
「そっか。私の勘違いか」
意外にも、それ以上の追求はなかった。
「霞さん」
再び、名前を呼ばれる。
「明日はあいつのこと、よろしくね」
「……ええ。大丈夫、ちゃんと任されたわ」
更けてゆく夜は、どこまでも静かだった。かつては笑い声で溢れていたというのに、とても信じられなかった。
「ねぇ、憧ちゃん」
「どうしたの?」
「今度また、霧島神境に遊びに来てね。そのときは私が料理を振る舞うわ」
「それじゃ、そのときはあいつも一緒ね。一杯作ってもらわないと」
「ええ、もちろんよ」
ようやく二人は、微笑み合えた。
◇
巫女装束に着替え、朝日を迎える。
水垢離を済ませた春や巴も同じく、普段通りの巫女姿である。二人とも、表情は引き締められている。ここ数年に渡る彼と彼女の努力に、一つの審判が下されるのだ。
憧に案内され、社の奥へと進む。
通された広間には、既に見届け人たる老人たちが集まっていた。彼らに隙を見せてはならない。誰が味方で誰が敵かも分からない。姫のお相手が、小さな神社の跡取りでは相応しくないと考える人間も多いのだ。身勝手な、と憤る気持ちさえ鎮め、霞は静かに彼を待つ。
待つこと五分。
広間に、父親と共に彼が現れる。隣に佇む憧たちにも緊張が走るのが、霞にも伝わってきた。
――京太郎くん。
心の中で、彼の名を呼ぶ。
狩衣に袖を通した須賀京太郎は、最後に見た写真よりも幾分か大人びて見えた。直接会うのは、何年ぶりか。姫を差し置いて先に顔を合わせるのはとても心苦しかったが、それよりも大切なことがある。
ぎゅっと、霞は拳を握りしめた。
今すぐにでも、触れ合いたい。抱き締めたい。傍に引き寄せたい。沸き立つ感情を、彼女は理性で抑え付ける。そのようなことをしてしまえば、たちまち不適格の烙印を押されるのは間違いない。たとえ自らの想いであっても、そうは受け取って貰えないだろう。
「――霞さん。巴さん。春」
彼から名前を呼ばれ、三人は居住まいを正す。久しぶりに聞く彼の声には、不思議な力が伴っていた。
「久しぶり。ほんっとうにさ。もう参ったね」
けれども続いた声は、いつも通りのもので。
ほうっと、霞は安心した。
「そうですね、会えて嬉しいです」
「ん、久しぶり」
巴と春が懐かしむように微笑む。彼女たちは京太郎と会っても問題ない身である。だが、姫と霞の手前、彼女たちも京太郎に直接会うことは控えていた。
「今日はわざわざごめんな、霞さん」
「良いのよ」
一歩、霞は京太郎に歩み寄る。
「京太郎くんが嫌だって言っても、きっと来たわ」
もう一歩、霞は京太郎に歩み寄る。
「だから……今日で、終わらせましょう」
「……ああ」
京太郎は頷き。
霞は、自分の意思を剥ぎ取る。その身を、人ならざるものへと明け渡す。
広間に走る痺れた空気。
世界が塗り替えられていくような、尋常ならざる感覚。
見守るだけの者たちが、おお、と感嘆の息を漏らしその場に膝をつく。
――それでも。
その中心にいる霞は、彼の顔を見つめ続けていた。
――結論から言って。
霞の身に、何ら問題は起こらなかった。いつもと同じように巴と春の手によって祓われ、それでおしまい。何かに乗っ取られることも、祓えないこともなかった。
ひとまずは、一つの壁を乗り越えた。
おそらくはまだ難癖をつける連中はいるだろうが、霞たちもいつまでも子供ではない。戦う手段を持ち得ているし、何よりも彼がいる。
どんな障害だろうと、きっと彼なら乗り越えてくれる。彼女の元に、辿り着いてくれる。自分はそのサポートをすれば良い、霞はそう思っていた。
憧たち三人が客間で休んでいる間に、霞は外の空気を吸ってくると言って、境内に出た。
冬の風は冷たく、凍えそうになる。
しかし、霞は室内に戻らなかった。――戻れなかった。
彼が、いた。
私服に着替えた京太郎は、どこにでもいる青年に見えた。霞は巫女装束のまま、彼の傍へと近寄る。すぐに彼も、霞の存在に気付いた。
「霞さん」
「おやっとさぁ、京太郎くん」
「俺はなにもしてないよ」
「今日の結果は、京太郎くんがずっと頑張ってきたおかげよ」
霞が笑いかけると、京太郎は照れ臭そうに頬を掻いた。こういう仕草は、子供の頃からちっとも変わっていないなと、霞は思った。
ずっと会いたかった。会って、色々なことを話したかった。隔絶していた時間と距離は、大いに霞の中にフラストレーションを溜めていた。
けれどもこうして大手を振って会えるようになった途端。
語るべき言葉が、見つからない。何を話して良いか、分からない。それは京太郎も同じのようで、二人はしばらく黙ったままだった。
「京太郎くん」
霞は、何とか声を絞り出す。考えに考えた挙げ句、出てきたのは一つの問いかけだった。
「今でも小蒔ちゃんのこと、好き?」
「好きだよ」
「――」
即答だった。何年経っても変わらないであろう、答えだった。それを分かっていたはずなのに、霞の心は大きく揺れ動いた。
「ずっとずっと好きだった。これからも、好きだよ」
霞が黙りこくってしまったのを、言葉が足りないと感じたのか、京太郎は重ねて言う。
その、確かな答えを聞いて。
「うん」
ゆっくりと、霞は頷き。
――ああ、そうか。
そして彼女は、ようやく理解する。
――私、そうだったのね。
好きだなんて、今の今まで認めたことはない。昨夜の憧への回答は、本心からだ。そもそも小蒔と憧に割って入るつもりなんてなかったし、入れるとも思わなかった。大事な弟分として彼を見守り続けたい、そんな風に考えていた。それに、あの夏彼の頬を叩いたあの瞬間、彼を好きになる資格は失った。――そう、霞は自分に言い聞かせてきたのだ
故に。
彼女の恋は、始まってすらいなかった。
ようやく今、認められたのだ。遅すぎる、始まりだった。既に、決着はついてしまっている。
悲しい、とは霞は思わない。むしろ彼女の気持ちは晴れやかだった。心のどこかに引っかかっていたものがとれて、清々しかった。
「ありがとう、京太郎くん」
「え? お礼を言うのはこっちの――」
京太郎の言葉が、途切れる。
霞が、真正面から彼を抱き締めたから。かつて、背後から抱きすくめたときとはまた違う。体全てを押し当てて、触れ合う肌を通して想いのたけを彼に送り込む。
「か、霞さんっ? ちょ、あの、これっ」
あのときと全く同じように動揺する彼がおかしくて、霞は笑った。けれども手から力を緩めたりなんか、しなかった。
「堂々と会えるようになったんだから、このくらいは良いでしょう?」
「いや、色々と、良くないです、はい」
「お姉さんの言うことは聞くものよ」
少しだけ、彼から離れる。霞はまっすぐに京太郎の顔を見上げた。困惑している彼の表情は面白く、もっといじめたくなった。
もっともこれ以上は不義理に過ぎる。霞はあくまで余裕を絶やさず、そろりと京太郎の傍を離れた。顔を真っ赤にした彼を見て、くすくす笑う。
「京太郎くん」
「な、なんだよもう」
「いつか、お願いできなかったこと、今お願いするわ」
霞はそのまま笑いながら、言った。
「――小蒔ちゃんの傍に、いてあげて」
彼女の願いに、京太郎はしっかりと頷く。
「ああ、絶対に。ずっと、傍にいるよ」
「うん。良かった」
ほっと、霞は安心し。
今度は憧たちも巻き込んで、彼のぬくもりを分け合うこととした。狼狽える彼を四人でいじめるのは、とても楽しかった。
あなたのぬくもり おわり
(いつの間にか)10万UA突破記念。
次作:ひとりぼっちの山姫は(完結済)
次々作:愛縁航路(連載中)