できる限り、平然と。
憧が京太郎と再会するにあたり、心がけていた言葉である。正直長野旅行は楽しみすぎて、移動する一週間前から彼女は浮かれていた。何度も穏乃に不審がられてしまったが、何とか誤魔化した――誤魔化せていなかったのに気付いたのは、八年経ってからであったが。
ともかくとして、あまりに「会いたかった」などとがっつけば京太郎が調子に乗りそうだったので、憧は自重する道を選んだ。
一ヶ月前、この気持ちに気付く前――そのときと、態度が変わらないように気を付ける。と言っても、自然と憎まれ口を叩いてしまうのは最早性分なのかも知れない。穏乃に対してもそういうところがあると、憧は自覚していた。結局、憧は再会した後も、変わらない振る舞いで京太郎と接していた。
――それが、いけなかったのだろうか。
小蒔はいつも自分の前を歩いていると、憧は思う。自分と同じように京太郎の隣にいながら、自分よりも京太郎の近くにいる。素直な彼女は、憧が越えられない壁を容易に越えてしまう。
彼女のことは、大好きだ。
今更憎くなったり、疎ましく思えたりはしない。京太郎と小蒔、どちらも同じくらい大切な友達なのだ。
でも、だけど、だからこそ。
深夜、小蒔が京太郎の頬に口づけするところを目撃してしまったとき。
憧の心はかつてなく、ざわめいた。起き上がった小蒔を追いかけなければ良かったのだろうか。あるいは、先に自分が京太郎を追いかければ良かったのだろうか。そうしたら、自分は小蒔と同じことをしたのだろうか。
堂々巡りの考えを、無理矢理打ち捨てて。
心にひっかかりを抱えたまま、憧は長野の朝を迎えた。
◇
長野/軽井沢
前日からの小雨は、今日も変わらず降り続けていた。予報によれば、長野は今夜ピークを迎え、朝方には晴れるという。
避暑の意味も兼ねて予定されていた軽井沢観光は、雨天決行となった。夏休み期間とあって、雨でも軽井沢の町は多くの観光客で賑わっている。
憧は、京太郎の差す傘に入って観光街の舗装道を歩いていた。初めて会った日と、少しだけ似ている。
小蒔は憧たちの十数メートル後ろで、霞たちとともに町を見て回っていた。憧と京太郎、どちらの傍にも彼女は寄ってこない。
「ねぇ、京太郎」
「どした?」
「小蒔と何かあった?」
憧が質問した途端、京太郎は視線を泳がせる。何があったかなんて、憧は当然知っている。こんな問いかけは意地が悪い、と思いながらも、彼女はせざるを得なかった。そうしないほうが不自然だから。というのは建前で、京太郎の気持ちを確かめたかったのが、憧の本音である。
「……別に、何も」
「嘘。じゃあどうして小蒔を避けてるの?」
「どっちかって言うと、俺のほうが避けられてるだろ」
確かに、と憧は頷きたくなった。今朝からこっち、小蒔は京太郎の顔をぽーっと見つめては、彼と目が合う度に顔を背けている。あるいは京太郎から話しかけようとする度、霞たちの影に隠れようとするのだ。こうもあからさまだと、誰だって気付く。霞たちは苦笑するばかりで、助け船を出すのはまだのようだ。
昨夜の一件は小蒔から仕掛けたものであり、決して京太郎の意思ではなかったと安堵する一方で、彼女のいじらしい姿がまた憧の胸を打つ。男の子はああいうタイプが好みだとクラスメイトからよく聞いていた。一歩間違えれば、あざといだとか言われて嫌われるのだろうが、少なくとも小蒔の場合そうは見えない。
「言っておくけど、喧嘩なんてしてないからな」
「あんたはともかく、小蒔は喧嘩なんてしなさそうだもんね」
「俺だって、お前らを避けたりなんか絶対しないって」
京太郎の言葉に自分も含まれていることに気付いて、我ながら単純だと思いながらも、憧は嬉しくなった。
「原因は何にせよ、小蒔ときちんと仲直りしてね。旅行中ずっと気まずいのは、嫌だから」
「……ん。分かったよ」
「よろしい……」
――少なくともその間は、京太郎の隣は独占できる。
その事実に気付いて、憧は体を硬直させた。
「憧? どうした?」
傘から憧の体がはみ出そうになって、京太郎が足を止めた。喉から出かかった変な声をなんとか押し込んで、憧は彼に追随する。
「な、なんでもない」
「あんまり雨に濡れたら風邪引くぞ」
「気を付けなきゃいけないのはあんたのほうでしょ。一ヶ月前のこと忘れたの?」
「問題なし。あんな不覚をとったのがおかしいんだよ。ふつうなら、全然平気なんだよ」
根拠のない自信を振りまく京太郎に、憧はくすりと笑った。呆れてしまうような物言いでも、彼なら許してしまえる。自分でも重症だな、憧は自嘲した。
傘を打つ雨音が、心地よい。
さりげなく、憧を傘の内側へ誘う京太郎の気遣いが嬉しい。
行き交う人々から向けられる、微笑ましいものを見る視線は、憧をちょっとだけ得意気にさせた。そういう風に見られるのだとも、自覚する。
目に付いたお土産屋に入って、京太郎とああでもない、こうでもない、と話し合うのが楽しかった。誰にも邪魔されない、二人だけの時間。
雨で視界が悪いはずの世界が、色づいてゆく。
――ああ、長野に来て良かった。
たったこの数十分だけで、憧はもう満足だった。胸焼けしそうで、ともすれば苦しくなる感情を、しかし彼女は受け入れる。
ガラス細工の工芸品を、興味深そうに覗き込む京太郎の横顔を、憧はそっと窺った。昨夜、その左頬に小蒔の唇が触れた――思い出すと、心臓の辺りにずきりと痛みが走る。
京太郎は精緻なガラス細工に目を奪われていて、隙だらけだった。
――今、なら。
自分の中に生まれたその考えに、憧は一人動揺する。彼の頬に、釘付けになっていた。
「京くん、憧ちゃん」
陳列棚の向こう側からか細い声で呼びかけられ、憧はびくりと体を震わせた。
小蒔が顔を赤らめて、立っていた。彼女の肩をがしりと掴んでいるのは、初美と巴だった。どうやら、ようやく背中を押されてきたらしい。
「私も一緒に見て回っても、良いですか?」
彼女の問いかけに、憧は。
少しばかりの残念な気持ちと、やはり彼女がいなければ、という期待を入り混じらせて、
「もちろんっ」
笑顔で答えた。
それでも小蒔は指をもじもじさせて、京太郎は気まずそうに目を逸らしている。
仕方ないなぁ、と彼女たちの手を取ったのは、憧だった。二人を憧が引き連れる形で、軽井沢の町を巡る。京太郎も小蒔も最初は戸惑っていたが、徐々にいつもの空気を取り戻しているようであった。
この関係の脆さを理解しながら、憧はもうしばらくはこのままでいたかった。自分が望まなくても、変化してしまうときが来るのかも知れない。自分から望んで変えようとする日が来るのかも知れない。
いや、その日は必ず訪れる。
だからこそ、憧は大切にしたいと願った。もしも明日壊れたとしても、後悔のないように。
それがどれだけ難しいことか、理解しないまま。
◇
長野/須賀神社
軽井沢から戻ってきた憧たちは、長野最後の一夜を過ごしていた。
予報通り雨足は強まりを見せ、結局長野の星空は一度も見えなかったものの、屋内で小蒔や京太郎、霞たちと過ごすだけで充分楽しい。出発前は、二泊三日という言葉はとても長く聞こえたが、時間は溶けるように消えてしまった。
「次はうちか霧島神境、どっちにする?」
「年末年始はどこも忙しいでしょうから、避けたほうが無難かしら」
「じゃあ春休みかー。遠いなー」
「シルバーウィークならどうでしょう? 今年は結構長い連休だったと思うんですが」
全員で、次の旅行の企画を打ち立てる。その希望が父親たちに通るか定かではなかったが、夢を膨らませずにはいられなかった。前回、再会を約束して寂しさを紛らわせたように、今回もそうしていたのだ。
喧々諤々の議論の末、次回の集合場所は新子神社に決定し、一行はようやく布団に入る。普段ならもう、眠っている時間だった。
疲れていると自覚のあった憧ではあるが、いざ寝る段階になって、目が冴えてしまった。今日も小蒔と京太郎が二人きりになったらどうしよう、という不安が降って湧いたのだ。
だが、それは杞憂のようだった。
小蒔はすやすやと眠り、目覚める気配はない。京太郎は起きているようだが、布団から出ようとはしていない。
布団の中から、京太郎の首筋を覗く。ただそうしているだけで、どきどきした。
「なぁ、憧」
「ふきゅっ」
突然京太郎が寝返りを打ってきて、目と目が合う。見つめていたのがバレたと思った憧は、慌てて布団の中に引っ込んだ。
「ど、どうしたの」
「明日さ、皆帰る前に行きたいところあるんだけど」
「い、行けば良いじゃない」
「憧と小蒔ちゃんに来て欲しいから。だめ?」
「……おっけー。行く」
声を上擦らせながら、憧は応じた。
急な不意打ちは止めて欲しい。話の内容もろくに頭に入ってこないではないか。自分だけこんなに困ってしまうのは、不公平だ。
「憧」
「な、なによ」
なおも名前を呼ばれ、憧の頭は混乱の極みだ。
しかし京太郎は、歯切れが悪く、
「……なんでもない」
「ちょっと、言いかけて止めるなんて気になるでしょ」
「なーんーでーもーなーいー」
何なのだもう、と憧は憤慨する。布団の中から手を伸ばして、京太郎の頬を抓り上げる。おいこら止めろ、と京太郎が暴れるが、悪戯心に火が付いた憧はもう片方の手も伸ばした。
「ちゃんと言え、このこのっ」
「痛い、この、離せっ」
「言うまで離さないっ」
「このやろっ」
京太郎も反撃に出て、お互い頬を引き伸ばし合う。揉み合い押し合い、京太郎が憧の布団の中に入り込む。
可能な限り声を押し殺した二人のじゃれ合いは、くすぐりに切り替えた憧が優勢に持ち込んだ。だが単純な腕力では普段から鍛えている京太郎が上。
最終的に、憧は京太郎に組み伏される形となった。
「――」
「……」
反撃に出ようとしていた憧は、動きを止める。京太郎も、動かなくなる。憧の肌に京太郎の肌が触れて、上昇した彼の体温が伝わってきた。彼の吐息が、憧の頬にかかる。
「……寝るか」
「……うん」
どちらからともなく、二人は離れた。よそよそしく、京太郎は自分の布団に戻っていく。
しばらく憧が眠れなかったのは、当然であった。
――翌朝は、打って変わって空は晴れ渡った。
朝食を摂った後、しかし出発までやや時間はある。帰り支度を終わらせたところ、
「小蒔ちゃん、憧」
憧は小蒔と共に、京太郎に手招きされた。
「どうしたの?」
「昨日言っただろ。行きたいところあるって」
そのまま京太郎はずんずん歩き出す。二人は顔を見合わせてから、彼の後を追った。――六女仙や親たちは、神社に残して。
京太郎は一度須賀神社から出て、しばらく歩いた後、別の山に分け入った。山道は、子供三人で充分に並んで歩ける幅はあったが、あまり使われていない様子だ。
少し不安になったのだろう、小蒔が訊ねた。
「どこに行くんですか?」
「俺のお気に入りの場所。あんまり人が来なくて、良いところなんだ」
雨上がりの空気を肩で切って、京太郎は二人の前を進む。もう、と憧は頬を膨らませ、京太郎の背中を追った。
道はどんどん細くなる。右手側は山の壁。左手側は崖に、鬱蒼した森が広がっている。奈良の山と毛色は違うが、憧にとっては慣れ親しんだ風景でもある。流石に、この崖を降りる気には全くなれないけれども。
知らない山だからか、憧はかなり長く歩いた気がした。体力のない小蒔は少し息を切らせ、京太郎と憧の二人に手を引かれる。
「まだなの? 京太郎」
「もうすぐもうすぐ」
その言葉から、十分余り。
木々で遮られていた光が、急に憧の目に差し込んだ。一度、瞼を閉ざす。
次に彼女が目を開いたとき、広がった光景。
「――わぁ」
憧は、笑みを零した。後ろで小蒔も歓声を上げる。
――長野の美しい嶺たちを、一望できる丘。連なる山は、神秘的とも言える厳かな雰囲気を漂わせる。圧倒的な大自然は、人の心を打つには充分だった。
「きっれー!」
「凄い……」
自然と、憧と小蒔の足は動いていた。霊山に住まう彼女たちでも――だからこそ、強い感銘を受けた。
「だろ?」
京太郎が得意気に笑う。流石の憧も、「うん」と素直に頷くばかり。小蒔は見惚れて言葉が出てこない様子だ。
京太郎は一本だけ立っている木へと、静かに背中を預ける。そのまま彼も、山を眺めていた。きっと、いつも彼はそうしているのだろう。憧は、何となく察した。
小蒔と肩を並べて、憧はしばしの間山を見つめる。澄んだ空気が心地よい。
ぐるりと他の山も見て回ろうと、憧は丘を移動する。
そこでふと気付いた。かなり細くはあったが、さらに上へ続く山道がある。
――京太郎は、まだ一人で山を眺めている。
「ねね、小蒔」
「はい?」
憧は、思いついた悪戯を隣の小蒔へと耳打ちする。
「もっと上に行けるみたいだし、行ってみない? ほら、あそこの道」
「それじゃあ京くんも」
「あいつぼうっとしてるし、今のうちに隠れて驚かせよ」
昨夜の腕力で負けた意趣返しだ。慌てふためく京太郎の姿を見てみたかった。
でも、と小蒔は渋る。胸元に手を当て、悩ましげに息を吐く。その仕草は可愛らしくて、ついつい従ってしまいそうになる。実際のところ、普段の冷静な憧なら「そうだね」と納得するところだったろう。
しかし、今日の憧は違った。
思い返されるのは、小蒔が京太郎に口づけした瞬間。
ぎゅっと唇を噛んで、憧は意地悪く言った。――小蒔にそうしたのは、初めてだった。それが、全てを分けた。
「怖いんだ?」
皮肉混じりの声は、小蒔を驚かせるとともに、意地を張らせた。
「そんなこと、ありません」
「じゃあ、行こう」
「……はい」
憧は、京太郎に気付かれないよう静かに、小蒔を伴って脇道に入る。
見た目以上に細い道は、想像以上に長く続いていた。ゆっくりと、確実に進んでいくが、中々開けた場所に辿り着かない。
だが、このくらい奈良の山でもよく通る。問題ない。
憧はそれが過信と気付かず、ずんずんと山道を歩く。
――そう、昨夜までの雨のせいで、憧が考えているよりもずっと地面はぬかるんでいた。
ずるり、と彼女の足元が滑る。
「きゃっ」
「憧ちゃんっ」
眼下に広がるのは、斜面ながらも勾配はかなり急、下は森の緑一色。人気など、見込めるはずはない。絶対に落下してはならないと、何とか傍の岩に手をかけて、憧は踏み止まった。――危うく、踏み外すところであった。
「……ふぅ、危なかった」
「や、やっぱり戻りましょう」
「……うん。ごめん、そうだね」
涙目になった小蒔の提案を、流石に憧は受け入れる。やっと、冷静さを取り戻した。
――なんで、あんな意地悪言っちゃったんだろう。
胸を妬く気持ちを、心のひっかかりを、無視できなかった。割り切れるものではないと、彼女は知らなかった。憧は、自分の言葉を悔やんだ。
――だが、真の後悔は、次の瞬間にやってくる。
がらら、と音を立てて土と石が空から振ってきた。
「え……?」
小蒔と一緒に、山の壁を見上げる。
土石流、というにはほど遠い。
だが、「それら」は確実に小蒔と憧に降り注ぐ。土と石の群れ。小規模ながら、崖崩れが発生していた。
立ち位置が悪かった。飲み込まれた小蒔が先に、あっさりと足を踏み外した。
「小蒔!」
「憧ちゃん!」
手を伸ばす。ぎりぎりで掴み取り、しかし憧の足場は崩れてゆく。
浮遊感。
血の気が引いた、小蒔の顔。
空を舞う砂の一粒一粒が、はっきりと見て取れる。
「小蒔ちゃん! 憧!」
最後に彼女の耳に届いたのは、必死で呼びかける男の子の声だった。
◇ ◇ ◇
八年後。
憧と小蒔が断片的に覚えていたのは、京太郎を含めた三人で山を登ったこと。
そして、崖から落ちた瞬間。
その二つのみであった。
次回:十三/須賀京太郎/山岳迷宮・後