序幕/神代小蒔/再会
東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場
夏になると、いつも彼らのことを思い出す。
神代小蒔は、鳴り止まぬ蝉の声を聞きながら空を見上げた。八月の空は高く、どこまでも青い。照りつける太陽の光はまばゆく、すぐに日傘の中に顔を隠した。
――あの日も、こんなに暑い日だったでしょうか。
自然と口元がほころび、同時に胸に疼痛が走る。どうしても、どれだけ時間をかけてなお、癒えない古傷だ。
「小蒔ちゃん、こっちよ」
名を呼ばれ、小蒔は足を止めていたことに気付いた。
声の主を探せば、その姿は既に遠くに。慌てて小蒔は駆け出し、途端に転げた。びたん、と痛い音が鳴った。
「うう……」
「大丈夫? ちゃんと足元を見ないと」
「ご、ごめんなさい」
走り寄ってきたのは、小蒔にとって姉のような存在である石戸霞だ。彼女の声色には、労りと厳しさが入り混じっていた。
情けなく思いながら、小蒔は霞の手に助けられて立ち上がる。まだ鼻が痛い。霞の後ろには他の六女仙――薄墨初美、狩宿巴、滝見春の三人が控えており、皆心配げな視線を送っていた。
――うう、情けないです。
天然だのなんだの言われて、どのコミュニティでも愛されている小蒔であったが、本人はその点をかなり気にしていた。と言っても、昔はそうでもなかった。
意識が変わったのは、高校に入って麻雀へと打ち込むようになってからだ。
彼女は全国強豪の永水女子のエースなのだ。
昨年から引き続き活躍を期待され、仲間からも信頼を寄せられている。それに応えようと奮起するのは、頑張り屋の彼女らしい心がけだ。
ただ、未だ行動が伴っていないのも事実だった。
「霞ちゃん」
「どうしたの? 膝、擦りむいた?」
「違います」
首をふるふると振って、小蒔は言った。
「今年も、やってきましたね」
「……ええ、そうね」
全国高等学校麻雀大会――インターハイの舞台、東京。
この日のために、一年間研鑽を磨いてきたのだ。昨年為し得なかった、頂きを獲るために。
「今年は勝つですよー」
初美が朗らかに笑い、
「精一杯頑張りましょう」
巴が握り拳を作り、
「……ん」
春がこっくりと頷く。
「うふふ。皆も気合十分ね。さて、それじゃあ今日の目的を果たしに行きましょう」
微笑む霞が先導し、永水女子の面々はインターハイ会場のビルに入る。
遠方ということもあり、念のため早くに東京入りした彼女らは、少し時間を余らせていた。根を詰めすぎて練習するのも駄目と判断した結果、明日の開会式を前に、会場の下見をしようと初美が言い出したのだ。
要は、東京観光の一環だ。さして深い意図があったわけではない。
自動ドアをくぐると、クーラーで冷えた空気が流れ込んできた。寒暖差が激しい。
会場は、同じ目的なのだろう、女子生徒の姿で溢れていた。ちらほらと、小蒔も去年見た顔があった。
昨年の大活躍で永水女子の名前は売れている。彼女らの登場に、会場はいささかざわめいたようだった。
だが、敢えて近寄って来ようとする者はいない。地理的な事情、霧島神境の秘匿主義の方針から、永水女子は他校との練習試合をほとんど行っていない。全国区常連の学校同士などは相互利益のため綿密な連携を採るのが常だが、麻雀強豪としては新興の永水はそのようなパイプも持っていなかった。必然、親しい知人は限られてくる。
制服の違う生徒が仲睦まじげに歓談する様子は、小蒔にとって新鮮であり、少し羨ましい。
だが、その程度は些末な引っかかりだ。
自分には霞ちゃんたちがいる。それで十分だ。
小蒔は自らに言い聞かせ、一歩歩みを進めた。
「……小蒔?」
そのときだった。
聞き慣れない声に、小蒔は名前を呼ばれた。反射的に、彼女は振り向いた。
そこに立っていたのは、やはり見覚えのない少女だった。
永水女子の面々は、派手な格好は望まない。化粧っ気は薄く、歳分不相応なまでに落ち着いた装いを求めている。霧島神境の者としての意識もあったが、皆「イマドキ」の女子高生の趣味とは合わないのが現状だった。
一方、突然声をかけてきた少女は正に「イマドキ」の女子高生らしい格好だった。袖が長めのカーディガンに、短いスカート。ツーサイドアップにした髪は艶やかで、日々の手入れが覗える。派手すぎず、それでいて魅力を際立たせる化粧は決して小蒔には真似できない技術だ。ほんのりと良い香りが漂ってくる。
同性の小蒔も、一目で「可愛い」と言いたくなるような少女だった。
だが、やはり思い出せない。去年は見ていない、知らない制服だ。
そんな小蒔の困惑を敏感に感じ取ったのだろう、少女は自らの胸に手を当て、
「ほら、あたしよ。新子憧。奈良の新子神社の。覚えてない?」
瞬間、小蒔の脳裏に電流が走った。同時に、霞たちも驚きの声を上げる。
「憧ちゃんっ? あのときのっ?」
「良かった、思い出してくれたみたいね」
ほっと、少女――新子憧は安堵の息を漏らした。
「久しぶりね、小蒔。会えて嬉しいわ」
「わ、私もです」
差し出された右手を、おずおずと小蒔は握り返す。
すぐに小蒔は気付いた。憧の指は、すっかり麻雀ダコで凝り固まっていた。
「もしかして、憧ちゃん……」
「もしかしても何もないでしょ。私もインターハイに出るの、団体戦で。あーあ、やっぱり知らなかったか。シード校のエースは格が違うもんね」
「そ、そんなことっ」
「冗談よ、冗談。相変わらず小蒔は真面目ね」
苦笑しながら、憧は小蒔の頭を撫でる。うう、と小蒔がしょんぼりする傍ら、霞が前に出た。
「憧ちゃんは今も奈良に? 確か奈良は、今年は晩成じゃなくて……」
「そう、あたしたち阿知賀女子が県大会を突破したわ」
「凄いですよー!」
初美の歓声に、憧は「ありがと」と満足気に頷く。彼女はこの中で年少の部類に入るが、タメ口も許される気安さが彼女たちの間にはあった。
「今年の阿知賀は一味違うから。全国で戦えるのを楽しみにしてるわ」
「私もですっ。憧ちゃんとこうして会えるなんて夢にも思いませんでした」
「運命ってのは分からないものね」
しみじみと憧は言って。
それから、寂寥の色濃い声で呟いた。
「もう、八年前になるのね」
「そうですね」
小蒔は眉を寄せて、首肯する。
――そうだ、彼女と出会ったあの夏から、もうそれだけの時間が経ったのだ。
即ちそれは――彼とも隔絶していた時間を意味する。
「これであいつがいれば」
小蒔の心中を覗いたかのように。
「あいつがいれば、皆揃うのにね」
憧が、言った。
どくん、と小蒔の心臓が跳ねた。何か喋ろうとしても、上手く言葉になってくれない。胸が締め付けられるように痛む。
「ま、こんなところにあいつがいるわけないか」
一方の憧はからっと笑う。控えめな小蒔としては、彼女の明るさが羨ましく、眩しかった。
「あたしは夜からミーティングあるからあんまり長居はできないんだけど、折角だからどこかでお茶していかない?」
「ええ、是非そうしましょう。私たちは特に用事もないもの」
霞が代表して同意する。小蒔はやや遅れて、「はい」と頷いた。
近場でゆっくりできる場所を探そうと憧がスマートフォンを取り出したのと同時、
「あっ」
「わっ」
彼女の肩と、近くを通り過ぎようとした少女の肩がぶつかった。憧の手から零れたスマートフォンが床を滑る。
「ごごごごめんなさい!」
憧とぶつかった少女は、セーラー服を身に纏っていた。胸元のスカーフの色は赤。彼女はがばりと頭を下げて、狼狽した様子で何度も謝る。逆に憧は恐縮してしまい、
「ううん、私がこんな入口の近くに立っていたせいだから。怪我してない?」
「はい、何とも」
セーラー服の少女は、ショートカットの髪を揺らしながら頷いた。
そんな彼女を見ていると、小蒔はどことなく親近感が湧いた。やはりおそらくインターハイに出場する選手だろうか。珍しくないセーラー服は、しかし憧の阿知賀と同じく見覚えのないものだった。
ともかくとして、憧と少女は互いに謝り合っている。床に落ちたスマートフォンはそのまま。電子機器類にはとんと疎い小蒔だったが、それが精密機器であることは知っている。誰かに踏まれないうちに拾い上げようとした。
――だが。
先んじて、それを掴み取った者がいた。
小蒔は見上げる。それだけの身長差があった。
彼はスマートフォンを手にし、ショートカットの少女に呼びかける。低く、それでいて不思議とよく通る声だった。
「咲、頼むからちゃんと前向いて歩いてくれ。他校と面倒起こしたら、部長に怒られるの俺なんだぞ。意味分かんないけど」
「きょ、京ちゃん。ごめんなさい」
小蒔の心臓が、先ほどよりも強く高鳴る。
――成長を果たした後も、残る面影。心に焼き付いた光景。
直感に、実感が伴わない。
「うちの連れがすみません、これ」
「あ、ども」
彼が、憧にスマートフォンを手渡す。受け取った憧は、ふと彼の顔を見上げて。
そのまま、固まってしまう。
「……京、くん?」
小蒔が何とか声を絞り出し、
「京、太郎?」
憧がそれに追随する。
その反応に、彼は「えっ」と言葉を詰まらせる。
それからゆっくりと二人の顔を見渡して、目を丸くした。
「……もしかして」
――ああ、こんなことがあるのだろうか。
こみ上げてくるものを抑えるように、神代小蒔は口を手で覆う。
「小蒔ちゃんに、憧?」
動揺を通り越し、新子憧は顔を真っ赤に染め上げる。間に挟まれた宮永咲は、きょろきょろと三人を見比べるばかり。
彼は――須賀京太郎は、嬉しいような、苦しいような、悲しいような、複雑なものが入り混じった表情を浮かべて。
放たれた言葉は、確かに彼女たちの耳を打った。
――三人の出会いは、八年前の夏に遡る。
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