「――良いですか、小蒔。霧島神境を出る前に、私と三つの約束をして下さい」
真正面に座る母は、幼い小蒔に優しく語りかける。
「一つ。お父さんの言うことをよく聞きなさい。絶対に勝手をしてはなりませんよ」
「はい、お母様」
小蒔は頷く。
「二つ。霞ちゃんたちから離れないで。できる限り行動を共にしなさい」
「はい、お母様」
小蒔は頷く。
「三つ。これが一番大事なこと。――神境の外で、決して神を降ろしてなりません。貴女の力は強大で有りながら、まだ未熟。何があっても、この約束だけは守って下さい」
はい、お母様――小蒔は三度、しっかりと頷いた。
◇
飛行機と特急電車を乗り継いで、小蒔は初めて長野の地に降り立った。生憎の曇天ではあったが、小蒔の心には未だ雲はない。
「お久しぶりです、憧ちゃんっ」
「久しぶり、小蒔! 霞さんたちも!」
まず最寄り駅で合流したのは、先月東京で出会った親友、新子憧だった。一本早い電車で先に到着していた彼女は、小蒔たちを待ってくれていた。いえーい、と憧が伸ばしてくる手に、慣れないながらも小蒔は応じた。彼女のこの雰囲気が、たった一ヶ月ぶりだというのに酷く懐かしい。
「元気だった? こっちは夏祭り終わって、やっとゆっくりしてるところ」
「私も同じです。宿題も昨日終わりました」
「あたしは一昨日終わらせたよー。さあて、京太郎はちゃんとやってるかな?」
にやにやと楽しげに笑う憧も、やはり懐かしい。小蒔はほっとした。時間が空いたことで、変に距離感が生まれないかと小蒔は危惧していたが余計な心配だったらしい。
憧が六女仙とも次々と挨拶を交わす傍ら、小蒔の父も憧の父も旧交を温めていた。東京に行ったときに小蒔は初めて知ったのだが、京太郎の父親を含めた三人は、神職という立場を抜きにしても親交が深い仲ということだった。そういった縁も、小蒔の心を躍らせる。運命、なんてロマンチックな言葉が思い浮かぶ。
「小蒔ちゃん? そろそろ出発するわよ?」
「は、はいっ」
ぼうっとしていたら、霞に声をかけられてしまった。小蒔は慌てて皆の元に駆け寄ろうとし、転んだ。憧と霞に助け起こされ、小蒔は赤面する。
駅から須賀神社まで、直通のバスが出ていた。憧と席を共にして、夏休みにあった出来事を話し合う。プールに行っただとか、算数の宿題が難しかっただとか、とりとめのない話が、相手が憧というだけで煌めきだす。とても楽しかった。
バスに揺られて三十分ほど。
一行が辿り着いたのは、須賀の社に続く石段だった。
――ここを登れば、京くんに会える。
京太郎との再会を前にして、小蒔の胸の内で昂揚と不安がない交ぜになる。憧のときと同じように挨拶ができるだろうか。京太郎は、ちゃんと自分のことをちゃんと覚えているだろうか。有り得ない、と分かっている仮定さえ生まれてしまう。
ぶんぶんと頭を振ってから、小蒔は木々のアーチに覆われた石段に足をかけた。夏の草木の香りが、鼻をつく。
初美と憧が駆け上がろうとし、霞に怒られていた。小蒔はくすりと笑いながらも、歩みは止めない。結果、先頭に立っていたのは彼女だった。
石段を登りきった先、現れた赤い鳥居を小蒔はくぐった。
境内の空気は、やはり同じ神の社、霧島神境とよく似ていた。ほっと、直感的に小蒔は安心する。まるで、自分の家のようだった
だが、その安堵は一瞬で崩れ去った。
「あ。久しぶり、小蒔ちゃん」
拝殿に続く道の端、京太郎が何でもない様子で立っていた。快活に笑って、片手を上げる。――なぜ、いきなり、こんなところで――当然だ、ここは彼の家なのだから。
理屈では理解していても、小蒔の心は追いつかない。きゅっと胸が締め付けられて、頭がくらくらする。
それでもなんとか声を絞り出そうとして、
「ひ……」
「ひっさしぶり、京太郎!」
脇から躍り出た憧が先に手を振った。
「おー、憧も! 久しぶりー!」
「ほら、小蒔も!」
憧に手を引かれて、小蒔は京太郎の元へ駆け寄る。どきどきと、心臓が痛いほど早鐘を打っていた。
「いえーい!」
と、憧が掲げた掌に、京太郎も合わせようとする。ほら、と憧に促され、小蒔もおずおずと右手を伸ばした。
「い、いえーい!」
彼らと手を打ち付け合う。先に憧と一緒に経験しておいて良かった、と小蒔が安心したのも束の間。
京太郎と指が触れ合った瞬間、
「っ?」
びりりと、電流が走った――気がした。思わず手を引っ込める。京太郎も不思議そうに自分の手を見つめている。同時に触れた憧は、なんともないようだった。
京太郎が首を傾げ、
「なに? 静電気? 夏なのに?」
「ひゃうっ」
確かめるように、彼は小蒔の手を握りしめた。おかげで小蒔の口から甲高い悲鳴が生まれる。今度は何ともしなかったが、違う意味で彼女は体を震わせた。
「きょ、京くん」
「ん?」
「手、離して貰えますか……」
「ああうん、ごめん」
京太郎は平気な顔をしているが、小蒔はもう限界だった。湯気が出そうになるくらい、顔が熱い。一ヶ月前は、ここまで緊張しなかった。もっと無邪気に触れ合えていた気がする。空いた時間が、彼女の心境に変化をもたらしていた。
京太郎が一行を客間に案内すると、各々の父親たちはすぐに別室に引っ込んだ。彼らは彼らなりに仕事があるらしい。
ともかくとして、様々なしがらみから解放された子供たちとしては思う存分遊ぶしかない。
「京太郎、ちゃぁんと宿題終わらせたんでしょうね?」
「今年はカンペキ。クラブも休みもらったから、この三日間はずっと一緒に遊べるぜー」
「やたっ」
憧の短い歓声に、小蒔も声を合わせたかったが、上手く言葉にならない。荷解きをしながら、背後の二人の会話に聞き耳を立てるだけになっていた。
「頑張って、姫様」
巴に囁かれて、小蒔はさらに体を縮め込む。――東京から戻ってからこっち、六女仙たちはずっとこの調子だ。「頑張れ」だの「期待してます」だの小蒔に言ってくるものの、具体的に何についてかまでは言及してこない。そこがまたいやらしいのだが、彼女たちは純粋に小蒔を応援しているらしく、反応に困るばかりであった。
すう、と一度深呼吸してから。
小蒔は二人に話しかけた。
「きょ、京くん。憧ちゃん」
「うん? どうしたの、小蒔」
「あの、これ。二人にお土産……みたいなものです」
小蒔が二人に手渡したのは、袋に詰められたクッキーだった。京太郎は目を瞬かせ、憧は「わあ」と喜ぶ。
「もしかして、これ小蒔の手作り? 凄い!」
「はい。鹿児島名産のお土産は別に、父が持ってきていますので」
「なんだ、そこまで気にしなくても良いのに。でも、ありがと小蒔ちゃん! 食べて良い?」
「もちろんです」
と答えながら、小蒔は内心びくびくしていた。口に合わなかったらどうしよう、そんな不安ばかりが湧いて出てくる。
リボンを解き、クッキーをひとつまみする京太郎の指を小蒔は注視する。一挙手一投足見逃さない、という心持ちであった。
さくり、と音を立ててクッキーは京太郎の口の中へと飲み込まれていった。
「うまっ。これほんとに手作り?」
「は、はいっ」
「この間のお粥のときも思ったけど、小蒔はほんと料理上手よね」
「いえ……それほどでは」
京太郎と憧に褒められて、謙遜しながらも小蒔は顔をほころばせる。――良かった。家庭料理はともかく、体力も要するお菓子作りに関しては、彼女もさほど経験がなかった。霞たちと一緒に練習した甲斐があったと言うものだ。
京太郎の案内で、小蒔たちはひとまず境内を見て回る。神社の建築物は当然見慣れている小蒔であったが、京太郎の実家というだけで心躍る風景に見えた。
やがて雨が降り出して、一同は屋内に退避する。
あちゃあ、と京太郎が困り顔を作った。
「どうしたの?」
「今日の夜は、近くのお寺まで肝試しするつもりだったんだよ。仕方ない、今日は諦めるか」
「肝試しってあんた、本気でやるつもりだったの?」
「夏に合宿と言えば肝試しって相場が決まってるんだよ。この日のために、頑張って準備したんだぞ」
「変なところで努力しないでよ、もう」
言い争う京太郎と憧を尻目に、小蒔はほっと安心した。怖いものは苦手だ。巫女だから心霊現象の類のものは得意だろう、というのは偏見である――小蒔はそう声を大に主張したい。京太郎には申し訳ないが、肝試しなどもってのほかだ。
しかし、話は小蒔の思わぬ方向に突き進む。
「でも、確かに夏と言えば怪談話よね」
「涼める」
「じゃ、代わりと言っちゃなんだけど晩ご飯の後はホラー映画でも見る?」
えっ、と小蒔が戸惑うよりも早く、
「良いですよー」
「映画なんて久しぶりですね」
「怖くなかったら承知しないわよ、京太郎!」
「親父がホラー映画好きだから、面白そうなの拝借するよ」
「それは楽しみだね」
皆が盛り上がってしまう。
最早、小蒔が異論を挟む余地はなくなって――
気が付けば、彼女は須賀家のリビングの中央に座らされていた。ご丁寧に部屋は電気を消して薄暗く、外の雨音が雰囲気を醸し出す。ご丁寧にも引っ張り出されたホームシアターセットの臨場感は、小蒔の緊張を否応なく高めた。
おどろおどろしいBGMと共に始まった映画は、あっという間に小蒔を寒気立たせた。こんなときいつも助けてくれる霞は、どういうわけか今日は後ろで控えている。頼れない。
震える小蒔の指先に、暖かいものが触れた。はっと顔を上げる。――隣に座る、京太郎の手だった。
彼の視線はスクリーンに注がれていて、無意識の行動のようだった。たまたま手を動かした先に、小蒔の指があっただけ。小蒔は振り払わなかった。昼間手を握られたときは、離して欲しいと頼んだというのに、自分でも現金だと思う。
――でも。
小蒔の指が、勝手に動いて京太郎の指を絡め取る。伝わってくる体温が小蒔の恐怖を和らげてくれた。鼓動が早まる理由がどちらかなんて、もう分からなくなっていた。京太郎と一緒なら、肝試しでも良かったかも知れない――なんて考えは、流石に血迷っているだろうか。
気付けば映画はいよいよ佳境を迎えていた。主要な登場人物のほとんどが幽霊――小蒔はちゃんと見ていなかったので正体はよく分からないが――に呪い殺されてしまい、二人残された男女が、呪いを解くために古い屋敷に乗り込む。
序盤では険悪だったはずの二人が、どこか仲睦まじげな雰囲気を漂わせていた。呪いを解く鍵はどこ吹く風で、お互いの身の上話を始める始末。
こんなことをしていても良いのでしょうか、と小蒔が突っ込みを入れたくなるほど男女の空気は緩んでいる。
あっ、と小蒔はか細い悲鳴を上げそうになった。スクリーンの中の二人は見詰め合うと、どちらかともなく顔を寄せ、唇を重ねた。大人っぽい空気が小蒔をどきどきさせる。霧島神境の情操教育では、普段許されないシーンであった。
ちら、と隣の京太郎を窺ってみれば、若干退屈そうである。彼が期待するのはホラーのみのようだった。
やがて映画はあっさりと、救いのない結末を迎える。後味は悪かったが、当然と言えば当然の結果と言えよう。それよりも小蒔にとって重要なのは、絡み合った指の行方であった。
「あー、終わった終わった。結構怖かったな」
「あ……」
京太郎はさして気にする様子もなく立ち上がると、片付け始める。もちろん、小蒔との繋がりは断たれてしまう。小蒔が京太郎に対して、明確に不満を覚えた初めての瞬間だった。
皆であれやこれやと感想を言い合っている内に、寝支度を始めるに良い時間となっていた。
社務所の中に用意した部屋に、今回も皆で床を共にできるということで、小蒔はわくわくする。用意して貰った布団は、京太郎の匂いがした。
前回と同じように、布団の中でのお喋りに興じようと小蒔は考えていたが、あっさりと彼女は眠りに落ちてしまった。無自覚な疲れが溜まっていたらしい。
――普段なら、そのまま朝を迎えていただろう。
ぱちり、と小蒔の目が開く。部屋の中も外も暗くて、皆の寝息だけが聞こえてくる。時計を見れば、午前一時過ぎ。ふつうなら熟睡している時間帯。うまく寝付けられなかったのは、枕の違いのせいだろうか。
こてん、と小蒔は寝返りを打ってみる。
「……京くん?」
隣で寝ていたはずの、彼がいない。
小蒔は上半身を起こす。他の皆は、やはり眠っている。京太郎だけがいない。きちんと締められていたはずの戸が、少し空いていた。
お手洗いに立ったのだろうか、とも思ったが、しばらく待っても京太郎は戻ってこなかった。
――先ほどの映画のせいで、部屋の外に出るのが怖い。
しかし、京太郎の行方も気になる。意を決し、小蒔は立ち上がった。戸を引いて廊下に出ると、強めの雨音が聞こえた。
屋外までには出ていないだろう、という小蒔の読み通り、京太郎はあっさり見つかった。
社務所の窓口の椅子に座って、京太郎はぼうっと外を眺めていた。
「京くん」
「っ、こ、小蒔ちゃんっ?」
小蒔が声をかけると、京太郎はびくりと肩を震わせて振り返った。驚かせてしまった。
「ご、ごめんなさい」
「や、うん、気にしなくても良いから」
気まずそうに、京太郎が顔を逸らす。二人の間に、ぎこちない沈黙が落ちた。
先に切り出したのは、小蒔だった。
「あの……どうしたんですか? 眠れないんですか?」
「ん、ちょっと」
ばつが悪そうに、京太郎は笑った。彼にしては、歯切れの悪い回答。不思議に思った小蒔が一歩近づくと、京太郎はがたりと椅子を揺らした。動揺しているのは明らかだった。
「……京くん?」
「違う、違うからっ」
避けられた、と思う小蒔が悲しげな眼差しを送ると、京太郎はぶんぶんと頭を振る。
「その……どきどきして寝られなくて」
「どきどき? 映画のせいですか?」
「……映画自体じゃなくて、ずっと、小蒔ちゃんと手、繋いでたから、だからその……」
京太郎が目を逸らして、尻すぼみする声を出している内に――
一気に、小蒔の頭は沸騰した。気付かれていた。意識されていた。しかもそのせいで、眠れなかったと言うのか。
何なのだこの状況は、考えもしなかった――喜び、困惑、様々な感情が渦巻いて、小蒔も二の句を継げなくなる。
「ごめん、もう寝る」
恥ずかしげに京太郎が椅子から立ち上がる。
脇を通ろうとする彼の腕を、小蒔は掴み取った。――掴み取ってしまった。体が勝手に動いている。
「小蒔ちゃん?」
思い浮かべるのは、映画の一幕。クライマックスでの、主人公とヒロインの例のシーン。
はしたない、と母には怒られそうだけれども。今までの自分なら、大した感想は生まれなかったのだろうけれども。
今の小蒔は、「あんな風に」と憧れてしまっていた。
そっと――本当に、そっと――彼女の唇が京太郎の頬に触れる。
映画そのままはハードルが高かったものの。
彼女は、やり遂げた。やり遂げてしまった。舞い上がった気持ちが、そうさせた。
「――ぁ」
「――ぅ」
赤くなった京太郎の顔を見て、小蒔は自分のしでかしたことの大きさに気付く。
「ごごごごごめんなさい!」
京太郎からすぐに距離を取って、彼女は寝所に戻った。逃げ出したつもりだが、京太郎もここに戻って来なければならない。顔を見せないように小蒔は布団に潜り込み、枕を抱き締める。もう完全に頭は恐慌状態であった。
明日、どんな顔で「おはよう」と挨拶すれば良いのか、小蒔には見当も付かなかった。
その一部始終を、彼女に目撃されていたことに、小蒔は気付かなかった。
次回:十二/新子憧/山岳迷宮・中