面倒な選択を迫られた時、弱い人間が選ぶのは勢いに身を任せた決断でも現実逃避でもない。もっとも悪い別の選択肢である保留だ。
結論の先延ばしというのは何かの解決にならないどころかただ事態の悪化を招くだけでしかないが、心が弱い人間というのは仮にそれを知っていたとしても選ぶことを保留してしまうものだ。そして俺は俺という人間が脆弱な人間だと理解している。
だが、この日の俺は違った。保留ではなく逃避を選んだのだ。俺自身の意思として。
ところで一月一日と聞いてみなさんは何を想像するだろう。
学生の身分であればお年玉が貰える、普段洋食ばかり食べてるから特に好みではないが居間に置いてあるのでおせち料理を食う、正月とか関係なく家でぐーたらする、このどれもが正解である。
が、正月とは往々にして親戚一同が集まる。これまた面倒な話である。
しかも、しかもだ。我が家の場合はそれが親戚だけに限らない。
だからこそ俺は休みぐらい自分のペースを保ちたいという主義のもとに朝早くから家を出て私鉄に乗り、街の大通りに面した某チェーン店のカフェで時間を潰しているわけなのだ。
普段ならこんなとこ入らずに個人経営のカフェに転がり込むのだが、そういう店はもれなく三が日が休業なので渋々と本屋で買った適当なSFモノ文庫本を眺めながらここでホットカプチーノをすすっている。この店でコーヒーを注文するような気分ではなかった。
「……」
店内は正月の十時半過ぎだというのにそこそこ人がいた。
初売りのために街に来る主婦層は多い。その連れで来た旦那さんとかはこういうとこで過ごすのが落ち着くんだろうな。俺みたいになんでここにいるんだって感じの人もちらほら見受けられるが、他人の顔を気にするような場所じゃないしな、ここは。戦場じゃ相手の顔を見てはいけないのさ。
とまれ十二時前まではゆっくりするつもりだ。
それからファミレスかラーメン屋あたりで昼飯にしてまたここか別の茶店に転がり込んで一日を終わらせてやる。なんなら午後九時ぐらいまで帰る気はない。財布の貯蔵は充分だ。
なぜそこまでするかって?そりゃ――
「ねえ、隣に座ってもいいかしら」
突然、窓側の席に座る俺の背後から聞きなれた女性の声がした。
いやまさか。幻聴だろう。
「……座るわよ?」
そう言って空いていた右隣の席に座ったのは俺が幻覚症状に見舞われていないのであれば朝倉さんの姿をしている。多分本人だ。
朝倉さんはトレーをテーブルに置き、マフラーとコートを脱ぎ畳んで膝の上に乗せた。そして俺の方を向き、
「あけましておめでとう。今年もよろしくね」
笑みを浮かべつつ正月期間限定の挨拶をしてくれた。
もちろん、こちらこそよろしくお願いするよと返事はしたがはたして俺たちはすんなり談笑してよいものなのかと思案してしまう。
一般論からすると男子が女子に告白して「考えさせてほしい」とキープ的に返されることはあるだろうが、その逆パターンを俺はやっているわけで、しかも一週間近く前にそのことを思い出させられたのだから朝倉さんに対する気負いというか気まずいものを俺は感じているのだよ。あれから今日までの数日間会ってなかったわけだし余計に。
だが朝倉さんは街中でばったり出会うという運命的演出をするために来たわけではない。間違いなく俺を追ってやって来たのだ。
「オレの顔が恋しくなって来たわけじゃあないんだろ」
「違うわよ。そうだったら私もちょっとは気が楽だったけど」
「……やっぱり来てるのか、今年も」
「ええ。あなたにとっては嬉しくないことみたいね」
君にとっては大切な家族なのかもしれないが俺にとってはストレスの原因に他ならない。
クリスマスパーティ以来会っていなかった朝倉さんがここに来たということはつまり彼女の両親――特に親父さんだろう――が俺に会いたがっているということだ。あのお二方は俺の家に来ている、正月休みを利用してはるばる海外から。もう恒例行事なので驚きはしないが勘弁はしてほしい。
彼女が持ってきたトレーの上にはフルーツパイひと切れとホット抹茶ラテが乗っている。なんと贅沢な。交通費込みでカネを払ってあげるから俺と会わなかったことにして立ち去ってくれるとありがたいのだが。
フォークでパイをつつき始めた朝倉さんの顔色を窺いつつ俺は尋ねた。
「どうしてオレがここにいるってわかったんだ」
「逃げ込みそうなとこぐらいわかるわ。あなたゲーセン行くような人じゃないし」
あっさりした様子で言ってのけた彼女だが本当は感知能力的なもので俺の居場所をつきとめたのではなかろうか、こう、コズミックなあれで。
「そんなわけないでしょう」
俺の疑問を鼻で笑う朝倉さんからは謎の自信を感じた。そして俺は現に彼女に見つかっているわけなのでぐうの音も出ない。
だったら次はゲーセンに逃げてやるからな。
して、俺が言いたいことはこれだけだ。
「今日はオレ家に戻る気ないから」
俺の言葉を受けた朝倉さんはフォークでカットしたパイを口に運んび呑み込んでから、
「んっ。あなたの気持ちはわからなくもないけど私も手ぶらで帰るわけにはいかないのよ」
「オレの意思はどうなるんだろうか」
きっぱりとした表情で朝倉さんは問いに答えてくれた。
「諦めてちょーだい」
「んなアホな」
「私で無理だったら次はあなたのお姉さんが来ることになってるから」
そりゃあんまりだろ。あの人を出すのは反則じゃないか。
やれやれ。トラベラーリットを付けたまま抹茶ラテを飲んでいる君が俺の味方だったら少しは心強いんだけど。
「私だって父さんにうるさく言われたくないもの、お願い」
お願いならしょうがないかもしれないな。でもね、朝倉さんの代わりにうるさく言われるのは俺なんだよ。
自由になりたくてそんなに好きでもない店に入ったというのにこれだ。何が悲しくて幼馴染の親父に正月から絡まれなきゃいかんのだ、ザ・理不尽だぜ。
機嫌を悪くしたつもりはないが俺は相当な苦虫を噛み潰したような顔をしていたのだろう。朝倉さんはおずおずと、
「大人しく私と一緒に帰ってくれるなら、あなたの言う事をひとつだけ聞いてあげるわ」
もの凄く既視感を覚える提案をしてきた。
俺に、どうしろと言うのだ。
こういう時に下種な発言をして好感度を下げるのはナンセンスだろう。郷にいては郷に従え、しかし異世界人は紳士たれ、だ。
文庫本に栞を挟んで閉じカフェラテの横に置き、なけなしの甲斐性とやらを彼女に見せてやることにした。
「じゃあ昼過ぎに帰ろう。それでいいかな」
「お昼前には居たほうがいいわ、ごちそうにするってあなたのお母様が言ってたから」
「いや、せっかく街まで来たからいろいろ見て回りたいんだ……君と」
すると朝倉さんはトレーのパイから目を離し、俺の方をまじまじと見つめてきた。
こういう彼女の反応がかわいかったりする。本人の前ではとてもじゃないけど言えないが。
「わ、わかったわ。それで手を打ちましょう」
と言ってから朝倉さんはすぐに残りのパイを平らげて抹茶ラテをごくごくと飲み干すとコートを羽織り早々にトレーを片づけてしまった。
俺には残ったカフェラテを早く処理しろと言うし、いったいなんなんだ。いや、まさかな。
十三分前の自分の言葉を取り消したい。我ながら余計な提案だったかもしれない。
わかっていたことではあったもののどうにもこうにも人が多いのだ。腐ってもここは地方都市だった。
カフェから一番近い百貨店に入ってはみたが失敗もいいとこ、こんな日にこんなところで服とか靴とか見ようかなと思ってたのが俺の間違いだ。
「だからってベンチに逃げることないでしょう」
「ここなら下のフロアよりマシだ。君だってわたわたしてるの好きじゃあないだろ」
「それはそうだけど……」
百貨店の人口密度に嫌気が差した俺は入店から数分とせずにエレベータでレストラン街まで移動した。理由は単純、人が比較的少ない。まあエレベータの中でさえパンパンだったのは言うまでもない。
かくして朝倉さんが言ったようにベンチに座って作戦会議をしているのだが早くもどん詰まりである。
時間があればいくらでも軌道修正可能だが夕方まで客を待たせるのは流石に悪い。うん、家に帰ることについては完全に諦めたよ俺。
しかしながら今から昼を食べて帰るというのも味気ないのだ。そしてレストラン街の店はもれなく無駄に高い、マセた学生が入るようなとこじゃないからな。
やはり俺が折れる必要があるのか。
「オーライ。さっさと見てさっさと出ようか」
「その次はどうするの?」
「通り沿いを適当に攻める」
「もう。結局ノープランじゃない」
行き当たりばったりが好きなのさ。
そんなこんなで物見遊山を再開した俺たちだがレストラン街を一階降りただけで俺のやる気がドレインされたのは言うまでもない。
普段は広々としているはずの7階がこの有様だ。まったく、いつから日本人の正月は慌ただしくなっちまったんだろうな。
しかもこのフロアはおもちゃ屋がある6階や婦人服を取り扱っている3階から5階より混んでいないのだから笑える。もちろん乾いた笑いだ。
ご覧の通り死に体な俺とは対照的に朝倉さんは元気だ。
食器売りコーナーにずらっと置かれているお皿を手に取って眺めては戻し、また器を手に取って眺めては戻しとやっている。何が面白いのかね。
まさか買うわけでもないのに特選洋食器の一式を指さし、
「ねえ、あれいいわよね」
と俺の評論を伺う朝倉さん。
いやどう見ても普通の食器だろ。
「普通って……あなたいくらすると思ってるのよ」
「あそこにあった猫の形した皿のほうがオレは好きだ」
「本気で言ってるの?」
「マジだ」
「あなたが猫好きなだけでしょ」
朝倉さんは俺の美的感性の乏しさに薄ら笑いを浮かべた。
ええい、彼女は猫より犬が好きだからあの皿の良さがわからんのだよ。
他に台所日用品および家具を見回るといよいよ下のフロアに俺たちは降りた。
ただちにエスカレーターでそのまま一階まで行きたくなったがなぜか紳士服はこの階にしかない、婦人服は複数フロアにまたがっているのになぜなのか。それは家族連れでもない限り男性客など百貨店に入り込まないだろうという予測の末の経営戦略なのかもしれない。
のろのろと紳士服コーナーまで歩いていったはいいが服を吟味する気力は皆無だ。客層を見ても同世代の男など一人もいない、おっさんばっか。
メンズ福袋に心惹かれるものもなく、おもちゃ売り場も無視して5階へ向かう。
困ったことに本当の地獄とやらはここからだった。
婦人服売り場ともなれば女子が元気を出すのは当たり前で、だからこそ年甲斐もなくおばさんたちが大挙して地方都市の百貨店まで押しかけているわけだが朝倉さんは商品に興味があっても俺にはてんでない。5階で気になるのはウォッチサロンだけだ。
と、悪態をつきたくなるのはやまやまだがそうも言ってられない。つまらないオーラを出すのは空気が読めない奴のすることだ。
「何か欲しいものがあったら言ってくれ」
日頃の感謝で一万円ちょっとなら出してやれないこともないぞ。
朝倉さんは遠慮して、
「いいわよべつに。荷物になっちゃうから」
それは俺の財政的にありがたいことを言ってくれたが結局ただ服を見るだけにも関わらず長々と百貨店内を彼女に引っ張られてしまった。本来の趣旨は俺が見たいものに彼女が付き合う、だったはずなんだけどな。
気がつけば午後一時になっていた。
パソコンオタクの俺としては家電量販店をハシゴしたかったところだがそこまでの気力は残っていない。飯食って帰宅ルートが安定だ。
家に帰って親に何かを出してもらうというのは経済的発想であり、普段ならもちろんそうしてもらうのだが待ち受けている者たちの存在を考えると事前に昼を済ませておくというのがベターだろう。家で食べてもきっと落ち着かないし。
そんなこんなで駅までの通りに面したパスタ屋に俺たちは転がり込んだ。正月らしくはないが昼に入る店としては無難かつ身の丈相応なチョイスじゃないかね。
朝倉さんは注文した明太きのこスパゲッティ―を食べながら。
「一昨日に長門さんと話したんだけどね」
と前置きしたのち、あまり考えたくないことについて言及した。
「文芸部の機関誌をどう作ろうかって」
決して失念していたわけではないが機関誌云々を考えるのは冬休み明けでいいんじゃないかと思っているよ。
なんて気の抜けた返事をすると朝倉さんは俺の倦怠感を咎めるように。
「後回しにしないで。具体的なプランを先に考えておいたほうが結果的に楽になるでしょ」
へいへい。説教じみたことを言われんでもわかってるさ。
何もSOS団みたいにガッチガチの本を作らなくてもいい、国木田入れて部員五人しかいないんだし薄い本でいいのさ。書く内容さえ決めりゃ各自で適当にやれば大丈夫だ。
ただ"どうやって"書くかが問題となってくる。
涼宮ハルヒと愉快な仲間たちはすったもんだの末にコンピュータ研究部から人数分のノートパソコンをふんだくっていたので作業がキーパンチで済んだが、それはラノベでの話であり、現実に文芸部が所有しているのはストレスなしに動かすことすら難しそうな型落ちのデスクトップ一台のみ。あれを複数人数で運用してくのは効率が悪すぎる。
つまり俺たちが作業するとしたら原稿用紙に紙で書く、ぐらいしか方法がなさそうなのだ。
「べつにそれでいいじゃないの。原稿用紙なんて学校にいっぱいあるんだし」
「野郎の書いた雑な文字を誰が読むってんだ」
俺はかつて書道の先生にお前の文字は狂人が書く字に似ているとまで言われた男だぞ。
森先生から機関誌は一部が校内の資料として保存されるって聞いているので余計に手書きは気乗りしない。
「作業できるマシンがありゃあいいのにね」
「こればかりはどうしようもないわ。パソコンなんて部費じゃ買えないもの」
顧問がポケットマネーで買ってくれれば話が早いんだがな。
あの人の旦那は高給取りだって聞くし、未来の文芸部部員のためにもあんな化石PC一台じゃなくもっと部室の設備を良くしてほしいぞ。
「そんなに笑われたいなら頼んでみればいいんじゃない?」
「いや、やめておくよ」
「賢明な判断ね」
言うだけタダというのは口に出す前の話であり、実際に言ってみた後にタダで済むかどうかは別問題なのだ。
とりあえず今は何を書くかってことだけ考えてればそれで十分だろう。書き起こし手法を俺たち二人で議論していても解決しないのは明らかだしな。
海鮮オイルパスタを咀嚼しながら次に俺が思考を巡らせたのは目の前のお方についてである。
今ぐらいの関係が俺たちにはちょうどいいと感じている自分と、そうじゃない自分が少しだけいる。なぜかは考えてもわからない。
俺にとって絶対的に欠けているピースがある。それは過去だ。
対等な関係に見えるかもしれないが実際に彼女と俺とでは積み上げているものが違う。
もしも幼馴染なんて設定なしに俺と朝倉さんが高校生になってから出会っていたとしたらどうだろうか、こんな身内みたいな関係には少なくともなっていないはずだ。彼女を素直に受け入れていいのかどうか逡巡している原因の一端にそういうことがあるのは確かである。
ま、全部言い訳でしかないんだけどさ。
「そうそう、明日は初詣に行くわよ」
「誰が」
「私とあなたに決まってるじゃない」
あっけらかんとした表情で言う彼女にとってそれは既に決まったことなのだろうか、俺は初詣に行くなんて一言も言ってないのに。
また面倒な話だ。パスだパス、あえて行く必要を感じないね俺は。行きたいなら長門さんと二人で行ってくれ。
「長門さんは今日行ったと思うわ」
「なんで君は行かなかったんだ」
そしたら俺が不幸な目にあうこともなかったかもしれない。
いいや違う。さっき言ってたように朝倉さんじゃなく姉さんが俺を呼び戻しに来るだけか。
あれ、最初から詰んでね?
置かれている自分の状況にブルーな戦慄を覚えつつある俺の胸中など知らない朝倉さんは長門さんと一緒に初詣に行かなかった理由を教えてくれた。
「私がいたら邪魔者になっちゃうでしょ。キョンくんも一緒だから」
「そいつは重畳だな」
なるようになるだろうさ、あの二人なら。
そして昼飯をすんなりと終えてしまった俺と朝倉さんはいよいよ街から帰ることに。
店を出て少し歩けば地方都市のコアともいえる大型のターミナル。その中の私鉄改札をくぐってホームに降りると、一秒でも早く帰れと天からの導きでも受けているかのようにちょうどいいタイミングで電車が到着した。
真昼間だけあって席には余裕で座れた。これが帰宅ラッシュともなれば東京や横浜の車内ほどではないが相当混雑するのだからもうちょっと快適で便利な交通インフラが是非成立してくれと思う。電車は駄目だ。
「ねえ」
メランコリックな気持ちをどうにかこうにか押し殺しながら正面の車窓から見える面白味もない景色を眺めていると、ふいに朝倉さんが口を開いた。
「何だい」
「もうちょっと……そっちに寄ってもいいかしら」
ロングシートをわざわざ詰めるほど俺たちの横に誰かが座っているわけではない。
だけど、まあ、朝倉さんがそうしたいのであれば俺は止める必要がなかった。
総合的かつ客観的に見て俺と彼女はリア充だった。彼女が寄せてきた肩を快く思うのと同じようにこれからのことを広い心で許せるかもしれない、そんな錯覚にさえ陥るほどに。