…………ちくしょう。
赤いシスターが、果たして本当に上条当麻の首を両断しようとしていたのかは分からない。 あるいは首元に刃先を突きつけるだけの脅しであったのかもしれないし、疑わしきは罰せよと殺しても構わないという心持ちだったのかもしれない。
しかし、どちらにせよ、ミーシャ=クロイツェフの放った攻撃が、上条の肌に届くことはなかった。
ミーシャが上条の身体の至近距離に近づいたその時、ミーシャの小柄な身体が弾けるように遠ざかったからだ。
「無事ですかっ! 上条当麻!」
上条の背後の暗い森から姿を現したのは、風呂上がりの神裂火織だった。
相当に慌てて出て来たのか、その艶やかな黒髪は濡れていて、海の家わだつみの備え付けの安物の浴衣が危うくはだけている。おそらくは下着を着けていないのだろうと分かる程に。
だが、上条はそれを僅かに振り向いて確認すると、すぐさまに顔を正面に向け直して「助かった。ありがとう、神裂」とだけ返して、再び体勢を整えてノコギリだけでなくL字
「彼女は何者ですか?」
「ミーシャ=クロイツェフというらしい。それ以外は何も聞いてないが、俺のことを『
「要求一。まだその問いに対する回答を得ていない。速やかに答えよ」
上条は、つい先程、己に対し容赦なくノコギリを振り回してきた少女に対し、やはり微笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩み寄っていく。
「ああ、そうだったな」
「ちょっ、上条当麻っ!?」
大丈夫だと神裂に向かって微笑みかけながら、その笑みを再びミーシャへと向けて、両手を広げながら上条は言う。
「違う。俺は犯人じゃない」
「問二。それを証明する手段はあるか」
上条のゆったりとした歩み寄りに、露骨に警戒を強めながら、ミーシャは腰を落とし、ノコギリとL字釘抜きを構えながら問い直す。
「悪いが、信じてもらうしかない。この右手は、あらゆる異能を打ち消す力がある。だから俺には魔術が使えない」
そう言いながら、上条が右手をミーシャへと伸ばす――と。
「――っ!?」
ミーシャは何の変哲もない右手から、何の武装も所持していない少年から、ノコギリとL字釘抜きを交差して身を守るように、ザッと後ろに跳んで距離を取る。
「…………」
上条は、右手を差し出した格好のまま、薄い微笑みを浮かべてその挙動を観察し。
「…………」
神裂は、そんな上条の背中を、表現の難しい表情で見遣っていた。
「――数価。四十・九・三十・七。合わせて八六」
ズシン、と、まるで地震のような大気の揺れを感じた。
すると上条の頭上から、水の柱が真っ直ぐに降り注いでくる。
(っ!? 水道管、いえ、海水!? いくら海が近いとはいえ、これほどの魔術を!?)
神裂も思わず頭上を見上げる。
すると、赤いシスターがぽつりぽつりと、機械的に口を動かす。
「照応。
水の柱が蛇のように鎌首をもたげ、無数の分裂した槍となる。
己に向かって真っ直ぐに降り注いでくる大口を開けた一匹の蛇を、周囲にドスドスと人体を貫く攻撃が降り注いでいるのを委細構わずに、一歩も動かずに、上条はまるで雨粒を受け止めるように、ただ右手を翳すことで破砕した。
キュイーンッという、幻想を破壊する音が響く。
水柱が魔術的意味を失い、ただ雨のように降り注ぐ水飛沫となる。
上条はそれをシャワーのように浴びながら、やはり変わらぬ微笑みを向けた。
「――理解してくれたか?」
その言葉に、神裂火織は難しい表現不可能な表情を浮かべ、ミーシャ=クロイツェフは、その表情は変化させなかったものの、数瞬の間を空けて「……正答。貴方の言葉の正当性を理解した。この解を、容疑撤回の証明手段として認める」と呟き、ノコギリとL字釘抜きを仕舞いながら上条に言う。
「……少年。誤った解の為に刃を向けたことを、ここに謝罪する」
「気にするな。紛らわしい俺が悪い。それに、傷一つ負っていないしな」
上条は振り返って神裂に笑みを向ける。が、神裂は上条に笑みを返すことが出来なかった。
確かに、結果として上条は傷一つ負っていない。
だが、唐突に出会い頭にノコギリを振り回され、何の断りもなく殺人級の魔術をぶつけられた。
そんな正体不明の刺客に対し、怪我をしていないから全て許すと、あまつさえ紛らわしい状態にある自分が悪いとさえ言ってのける――この少年は。
(……思えば、インデックスの記憶を取り戻した際も……そうでした。彼は、『しあわせなハッピーエンド』の外側に、躊躇なく自分を置いた。それが最善だと、当然のように)
まるでヒーローのようだと、神裂は思っていた。
我が身を省みず、救われぬ者に救いの手を求めて、片っ端から救い上げてしまう、正しくヒーローのような右手の持ち主だと。
しかし、それ故に、神裂は上条に対し、どこか不気味さのようなものも感じていた。
それはまるで物語に置ける『舞台装置』のようで、同じ世界で同じ視点の高さで生きる登場人物ではないかのような違和感。
何を考えているのか分からない、善性過ぎるヒーロー。
その正体が、なんとなく、分かった気がした。
(……ああ。そうか。彼は、どこか私と――『
Salvere000――救われぬ者に救いの手を。
この身に、この魂に刻み込んだ、魔術という
叶えたい願いがあってもどうしても叶えられなかった――だからこそ、魔術という世界の仕組みを歪める掟破りに手を伸ばした、
救いの手を伸ばしながら、誰よりも救いを求める者達。
遙か遠い理想郷を心に抱きながら異端を進む歪んだ者達。
そう、彼はきっと――。
「問三。しかし、貴方が犯人でなければ誰が『
「その辺りのことは場所を変えて話さないか。お互いの自己紹介もまだだしな。一旦、宿に戻ろう。神裂も湯冷めしちまうだろうしな。なぁ、神裂」
「――え、ええ。分かりました」
神裂は一度頭を振って、上条とミーシャと合流する。
誰よりも歪んだ正義のヒーロー。
片っ端から人を救う、誰よりも救われるべき少年。
神裂は、己が理想の体現者とも思えた少年の真実の一端を前に、小さくギュッと胸の前で手を握った。
「問四。ところで、貴殿のその衣服の着用方法は正しいのか」
「……神裂。流石に目のやり場に困るから、宿に戻る前に浴衣は直してくれよな」
「――――っっっっっッッッッッッ!!!!」
気付いていたのならもっと早く言ってくださいっっ!! ――と鞘に収まった日本刀を振り回す顔を真っ赤にした大和撫子の絶叫と。
不幸だぁぁぁぁああああああああ――と本来は聖人さんに対して禁句となっていることも忘れて飛び出した口癖を轟かせる少年の叫びが真っ暗な森の中に響いた。
×××
まだ女子中学生ズはお風呂タイム中、上条夫妻も夜の海岸散歩デートにでも出かけているのか、わだつみの家の二階の宿泊部屋エリアはとても静かに閑散としていた。
浴衣を直した神裂を最後尾に引き連れ、間に真っ赤な外套の下に拘束衣のようなインナーのシスターという強烈過ぎるキャラ物を挟んで、上条は使用人のおじさんと思える中年の男性とのすれ違いを苦笑いで乗り越えながら、彼女らを自分用に宛がわれている客室へと案内した。
一応、上条当麻は子供組唯一のヤローということで、思春期男子に(あるいは思春期女子に?)配慮した結果、一人部屋ということになっているが、旅先のテンションに任せた女子達がトランプ片手に突入してくることも十分にあり得る可能性なので、情報交換は手早く済ませようと、上条当麻、神裂火織、ミーシャ=クロイツェフはお互いの素性や目的などを恙なく紹介し終えた。
「ロシア成教、『殲滅白書』ですか。私達、イギリス清教の『
その違和感が具体的に何に対して感じているものなのか神裂は具体的に答えが出せなかった。
「とにかく、仲間は一人でも多いに越したことはない。一緒に頑張ろうぜ、ミーシャ」
上条はそんな神裂の懊悩を余所に、懲りずにミーシャに右手で握手を求める。
しかし、ミーシャはそんな上条の手をやはり取らず、窓際の位置を確保しながら「要求二、それよりも具体的に話を進めたい」と、意外にもミーシャがこの会議の進行役を務める形で議題を提供した。
「先程の私の質問に速やかに答えよ。少年、貴方はこの『
「そうだな。一刻も早く解決出来るように、話を先に進めよう」
上条はミーシャと神裂の間に胡座を掻いて座りながら、「これはさっき、俺のもう一人の仲間である土御門と電話で話して浮かび上がった仮説なんだが――」と前置き、暗い森の中での密談の内容を明かし始めた。
×××
上条当麻の逆行に気付いている黒幕がいる。
衝撃は確かに大きかったが、同時にある種の安心も上条に与えていた。
それはつまり、この世界が上条の夢の中、あるいは高層ビルから落下中に見ている走馬灯のようなそれではなく、明確に、前の世界と繋がっている、確かな『世界』だということの証明でもあるからだ。
上条当麻の逆行知識による悲劇の未然防止――それを阻もうとしているという黒幕は、果たしてオティヌスなのか、それとも他の何者かなのか。
それは分からないが、一つ確かなのは、それを今、ここで考えてもしょうがないということだ。
(……それに、それが俺と違う、別の『逆行者』だという保証もない。ただ俺の逆行に気付いている『現地人』だという可能性もある)
何はともあれ、今、ここで考えるべきことは、その上条当麻の逆行に気付いているという黒幕の正体ではなく、その黒幕が糸を引いているかもしれない、この世界で起きた『
土御門とこうして会話出来る時間も限られている。
何でもいい。何でもいいから、次に進むための道標が欲しい。
その為には、一切の手がかりを失ってしまったこの状況から、何らかのとっかかりを見つけることだ。
どこかにある筈だ。
違和感は? 矛盾は? 突破口は?
その後、およそ数分に渡って土御門と会話を重ねたが、これといっためぼしい手がかりもなく、諦め掛けたその時だった。
それは既に何度目かも分からない、上条が愚痴のようにこぼした言葉からだった。
「……なぁ。本当に、そんな偶然があるものなのか?」
違和感を覚えずにはいられないが、そもそもが前の世界で上条が経験した『
だから、どんな何者かの思惑が絡んでいるとはいえ、今回も仕組みとしてはそうだったのだろう。そういった結論に落ち着いた筈――だが。
「それがそもそもおかしいんだ。前の世界の父さんが作り出した儀式場、あれだって本当に奇跡的な条件が重なって出来たものだった。それが、たまたまもう一個あったっていうのか? 今回の『
そう。
だからこそ、この場にいて何の影響も受けていない上条当麻が術者の第一容疑者となっている。
しかし、そうなると、この日本の神奈川県に、あの奇跡的な条件を満たした儀式場が、上条家以外にも
それとも、上条刀夜以外の誰かが、何者かが、何年も掛けて何の変哲もない住宅をゆっくりと儀式場へと作り上げたとでもいうのか。
「なぁ、土御門。心当たりはあるか? この日本の神奈川県を縄張りにでもしてる『
『――いや、そうか。なるほどにゃー。それは盲点だった。確かに、考えるべき可能性だった』
上条の言葉に、土御門は何か思い至ったかのようにうなり、上条の質問には答えずに『……なぁ、カミやん』と、再び質問を返してきた。
『この世界の上条家は、前の世界の上条家とは住所がはじめっから違ったって言ってたよな?』
×××
深夜。
上条当麻は神裂火織とミーシャ=クロイツェフを引き連れ、駅前へと出てタクシーを確保し、女子小学生が運転する(ブレーキとかアクセルに足が着いているのかと不安になるほどの身長だった。本人がそれに全く違和感を覚えていないことに、この
九州地方を中心に展開する某有名ショッピングセンター、その唯一の神奈川支店。
その場所を、現上条家から地図上で挟み込むような座標にある、平凡な木造二階建て住宅。
前の世界の上条の記憶では、この何の変哲もない民家に、正真正銘の脱獄犯が立てこもっていて、警察が周辺を包囲していたので、神裂がなんたら結界を張り巡らせて道なき道を行き、ようやく辿り着けた場所だったが、今回は家の真ん前までタクシーでやってくることが出来た。
この世界の上条家へと女子中学生ズとやってきた時と同じように、上条は某第一位から預かった真っ黒なクレジットカードで料金を支払うと、乗客を下ろしたタクシーが夜の闇の中へと消えていくのを見送って、改めてその家を眺める。
(…………同じだ)
この世界の上条家は、駅に比較的に近いが狭くて古い団地マンションの一室であったらしい。そして、ついこの間、念願のマイホームを手に入れた訳だが――前の世界の上条家は、正しく目の前の、このどこにでもありそうな木造二階建て建売住宅だった。
いや、記憶にあるそれよりも、どこか古くて痛んでいるように見える――のは、前回、上条がやってきたのが日中で、今が暗い深夜だからだろうか。周辺住宅も夜更かしをするような生活リズムの人間はいないようで、街灯もろくにないからか、まるで幽霊屋敷のようにおどろおどろしく見える。
「……ここが、土御門の言う、地脈上最も怪しい場所ですか?」
「……ああ。少なくとも、日本の神奈川県においては、『
神裂やミーシャには上条は言葉を濁してそう説明していた――嘘は、吐いているが、言ってはいないつもりだ。
なにせ、この場所は、この住宅は、前の世界において『
土御門曰く、こういうことらしい。
『この世界のカミやん家の場所が変わっている。これはもっと注目すべきポイントだったんだにゃー』
上条はその言葉を聞いた時、訝しく眉を潜めるだけだった。
確かに上条としては小さくはない衝撃を受けた『改変』ではあったが、前の世界と今の世界で異なるポイントなど少なくない。
言ってみれば、学園都市の上条の住居だって、既に前の世界で最後まで(ここでいう最後とはオティヌス戦前までという意味だが)住んでいた学生寮から引っ越している。
故に、寂しく思うことはあっても疑問に思うことはなかったのだが、プロの魔術師はそんな素人認識に異を唱える。
『カミやんの話を聞く限り、前の世界で上条刀夜が発動させた、その『おみやげ術式』ってのは、いわゆる風水を使った術式なんだろう? 適した方角に、適した位置に、適した意味を持つ偶像を配置し、無数の魔術的意味を持たせる。……聞けば聞くほどに、そんなおまじないの積み重ねで『
土御門は、硬質の声で上条に言った。
表情が見えない電話越しだが、きっとあのサングラスの向こう側で、いつもの目をしているのだろうと上条は思った。
風水を専門とする陰陽師――土御門元春は素人上条に言う。
『風水とは、部屋の間取りや家具の配置によって回路を作り上げる魔術だ。だが、それだけじゃない。
そもそも、オカルトグッズは『中身』だった。
あの木造二階建ての建売住宅という『一等地』に用意された『器』があってこそ、『
『確認してみる価値はあると思うぞ、カミやん』
土御門は上条に言った。
『前の世界の上条家があった場所――そこに、今、どんな人間が住んでいるのか。そもそも誰か住んでいるのか。家が建っているのか。空き地なのか。……空振り上等で、バット振ってみる価値はある筈だ』
その直後――上条はミーシャの気配に気付き、通話は終わった。
「…………入ってみよう」
家はあった。それも、前の世界の上条家と瓜二つの、全く同じデザインの家が。
果たして、この世界ではどこの誰が住んでいるのか――表札を確認しようとした上条だったが、それよりも先に、上条は見つけてしまった。
薄暗くてよく見えない闇の中で、はっきりと姿を現した――玄関近くに植えてある、背の低い檜の木を。
「………………」
巣箱のついた檜の木――敷地の入口に置かれた小鳥が止まって休む宿り木――
「………………っ」
心臓が嫌な風に高鳴る。
上条は焦りのような何かに突き動かされるように、玄関を開けて勝手知ったる――見ず知らずの誰かの住居へと不法侵入する。
「――上条当麻っ!」
「…………」
神裂の咎めるような声にも答えず、己の背中についてくるミーシャの気配にも構わずに侵入した上条の目は、再びそれを捉える。
南向きの玄関に置かれたポストの置物――『南』の属性色に合わさる『赤』いポスト。
「――――ッッ!!」
風呂場に向かう。
最早、この家の持ち主である見知らぬ誰かに対する配慮などなかった。
荒々しく開けた扉の先には、亀がいた――『水』の守護獣となる『亀』のおもちゃが。
「…………決まりだ」
ここはまるで、上条の記憶の中であるかのようだった。
何もかもがあの『
まるで上条の記憶を読んで、『
(……いや、本当にその可能性はあるのか? 心を読むくらい、学園都市の能力者なら……。いや、俺の傍には常に学園都市最強の精神系能力者である食蜂がいる。……だが、俺の外出許可を軽々しく出したり止めたり出来るレベルの地位にいる奴が『黒幕』なら、
上条が他人の風呂場を覗き込むような体勢で額に右拳を当てながら唸っている背後から「上条当麻っ!」と、神裂が鋭い声で呼びかける。
「説明してください。何がどうだというのですか?」
「……ああ。悪い。……取り敢えず、『ここ』で確定だ」
露骨に顔色を悪くしている上条だが、己についてくるように脱衣所の中にいる神裂とミーシャに、最低限の説明をしなくてはと口を開く。
「土御門の専門は風水だ。そんで、地脈的に最有力の場所に行くならってことで、いくつかの
上条の言葉に、ミーシャは一切動じずに、神裂は瞠目する。彼女は「……風水は、私としては専門外なのですが……」と口にしながら、周囲を――何の変哲もない民家を、まるで心霊スポットで幽霊を探すように眺めると。
「……本当に? このような民家から? ……そのような魔力は感じないのですが」
「一つ一つはおまじないに近いものらしい。それこそ、気分転換の模様替えで参考にするくらいのレベルの――だが、それが無数に積み重なると『
神裂は「……なんと緻密な……」と、それこそ途方もない計算と執念の上で成り立っているのであろうという儀式場を改めて呆然と眺める。
それを何の計算もなく、ただ息子を思う心一つで無意識に成し遂げてしまったのが、前の世界の上条刀夜だ。土御門が「幻想殺し以上の番外」と言ってのけるのも納得の規格外っぷりである。
(……問題は、この世界でこの儀式場を作り上げたのが、果たしてどうなのかってことだが)
そいつは何らかの手段で上条当麻の脳内を読み取ったのか、それとも独力の計算と努力でここまで辿り着いたのか――それとも、上条刀夜のように、まったくの偶然の代物なのか。
もし最後者なら、もはやこの土地に家を建てたものは無意識の内にこんな儀式場を作り上げてしまうという別のオカルトが発生しているのような気もするが。
ここまで途方もない
「けれど、これが魔術的に構築されたものならば、あなたの右手で破壊してしまえば、全ての決着が着くのでは?」
「…………いや、これだけ絶妙にいくつもの『おまじない』が重複した上で成り立っている儀式場は、下手に俺の右手でその内の一つだけを壊したら、その結果『別の何か』が改めて発生しちまう危険性があるらしい。……それこそ、『
上条はそう言って乱雑に己のツンツン頭を掻き回すと「……とりあえず、手がかりを集めよう」と言って、女性陣二人を脱衣所から出そうとする。
「兎も角、儀式場は見つかった。あっさり破壊してすんなり解決ってわけにはいかなかったけど……その辺りはどうにかして土御門にこの現場を見てもらってから意見をもらおう。――俺達がこれからやるべきことは、ここから術者にどうにかして辿り着くことだ」
×××
その後は、上条と神裂とミーシャ、各自手分けしてこの家から手がかりを探すこととなった。
上条が前の世界でこの家を訪れたのは、火野神作の立て籠もり事件の時だけだったので、あの極限状態で隅々まで覚えていたわけではないが、どこを見ても既視感のようなものでいっぱいだった。
だが、懐かしさのようなものは微塵も感じない。
他人の家だ。いや、勿論、他人の家ではあるのだが――例え、ここが上条当麻の生家だったとしても、きっと自分は何も感じないのだろう。あのアルバムを見た時のように。
「…………」
上条は一通りめぼしい場所を見た後は、リビングへと向かった。
真っ先にミーシャが向かった為に自分は後回しにしていたが、他のどの部屋を見ても、奇妙なまでにこの家の家主のパーソナリティが見つからない。
むしろ、あらゆる場所におまじないと思われるオカルトグッズがあって、下手に右手を使えない上条は深くまで探ることも出来なかった為、前の世界において『上条刀夜の写真』という、事件の真相を暴くに至ったキーアイテムを見つけた場所に行くことにした。
勝手知ったるといった足取りで真っ直ぐにリビングへと向かう。
途中で二階を散策していた神裂とも合流する。
この世界では例え犯人の写真があったとしても
(それでも、手がかりは多いに越したことはない)
犯行現場から犯人の手がかりを探すのは捜査の鉄則だ、と警察でも
そこも、やはり記憶の中と瓜二つだった。まるでドラマのセットのように。
「ミーシャがいませんね」
神裂の言葉通り、ミーシャ=クロイツェフの姿はなかった。
自分達と同じように既に始めに訪れた場所の探索は終えて、別の部屋にでも行っているのだろうか。それにしても、自分か神裂のどちらかとすれ違っていてもいい筈だが。
「…………」
上条が真っ直ぐに向かったのは、前回、問題の写真立てがあった戸棚だった。
この家が『
前回、目に焼き付けることの出来なかった『上条家』を、改めて見て回りたかったのだろうか。
それで得たい物を得ることが出来たのか――だが、一つ、確信を得たことがある。
(……きっと、この家は、俺と――いや、『上条当麻』と無関係ではない)
懐かしさを感じた訳ではない。むしろ、懐かしさは微塵も感じなかった。
だが、ずっと、この家を訪れてからずっと――右手が微かに疼いている。
完全に無事な、全く破壊されていない健康な脳細胞が、ではない。
右手が――幻想を殺す右手が、何かを上条に訴えている。
それはきっと、
(……俺が、逃げずに向き合わなければならない何かだ)
上条は問題の戸棚を真っ直ぐに見た。
そこにはやはり、雑多に詰め込まれた海外のオカルトグッズの中に、ぽつりと、奇妙に埃を被っていない写真立てがあった。
そう。前回の上条家と瓜二つとずっと描写してきたが、この家には記憶の中のかつての上条家とは唯一違う点が存在する。
初めそれは前回と違って深夜だからだと思っていたし、今も近隣住民に己らの不法侵入が露見しないように電灯も点けずに行動しているからだと――しかし、徐々に目が慣れていくにつれ、その違和感は増すばかりだった。
大きな違いではない。
違うのは――人の温もりの差だ。
前回の上条家は、物に溢れてはいたものの、詩菜の掃除が行き届いていたのか雑多な印象はなかった。立て籠もり犯が警察勢力を迎え撃つ為に策を講じて細工していたということを踏まえても、平和な時は平和な家だったのだろうというのが窺える程にだ。
だが、今は、火野神作がいるわけでもないのに、妙に家の中の空気が重苦しい。
埃が溜まっていた箇所もいくつもあるのに、オカルトグッズだけは妙に丁寧に配置されていて。それに妙に冷蔵庫の中やゴミ箱にビール缶があるのも――いわゆる、嫌な予感というものを膨れ上がらせていた。
写真を手に取る。
そこには――幼い少年と、一組の夫婦が映っていた。
見たことのない、ごく普通の、他人の家庭だ。
少なくとも上条当麻の知らない世界――その筈、だ。
前回の写真には、幼い上条当麻、詩菜となっていたインデックス、そして入れ替わっていない上条刀夜が映っていた。
構図こそ同じだが、そこに映っている母親も、そして子供も、まるで見たことのない人達だった。そして――父親も。
(…………ん? いや、この男……どこかで?)
いや、男だけは既視感がある。
ぼんやりと、だが、どこかで見かけたのか?
つまり、わだつみの家からここへ向かってきたのだから、その道中にでもすれ違っていたのか。
もし、その男を見つけて、この家の家主と同一人物ならば、この男は入れ替わっていない――つまりは『
(ミーシャはそれに気付いたのか……? だとしたら、マズいな。アイツが先に術者を見つけたら、
上条は早速追いかけようと思って写真を戻そうとする――が、そこに、もう一葉、別の写真があることに気付く。
写真と、その奥に隠された――分厚い、日記帳のようなものがあった。
前回にはなかったものだ。上条がそれを取り出してみると、その写真は先程の家族写真のようなそれではなく、母親だけが写ったものだった。
それも、顔だけが――輝くような笑顔が、かえって物寂しさを強調する、まるで――。
「………………」
上条は、ゆっくりと、その手に取った分厚い日記帳を手に取る。
そして、それを開き、中に目を通すと――初めの数ページを読んだだけで、上条は全てを理解した。
「………………そういうことかよ。…………ちくしょう」
×××
まだ夜が明けぬ暗い内に、上条と神裂はその家を後にした。
上条はその際、はっきりと、その家の表札の名を心に刻んだ。
そこには、こうあった――『
それは、上条当麻が逃げ続けていた――逃げずに向き合わなければならない何かだ。