俺がこの世界で生きることになり早四年弱。
色々あったような気もなかったような気もするがとにかく今となっては充実した毎日を送っている。充実しすぎていると言ってもいいくらいだ。
かつて繰り広げられた虚無感との闘いの日々は幕を閉じ、最近じゃ何かと感謝することが増えてきた。
「ほら、起きなさい」
その感謝の大元である幼馴染に揺り起こされ、身体を起こす。
寝ぼけ眼で辺りを見渡して再確認する。そうだ。俺は朝倉涼子と同棲生活を始めたのだ。
この部屋が年頃の女の子のそれであることを思い出し、ベッドから出る前に一言。
「あー……一、二分待ってくれないか」
「どうかした?」
「起きる前に布団のにおいを嗅いでおきたい」
「……はぁ」
もの凄い眼で見られたし、強制的にベッドから引っ張り出された。
結局、濃厚な朝倉汁が溶け込んだシーツを嗅ぐことは叶わなかったものの、本人のにおいを直で嗅がせてもらったので、まあ、良しとしておこう。
俺のトリップタイムから解放された涼子は呆れた様子で。
「言っとくけど、私以外にはやらないでよそれ。絶対捕まるから」
謎の心配をしてくれる。
流石に平日なのでストロベるのはここまでにして洗面所へ顔を洗いに行く。
鏡に映るこの男を哀れだと感じていた時期もあったが今や「笑えよ」なんて言わずとも笑顔を作れる。いい傾向だと思っておくよ。
洗顔を済ますと朝ご飯の時間。チンジャオロースは昨日で食べ尽したので朝のおかずは涼子特製の煮物である。
椎茸、人参、タケノコ、豚肉はもちろんのこと、俺の好物である高野豆腐を入れてあるのがポイント高い。
「朝から君の料理を食えるなんて最高だ」
「ありがと。でも朝だけじゃないわ」
もしかしなくても昼のお弁当は涼子が作ったやつか。
ということは朝昼晩三食完全に彼女の料理を食べることになる。胃袋を掴まれるってレベルじゃない。
「じゃあ最高の二乗ってことで」
「ふふっ、おだてても何も出ないわよ」
その笑顔を頂ければ充分さ。
朝食を終えると登校のため制服に着替える。当然ながら俺も涼子も自分の部屋で着替えを行う。
彼女と同棲するにあたってお互いのためにいくつかルールを決めたのだが、そのうちの一つがパーソナルエリアを尊重することだ。
散々涼子の部屋で愛し合っておいて部屋自体に今更聖域感はないが、円満な関係を続けていくためにも一人の時間を作るのは大事ということである。
それに朝から彼女の着替えなんて見てみろ。襲わずにいられる自信がないぞ俺は。
着替えを済ませ、学生鞄を片手に玄関を後に。
「ちょっといい?」
しようと靴を履くタイミングで涼子が声をかけてきた。
はて、忘れ物の類はないはずだが。
「その……」
「なんだい」
「……だから」
えらく歯切れの悪い様子の涼子。俺はちんぷんかんぷん。
やがて彼女は意を決したようにキリっとした眼光で、
「行ってきますのキスを、しましょう」
やけくそに言い放った。
まったく、完全に新婚気分じゃないか。
自分の顔が気持ち悪いくらいニヤついてきた自覚がある俺の返事を急かすように涼子はぐいっと詰め寄って来る。
「で、するの? しないの!?」
はい。もちろんしますとも。
彼女の方に身体を寄せ、軽く唇を合わせるようなキスをする。
数秒にも満たない刻が経過し、身体が離れお互いの顔を見合わす。
涼子はファーストキスの時でさえしてなかった嬉しいのか恥ずかしいのか分からないような表情だ。
「……やべえ。君の事どんどん好きになる」
「っ……じゃ行くわよ」
俺を押しのけ靴を履く涼子。
それから部屋を出てエレベータに乗るまでの間、俺と涼子の周囲にむず痒い空気が漂っていたのは言うまでもない。
と、普通のラブコメならなんとも言えない空気間のまま登校する主人公とヒロインの独白が続いていくのだろうが、これは人生だ。俺と涼子だけがキャストじゃない。
同じマンションに住む長門さんのお世話に708号室へ向かう幼馴染と別れ、俺はマンションの裏庭で野良猫たちと戯れている。
俺も彼女に付いて行けば良かったじゃないかって?
馬鹿言え、用も無いのに女子の家に上がり込もうとしたら涼子に折檻されてしまう。
借りた本の片付けをしに行った時は特殊な状況だっただけで女子の家にお邪魔するなど、この年であれば滅多なことでもないのだから。付き合う前から俺が涼子の家に少なからずお邪魔していたという事実は置いておいて。
「オレもお前たちみたいに自由気ままな生活を送りたいよ」
気がつけばしゃがむ俺を七、八匹ほどの野良猫が取り囲んでおり完全に猫まみれである。
かつてスマホの待ち受け画像だった茶トラくんはあぐら座りの俺の股に入って香箱を作っている。
カイトにハンターの器量を認められそうなくらいには動物に好かれやすいのが俺の数少ない自慢のひとつだが、この猫たちの中でも茶トラは特に俺になついている。かわいい奴だ。
一日中モフモフしてあげたいのに学生の立場がそれを許さない。今日も別れの時間が訪れる。長門さんと一緒に涼子がやってきたのだ。
脚にも肩にも猫を乗せる俺を見て涼子は。
「相変わらず凄い光景ね」
「うん……ここの子たちは大人しいけど、こんなに人になつくなんて」
「同じ猫仲間だと思われてるだけですよ」
長門さんに好き勝手吹き込んでいるではないか。
まあいい。名残惜しいが立ち去るべく猫を一匹づつどかして立ち上がる。
俺をじっと見つめてくる茶トラくん、どうか許してほしい。次はおやつにちゅーるを持ってきてあげるから。
ブレザーに付いた猫毛を涼子に払ってもらい、裏庭を後にし登校を開始。
いつも通りの一日がこうして始まっていくわけだが、いつもと違って俺が既に起きていることを長門さんは当然疑問に思う訳で。
「朝倉さん、今日は先に彼を起こしに行ったの?」
ちらりと涼子の顔を見る。微妙そうに眼を細めた。
長門さんにまだ説明してなかったらしい。
あなたが説明しなさいよ、といった感じで涼子はガンを飛ばしてくるが質問された君が答えるべきだと思うので肩を竦めてお断りのサインを送り返す。
いっそう睨みはきつくなったが、長門さんを無視し続けるわけにもいかないとやがて諦念した様子になる。
「実はですね長門さん……その、彼と一緒に暮らすことになりまして」
「ええっ!?」
そりゃ驚くよな。
同棲に関して、両親の了解を得てやっているので問題は無いが言い触らすようなことでもないので胸の奥に仕舞っておいてほしい旨を長門さんに伝えた。
最早驚くこともないといった疲れたような感心したような溜息を吐いてから長門さんは。
「そっかあ。去年はどうなっちゃうか心配だったけど、二人とも長い付き合いだもんね」
どこか羨ましそうに言う。
それに対し、今日びラブコメで幼馴染ヒロインが優勝する作品なんてありゃしないぞ、などとうっとおしいオタクみたいな台詞は吐かずに黙っておく。言ったら涼子にど突かれそうだし。
宇宙人の長門さんに告白されたキョンが猛烈に長門さんを意識しているということを知っている身としては多少もどかしさを感じる。
長門さんの方はともかく、あいつは何かしらアクションを起こしてやるべきだと思うのだが。
俺は俺。行く道一つのただ一つだ。おせっかい焼きの幼馴染と違って恋愛サポーターを務めるほどの気概は無いわけで、憎たらしい北高通学路の坂道を相手取るのに手一杯である。
で、なんのかんのしてるうちに学校に到着し、いつもの学生生活へ身を落としていく。
土日にあったイベントの数々が嘘みたいにフラットな時間がここでは流れる。俺がどう心を入れ替えたとしても授業に面白味を見出すことは難しい。
俺が授業中の居眠りをやめたのは率直に言って平常点の改善が目的であり、さらさらまともにやるつもりは無い。
授業中における俺の脳内リソースの八割強は涼子のことを何かしら考えており、残りの力で真面目にやってる風を装ってるだけでしかない。
そんな頭朝倉な状態がおびき寄せたような出来事が起きたのが昼休みのお食事時である。
「先週のバキ読んだか?」
集まるなりこう言い出したのは谷口。
ここ数年の展開が微妙なのでまともに読んでない俺からするとロロッロが終わったことの方が重要だ。
相撲の描写がどうこういう谷口の講釈を聞き流しながら俺は鞄から弁当を取り出す。
箸を取り、愛妻弁当にドキドキしつつ蓋を開ける。二段箱の一段目はおかずたち。煮物だとかミートボールだとか、案外普通で拍子抜けした。
となると二段目はごま塩ご飯だろうと考えた俺がチョコラテのように甘かった。
「は……?」
箱一面に詰められた黄色い生地に赤いケチャップがかけられたそれはオムライスに違いないのだが、ケチャップで『れーくん♡』と書かれているのは一体何事か。てかスプーンはどこだ。入れ忘れたのか。別に箸でも喰えるけど。
なんかこれを他人に見られるのは非常にマズいような気がしたので即座に一段目を積み直してオムライスを隠す。
あまりにも挙動不審な俺を見て国木田は。
「どうかしたの?」
どうもこうも、幼馴染がマジの愛妻弁当作って来てビビってるとこなんだが。
俺はクラピカと対峙したウヴォ―ギンの顔を思い出しながら、
「別に何も」
と言い、興味を失った国木田は谷口の与太話に耳を傾け事なきを得た。
だがしかしいつまでも二段目を封印しておくわけにはいかない。炭水化物食べたいし、涼子の料理を残すわけにはいかないし、困った。
ケチャップ文字を光の速さでぐちゃぐちゃにして誤魔化すというのが最有力候補なのだろうが、せっかくの演出を無下にするのも気が引けてしまう。だって想像してみろ、朝早く起きた涼子がこのオムライスを用意している絵面を。ウキウキでメイド喫茶みたいな文字を書く涼子を。かわいいじゃないか。
冷静に考えてみると別に隠す必要ないんじゃないか。俺が奇異の眼で見られるだけで済む問題だろうし、某軍事国家の大統領は自分の城に裏口から入る理由などないと言う。
そうと決まれば早速俺は切り出すことにした。
「ちょっといいか」
俺に谷口国木田キョンの注目が集まる。
「実はこの弁当、涼子が作ってくれたものなんだ……だからこれを見ても変に思わないでほしい」
再び一段目を除けて二段目の封印を解く俺。
そしてテーブルの中央にオムライスを突き出すと、野郎三人は一様に冷めた眼で俺を見る。
キョンはやれやれ、といった感じで肩を落としてから。
「朝倉がお前にぞっこんなのはわかったから、次からは一々報告しなくていいぞ」
冷やかしてこないなんて。
いい友人を持ったな、俺。
「うるせえ。お前も谷口も惚気はウザがられるって自覚を持て」
この発言に食いついたのは谷口。
彼も彼でさもありなんとでも言っておけばいいものを、心外だと言わんばかりに。
「おいキョン、俺をこいつと一緒にすんのはどうかと思うぜ」
「いや完全に同類だと思うが」
「あのなぁ」
有り難いことにあっちに飛び火したようだ。
これで落ち着いてオムライスにありつけるがその前にパシャリとスマホで写真を撮っておく。
俺が涼子に対し唯一秘密にし続けているのが自分のパソコン内にあるASAKURAフォルダの存在だ。
元々はスマホの画像を整理するために用意したフォルダだが、いつの頃からか涼子を被写体にした写真が増えてきたため別枠で残すことにした。今となっては完全に自己満足用だし、彼女と距離を置いてた期間中に中身を覗いてはダウナーになってたのは自分でもキモかったと思う。
で、帰宅後。
愛のこもったオムライス画像を宝箱に入れてちょっとした自己満足に浸りながらリビングで夕方のワイドショーを見ていると。
「ねえ黎くん」
やけに上機嫌なニコニコした顔で涼子が俺に呼びかける。
何かあったと考えるのが自然だが、その中でも最悪の部類だった。
「あなた、私に隠してることあるでしょ」
「あ――」
俺は涼子の言葉を聞いた僅か0.1秒足らずの間にこの先の展開を予想し、そして戦慄した。
それは、俺が彼女と過ごした四年弱に渡る経験から全てのパターンを想定した上で弾き出した結論だった。
――ASAKURAフォルダがバレている。
いいやまだ敗北を認めるのは早い、彼女は鎌をかけるのだって得意だ。ここはシラを切らせてもらう。
「まさか。いったい何を隠してるって言うんだい」
「白状するなら今の内よ?」
ハッタリに決まっている。
だが違った。
「悪気は無かったんだけど、私の中に住んでる宇宙人さんがあなたのパソコンに面白いものがあるって言うから見させてもらったわ」
「……パスワードは?」
「あら、いつから"ryoukolove"にしたの?」
もう何もかもバレているではないか。
無条件降伏あるのみ、土下座の平謝りだ。
「ああいうフォルダがあること自体はそこまで驚かなかったし、むしろ嬉しいくらいだったけど、私が知らない間に撮ってたっぽいのもあったし、何よりこれは立派な隠し事よね?」
「すいませんどうかお許しを」
「そうねえ、約束を破ったのは事実なんだから罰は必要よね」
結論から言うとそれは罰とは名ばかりの女教師コス――まだ家にあったのか――での生徒指導プレイであったのだが、猫吸いの時といいコスプレで愛し合うのは変態指数が高まっている気がしてならない。
今回の件から俺が得るべき教訓は、パスワードはパーソナル情報から推測されにくい強固なものに設定するということと、そろそろ大きいベッドを買った方が良いということだ。