夜は更け、少女たちの戦いは終局を迎えようとしていた。
吐く息は荒く、既に満身創痍。激闘に次ぐ激闘を乗り越え、あらゆる手段、あらゆる力を総動員して、彼女はここまで辿り着いた。
高校生最強の雀士を決める、この決勝卓に。
頂点を獲る可能性が残されたのは、たったの四人。麻雀の競技人口を考えれば、正にこの卓につけるのは奇跡的な確率と言えよう。
選ばれし者とも言える彼女たちは、しかし全員ここで満足できるはずもない。
目指すは一着のみ。他は、何も要らない。
意地と意地のぶつかりあい。
――その果てで、彼女の指から牌が滑り落ちた。誰かが息を呑む。
狙い撃ったかのように牌を倒したのは、
「ロン」
前年度インハイチャンピオン、宮永照。
彼女の手を確認するまでもない。下馬評通りの実力を見せつけた彼女は、しかし想像以上に食らいつかれ、疲労が色濃い。
神代小蒔は、卓上から指を膝元に戻し、ゆっくりと一礼する。
インターハイ女子個人戦は、ここに決着した。
◇
東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場
表彰式はつつがなく終了し、すぐに会場の撤収作業が始まった。
記者たちからのインタビューから解放された小蒔は、ふぅ、と溜息を吐く。
――それから。
団体戦の開会式から数えると、二週間もの長い時間を過ごしたこの場所に、彼女は改めて深く頭を下げた。自然と、そうしていた。
「私たちは、これで最後ね」
霞たちが、それに倣う。彼女と巴は寂しげに微笑み、初美は僅かに涙ぐんでいる。
「ひとまず今日は、宿に帰ってゆっくり休みましょう。姫様と初美はお疲れ様でした」
巴が皆を促し、会場を後にしようとする。
小蒔は今一度立ち止まり、ぐるりと周囲を見渡した。
探そうとした彼女の姿は、ない。闘牌の最中では、考えようとしなかった。だが、こうして落ち着いてしまえばもう無理だった。
彼女は今日もどこかで、自分を応援してくれたのだろうか。
それとも――彼の傍に、いたのだろうか。
胸にひっかかるものを、打ち消せない。――だめだ。考えてはいけない。もう自分は、諦めたのだから。夢見てはいけないのだから。小蒔は自らに言い聞かせ、立ち去ろうとする。
しかし、足が動いてくれない。
先ほどまでは、何の問題もなかったのに。ぴくりとも、動いてくれないのだ。
「小蒔ちゃん?」
「な、なんでもありませんっ」
名前を呼ばれ、ようやく硬直から解き放たれる。
気遣わしげな霞の視線から逃れるように、小蒔は歩き出した。――その彼女の前に、巴が携帯電話を差し出してきた。
「憧ちゃんからです」
「えっ」
心臓が、跳ねた。画面には、確かに彼女の名前が踊っている。
恐る恐る、小蒔は電話をとった。
「もしもし」
『ああ、小蒔。あたしよ』
外にいるのだろうか――受話口の向こう側からは、憧の声に混じって風の音と雑踏が聞こえてくる。
『お疲れ様、試合見てたわ。惜しかったね』
「いえ……まだまだ未熟と、思い知らされました」
『何言ってるのよ、あれだけチャンピオンに肉薄できたんだから。凄かったわ』
おめでとう、と憧は惜しみない賛辞を送ってくれる。しかし小蒔は、携帯電話を握る手に力を込めた。
「あの――」
『次は秋の新人戦ね。もう一度小蒔たちと戦いたいわ』
「そう、ですね」
小蒔の言葉を制して、憧はマイペースに語りかけてくる。
『あたしもあんな場所で打ってみたいって、思ったんだから。羨ましいな』
「……そう、ですね」
同じ相槌を、小蒔は繰り返す。
――羨ましいのは、自分のほうだ。なんて、口が裂けても言えない。言ってはならない。認めては、ならない。
けれども、憧は。
『小蒔が、羨ましいよ』
小蒔の心をざわつかせる言葉を、放ってくる。
『本当に、羨ましい』
それはまるで、呪詛のようだった。
挑発と言い換えても良い。意図して彼女は言っている。意図して彼女は、小蒔を煽っている。
「――私、だって……!」
言い募ろうとしたのは、何だったのか。必死に感情を堰き止めて、小蒔は口を閉ざした。打ち捨てたはずの望みを、拾ってはならないのだと。
しかし、憧にとっては、その声で充分だったようだ。ふっと、緊張感が消え去る。電話の向こうで、憧が笑った気がした。
『うん』
誘導されたことに気付き、小蒔は目を見開く。
『これで心置きなく、奈良に帰れる』
「憧ちゃん?」
『またね、小蒔』
通話は、一方的に切断された。味気ない電子音が、小蒔の耳を打つ。
しばしの間、小蒔は呆然としていた。
「姫様」
巴に呼びかけられ、反射的に小蒔は笑った。そうして、誤魔化そうとした。六女仙たちは、深く追求してこなかった
「帰りましょう」
改めて霞が言って、一同は帰路に就く。
既に慣れ親しんだ客間に戻ると、小蒔は机に突っ伏した。――疲れた。本当に疲れた。
「小蒔ちゃん、お風呂、どうするの?」
「私は、後で」
「そう……」
答える言葉も短い。
霞たちは部屋付きの風呂ではなく、外の露天風呂に出かけていった。一人、小蒔は客室に取り残される。そうして欲しいと、彼女自身が望んだことだった。
頬と机をくっつけたまま、小蒔は何をするわけでもなく、そこにいた。時計の秒針が進む音だけが、室内を支配する。
どれだけの時間、そうしていただろう。
霞たちがそろそろ戻ってきてもおかしくないくらいには、小蒔は動けないでいた。疲労を考えればそのまま眠ってしまいそうであったが、彼女の目は冴えていた。
シャワーだけでも浴びてしまおうか、と小蒔が考えたときと同時。
こんこん、と戸をノックする音が聞こえた。
霞たちが帰ってきたのだろうか、と小蒔は立ち上がりかけ、聞こえてきた声に全身を硬直させた。
「ごめん、ください」
「きょう……くん……?」
呆けながら。
足元をふらつかせながら。
しかし、小蒔は引き寄せられるように戸へと近づく。締められた鍵には――触れられない。触れてはいけない。
「小蒔ちゃん」
「京くん、なんですか。どうして、ここに」
「巴さんたちに頼んで、入れて貰った」
「そうではなくて。そうじゃ、なくて……!」
「うん。分かってる」
触れ合っては、ならない。
顔を合わせては、ならない。
本来なら、この状況も許されてはならないだろう。彼自身が許さないだろう。けれども彼は、やってきた。彼女の傍に、やってきた。
声が、言葉にならない。
どれだけ危険な行為であっても――神代小蒔の心は、歓喜に踊る。彼がすぐそこにいるという安心感が、全てに勝る。
扉を挟んで、二人は並び立つ。
この最後の一線は、決して開けてはならない天岩戸。
「今日の試合、もうちょっとだったな。でも、初心者目線だけどさ、チャンピオンを追い詰めていたと思う」
「……憧ちゃんにも、同じことを言われました」
くすりと小蒔は笑う。笑ってしまった。
「ありがとうございます、京くん。来年こそは、勝って見せます」
「ああ。凄く期待してる。小蒔ちゃんなら、きっと勝てるさ」
「はい」
渇水した大地に、潤いが染み渡るようだった。直接顔を合わせられなくても。その手を握りしめられなくても。充分だった。
しかし、
「俺、明日、長野に帰るんだ。小蒔ちゃんは?」
「……私も、明日鹿児島に帰ります」
この距離も、すぐに失われる。
小蒔は扉に手を伸ばす。反対側で、京太郎もそうしている気がした。
――ああ。
彼が、愛しい。狂おしいほどに愛しい。望んではいけない「これ以上」を、望んでしまいそうになる。
「その前に、聞いて欲しいことがあるんだ」
京太郎の真摯な声が、小蒔の意識を現実に引き戻す。
「聞いて欲しいこと、ですか?」
「ああ。大切なこと」
扉の向こうで、京太郎が大きく深呼吸した。
「俺と、小蒔ちゃんがもう一度会える可能性」
「――っ」
小蒔の心に、衝撃が走る。
「あのな、小蒔ちゃん」
「待って!」
小蒔は必死になって、京太郎の言を遮った。息を呑む音が、聞こえてきた。
「待って……下さい……!」
「小蒔、ちゃん? どうした」
「言わないで」
彼が何を言おうとしているのか。
予想がついた。想像がついた。
「言わないで下さい……!」
何故ならば。
その可能性に真っ先に気付いたのは、小蒔だったのだから。
しかし、京太郎は謝りながらも言った。
「ごめん、小蒔ちゃん。言わないと、いけない」
――自らが、神を降ろす力を得られれば。
共に過ごせる可能性は、あると。彼は語った。まさしく小蒔の考えと、同じだった。
一縷の希望だ。
成就すれば、どれだけ良いだろう。どれだけ嬉しいだろう。幸福なんて一言で、済ませられないだろう。
けれども、あまりにも低い可能性だ。
京太郎にその才覚があるとは限らない。
素養があったとしても、開花するとは限らない。
身につけられたとしても、本当に供物としての力を打ち消せるとは限らない。
ないない尽くしである。
そんな道に、京太郎を進ませるなんて――小蒔には、許容できなかった。その修行が、決して生半可なものでもないと、彼女は知っている。終わりさえ見えない迷路に、地図一つ持たないまま飛び込む愚挙だ。
「俺は、やるよ」
「いけません」
「小蒔ちゃんに、もう一度真正面から会うために」
「いけません……!」
制止の声が、震える。
「昔、親父に言われたんだ。やりたいことはなんでもやっとけって。その内やりたいこともやれなくなるときが来るって。……これ、昔小蒔ちゃんに言ったっけか。とにかくさ、そう覚悟して、色んなことに挑戦してきた。麻雀も、そうだ。――でもな」
京太郎は、一度言葉を切って。
穏やかな声のまま、続けた。幼い頃のように、あどけなく彼は言った。
「俺は、幸せだよ。他のやりたいことなんて全部霞んで消えちゃうくらいに――本当に、やりたいことが生まれたんだから」
ぽろぽろと。
小蒔の瞳から、玉のような涙が零れる。
「好きだよ、小蒔ちゃん」
声を押し殺して、小蒔は泣く。
「ずっとずっと、好きだった」
その根源は、どこから来ているのか。悲しみか、怒りか――あるいは喜びか。ぐちゃぐちゃになった感情は、小蒔から冷静さをはぎ取ってゆく。
「待たなくて良い。俺が、勝手にすることだから。俺が、勝手に会いに行くだけだから」
――突き放せ。
頭の奥で、声がした。
そうしなければならない。自分のために、彼の人生を縛るようなことがあってはならない。彼にはもっと、素敵な未来があるはずだ。
そうだ。新子憧と寄り添う未来。そんな未来を、彼は望めるのだ。何の憂いも苦しみもない、美しい未来だ。
可愛くて、凛として、賢くて、自分にないものを沢山持っている少女。彼女と手を取り合って欲しいとさえ、小蒔は心の底から思っている。羨んでしまうのと、同じくらいに。
だから――突き放さなければならない。
迷惑だと。
余計なお世話だと。
彼の選ぶべき道を、正しい道へと戻すために。
「私は」
――言え。
言うのだ。
為すべき責務を果たすため、震える喉を叱咤する。
「私は――」
堅牢な意思は、崩れない。小蒔には自信があった。こうなることも、心の何処かで予感していた。覚悟していたのだから。
――なのに。
「ずっと、お慕いしておりました……!」
結局出てきたのは、全く別の答え。
彼をこの道に引き込む、あってはならない言葉。一生口にすまいと決めていた、燃え上がるようなその感情。八年間、胸に秘めてきた想い。
彼女の答えを、軽率だと糾弾するのは容易い。
しかし本当は、誰にも正しい道なんて分からないのだ。夢のような話だとしても、嘲笑うなんて誰にもできない。
「本当は……今すぐにだってこの扉を開けたい」
「私だって、そうです」
「でも、それはきっと正しくない」
「はい」
「誰からも認められるようになってから、会いに行く」
「はいっ……」
膝から崩れ落ちそうになる体を、小蒔は必死で支える。
姫様、姫様と呼び慕われる彼女であったが。
お伽噺に出てくるような、王子様を待つだけのお姫様であり続けるのは、嫌だった。
「京くん、聞いて下さい」
「なに?」
「今日、私は負けました。全力を尽くした上での敗北です、後悔はありません」
ですが、と小蒔は切り返す。
「未熟であったことは、確かです」
「――、小蒔ちゃんが未熟だなんて」
「いいえ。きっとまだ私は上を目指せます。目指さなくてはならないんです」
小蒔は微笑んだ。未だに流れ落ちる涙にも構わず、優しく笑った。京太郎に見せられないのが、残念になるくらいに。
「待っているだけは、嫌です」
「小蒔、ちゃん」
「私の力を、もっと上手く扱えるようになります。――京くんが、私で良かったって思える人になってみせます」
うん、と京太郎があちら側で頷いた。
小蒔は自然と、戸に体重を預ける。ぎぃ、と僅かに軋む音が鳴った。
押し返してくる力があった。微かな均衡が、二人の間で生まれる。
――今は、これが限界。
二人を隔てる扉一枚、取り除けない。もどかしさとせつなさが、小蒔の胸の中で際限なく溢れ出る。
だが、小蒔はこの運命を受け入れる。
薄幸の少女などと、気取るつもりは毛筋ほどもない。目一杯抵抗して、その上で勝ち取ってみせると、小蒔は決意する。
「行って下さい、京くん」
「……ああ」
「私はもう、大丈夫ですから。泣いてなんか、いませんから」
この程度の虚言は許して欲しい。そう思いながら、小蒔は京太郎を送り出す。
「行ってくる」
「はい」
「また、会おう」
「また、会いましょう」
二人の声は重なり。向こうから伝わる力が、ふっと消えた。
足音が、遠ざかってゆく。完全に聞こえなくなるまで、小蒔は戸にしなだれかかったままであった。
だが、彼女は立ち上がる。支えなど不要と、強い意志を抱く。
涙を拭う。両の頬を叩く。
いつまでも、悲嘆に暮れている暇などない。既に賽は投げられたのだ。熱いシャワーで穢れを落とし――寝間着には着替えない。袖を通すのは、巫女服であった。
「ひ、姫様?」
戻ってきていた六女仙たちが一様に戸惑う。
小蒔の纏う空気が、いつもと違った。
「卓と、牌の準備を」
「え……?」
「今日の反省会を始めます」
「今から……ですか?」
「お願いします。付き合って下さい」
下げられた小蒔の頭頂部を見つめ――霞がたおやかに笑った。
「やりましょう。いくらでも付き合うわ」
他の六女仙たちも、続く。
「私も今のままでは悔しいですからねー、もっとがんばるですよー」
「宮永さんの今日のデータ、整理しますね」
「黒糖は……また後で」
小蒔は――五人は、明日のことも忘れて牌を握る。
もっと先、遙か未来を夢見て、今を精一杯戦う。
次回:終幕/須賀京太郎/桜花、憧憬