わだつみの家が見下ろせる場所にある、坂道の上の小さな食堂。
潮風に限界まで痛めつけられながらも時代を感じさせる木造建築のお土産処が、土御門から指定された、
その店の構造上、茹だるような炎天下でも当然ながら空調など効いていない。
だが、何故か薄着というわけでもないのに汗一つ掻いておらず正座のままピクリともしない店主のお婆さんから、まるで機械仕掛けのような錆び付いた動きで作ってくれたかき氷を購入し、申し訳程度のパラソルの下のテーブルでそれをちびちびつまみながら、上条当麻は神裂の到着を待つまでの間、考えを巡らせていた。
(――まず、現状の確認からだ)
とりあえずは土御門と合流してからということで、ここまで碌に現状の整理すらしていなかったことに、上条はかき氷をかっくらったことで襲ってきた痛みと一緒に頭を押さえる。どれだけ自分が、前の世界でも今の世界でも、土御門元春というクラスメイトにおんぶにだっこだったから分かろうというものだ。
だが、今回はその頼りになるプロを抜きに事件を解決に導かなくてはならない。
神裂が来るまでの間に、やるべきことを明確にすることくらいはしておかなくてはならないだろう。
(わかりきったことだが、解決すべき問題は『
本来ならばローマ正教のような大組織でも綿密な準備と膨大な計算の元に構築された大術式が必要となるレベルの大魔術。
当然ながら、そんじょそこらの魔術師がやろうと思って出来るものではない。
それこそ――前の世界の上条刀夜のように、奇跡に奇跡が何重にも重なったような"偶然”でもない限り。
(……そうだ。『
有り得ない――と、上条は氷を噛み締める。
確かに、この世界でも前の世界と同じ事件は起きている。
だが、そこには様々な人物の思惑や想いが絡み合っていて、それらは結果として起こるべくして起こり得るものだった。
しかし、この『
上条刀夜という父親が、息子の為に掻き集めた小さな想いの結晶。
それが本当に偶々、『
そして、それは今回の世界においては上条が未然に防いだ。
刀夜はオカルトグッズを掻き集めるのをやめたし、かつて儀式場となった上条家にはお守りは一つも存在しなかった。
(……なら、今回の世界では別の誰かが、
改めて思う――そんなことがあり得るのかと。
(まるで俺が前もって行った先回りなんて無意味だって言われているような感覚だ。……今回の、強引な俺の学園都市外への追い出し、そして、追い出したその次の日に発生した『
考えすぎだろうか。
それとも、前の世界の上条刀夜のように、まるで意図せずに
(……どうにも気持ち悪さが消えない。……だが、こうして『
ならば、上条がやるべきことには、やはり変わりはない。
犯人の打倒、もしくは儀式場の破壊――それを一刻も早く行うこと。
例え、それがどこかの誰かの思惑通りだとしても――掌の上で踊っているだけだとしても。
「…………ッ」
上条がいつのまにか食べ終わっていたかき氷の空き容器を持って立ち上がり、金属の網目状のゴミ箱にそれを捨てた――その直後。
「――上条当麻」
ツンツン頭の少年のその首元に、長い日本刀の切っ先が添えられた。
「……よう。久し振り――ってほどでもないか」
神裂――と、上条は反射的に後ろを振り返ることもせず、穏やかに微笑みながら両手を挙げて言う。
長刀をピクリとも動かさずに添えたままの、ヘソ出しTシャツに片足切り落としジーンズのポニーテールの高身長の女性――神裂火織は、そんな上条の対応に唇を噛み締めながらも、もう一度「……上条当麻」と呟き、押し殺した低い声で問い詰める。
「あなたは……今、世界中でどんなことが起こっているのか……理解していますか?」
「……大体は。朝起きたら、周りの人達の『外見』と『中身』が入れ替わっててビビったよ」
「…………単刀直入に言います」
神裂は、二メートルはあろうかという日本刀の切っ先を、片手だけで悠々と支えながら、更に数センチ、上条の首へと近づける。
「――『
上条は、そんな神裂の言葉に、ゆっくりと瞑目し――そして目を開け、はっきりと答えた。
「違う。俺じゃない」
神裂の日本刀の切っ先が、僅かに震える。
反射的に彼女の喉元からさらなる言葉が飛び出すのを遮るように、上条は「逆に聞きたいんだが――」と、振り返らず、言葉だけで神裂を制する。
「そんなことを聞かれるってことは、この魔術は――やっぱり俺を中心に発動しているのか?」
「……ええ。その通りです」
「世界中に影響を及ぼす程の魔術の発動源にいて、なおかつそいつは魔術の影響を受けていない――なるほど、いかにも怪しい条件が揃ってる。犯人扱いも当然だな」
不幸だぜ、と、上条は笑う。
戦闘のプロたる『
この男は、上条当麻は、まるで震えることなく微笑んでみせている。
「……どうして、笑えるのです。……上条当麻」
神裂は、日本刀を退けることはせず、しかし、声にはどうしようもない程に感情を見せながら問い掛けた。
「…………あなたは、何か知っているのですか? 何かを知っているから、そうも冷静でいるのですか?」
「買い被りだ。俺は何も知らない。冷静でもない。ぶっちゃけ、何も分からないから途方に暮れていた所なんだ。お前が来てくれて助かった」
「っ! ……こうして、殺されかけているのにですか?」
「お前は殺さないよ。何も分からない俺だけど、それぐらいは知ってる」
神裂火織は、こんな風に人を殺せる
そう、いっそ親しみすら湧いているかのような声色で笑ってみせる上条当麻が――神裂には、理解出来ない。
まだ、上条が神裂と顔を合わせるのは、これが二度目である筈だ。
そして、その両方とも、自分は上条に敵意を向けている。言葉を選ばずに表すれば――殺そうとしている。
たった二度しか顔を合わせておらず、そのどちらも己を殺そうとしてきた相手に、背後を取られ、首元に刃を置かれているのに――この男は
どうしてそんな風に、笑って信じることが出来るのだ。
「……あなたは…………何を、知っているのです?」
「俺は何も知らない。知っているとしたら、それは俺がどうしようもなくちっぽけで無力だってことだ」
だから、お前の協力が必要だ、神裂――と、上条はここで初めて振り返る。
それが余りにも迷いのない挙動であった為、神裂が咄嗟に刃を退けなければ、上条の皮膚が切れていたかもしれなかった――紙一重だった。
だが、上条は、それこそ神裂が刃を退けることを知っていたかのように、動じずにただ真っ直ぐに神裂の目を見据える。
「俺が疑わしいのなら、ずっと俺の傍にいて監視すればいい。だが、俺は犯人じゃない。俺を殺しても、この『
「……それを、どのように証明するというのです?」
「俺はあらゆる異能の影響を受けない。だが、学園都市で能力開発は受けている身だ。万が一、魔術を発動したら、身体はボロボロになってる筈だろ」
「っ!」
上条はそう言って、Tシャツを捲り上げて己の無傷な腹筋を披露する。
神裂は咄嗟に赤くなった顔を背けて、目だけでその割れた腹筋を凝視した。
「ほら。この通り、なんともなってねぇ。俺は回復魔術の影響も受けねぇから、一晩でここまで綺麗に治癒することは不可能だろ」
「わ、分かりました。分かりましたから服を戻してください!」
自分はへそ丸出しなのにどうして人の腹筋には顔を赤くするんだと上条は疑問に思ったが、前の世界では言葉では言い表せられないような
「信じてくれたか?」
「……いいでしょう。ですが、依然としてあなたが第一容疑者なのは確かです」
「ああ、それでいい。どっちにしろ、真犯人は見つけ出さなくちゃいけないし、無関係だって言い張ってこの件から降りるつもりもない」
「…………」
神裂は、
上条は先程までかき氷を食べる為に座っていた白い椅子に座り、テーブルの周りに用意されていた他の椅子を指して「お前も座れよ、神裂。好き好んでこのクソ暑い日光に当たりたいわけじゃないだろ」とパラソルの下に招き入れる。
終始、この男のペースだと思ったが、無理に突っぱねるような誘いではないと、再び溜息を吐いて神裂は椅子に座る。
「それで。あなたはどの辺りまで把握しているのですか? 今回の『
「大まかな所は土御門から電話で聞いてる。人間の位に堕とされた天使の影響で、椅子取りゲームみたいに人間の『
上条の言葉に「まぁ、その程度まで理解していれば問題はありません」と言いながら、上条を鋭く見据える。
「そして、我々の目的は、未完成であるこの『
「そんで、その肝心な術者の最有力候補が、魔術の中心点であり、影響を受けていない、ワタクシ上条当麻である、と。……しかし、解せないのがそこなんだよな」
……? そこ、とは? ――と、神裂は首を傾げるが、上条はそれには答えず眉根を寄せて思考する。
前回の『
だが、前回の『
しかし、今回の『
そうなると、前回の教訓を組み込めば、上条当麻の近くにいる刀夜ではない人物となるのだろうが――しかし、少なくともこのわだつみの家に一緒に来たメンバーは全員の入れ替わりを確認している。
「……なぁ。お前等の言う、中心ってのは、一体どのレベルでいうところの中心なんだ?」
「……? 問いの意味が分かりかねますが」
「そうだな、いわゆる地図の縮尺の問題というか、中心点の半径の話だ」
つまり、上条当麻という一個人を中心に広がっているという話なのか、それとも中心とされるエリアの中に上条当麻という影響下にない人物がいたという話なのか。
「そうですね……その話でいうと、後者の方が近いでしょうか。あなたから魔術の発信源たる魔力を感じての中心点という話ではありません。何しろ、全世界を影響下とする大魔術ですから。その発信源が日本列島のこの辺り、そして、そこにいかにも怪しいあなたという容疑者がいた、という話です」
「……なるほどな」
いかにも怪しいなどという的確に傷つく言葉もあったが、そうなるとまだ話が分かる方向に繋がってくる。
上条当麻の周辺というよりは、わだつみの家の近辺ということか。
こうなると、容疑者は増えるが、手がかりが消失するという事態は避けることが出来る。
(それでも、砂粒を探す範囲が砂漠から砂浜になったってだけのことで、依然として光明が見えたって程じゃない。前の世界では『
そうなると、制限時間が少なくとも明日までは残ってるなんて甘い考えで臨むのもよくないだろう。
一刻も早く解決する――そのスタンスだけは崩さないに越したことはない。
「誰か他の容疑者に心当たりがあるのですか?」
「……いや。だが、少なくとも、俺と一緒にこの海に来たメンバーは、全員が『
そこまで言って、上条はふとあることを確認していないことに気付いた。
確かに入れ替わりは行われているが、その組み合わせは前の世界の『
土御門も、他の人からは『
故に、上条にとっては神裂火織本人に見えている時点で結界を張ることには成功したのだろうが、それでも、他の人間にとって神裂は別の誰かに見えていることになっている可能性もある。
「ところで、神裂は今、他の奴等からは誰に見えているんだ?」
「え゛?」
上条の問いに、神裂は分かり易く声を濁らせた。
具体的には「え」に濁点がついたような声色で。
「いや、土御門から聞いているだろうけど、アイツは逃亡中の脱獄犯に見えるようになっちまっているみたいだからな。あらかじめ教えておいてもらえると、一緒に行動する上で俺もサポート出来るだろうし」
「……笑いませんか?」
何その前フリ、と上条は身構える。
とはいえ、土御門で火野神作は使用されているし、母親のオリアナver
今更、どんな名前が出てこようとも――内心はどうあれ――表面上の動揺は見せない自信がある。
「非常事態なんだ、笑わねぇよ。で、誰なんだ? もったいぶるなって」
「……みん……です」
え? なんだって? ――と、鈍感系に加えて難聴系も発症しかけた上条に、顔を真っ赤にした神裂が、やけくそ気味に吠え立てた。
「ですからっ!
無理だった。
仙人だって笑うわこんなもんと、上条は開き直りながら日本刀を抜いた神裂からの速やかなる逃走を図るのだった。
×××
かぽーん、と。
古き良き使い古された謎の擬音が鳴り響くそこは、小さな露天風呂だった。
お風呂回である。
上条が前の世界で訪れた時には露天風呂どころか男湯と女湯と分かれてすらいなかった(男が入浴中は男湯、女が入浴中は女湯と、立て札によって役割が変化する湯船が一つあるだけだった)というのに、この世界のわだつみの家には、なんと豪勢なことに露天風呂が付いているのだ。もう海の家というよりも立派に小さな旅館であった。
前の世界ではステイルとして周囲から見られていた神裂が入浴する為に、上条が見張り番を務めていたりしたが(そしてその役割を立派に果たせなかったことは明白だが。主にカミジョー属性的な意味で)、この世界においては
『なるほど。つまりカミやんは、ねーちんの裸体を合法的に拝むチャンスを一個失ったというわけか』
「いや、例えお前の思い描いてるであろう未来予想図がそのまんまやってきたとしても、一つも合法じゃないからね。裁判無しで俺の首が飛ぶだけだからね。ギロチンじゃなく日本刀オアワイヤーで」
そして、女子風呂で繰り広げられているであろうキャッキャうふふとは法を破らなければ(もしくは首が飛びかねないリスクを背負わなければ)縁が繋がらないヤローである上条少年はというと、この世界では無事に女性の外見を手に入れた(超機動少女だが)神裂が女子中学生ズとお風呂回を繰り広げている間に、わだつみの家周辺の暗い森の中へと入り、警察勢力から追われている逃亡犯(と見られている)の男とこっそり連絡を取っていた。
「そんで、お前は大丈夫なのか。一応、まだ捕まってはいないみたいだが」
『あたぼうぜよ。……だが、学園都市の外だからって甘く見てはいたが、日本の警察は殊の外優秀だな。これ以上は近づくことが出来そうにない。やっぱり、俺は今回は電話参加になりそうだ』
上条は近くの木に背中を着けながら「……そうか」と呟く。その呟きが、思っていた以上に不安げで、思わず自嘲してしまった。
どうやら未練がましく『プロ』の合流の期待を捨て切れていなかったらしい。
だが、電話で意見交換出来るだけでもありがたい。
上条は、おそらくは限られているであろう僅かな時間を無駄にしない為にも、これまでの状況を簡潔に土御門に説明する。
上条刀夜が犯人ではないこと。
『前回』の儀式場たる上条家には『オカルトグッズ』は一つも配置されていないこと。
『前回』とは入れ替わりのパターンが異なっていること。
そして、それでも『
「……どう思う? 土御門」
上条は何の具体性もない、ほとんど丸投げのような質問をプロに投げた。
流石にそれではどうかと思ったのか、上条はぽつりぽつりと、自信なさげにずっと心の片隅にあった不安を吐露した。
「実際、そこまで
『つまり、カミやんはこう言いたいんだな――これは、
電話の向こうの土御門は、上条の迷いの篭もった言葉を、プロらしく冷静に、冷徹に纏めて力強く告げる。
『上条刀夜のように無自覚ではなく、意図的に、計画的に、この
「……荒唐無稽だと思うか?」
『いや、俺も前者のようなたまたまの積み重ね説よりは有力だと思うぜよ。だがまぁ、それだとどうして前の世界のカミやんの世界では
それは、そいつが計画していた時期よりも早く上条刀夜が
『この世界でも、
「……黒幕? 前の世界の父さんの件も、裏で糸を引いていた存在がいたってことか?」
『あくまで計画の一部として、
もう一つのたまたま? ――と上条が疑問を問う前に、土御門は端的に告げる。
『時期だよ。前回、上条刀夜が引き起こした時期と寸分違わずのこのタイミングで、その何者かは
「……おい、土御門。それって――」
ああ――と、土御門は、携帯端末を握る力を込めて、その言葉を覚悟を持って、
「カミやん。その何者かの黒幕は――お前の『逆行』に気付いている」
×××
お待たせしたね。
それでは、薄暗い森の中で繰り広げられる、きな臭い野郎共の会話シーンから、ぐっと視点を移動させよう。
もわっとした湯気で満たされた、男子禁制の壁の中の桃源郷へと。
はい、かぽーん。
「これが、ジャパニーズろてんぶろなんだねっ、るいこっ! そういえば、さっきから鳴っているかぽーんってなんなの? どこから響いているの?」
「それは触れないお約束なんだよ、インデックスちゃん」
短い茶髪にスレンダーな肢体を隠そうともせず、初めて見る露天風呂というものに目を輝かせる少女を、彼女と同じくらいの背丈の同じく薄い胸をこちらはタオルで隠している少女が微笑ましそうに見守る。
そんな彼女達の横を、金髪碧眼の英国人らしいスタイルの少女が駆け抜け、とうとジャンプして熱々の湯の中へと飛び込んだ。
「一番乗りですっ! とミサカは誰よりも早く一番風呂というものを全身で堪能すべく最短距離をって熱っ!」
「こら、数分だけ妹。何から何までマナー違反です。事前調査を怠ったのですか、とミサカは姉らしく妹を叱りながら生まれて初めて味わう温泉というものを足先からゆっくりと堪能します。…………ふう。いい」
かけ湯という文化など知るかとばかりに一番熱い場所に慣らしなしで飛び込んだ金髪碧眼を呆れたような目で眺めながら、頭の左右にお団子を作ったままの少女は、ぴちょんぴちょんと足先で温度を確かめながら、ゆっくりと肩まで湯の中に沈めていく。
生まれて初めて味わう温泉。感想は……いい、だけだった。それに全てが込められていた。
「ふふ。それ以外に言葉は出てこないよねぇ。温泉はいいものだよ、うん。……あれ? そういえば、あの人は?」
「まだ来てないみたいなんだよ。おーい、はやく来るんだよ~。おんせん、きもちーよ!」
そんなクローン少女達に続いてゆっくりと温泉に浸かった少女達の言葉に「……今、行きます」と、遅れること数分、彼女は女子中学生だらけの温泉に姿を現した。
慎ましいスタイルの少女達と比べ、その肢体は暴虐的の一言だった。
すらりと長い足に見合った高身長に、引き締まった腰、豊満な胸部、いつもはポニーテールに結んでいる長い黒髪は、解きながらも湯に浸からぬように簡易に纏め上げていた。
だが、湯に浸かっている女子中学生達からは、そんな大和撫子な和風美人とは、また違った風に見えているようで――。
「遅いんだよ、カナミン!」
「いいお湯ですよカナミンさん、とミサカは手招きします」
「ミサカと同じ失敗を繰り返してはなりません、
「ほらほら、裸の付き合いってやつですっ! こういうのも旅行の醍醐味だと思いますよ。ここで出会ったのも何かの縁ですし、深めましょう、絆!」
何故か女子中学生達に大人気のかんざきかおり18さいであった。
いや、人気なのは
(……どうしてっ!? どうしてこうなったのでしょうっ!?)
おとななかんざきさんは立派に愛想笑いが出来る。苦手分野なのは認めるが。
しかし人生経験がいい意味で浅い女子中学生ズには十分に通じるようで、内心でテンパりまくっている神裂の混乱は上手く誤魔化せているようだ。何故か異様に歩みが遅いカナミンの湯船への到着をいまかいまかとニコニコしながら待っている。
そもそも、上条当麻に連れられて、神裂がわだつみの家へとやってきたのはほんの数刻前の話。
『カナミンだっ! すごい、旅行ってすごい、まさか本物のカナミンに会えるなんてっ!』
真っ先に食いついたのは、色々と上から目線で批評しておきながら毎週楽しみに視聴しているインデックスだった。
神裂は頑張ったがどうしてもインデックスはコスプレという文化を理解してくれず、神裂を本物のカナミンだと信じて疑わない。
それに00005号が加わり、00001号も元ネタは分からないまでもなんだかすごい人なんだという認識を固めてしまい、結果、キラキラした瞳の三人の少女に囲まれる羽目になった神裂。
ただ一人、佐天だけは目の前の年上女性がコスプレ少女だということを理解したが、佐天は普通の女の子なので、旅行先までがっつりとコスプレしている一人旅の女というなかなかに強いパーソナリティの持ち主であるという認識をこちらは固めてしまっていた。
そして、人生経験の少ない女子中学生である佐天は、そんな目で見ていることを上手く愛想笑いで誤魔化すことが出来ない。結果、頑張って隠そうとはしているものの隠しきれない生暖かさがダイレクトで神裂火織を襲うことに。
キラキラした瞳×3、絶妙な生暖かさ×1、笑いを堪えきれないド素人のニヤニヤ笑い×1に囲まれた神裂火織は、ぶっちゃけ心が折れそうになり、夕食を手早く食べ終えて早く上条当麻の首根っこを掴んで成敗しようとそれだけを考えて自己を保っていると――彼女よりも早く(もちろんお替りをたっぷりした)夕食を食べ終えたインデックスが、神裂に向かってこう言ったのだ。
一緒にお風呂に入ろうよ――と。
そして、今に至る。
(……おのれ、上条当麻。自分は早々に姿を消して……覚えていなさい)
結果、ただニヤニヤしていただけで何もしていない上条へとヘイトを向けることでしか目の前の現実に耐えられない神裂――そんな彼女の綺麗な背中を、ぽんと押す小さな手があった。
「うわぁ。綺麗な肌だね、カナミンさん」
「ひやうっ!」
ははは、ひやうだって――と笑う声の主を、神裂は振り向いて確認する。
そんな彼女の手を取って引っ張るのは、自分がかつて故郷に置いてきてしまった一人の少女だった。
どきっと高鳴る心臓は、その顔を見て――そして、ぶるんと揺れるその胸を見て、ある意味収まる。
「……立派になりましたね、五和」
「五和? 私の名前は乙姫だよ、カナミンさん」
その言葉にハッとした神裂は「……そうでした。すいません、乙姫さん」と、旧知の少女の顔をした、上条当麻の従妹である竜神乙姫にそう返して、大人しくその手を引かれながら言う。
「それなら――私の名前はカナミンではなく、神――ッ!?」
ちょうど名前の話になったので、少なくともカナミンと呼ばれるのだけはやめさせようと神裂は訂正しようとするが、そこでつい先程の少女達に対する自己紹介で、神裂火織と見られないのであればと、作った偽名があったのを思い出す。
少なくとも、インデックスと佐天涙子は、神裂火織が魔術師であるということを知っている。
そんな存在が上条当麻と行動を共にしていると分かれば、彼女達に無用な心配を掛けてしまうと、そう上条と事前に打ち合わせての偽名だった。
「か、カミサキカオルです。カナミンではなく、そう呼んでください」
「えー、でもそんなにカナミンにそっくりにコスプレするんだから、カナミンのこと好きなんでしょ? インデックスちゃんも喜んでるし、いいじゃん」
そう自分の言葉を笑顔で却下する乙姫。その、五和では絶対に有り得ない行動と、そして、五和が最後まで自分に見せなかった遠慮のない笑顔を見て、神裂の表情が思わず固まる。
(……でも、それは――私が、させなかっただけで……本当の五和でも、作り出せた筈の
神裂は結局、乙姫に引っ張られる形で、女子中学生でぎゅうぎゅうになった露天風呂の中に引っ張り込まれる。
決して大きな風呂ではないので、女六人の肌が触れ合うかもというくらいの人口密度だが、神裂以外は特に戸惑うことなく、内三人が温泉初体験とあって楽しそうにきゃっきゃうふふしている。
「にしても、カミサキカオルって、なんだか神裂さんにそっくりな名前だよね」
「そういえばそうなんだよ。なんだか、しゃべり方も似てる気がする」
唐突に鋭い面を見せる少女達に、カミサキさんはぎこちない愛想笑いを浮かべながら言う。
「き、気のせいでしょう? 世の中には似ている人が三人はいるといいますし」
本来なら、神裂さんを知らない筈のカミサキさんが否定するのはおかしいのだが、嘘が下手過ぎるカミサキさんはそれに気付かない。温泉に入っている筈なのに冷や汗が止まらない。
そして、自由すぎる女子中学生ズの温泉女子トークは、どんどんと流れるように逸れていく。
「そういえば、神裂さんは元気にしてるかな? まだ、あれからそんなに経ってないけど」
「……だいじょうぶなんだよ。かおりも、すているも強いから。ずっと、わたしの為にがんばってくれてたんだから。すこしはゆっくり休めてるといいんだけど」
湯船を縁取る石に胸を乗せるようにして、お尻を浮かせながら夜空を眺める茶髪の少女。
その、見たこともない『外見』の少女の微笑みが、はっきりとインデックスの表情と重なって、神裂はハッと目を見開く。
この少女は、ずっと自分達が救いたかった少女――インデックスなのだと。
絶望に囚われ続けていた彼女が、同世代の女の子達と、こんな風に一つの温泉に浸かって笑い合う――こんな夏休みを過ごすことが出来ているのだと。
(……ああ。いいんですよ、インデックス。私達は、あなたがこんな風な日を過ごしている……その事実だけで、その全てが報われているのですから)
改めて、彼女がハッピーエンドを手に入れることが出来たのだと、実感する。
そして、そんな彼女の笑顔を守り続ける為にも、何としても、この
(ありがとうございます、佐天涙子。あなたにインデックスを任せて……本当によかった)
神裂は、楽しそうにインデックスと肩を触れ合わせて笑顔を交わしている少女を――佐天涙子の『
そして、その『
(……恐らくは、何らかの魔術的な意味を持って施されている仕掛け……なのでしょう。私如きでは、これが何のための仕掛けなのかは詳細を掴むことは出来ませんが。……インデックスがこれを認識することが出来れば即座に看破してくれるのでしょうが)
それでも、詳細が分からなくとも、ただ破壊するだけならば、はっきり言って今の状況では容易だ。
しかし、ここで一つの疑問が生まれる。
例え、今、この仕掛けをあの右手で破壊したとして――その結果は、
(……これは、なにもこの宝石の顔の少女だけではない。今、現在、この魔術の影響下にある全ての人間に対して考えられる危険性だ)
この
つまり、身体ーAに、心ーAで、個体ーAが通常の状態とする場合。
身体ーAに、心ーBが入り込み、個体ーBとして存在しているのが、
そこで、
そして、すぐさま
そうなると、個体ーBが負った怪我の影響は、果たしてどうなるのだろうか。
個体ーBとして負った怪我であるから、そのまま個体ーBとして戻ってくる身体ーBに引き継がれるのだろうか。それとも、術中に個体ーBの身体であった身体ーAに残ったままなのであろうか。
そうなると、身体ーAの本来の持ち主であった個体ーAは、何の身に覚えもない怪我を、術が解けた途端に背負うことになる。
(いや、擦り傷くらいならば不思議なこともあるですむかもしれない。けれど、これが今後の身体活動に深刻な影響を及ぼす程の大怪我であったならば? いや、それどころか、
これは決して有り得ない仮定ではない。
そうなった場合――術が解けた時、死者として世界から消えているのは。
世界に認識されていた個体ーAなのか、それとも活動停止してしまったであろう身体ーBの本来の持ち主である個体ーBなのか。
だが、もし、後者なのだとしたら――身体は死んでしまったBと、心が死んでしまったAは、果たしてどうなるのか。
残った身体ーAに、残った心ーBが入り、新たな個体ーAとして生きていくのだろうか。
神裂は、温泉に入っているにも関わらず、思わずゾッとしてしまった。
術式が完成してしまっては取り返しがつかなくなる。だからこそ、術式が完成する前になんとかしなくては――これが、これまでの基本姿勢だったが、それが既に間違っていたのかもしれない。
(術式が完成していない現時点ですら、既に取り返しのつかない事態となっている……こうしている今も、取り返しのつかない影響が、着実に世界へと及ぼしている……?)
それに、単純に『
例えば、匂いを頼りに現世に存在する幽霊のような存在がいるのならば、彼女は『
例えば、ロマンを解するゴールデンレトリバーのような存在がいるのならば、彼の『
例えば、二万体のクローンネットワークに存在する大きな意思と呼べる存在がいるのならば、人と呼ぶことすら悩んでしまうような希薄な存在ではあるけれど、そこに『
そのように様々な特異な状況も鑑みると、決して『
もっと言うのであれば、そんなどこかにいるかもしれないという特殊パターンの前にも、ずっと身近にもっと真剣に考えなくてはならない矛盾のパターンは存在する。
(……なんでしょう? 上条当麻? いえ、彼はそもそも、この
神裂火織。彼女は、
この世界のどこかに存在していた、
だが、
しかし、現在の神裂火織は、神裂火織の元々のパーツをA、カナミン少女の元々のパーツをBとすると――身体はA、心もA、しかし個体としてはBとして認識されているということになる。
そうなると――どういうことなのだろうか。
この世界のどこかにいるカナミンのコスプレ少女、彼女が、身体も
同じことは土御門元春にもいえる。
彼は現在、身体も
そして、
前述の通り、前の世界の神裂火織は、周囲からはステイル=マグヌスとして認識されていた。
つまり、心は
しかし、その時の海の家わだつみの店主――彼は心は
つまり、ステイル=マグヌスという心ーBは、世界のどこかにあぶれて存在していたことになる。
だが、心=個体という法則に従うならば、その心ーBという存在によって生まれる個体Bーステイルという存在が、神裂が個体Bーステイルとして認識されている以上、
つまり、神裂や土御門のような、外見ーXと中身ーXの入れ替えは防いだものの、個体ーYとして認識されることは防げなかったというパターンが存在すると、個体ーYの重複という世界の矛盾を引き起こしてしまう。
それは、
今、この世界において、
神裂火織として、土御門元春として、過ごしている誰かがいるかもしれない――あるいは、そんなものはどこにもいなくて、この世界から
冷たい汗が神裂の綺麗な首筋をつたり、温泉の中へと消えていく。
(……つまり
長々と語ってきたが、結論は一つだ。
それも何も変わらない――やるべきことは一つだけ。
一刻も早く、この
「……ごめんなさい。私は先に上がらせてもらいますね」
「え~、もうあがるの?」
「もう少しゆっくりしましょうよ。いろいろお話聞きたいです」
神裂は少女達の引き留めに苦笑を返すと、その艶やかな肢体を温泉から上げて、少女達に言う。
「どうか、旅行を楽しんで。素敵な思い出を作ってください」
それだけが、神裂火織の純粋な願い。
Salvere000――救われぬ者に救いの手を。
誰かをこの手で救う為、神裂火織は戦場へと戻る。
×××
空気が、変わった。
「……悪い、土御門。切るぞ」
『何か動きがあったかにゃー』
電話口の向こうのプロは、上条の言葉調子だけで察知する。
だからこそ、上条は詳しいことは何も述べず、ただ「そっちも何かあったら連絡をくれ」とだけ言って、通話を終了し、携帯をポケットの中に仕舞って、暗い森の奥へと視線を向ける。
「…………」
そして、上条は。
一度だけ女子中学生達が入っているであろう露天風呂の方角を見遣ると、そのまま何の躊躇もなく、光から遠ざかるように、光に危機を近づけまいとばかりに森の中へと歩みを進める。
何の武器も持たず、薄いぺらぺらの夏着で、蚊の吸血すらも防ぐことが出来ないような軽装で――ただ、右手の指をぼきぼきと鳴らしながら。
そして、比較的開けた場所に出ると――そこには、月光を浴びる赤いシスターが居た。
齢は十二、三といったところか。小学生から中学生の、見るからに細く小柄な、明らかに少女と表現すべき子供。
緩やかなウェーブのかかった金髪。目を覆うような前髪によって相貌ははっきりと見えないが、僅かに露出した部分だけでも人形のように整った顔立ちであることが窺える。
それだけならばモデルにでもなれそうな外国人の可愛らしい女の子だったが、身に着けているものがそんな平和な感想を打ち消す程に強烈だった。
ワンピース型の下着のような露出の多い拘束衣のようなインナースーツ。
その上から羽織っている血のように赤い外套。
太い首輪のような
腰のベルトから垂れるペンチ、金槌、L字
明らかに、一目見ただけで、彼女が平和な日本の温泉旅館に相応しい存在でないことが理解出来る。
彼女のような存在が登場する今、ここは、徹底的に世界の裏側なのだと理解させられる。
「――問一。術者は貴方か?」
赤いシスターはノコギリをくるくると回しながら、ピクリとも表情を変えずに上条に問い掛ける。
「問一をもう一度。『
上条は少女の問いに答えず、両手をフリーにしたまま――両手を広げて、凶器を振り回す少女に、微笑みを向けながら尋ねる。
「お前の、名前は?」
「…………」
赤いシスターは、ぐっと身を屈めて、溜めを作るようにしながら、それでも律儀に「……解答一」と小さく呟き。
己の名を、はっきりと答えながら、上条当麻に直撃する。
「――
上条当麻は、その名前を聞いて。
鋭いノコギリの刃が自身に猛烈な勢いで迫っているにも関わらず、いっそ安心したように微笑んだ。
「――
ミーシャ=クロイツェフ――
前の世界に置いて天使をその身に下ろした巫女が、この世界でも上条当麻の前に現れた。
己が名を――ミーシャ=クロイツェフと、そう名乗って。
上条当麻は、血のように赤い外套を纏った『天使』と遭遇する。