鶴屋さんの別荘は海まで道路を歩いて2、3分と言う驚異的な立地で、そのうえ海水浴場が実質的なプライベートビーチとなっている。よって海の家などという公共施設は存在せず、更衣は各自の部屋で行われた。
男子と女子じゃ時間のかかり方が違うので着替え終わった順でビーチに来ている。つまり今いるのは俺とキョンと古泉だけ。海に来ててもこれじゃ手持無沙汰感が凄い。
「はー、すっごい綺麗な水だ」
浅瀬を眺めながらぼけーっとした顔でキョンが言ってる。
それが声に出てたのか、彼は俺に不満があるようにこちらを向いて。
「誰の顔がぼけーっとしてるだと。てかお前、そのイキったグラサンはなんだ」
「オークリーですね。スポーツ選手なども愛用している海外ブランドです」
素晴らしい解説だが古泉よ、キョンは俺のサングラスがなんなのかって意味じゃなく何お前グラサンなんてかけてんだって意味で言ったんだと思うぞ。
後者についての答えはシンプルだ。
「男が上がるだろう?」
微妙な反応だった。
俺のサングラスはさておき、日本海に面したこの海岸線は絵に描いたような景色だ。俺たち以外に人がいないのもあって非日常感が強い。
古泉が親戚のおじさんに孤島を持ってる人がいるだとか殺人事件を模したイベントを開催しただとかどこかで聞き覚えのあるような話をしていると。
「お待たせしたにょろ~」
「あたしが来たわ!」
まずは鶴屋さんと涼宮がビーチに登場した。
鶴屋さんはセレブリティ感のある四角いミラーレンズのサングラスに胸元が大胆なVネックの水着ワンピースが目を引く。着やせするタイプなのか、こうして水着姿を見ると立派なバストをお持ちになられているということがわかる。国木田、残念だったな。
一方、涼宮は虹色のラインが入った黒のトライアングルビキニである。谷口に身体だけは100点と言われるだけあって凄まじいプロポーション、素直に"良い"と思ってしまった自分が悔しい。
「あんたら何ぼーっと突っ立ってんの。夏は待ったなしよ」
どいたどいた、と俺たち男子の間を通り過ぎると涼宮は遊泳前のストレッチを早速開始する。
潮の満ち引きこそすれど海は逃げないというのにどれだけエネルギーを持て余してんだか。
で、お次は涼子がやって来たのだが。
「どうかしら?」
どうもこうもなかった。
思い起こせば涼子の水着姿を見るのはこれが初めてで、付き合いたてというのを抜きにしても期待感が多分に膨らんでいたのだが、想像以上の破壊力に思わずサングラスを外して肉眼で上から下、下から上と舐めるように見てしまう。
素人は胸に眼を奪われがちだが、やはり涼子の真の魅力はヒップから脚にかけてのボディラインだ。
筋肉と脂肪の黄金比がほどよい厚みを演出しており、絞まったウエストとの対比がセクシーでグラマーな存在へと彼女を昇華させている。
また水着のチョイスも大変良い。イエローのビキニが涼子の白い肌を引き立てているのだ。
暫し、言葉を失っていた俺に涼子はずいっと寄ってきて。
「……どうって聞いてるんだけど」
今なら仙水の気持ちがわかる。
一言、自然と口から漏れる。
「すばらしい」
絶世の美女がそこにいた。
図らずも世辞などでない"ガチ"の反応を見せてしまった俺を鶴屋さんが煽るように肘でぐいぐい押してくる。
「おんやあトッポイ少年、いつもの余裕はどこ行っちゃったのかなっ?」
偉大なる先輩といえどこの時ばかりは相手してられなかった。
感想を求めてきた涼子はというと。
「そ、そう。良かったわ」
何やら満更でもない様子だ。後で絶対写真撮ろう。
こんなやりとりをしてる内に長門さんも来ていて――キョンと長門さんも似た感じでやりとりしていた。なんなんだろうな――後は朝比奈さんとキョンの妹氏を待つのみとなった。
そして満を持して登場した朝比奈さんは、うん、圧倒的だった。何がって説明不要だよな。
ようやっと全員揃ったのだから水泳大会だ、とはならず各々自由に遊ぶ形となった。
とはいえまずは海に入るというのが基本であり、ほぼ全員がそうした。俺でさえクロックスを砂浜に置いて浅瀬に立ってるのだ。
俺は晴れだろうが雨だろうが雪だろうがオールウェイズ猫のようにコタツで丸くなるタイプだと自覚しているが、今この瞬間ばかりは夏の体験を存分に享受するさ。むしろビーチパラソルの下に敷いたゴザでくつろぐキョンと古泉の2人の方がおかしいと言える。そりゃ女子が水遊びしてる様は充分すぎる眼の保養となろう、でも間近で見た方が絶対良いだろ。
そんな事を考えながら鶴屋さんと涼宮に水責めされる朝比奈さんを眺めている俺の顔面に横からドーンと水がかけられる。
「ぅおっ!?」
「あら、危機を察知できなかったようだけど何に見とれてたのかしらね?」
奇襲だった。
少なからず不純さが宿っていた俺の心を修正してやると言わんばかりに矢継ぎ早の手捌きで俺に水をかけてくる涼子。
よろしい、ならば戦争だ。
どちらかの根負け以外に決着の付けようがない水かけバトルがここに開幕した。
上体を逸らして涼子の攻撃を回避する。
「っ、この! 避けるんじゃないわよ!」
「動きが単調すぎるぜ!」
避けきれなくともちょっとやそっとの水には怯まず反撃を浴びせていく。
でりゃあっ。
「きゃっ!? ……やってくれたわね」
顔に喰らってしまった涼子のお返しは凄まじく、海面を平手で薙ぎ払い衝撃波のように飛沫をかけてくる。まるで散弾銃だ。
そんな照りつける陽光よりもアツい海上闘争は涼宮がスイカ割りをやるぞとこちらに声をかけてくるまで続けられた。
まだ泳いですらいないというのに俺と涼子は髪までべちゃべちゃで、これが雪合戦だったらきっとお互いの身体はボロボロになっていることだろう。
のそのそと砂浜へ戻りながら疑問に思ったのか彼女は俺に問うてきた。
「ねえ」
「どうした?」
「私たち、なんで戦ってたのかしら」
「……あー」
理由はともかく仕掛けてきたのは君なんだけどな。
まあ、余計なこと言わずにはぐらかすとしよう。
「さあな……スイカ割りが終わったらこれの決着を水泳でつけるのはどうだ?」
「乗ったわ。私に挑んだことを後悔させてあげる」
だから先に挑んできたのは君の方だって。
得意気な笑みを浮かべる涼子を鼻で笑ってやりたい気分になった。
まん丸の大玉スイカを相手に朝比奈さん、涼子、そして涼宮の女子3人がスイカ割りに挑戦したが誰1人として成功することはなく、結局ナタみたいな包丁で切り分けて食べることに。
毎年なんだかんだスイカを口にする機会はあれど海で食べるのは今日が初だ。これもひとつの風流だろうか。何の変哲もない普通のスイカのはずが、特別な味に感じられた。
おやつを済ませた後は宣言通り涼子との水泳対決を行う。
アキレス腱のストレッチを念入りに行っている涼子に対して一言。
「先に言っとくがオレは速いぞ」
「へえ、それは凄い。そこまで言うなら負けたら罰ゲームね」
「構わんよ。万が一にも有り得んと思うけど」
「はいはい」
浅瀬から遠くへどんどん行くのは危険なため、足がギリギリ付くところからビ―チ端にある岩場までをコースとして行うことで合意。50mは無いだろうが、それなりの距離である。
こちらも入念な柔軟を済ませ位置につく。そしてゴーグルを装着。
野次馬根性からかスターター役は鶴屋さんが務めてくださる。ライフガードよろしく首元にホイッスルを引っ提げており、あれで合図するんだと。
準備が整い、涼子と互いに顔を合わせる。やる気充分だ。
「涼子っち! トッポイ少年! ふたりとも用意はいいかなっ!? さん、にー、いちっ」
ピーッと100デシベルはあろうかという甲高いホイッスルの音とともに顔を海面に付けて泳ぎの体勢を作る。
当たり前のことだが海での水泳はプールと様々な点において異なる。競争する上で特に大きいのは壁蹴りスタートができない点と少なからず泳ぎに波の影響を受ける点だろうか。
かくいう俺も海の泳ぎに慣れているというわけじゃ全くないが遥か昔に通っていた水泳教室の経験を思い出しながら無駄のない動作を意識する。横の幼馴染を気にする余裕などなかった。
バチャバチャと一心不乱にクロールを続け、バタ足で推進していく。息継ぎのペースを一定に保つのも忘れない。
まさしく、完璧な泳ぎだった。
「うっしゃオラァ!」
「……ぐっ」
岩場に上がり、勝利のガッツポーズを決める俺と力なくうなだれる涼子。
勝負事で彼女に完勝したのは久しぶりな気がする。卓球のアレは自分でも反則だったと思うし。
涼子はたいそう悔しそうに。
「体育2の男に負けるだなんて……」
なんとでも呼ぶがいい。俺の気分が良いことには変わりないのだから。
顔を上げた涼子は勝ち誇る俺をキッと睨みつけて。
「次は潜水対決で勝負よ!」
絶対にリベンジを果たしてやるという気迫を見せた。
かくして再びゴーグルを装着し、海に入る。
特段肺活量に自信があるわけでもないため単なる我慢勝負になるだろうと思っていたが、同時に何か仕掛けてくるかもしれないと想定した。
何にせよ安全第一を心がけねばと思いつつ、お互い大きく息を吸い込んでから全身を海中に潜らせる。
本当に素敵な海だ。そして向かいの彼女も。
ただ、雑念を捨てなければ勝てる勝負も勝てないため無心になるよう頭の回転を放棄した。
そんな俺の状態を隙と見たのか、涼子は脚を動かしてこちらへ寄ってくる。
やはり仕掛けてきたなと身構える俺だが、彼女はパンチやキックを仕掛けるでもなくただ間近まで接近してくるだけ。対処のしようにもしようがない。
「……」
「……」
数センチとないような距離感で海中にいる俺と涼子。
それは時間にして5秒に満たなかった。
なぜなら異様な雰囲気に呑まれた俺が海面へ逃れようとし、遂には顔を外へ出してしまったからだ。
俺の完全敗北で、そこに文句はない。
だが今のはなんだろう。
自分なりのロジカルシンキングを試みたがもっともらしい答えは得られず、ならば浮上した彼女に聞いてみることにしよう。
「アレはなんだ? オレにプレッシャーを与えたかったのか? だとしたらお見事、大成功だ」
「はぁ…………やっぱバカね」
何を失敬な、とゴーグルの向こうに隠れる彼女の瞳をじっと睨み込む。
それに腹を立てたのか涼子は俺の額にコン、とヘッドバットをかますと無言で離れていき、そのまま海から上がり、砂でお山を作っているキョンの妹氏の横に座り込んで自分も砂遊びを始め出した。
真っ白な画用紙の上に落として滲んだ絵の具のような痛みを眉間に感じた俺は。
「なんなんだよ」
と海の中で倦怠感を混じらせ呟いた。
砂浜に戻った俺は道路に続く石段の上にしゃがみ込んで小休止をしていた。
他に休憩中なのは同じく石段に腰かけ相変わらず女子を目で追っかけるだけのキョンと、ゴザの上で携帯ゲームに興じている長門さん。
呆れる2人だ。せっかくだし何かして遊べばいいのに。
とか思っていると不意にキョンがこちらを向いて話しかけてきた。
「なあ」
「なんだ」
「……お前と朝倉、付き合ってるのか?」
まあ、見ての通りだ。
キョンは納得した様子で。
「そうだよな。いつからだ? やっぱ期末の前からか?」
「いや、一昨日」
「……冗談だよな?」
正直に答えてあげたというのにその顔は無いだろ。
ちょっとむかっ腹が立つので冷やかすように聞き返す。
「お前さん、もしかして涼子を狙ってたのか?」
「んな訳あるか。シンプルに気になっただけだ」
ミーハーな奴め。
話はそれだけかと思ったが、どうやら違うらしくぽつぽつと語り出した。
「この前4人で古本市に行ったよな」
「ああ」
「あの翌日にな、長門と話したんだ……元に戻る前の、あの長門と」
十数メートル離れた先の長門さんを見ながら言うキョン。
まさか彼女も自分が対有機生命体コンタクト用ほにゃららだとキョンに打ち明けたのだろうか。
落ち着き払って彼の言葉を待つ。
「ほんとに偶然のタイミングというか、借りてた本ちゃんと返せよって注意するためだけに電話かけてみたんだが……なんて言われたと思う?」
ばつが悪そうな感じを誤魔化すように彼は鼻で笑ってから。
「俺が好きだって。告白された。で、慌てて会いに行ったら元通り。別人だった時のことは綺麗さっぱり忘れちまってた」
「そうか」
なるほど。彼も彼で一時期の俺みたいに宇宙人ガールの言葉に惑わされている、と。
だからぼけーっとしてたんだな。
「そんなにぼけーっとしてるか俺」
「こんなとこに来てまでそうしてるんだから重症に見えるが」
「どうすりゃいいと思う……?」
「知るか。自分で考えろよ」
「それが上手くいってないからお前に相談してんだ」
相談のつもりだったのかよ。
と言われてもな。俺のケースなんて全く参考にならないし、つーかしちゃいけないし。キョンと俺とじゃ色々と前提が違うし。
はてなんと答えてやろうかと思案していると、いつの間にやら俺たちの前に現れた涼子が。
「ねえキョン君。せっかく海に来ているというのにあなたずっと座り込んでるだけよね」
ビシッと岩場の方を指差し。
「ボサッとしてないで長門さんの遊び相手になってあげなさい」
なんだか凄みのある笑顔でそう言った。
その長門さんは岩場の近くに落ちているボールを拾い上げていた。自分でゲームを中断したとは思えないので涼子の差し金だろう。
有無を言わせぬ圧力に屈したキョンは言われるがまま立ち上がって長門さんを追うように岩場へ向かって行った。
「いったいなんのつもりだい」
キョンと入れ替わりで石段に座る涼子に問う。
彼女は綺麗な顔をほころばせ。
「さしずめ恋のキューピッドってやつかしら。2人とも、その気はあるのに何も動こうとしないんだから」
「そう言う君だって、オレに告白するまでは好意なんて匂わせてこなかったじゃあないか」
「は?」
信じられないといった様子でこっちを見てくる涼子。
俺の発言は的外れだと指摘するべくイラっとした様子で彼女は言う。
「あのねえ、誰が好きでもない人と休みの日にふたりきりで遊びに行くんですか? 誰が好きでもない人に毎年手作りのチョコを渡すんですか? 誰が好きでもない人を家に上げて晩ご飯食べさせるんですか? 誰が――」
「ああ、わかったって! 幼馴染だからって理由じゃあ説明つかないよそれ!」
涼子の眼からハイライトが失せ、ホラー映画の悪霊かってぐらい恐ろしい存在に変貌しかけてたため慌ててストップをかける。
なんというか昔の俺は彼女そのものに対してもそうだったが、それと同じくらい幼馴染という関係に甘えていたのだ。
素面に戻った涼子は、お前本当にわかってるのかと言いたげな感じで。
「……というかあなた忘れてるかもしれないけれど、最初にふたりで遊びに行った時ってあなたの方から誘ってきたのよ?」
うーん。そうだったっけ。
いや、まさか"俺"が誘ったわけじゃないだろう。小学生坊主だった頃の話じゃないの。
俺の顔を見てぴんと来てないことを察した彼女はいつのことだか教えてくれた。
「はっきり覚えてるわ。あれは中学1年の10月末、映画のチケットが余ってるから明日行かないかって」
言われてようやく薄らぼんやりと思い出せた。
もっとも当時の俺に余分なチケットの有効活用以外に他意は無かったし、君もそれを理解していたはずだ。
「ええ。まさかあなたが建前を用意してまで私をデートに誘っただなんて思っちゃいないわ」
でもね、と涼子は言葉を足して。
「ただ親同士の付き合いの延長線上で接してきたあなたを……個人として意識するようになったのは、あの日からなの」
感慨深い様子でそう告げた。
あんまり感傷的になるのは好きじゃないが、俺にとっては何でもない1日でも彼女にとっては大きな意味のある1日だったのだろう。そして期せずしてフラグを立てたのは俺の方らしい。
色々と思いがけない話を聞いたためか居ても立っても居られない気分になってきた。よし。
石段に預けてた腰を上げて涼子に言う。
「また競争だ。今度は平泳ぎ縛りでやろう」
「……そうね。1対1のままじゃ終われないわよね」
同意するように立ち上がり、んーっと伸びをする涼子。
さっきの話を反芻すると、右往左往してきただけの俺の人生にも意味があったんだと思えたがそれを口に出すほど恥ずかしいことはない。
けれども、彼女と手を繋いで海岸へ向かうのはこれっぽっちも恥ずかしくない。そんな夏だった。