Fate/reverse alternative 作:アンドリュースプーン
初めて来た倫敦は凛にとってなにもかもが新鮮だった。
何故か母である葵は頑として食事だけは外食で済まそうとはせず、自炊してきたがそれ以外は異文化というものを堪能できた。
なによりも魔術師の総本山である時計塔を見学できたというのは大きい。別に時計塔の講師に魔術を教わる、なんてことはなかったが空気を肌で感じることはできたのだから。
雨に邪魔され散歩を終わらさせられた凛は雨水で髪を濡らして家に戻ってくる。
凛を出迎えるのは日本式建築の家とは趣の異なるイギリスらしい邸宅だ。
なんでも時計塔で父の時臣にお世話になった者らしい。快く凛と葵を迎え入れてくれた。
とはいえ魔術師の原則とは等価交換。
その者の善意というより時臣に世話になった分の等価を返していると考えた方がいいだろう。
「ただいま、お母様」
「ええ、おかえり。こっちに来なさい、髪を拭いてあげるから」
家に帰った凛を温かく出迎えたのは葵だった。
冬木で戦いに臨む父と遠く離れているのは寂しいのだが、そんなことはおくびも出さない。
努めて明るく振る舞って見せる。
「あれ?」
ブチっという音がして視線を下に向ける。靴紐が切れていた。
「どうしたのかしら。まだ新しく買ったばかりなのに」
葵が怪訝に首をかしげた時だった。遠くの方でガシャンとなにかが割れる音がする。
奥の方を見てみると皿が割れていた。棚に入れてあったのに落ちたとでもいうのだろうか。
「……なんで、こんなことが」
不吉だ。とんでもなく不吉だった。
だが決してそれを言いいたくはなかった。言葉にすればそれが現実になってしまいそうで。
倫敦の冬は肌寒かった。魂まで凍てつきそうなほどに。
その手紙は死神の招待状そのものである。
衛宮切嗣から遠坂時臣宛へ出された封筒には手紙が一枚に写真が一枚、そして『自己強制証文(セルフギアス・スクロール)』と呼ばれる契約書が封入されていた。
自己強制証文。魔術師にとって最大限の譲歩であり、絶対に違約せぬ契約を結ぶ場合のみに提示される『契約書』である。
これに自らの意志をもってサインしたが最後、絶対に契約者はその契約を破ることができなくなる。破ったら罰則云々以前に魂そのものが契約に拘束されるため破ることは不可能なのだ。
もしこの契約を無効できる者がいるとすれば、セイバーのように魔術を全て跳ね除ける対魔力をもつか、キャスターの『破戒すべき全ての符』で契約そのものを破戒するしかない。
無論、時臣はそのどちらも持ってはいないし現実的に考えて時臣がそれをもつ事などは有り得ないことだ。
よってこれにサインすることは最後、時臣の数ある選択肢の一部を永久的に消し去るということでもある。
「衛宮切嗣め……! よりにもよって貴様が桜を……っ」
封筒に封入されている写真を睨む。
そこに映っているのは魔術によってか薬品によってかぐっすりと眠らされている桜。そして写真の隅から女のものと思われる細腕が伸ばされており、その手に握られた銃口は真っ直ぐに桜に向いていた。
人質、と見て間違いないだろう。
時臣が要求をのまねば殺す……切嗣はそう言っているのだ。
契約内容に目を落とす。
『衛宮矩賢が子息、衛宮切嗣が遠坂家当主・遠坂時臣と契約する――――』
勿体ぶった言い方だ。効率主義者の殺し屋らしくもない芝居がかった前口上。
これは時臣の流儀に合わせたか、敢えて礼儀に則った前口上を用意することで神経を逆なでしようとしているのか。恐らくは後者だろう。
―衛宮切嗣ならびに遠坂時臣は下記の条項を締結する―
1、両名は本日23時に冬木公園にて単独でくること。
2、その際、サーヴァントを含めた協力者及び第三者の同伴及び交信は認められない。
3、また明日午前2時になるまで冬木公園から半径1km以内の土地とそこにいる生命に対して、自身のサーヴァントと協力者とそのサーヴァントの干渉を禁ずる。
4、両名或いは片方に予期せぬ介入者があった場合、全ての条項を一時破棄する。
5、ただし4の場合、明日午前2時まで両名はお互いに危害を加えることを禁ずる。
―衛宮切嗣は下記の条項を締結する―
1、23時、遠坂時臣に間桐桜を返還する。
2、交換の完遂まで間桐桜に対して後遺症が残らぬ眠りの魔術を除いた干渉を禁ずる。
3、交換完了まで遠坂時臣へ危害を加える事を禁ずる。
4、契約の縛りは午前2時をもって全て破棄される。
5、交換完了後、遠坂時臣が死亡した場合は契約の縛りは全て破棄される。
―遠坂時臣は下記の条項を締結する―
1、23時、衛宮切嗣に小聖杯を返還する。
2、小聖杯を害する如何なる行動も禁ずる。これは永久のものである。
3、交換完了まで衛宮切嗣へ危害を加える事を禁ずる。
4、2を除く契約の縛りは午前2時をもって全て破棄される。
5、交換完了後、衛宮切嗣が死亡した場合は4を除く契約の縛りは全て破棄される。
「時臣。これは誘拐犯からの脅迫状というよりは――――」
アーチャーが腕を組みながら問いかける。
時臣は頷いた。アーチャーに問われるまでもなく、この契約書にある衛宮切嗣の心意を読み取っていた。
「古風にいうのなら、果たし状だな」
既に自己強制証文には衛宮切嗣の名前がサインされている。契約書から発せられる魔力は紛れもなく本物であり、偽物ではないことを明白。
後は時臣がサインするだけでこの契約は完了する。
しかしこの契約書は降伏文書ではない。サインをしたところで時臣は敗北にはならない。
サインすれば、時臣と衛宮切嗣はこの冬木の戦場にあって完全に一人となる。サーヴァントの助けを借りる事も、協力者の力を借りることもできない。
そして、これはただの人質交換ではないのだ。
お互いの条項にある第三項。交換完了までに相手に危害を加えることを禁ずるという文は、逆に言えば交換が完了すれば相手に危害を加えることができるようになるということだ。
更に協力者やサーヴァントの力を借り受けることができるようになるのは明日の午前2時から。
しかもご丁寧に相手が交換完了後に死ねば自由というお墨付きまで加えてある。
『僕は一人でくる。お前も一人でこい。そこで決着をつけよう。まさか逃げはしないだろうな? 遠坂時臣』
衛宮切嗣がそう挑発してくるのが聞こえるようだ。
もはや間違いない。衛宮切嗣は自分を囮にして、遠坂時臣を誘き寄せ単身の力で時臣を抹殺する算段だ。
「いいだろう。この契約、受けよう」
時臣は迷いなく決断した。
元より否という選択肢などない。如何な相手からの挑戦であろうと真っ向から受け、それを完膚なきにまで叩きのめすのが遠坂時臣のやり方である。
そうやって生きて来たし、そうできるように自身を律してきた。
相手が魔術師殺しだろうと、否、だからこそ背を向ける訳にはいかない。
なによりこの戦いには桜の命が懸かっているのだ。魔術師以上に一人の人間として逃げる事は出来なかった。
「いいのか? 相手は衛宮切嗣。魔術師にとってのジョーカー。君は魔術師として優れているが、だからこそ衛宮切嗣は君の天敵となる。しかも奴の指定した場所には奴自身がありったけの準備を施しているだろう。そこへ敢えて乗り込むのは魔術師としても戦術としても正しいとは言えんな。君は薄情だと思うかもしれんが、私はサーヴァントとしてこの誘いを無視するべきだと進言させて貰う」
アーチャーの進言は的確だ。
もし効率を優先するのなら、衛宮切嗣の要求を無視し聖杯戦争を続行すればいい。
小聖杯を手に入れ、多くのサーヴァントの情報が集いつつある今、最も優位にあるのは遠坂時臣だ。
聖杯戦争での勝利を至上とするのなら、わざわざ虎穴に入る必要はないのである。
魔術師としてみるのなら、間桐桜を見捨てるのが最善だ。
実子とはいえ桜は間桐の後継者。遠坂にとっては部外者でしかないのだから。
「アーチャー、それでもだ。私は私としてこの戦いに赴かねばならない」
「間桐桜が君の娘だからかね」
「いいや。桜は間桐の子だ。血の繋がりがあろうと、私はもう桜の父親ではない」
「ならば何故」
「今は父親ではないが、過去に父親としてやるべき事をしていなかった。ならばこそ未だに僅かながらであるが私は桜の父親であり、桜は私の娘であるのだろう。ならば私は父親として桜の所に行かねばならない。それだけだよ」
「死ぬかもしれんぞ?」
「その時はその時だ。聖杯に手が届かぬまま死ぬのは無念だが、私の後は凛が継いでくれる。大したことではないよ。なにも私が『根源』に到達する必要はない。私の死が礎となり我が末裔が『根源』へと到達するのであればそれで良いのだからね」
「……そこまでの覚悟なら私も頷くしかあるまい。だが……ああ、そうだな。君の在り方は俺にとって眩しいものだ」
そうしてアーチャーは目を閉じる。
彼が何を思っているのか時臣には読み取ることができない。ただなんとなくエールを送ってくれているような気がしたので、心中で感謝をする。
「――――――」
遠坂時臣は凡才だ。歴代の遠坂にあって最も凡庸でありながら、誰よりも遠坂の家訓を実践してきた男。それが遠坂時臣である。
だが才能こそないものの誰よりも『魔術師』であらんとする精神、自身を制するその意志力は歴代の遠坂にあって随一だろう。しかし遠坂時臣は冷徹にして完璧な魔術師であると同時に『人間』としての側面をもっていた。
魔術師と人間としての道は相容れぬもの。魔道を選ぶなら人道を、人道を選ぶのなら魔道を捨てねばならない。その相容れぬ二つの道を同時に宿したのが遠坂時臣である。勿論、魔術師として『完璧』であらんとした時臣はただの人間としては不完全だ。人間としての己を捨て去った方が楽だったかもしれない。だが時臣は敢えて己に『人間』を残す決断をした。
本来なら魔道と敵対するサイドの人間である言峰璃正が時臣と友誼を育むことができたのも、遠坂時臣が『人間』を残していたからだろう。
だから時臣は妻である遠坂葵を優秀な後継者を生む胎盤として以上に、ただの一人の女性として想っていた。
遠坂葵は時臣を愛したし、時臣も葵を愛した。そうやって愛を育み生まれたのが凛であり桜だ。
凛という最高の後継者を得ておきながら、また新たな子を為そうとしたのは時臣が葵を人間として愛していたからでもあるし、葵に魔術師ではなくただの母親としての幸せを与えてやりたいという精一杯の想いの現れでもあった。
けれど時臣にとって誤算があったとすれば新たに生まれた桜が凛に匹敵するほどの才覚をもって生まれてしまったことに尽きるだろう。
(……そうだ。凛と桜は才能が有り過ぎる。優れた才能は呪いと同じだ。否応なくその者をその道に引きずり込む。魔道に引きずり込まれるしかないのであれば、せめて魔術師として最大の幸福を。そう思ったからこそ私は凛を後継者として桜を間桐へと養子に出したのだ)
養子にやり姓が変り娘でなくなったとはいえ、桜が時臣と葵との間に出来た子であるという事実は不変だ。
そんな桜が衛宮切嗣という外道の手に堕ちた。その不届き者は不遜にも遠坂時臣に一騎打ちを挑んできている。
「綺礼へと連絡をせねばならんな。私が死んだ時のことを頼んでおかなければ」
「マスター。死を覚悟して戦場へ赴くのはいい。だが死を覚悟するのと生を諦めるのとは似ているようで異なる」
「おや? 心配してくれているのかな?」
「忠実なるサーヴァントの精一杯の忠言とでも思ってくれ。心配せずとも君は勝つさ。"衛宮"では"遠坂"には勝てない。"遠坂"は真っ向からでは勝てず奇策奇襲姦策を良しとし搦め手を用い上位者と肉薄してきた"衛宮"とは違う。競争相手がいるならば周回遅れにし、刃向かう輩は反抗心をつぶすまで痛めつける。当然のように戦い当然のように勝利する。それこそが"遠坂"だろう?」
「君に我が家の家訓の一つ一つを説明した覚えはないのだが鋭いじゃないか。その通りだ。衛宮切嗣が万の策謀を張り巡らせようと、私は私自身の研鑽を武器に真っ向から打ち砕こう」
卑怯卑劣、それがどうした。嫌ならばそんなものを纏めて吹き飛ばしてしまえばいいだけだ。
時臣が切り札として用意していた宝石を全て持つ。そして――――アゾット剣をとった。
儀礼用のものだが魔力を込めれば武器としても扱えるだろう。
準備は万全だ。