夏休みが終わり一ヶ月が経った十月。
変わらぬ日常に戻った私。ただ、黎くんとの関係は幼馴染という曖昧なものから大きく変化した。
そのきっかけが私に憑り付いている彼女の一言なのは少し癪ではあるけど、彼の気持ちに嘘はないようなので不問に付す。
彼が言った通り、私から打ち明けてたらもっと早く付き合えてたのかもしれないし。
「……ん」
午前五時十二分、昨日と変わらぬ時間帯に私は睡眠から覚醒した。
――今日もまた一日が始まる。
と、少し前までは無理矢理にでも起き上がってお昼のお弁当の用意に取りかかっていたのだけれど、今は違う。
身体を左に向けると私の恋人が寝ている。これが今の私の日常。
彼とシない日でもこうして同衾することが殆どなのでベッドを大きなサイズに買い換えたのが約二週間前のこと。以前より快適な睡眠が保障されたはずだった。
けれど布団に入れば何かしらの理由を付け寝床中央に寄り合ってる二人。それは私の方からでもあるし、彼の方からでもある。
正直に告白すると、彼と密着して眠るのに幸せを感じています。ハイ。
長い間一人暮らしをしていたのだから今更人肌恋しいということはないのだけれど、彼のいない生活を考えるだけで心寂しくなるほど彼が恋しいのは確か。
「はぁ、重症ね」
ベッドから出ず、物言わぬ彼の顔を眺めながら取り留めのない話を考えるのに時間をかけている始末。これは重症と呼ぶ他ない。
いつまでもこうしていると本当に遅れてしまうので心を決めて静かにベッドを出て洗面所へ向かう。
洗面所に限った話ではないが、彼と暮らすようになり家の所々に彼の物が置かれるようになった。蛇口脇に置かれたコップに入っているごつい歯ブラシは正にその象徴と言える。
去年の自分だったら行き過ぎた妄想だと切り捨てたに違いないこの状況に思わず口元が緩んでしまう。私は浮かれ女か、冷たい水で素面に戻す。
顔を洗うだけだった朝のルーティンにスキンケアを取り入れたのは去年一月のこと。
当時彼のことでやきもきしていた私に母が指導してくれた。曰く若い内からお肌の手入れを怠ってはダメ、と。高級な化粧水までプレゼントされた。
その甲斐あってかハリとツヤが前より良くなった自覚はある。黎くんが気付いているかといえば微妙なところだけど。
ルーティンの最後にマッサージを済ませると台所へ行きお弁当作りに取りかかる。
とにもかくにもまずお米を炊くところから。必要な分をボウルに入れ水でシャカシャカ研いだお米を炊飯器にセット。
次は弁当のおかずを用意。とはいえ作って入れるのはお決まりの玉子焼きとプラスアルファぐらいなもので、後は前の晩の残りと煮物系で弁当箱を埋めていく。
朝ご飯の味噌汁を仕込み終えた頃、いい時間なので彼を起こしに部屋へ戻る。
数十分前までと変わらぬ彼の爆睡ぶりには感心を覚える。
「起きなさい。朝よ」
呼びかけながら身体を揺すってあげると直ぐに彼の意識が現実の世界に。
彼は寝起きの小動物のように目をショボショボさせて大きなあくび。
「ふぁあ……」
そして私と目が合うと顔をほころばせて。
「おはよ、涼子」
と朝の挨拶。
彼を起こすという作業は昔からやっているのだけれど、彼が寝起きにクオッカワラビ―みたいな毒気を抜かれる笑顔を見せるようになったのは付き合って暫くしてからのこと。
普段からこれくらい笑えばいいのにと思う反面、こういうレアな表情の彼を知っていることに優越感じみた感情を覚えるのも事実。なんて、今更ライバル登場の心配なんて不要か。
私の胸中などいざ知らず緩慢な動作でベッドから起き上がりのそのそと洗面所へ歩いていく彼。
こっちの仕事はまだ終わってない。キッチンに戻り朝ご飯を用意、テーブルに運ぶ。
洗顔後、リビングに現れた彼はすっかりいつもの気難しい顔に戻っていた。
「まったく解せんな」
左腕で頬杖をつきながら朝のニュース番組を観てぶつぶつ言う彼。
テレビ画面には生後一週間ほどのまだ毛も少ししか生えていないパンダの赤ちゃんがよちよち歩く映像。これのどこが解せないのだろう。
「
「いいじゃないパンダ。かわいいでしょ」
「かわいいからって猫熊野郎だけ異様にメディアの露出が高いのはおかしいぞ、不平等だ。オレはゴマフアザラシの赤ちゃんが見たいのに」
「そうね」
こういう状態の彼に余計なことを言えば延々と不満を並べ立ててくるので適当に相槌を打つ。
不思議なことに黎くんは幼少の頃からアザラシ――特にゴマフアザラシ――が好きで、そこは今の"彼"と変わらない。確かにゴマフアザラシは漫画の題材になるくらいアザラシの中でもキャッチ―な存在だけど、彼の中では画像収集するほど猫と肩を並べる存在らしい。
そんな話はさて置いて、用意が出来たので朝ご飯の時間だ。
主菜はバンバンジー。昨日の夜はよだれ鶏を作ったので余った蒸し鶏を別の料理にした。
鶏肉とお米を充分に咀嚼し飲み込んだ彼は。
「かーっ、うまい。無限に食える」
「腹八分目までにしときなさい」
「タレが違うだけでこうも変わるかね」
「お肉の切り方も違うのよ? 流石に棒で叩いたりはしてないけど、別物になってるでしょ」
「つくづく有料級だよ君の料理」
調子のいいことを言ってくれる。まあ、悪い気はしない。
一人暮らしをする中で洗練されていった自炊スキルであれど、人のために作る方が料理は楽しい。それが好きな相手であれば尚のこと。
「そうね……一食三百円いただくとして、今まであなたに作った分を合計したら結構な額になるでしょうね」
「もしかして脅されてるのオレ」
「さあ、どうかしら?」
脅すも何も、こんな関係になっておいて逃げられるとはゆめゆめ思わないことだ。
学校での生活は文化祭絡みのあれこれが時期柄発生しているぐらいで、特に変わりはない。
と、少なくとも自分ではそう思っているのだけれど、周りからすれば違うようだ。
「――それでウチに来たんだけど、本当に漫画だけ読みに来たって感じで何も無くてさー。あたしは小学生かって」
お昼休みの時間に西嶋さんの先週の休みにあった話を聞きながら、彼女の幼馴染くんの不甲斐なさに内心頷いていると。
「じゃ次は朝倉さんの番」
「はい?」
そっちも何か話してといった風に会話のボールを西嶋さんが投げてきた。
この場合における"何か"というのは所謂"恋バナ"に違いない。
人に聞かせるような面白いエピソードなど持ってないのに、こう期待の表情を向けられると困ってしまう。もう、長門さんまでニヤついちゃって。
わかったわ。大人しく空気を読んでデートの話をしてあげようじゃないの。
「彼の希望で土曜日は映画を観に行きました」
「あの漫画家の二人組が主人公のやつ?」
西嶋さんの問いに私は首を横に振る。
「洋画。殺し屋がドンパチする暴力的なの……正直デートには向いてませんね」
私はそんな感じの映画を見慣れてしまった――彼のせい――ので痛々しかったり猟奇的な描写に対する耐性があるけど、苦手な女子の方が圧倒的に多いだろう。
彼の映画趣味を知っている長門さんは苦笑で済んでいるが、西嶋さんや佐伯さんは軽く引いている貌だ。
そんな他の娘たちと対照的なのが阪中さんで。
「あ、キアヌが主演のやつでしょ。あたしも観に行った。犬さんが酷い目に合う場面は辛かったけど、アクションがしっかりしてて面白かったのね」
頷きながら映画の感想を語る彼女は見かけによらずハードな映画好きらしい。
アクションの素晴らしさは彼も評価してたところで、銃の持ち方が実戦的だとか何だとか興奮した様子で語っていたけど、聞く方としては「あなたほんとの実戦知ってんの?」と言いたくもなる。
どこか呆れた声で佐伯さんは。
「佳実の意見は参考にならないから置いておくとして、映画の後は?」
「別にいつも通りですよ。感想戦がてらお昼ご飯と、ガーデンズをぶらついたって感じで」
「
絶賛彼氏募集中という佐伯さんは悔しさ半分羨ましさ半分といったリアクション。
私からすれば黎くんと付き合う前から度々そんな流れで土曜日曜を過ごしてきた訳で本当にいつも通りというか、デートそのものに特別感は無い。
が、実態としては大きな変化があった。
手を繋いで歩くのはもちろん、ご飯やデザートの食べさせっこ、多少のスキンシップは外でするのに抵抗が無い状態。
彼と付き合ったらこんな感じでイチャイチャしたいという妄想の一つや二つしてこなかったわけじゃないが、それらを越えるおめでたカップルになっている気がする。
人様に惚気ようと思わないだけマシだ、冷やかされるのが嫌なのもあるけど。
「けど瑞穂が言う通り、リア充の余裕じゃないけど最近の朝倉さんはちょっと落ち着いた感じなのね」
佐伯さんと名前で呼び合う親友仲の阪中さんが不意にそんなことを言う。
まるで過去の私に落ち着きがなかったかのような物言いに首をかしげていると西嶋さんが。
「ありゃ、自覚してなかった系……?」
「? 自覚って?」
「……怒らないでね」
聞くところによると去年の私というのは日常の掃除当番や学校行事において彼と他の女子が絡んでいるところを見るや、途端に目つきは険しいものとなり、殺気じみた威圧感を放っていたのだという。
ううむ。精神的に不安定な時期だったという自覚はあるけど思いのほか荒れている風に見られてたらしい。
というわけで私から黎くんのことなど特に何も語ってなかったにも関わらず、彼のことを好きだというのは周囲にバレバレだったそうな。
こんな話をお昼に聞かされたものだから放課後、美術室の掃除を終えて部室へ向かうタイミングで黎くんに去年の私について聞いてみることに。
彼は鼻の下を平手でさすってから微妙な表情で。
「いやまあ、君も察してたと思うけど文芸部のゴタゴタがあるまでオレは君のこと避けてたし、何なら気にしないようにしてたからさ」
「へえ。つまり私のことなんて眼中になかったってわけ」
「意地悪なこと言わないでくれよ」
確かに。少し反省。
「だいたい君は先に手が出るタイプだろ。何回グーが飛んできたことか」
「あなたが変なこと言った時しかやってないでしょ」
「そうかなあ、恥ずかしいの誤魔化す時とかもやってるような気がするけど」
うぐ。
文芸部の出し物について
文科系クラブであれば展示系が基本線なため、無難なチョイスと言えるのだけど涼宮さんはちょっと納得いかない様子で。
「せっかくの合同文化祭だってのに盛り上がりに欠けるわね。バンドステージ参加の方がいいじゃない」
とブーブー言っていた。
バンドステージに出たいのであれば有志を募って参加してほしい。
「私がバンドなんてやれるわけないのよ。ギターもドラムも演奏できないしボーカルだって無理」
「オレは好きだけどな、涼子の歌」
下校中、帰りの坂道を下りながら彼はさらりとそう言った。
……何だコイツ。
知った風な顔をする男に指摘するように私は言葉を返す。
「あなたが私の歌を聞いたのって夏休みに行ったカラオケぐらいでしょ」
「いやあ、中学の合唱コンの時からいい歌声だと思ってたよ」
「女子のコーラスの中から聞き分けてたの? なんか気味悪い」
「気味悪いって……褒めてる人間に言うセリフかそれ」
彼のかわいい反応が見たくてわざと辛辣な言葉を選んでしまうのは私の悪い癖かもしれない。
あるいは歌声を褒められて気恥ずかしいという感情を顔に出したくなかった誤魔化しがゆえのセリフ。
なんて自己分析はともかく、素直に謝ろう。
「意外な話だったから驚いちゃって。ごめんなさい」
「べつに気にしてないけど、君の歌がいいってのはマジだから。なんならプロデュースしたい」
「何よそれ」
喜んでいいのかよくわからない。
私としては彼が"好き"と言ってくれるだけで充分なのだから。
その後、通学路の勾配が緩やかになってきた辺りでキョンくんと別れ、それから線路沿いの道を歩いてマンションに到着してエレベータの五階で長門さんとお別れ。
マンション廊下を少し歩き、鍵を開けてウチに帰ればそこからは二人の時間。
靴を脱いで玄関廊下に上がってから彼と向き合い、間を置かずにキス。
別にそうと決めたわけでもないのにお帰りのキスは行ってきますのキスと比べて、こう、大人な感じ。
最近では彼がエスカレートというかエロくなってきて、ナチュラルに手を私の腰に回してくるし、唇の密着もガッツリくるもんだから私も負けじと舌を突き出して彼の口に入れる。結果としてお互いの唾液を絡めるキスが映画のワンシーンみたいな長さで行われた。
こんな有様なので当然の生理現象として興奮状態に陥ってしまう。
身の火照りを解消するため帰宅早々一儀に及ぶ日もあるのだけれど、まだ火曜日ということもあり自重した。
だからといって家事に取り掛かれるメンタルでもないため休日昼間のようにリビングのソファでだらだらとテレビを見ている。
黎くんは明日の天気予報などに目もくれず私の頭を頬で撫でるようにさすりながら。
「あ~、やっぱモフるなら猫より涼子だわ。良すぐる」
などと意味不明なことを言う。
彼の中で猫のウェイトが高いのは知っているが、それにしても猫と私を比べるのはいかがなものか。
髪をいいようにされているのもあり、私は抗議の声を上げる。
「私が猫だったらきっとウザったいと思ってるわよ」
「いいや、涼子にゃんは構ってあげた方が喜ぶだろ? うりうり」
私の喉元に指を這わせる彼。
完全に猫と同じ扱いじゃない。
得意そうな感じが嫌だったので指を折り曲げた右手で左斜め後ろにある彼の額を叩いてやる。
「んおっ! いきなり何なのさ」
「"猫パンチ"よ。猫ならやって当然でしょう」
「人生で猫パンチ喰らったことなんか一度もないぞ」
「そう? 貴重な体験ができて良かったわね」
文句のつもりなのか、自分は猫に好かれているという旨をぶつぶつ述べる彼。
気付いた時にはうちの近所に生息してる野良ちゃんたちに懐かれていたようなので、猫から攻撃されたことがないという話も嘘ではなさそう。たまたまだと思うけど。
猫のかわいさに関しては私も認めるところだけど、個人的にはワンちゃんの方が魅力を感じる。特に毛の多いもこもこした品種が好きだ。
阪中さんに見せてもらった愛犬の写真を思い出しながら尚も継続する彼のモフりを受け流していると。
「なんかさ、親父の気持ちが分かった気がする」
不意にそんなことを言い出した。
語りながらも彼の手の動きは止まらない。
「ウチの親父はもういい歳だってのに何かと母さんが好きだってアピールしててね、後ろから抱き着いたりなんかちょくちょくあった」
私の父はそういう姿を見たことがないのでピンとこない部分もあるが、仲の良い夫婦だと何年経とうがデレデレしたりするものなのだろう。
「ずっと新婚気分が抜けてないだけかと思ってたけど、きっと親父は母さんに不安になってほしくないからそうしてるんだと思う」
「どういうこと?」
「ほら、よく言うだろ。長いこと一緒に暮らしてたら倦怠期とか……愛情が希薄になるだとか」
先のことを考えた時に、私としてもそのような不安が無いわけではない。
実際に破局や離婚とまで行かずとも、今と同じボルテージをいつまでも保てるか分からないし、彼に冷めてほしくもない。
そんな私を安心させるように彼は口を開く。
「だから、これからは親父を見習って君が好きだって伝わるように最大限のアピールをし続けるから」
「…………」
「……涼子?」
「そろそろ晩ご飯の準備しないと」
髪に乗っかっていた彼の頭と手をどかしてソファから立ち上がり、キッチンへ向かう私。
――なんか腹立つ。
付き合うまで何も言ってこなかったくせに、都合のいいことばかり言ってきて、急に手のひらを返されたみたいだ。
そもそも最初に本気になったのは私の方なのだ。あんな男に主導権を握られてなるものか。
新たな決意を胸に抱き、私はエプロンに腕を通した。
デレ与奪の権を他人に握らせるな!