机上にて描く餅(短編集)   作:鳥語

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独り手に

 

 

 あなたはそれを覚えていない。

 あなたはそれを忘れました。

 あなたはそれを知りません。

 

 いらないものだと、もう必要のないものだと。

 なくても大丈夫、なくなってしまってもいいものだと。

 そうしました。

 そういうことになりました。

 

 だから、『初めまして』です。

 

 初めから、『やり直し』です。

 

____________________________________

 

 

 

 風が吹き抜けていく。

 葉々の欠片が散り混じり、花々がまき散らした塵のような粉末がくるくると空を舞う。

 

「……」

 

 それらは普通には見えないもの。

 目を凝らしても、捉えることはできないはずのもの。

 

 けれど――

 

「……おっと」

 

 私には見えるのだ。

 だから今も、その瞳に入りそうになった花粉を、ぱたりと瞼を下げることで防ぐことができている。

 

「そろそろ、春か」

 

 凝らした目。

 そこに捉えられたのは、春の芽吹きと冬の去り際。

 脆く乾いた木肌が剥がれ、その奥から現れた新緑が色の花を咲かせていく――その片鱗。

 

 透き通っていた空気が命をはらみ、雑多と溢れた細々が山林へと降り注いでいくのだ。

 それは一つの終わりであり一つの始まり。

 季節という流れの、一区切り。

 

「……ふわあぅ」

 

 温かくなってきた日差しに思わず欠伸がでてしまうほどの、微睡みの深い風。

 それにこみ上げた涙を押し込めるように両目を瞑る。

 

「――いかんいかん、まだ仕事中だ」

 少し疲れがあるというところもあるのだろう。

 ぐにぐにと、眼球を指で押し込むようにして揉み解す。

 いくら『千里先まで見通す程度』の能力を持つ私でも、あまりに酷使しすぎては流石に眼も曇る。休み休みと、休憩を取りながら。

 

「さて、と」

 それから、遠くへと凝らす。

 見えるのは、遥か先。

私がいる山の中腹から伸びる道の、その入り口から天辺までの全てをぐるりと見通して。

 

「異常なし」

 

 そう呟いてから、順繰りにと視界を回す。

 登りやすい場所、入り込みやすい位置、進みやすい経路――それらをじっくりと確認しながら、その季節巡りと洒落込む。

 花の色づき。虫の活発さ。

 緑の濃淡と草木の入れ替わり。

 全てを収めて――ほうっと息をつく。

 

 仕事と趣味の、その両立として楽しき見物を。

 

「ああ、にとりの奴か」

 

 ふと目に入った川の縁で、木盤を打つ姿。

 知り合いの天狗の、将棋を指す姿だ。

音こそ聞こえはしないが……随分と盛り上がっている局面なのだろう。大げさに片手を降りあげて、桂馬の駒が勢いよく振り降ろされて――ぱちりと、きっと小気味の良い響き。

 それが鳴って、ふふんと笑みが浮かぶ――けれど、すぐさま歩の餌食。

成り上がられて王手となって、「ひゅい!」なんて叫んでももう遅い。

完全に詰んでしまっている。

 

――相変わらず……。

 

 攻めに夢中になってしまって守りを忘れるやつだ。

 その情けない姿に、今度また私が揉んでやろうかなんて、そんな悪戯心もこみ上げる。

 思わずふっと笑んでしまうような、そんな光景だ。

 

それが、普段から見慣れた私の景色。

 そこから逸らして、また違う場所へ。

 眺める景色を、ぱちりぱちりと切り替えて。

 

「……」

 

 もっと遠くまではっきりと。

 そう意識して目を凝らせば、本当にそれを視界に収めることができる。

 それは他の新聞記者を担う天狗が持っているようなカメラと同じ。遠近の距離を調節し、焦点が合うように意識を合わせ、見定めてから……それを見ようとする、それだけの行為。

 目を凝らせば、それだけ遠く。

 じっと見つめていれば、それだけはっきりと。

 そうやって辺りを見回していけば、この山のほとんどを確認することができる。

 そうすればそうするだけ目は疲れるし、あまりに遠くに意識を向けるあまり、己の近場の方がおろそかになってしまうなんて難点はあるものの、それは私の仕事には非常に都合がいい――いや、だからこそ、私はこのお役目についているのだ。

 

――見通して、見透かして……逃さぬように。

 

山の全体をすぐさまに把握できるわけではない。

見えているからといって、視えているとも限らない。

いくらだって、見過ごしてしまうという可能性はある。

 だから、その点を常に意識して――丁寧にそれを続ける。

 

 それが、私の仕事。

 

「異常なし」

 

 再び呟きながら、また別の方向へ。

 横切った鴉にも、何かおかしな様子がないかを気にしながら、逃さぬように。

 細かに眼を凝らせば、その分気は使う。精神的に身体的にも疲労する。

 そんな面倒くさい作業で、皆が嫌うものでもあるけれど――

 

――それでも、これが私の仕事だ。

 

 だから、手を抜くわけにはいかない。

 

「……異常なし」

 ぐっと眉間に力を込めて、目を細める。

 異常なし、異常なしと、地道に可能性を潰していく。

 

 それが私の日課なのだ。

 

――……。

 

 生真面目過ぎる。

 そんな私を、確かあの放蕩な鴉天狗はそう称していた。

 お堅く小さくまとまって、細かなことばかりに目を向けてばかりのつまらない奴。

 一緒にいては疲れる、面倒くさい。何のネタにもならない。

 

 だから、嫌いだと。

 

――……なら、お前は軽すぎる。

 

 私がその場にいたのなら、きっと言い返しただろう。

 私よりもずっと長く生き、この天狗の世界(社会)の中で、その規範と結束の大切さを身に染みさせて生きてきただろうに。

 まったくといってもいいほどに、その重みを感じていない――感じさせない、自由すぎる天狗。

 新聞作りにネタ探し……それらだけならば、他の天狗たちも行っている。そのために山中を飛び回り、天狗仲間から話題を仕入れ、皆が知りたいだろう所を探ろうとする。それはそれで、面倒な相手だ。

 けれど、文々。新聞(あれ)はそれとも少し違っている。

 天狗の縄張りだけでなく、人の領域や他の妖怪の住処まで、そんな場所には誰も興味がないだろう場にまで、所構わず飛び回り、話を集める。雑多な妖怪、神々、人間……果ては妖精までもと口を利いて、私たち(天狗)には関係のない情報までも拾って、まったくといってもいいほど人気のない新聞を。

 そんなおかしな記者。妖怪の山をはみ出して、気ままに飛ぶ烏。

 だから、苦手で――気に障る。

 

――とことん、合わないのだろうな。

 

 正反対。

 だからこそ、互いに苦手意識をもつ。

 近寄りたくない、面倒な相手だと認識する。

 

「まったく……」 

 

 こういう性格だからこそ、私はこの任を担っているというのに。

 

――それに……。

 

 私は好きなのだ。

 こうやって山全体を……この幻想郷の風景をじっくりと眺めて、そこにある動物たちの営みや季節の花鳥へと目を向けるのだ。

 そのなんともいえない優美な光景。目を奪われる世界の変化。

 何度訪れようとも、飽きぬ万象に。

 

「――ん?」

 

 染み入る憧憬。

 ただ、そんなものを眺めていると、時折妙なものを見ることがある。

 今まで見たことない。よくわからない。理解できない。

 そんなもの。

 

 見え過ぎる――そんな私だからこそ、余計に出くわすこともあるのだ、

 どんなに小さなもので、些細な小事でも……見えてしまうのだから仕方がない。

見逃すわけにはいかないのが私の役割だ。

 見えてしまう。

 見えないような小さな粒も、それを認識できてしまうならついと身体は動いてしまうもの。

避けようと反射して。

(さが)としてついついと。

 そんなものを見つけてしまうこともある。

 

 だから、これもそういうものだろう。

 

 

「おや、見つかっちゃったか」

 

 それは見えていなかった。

 どこにもいないはずだった。

 

 なのに、突然そこにいた。

 

「いい目をしてるね。そこの天狗」

 

 

 二本の角が、ふわふわと。

 

 

 

_________

 

 

 昔は、それがあったのだという。

 社に祀られ、寺に飾られ、広場に開帳される。

 秘仏として、秘宝として、霊験あらたかなものとして縁起良く語られる。

 こんなに凄いものが、こんなに恐ろしいものが――こんな幻想が、ここにはある。

それは素晴らしきもの、語られるべき逸話を持つもの。

我らはその縁起を継ぐもの、その加護を授けるもの。

 挙って競って訪れよ。祈り捧げ奉れ。

 そうやって、財布も心も軽くなる。

 そんな語りが人の中に語られていた。人を集めて、交わされていた。

 集めるために、創り上げられていた――まるで、私たち(妖怪)と同じように。

 

 嘘も本当も、入り混じり。

そこにはそのままの幻想が。

 

 

 

_________

 

 

 鬼。

 かつての山の頂点であり、我々の上司であった……未だに頭の上がらぬ相手。地中奥深くに移り住み、そのままこの地上から忘れ去られてしまったはずの存在。

 人拐いの主犯。畏しき存在(もの)。怪異の代名詞。

 それ()が――。

 

「ばれてないつもりだったんだけどねぇ……まあ、少し油断しちゃったかな」 

 

 そこにいた。

 目の前に――すぐ、手の届く場所、私をすぐにでも握りつぶせてしまう場所で笑って、そこにいた。

 

――……。

 

 紫の瓢。小さき身体。赤く染まった頬。

 天にかぐわす酒香混じりの疎の姿。

 そこに浮かぶのは、一つの名――強大で巨大な、決して届かないもの。

 

「――失礼しました」

 

 驚きの音を何とかと呑み下し、直立不動に姿勢を正す。

 ぐいと頭を下げて、地面へと視界を向けて――震えを殺して絞り出す。

 

「伊吹殿と、お見受けします」

 声は僅かに上擦ってから――すっと落ち着いた。

 

 山の四天王。

 かつてのこの場の、頂点から五本の指に入っていたのだという存在。

 そんな規格外を前に。

 

「私は山の巡回を担っている白狼天狗の……」

「いいよ、そんな堅苦しいのは」

 

 萎縮した私を見下ろして、鬼は片手を振った。

 そして中空に浮かんだままだったものから、ふっと力を抜いて、すとんと私の前へと飛び降りた。

 それから、また片手を上げて

 

「私は、ちょっとここで酒を呑んでるだけだからさ」

 

 かちゃかちゃと鎖が揺れた。

 片手に持った喉焼く酒がかっ喰らい、もう片手の掌には巨大な岩を萃めて(・・・・)とって――。

 

天狗(・・)は相変わらず、へこへこと頭を下げるのが好きだねぇ」

 

 ふらりふらりと揺れながら、どしんとそこに下ろす。

 自らの身体よりも二回り以上は大きいだろうそれを背もたれに、腰を下ろして瓢を逆さに。

 ぷはーと吐いて、朱く染まる。

 

――……。

 

 ただの酒呑み。

 みてくれだけならそんなもの。

 気が抜けてしまう堂の入り方。

 

「……は、はあ、そうなんですか」

 情けなくと返した返事は、先ほどより落ち着いている。

 驚きを通り過ぎて、肝が冷えたのか。なるようになれと開き直ってしまったのか――ただただ、呆れてしまったのか。

 

――これが……鬼。

 

 豪放磊落。豪気に大雑把の勝手気ままな存在。

 機嫌しだいに、天国地獄となるもの。

 肩すかしを食らったような気分ではあるが……どうやら、今は大丈夫らしい。

何か目的があって、ここに現れたわけではなさそうだ。

とくに機嫌も悪くなく、本当に、ただ酒を呑んでいるだけ。

何もしなければ……何も、起こることはないだろう。

多分、大丈夫。

 

「しかし、ここらも変わったね」

「はい?」

 

 そうやって安堵したところで、ふいの声。

 その目を細く研がらせて、鬼が口を開いた。

 

「いやね――まさか、この妖怪(・・)の山にこんなにもよそ者がいっぱいいるなんてね」

「私たちのときは考えられなかった」と辺りを見回しながらそういった。

ずっと遠くを眺めるように――いや、実際に見ているのか。

 聞いたことがある。

伊吹萃香という四天王は、その身体を疎めることで、遠くのことを見ることができる……この幻想郷全体のことすら、見渡すことができると。私の千里を見る眼以上に万能で隙のない能力を――鬼である彼女が有しているのだと、そう聞いている。

 正に神出鬼没の、たった一人の百鬼夜行なのだと。

 

「まさか、神なんてものまで入り込んでるなんてさ」

 その恐ろしき存在は、自分の昔の縄張りに何を思うのか。

 特にその中途にある社――入り込んだ神という存在に対して、何を考えるのか。

 

「一応、彼らとは不可侵という取り決めを……」

 

 這い上がる嫌な予感に、思わず口を出す。

 あれは一応、ちゃんと一段落とついた話なのだ。

今更かき回され――いや、それ以上に、あの神々とこの鬼がぶつかれば、この山がどうなってしまうのかもわからない。天狗たち、ひいてはこの山に住むもの全体に関わる大事となってしまう可能性もある。

 そうなってしまえば、もはや……。

 

「いや、別に口を挟むかってつもりはないよ……今、ここは天狗のものだからね」

 好きにすればいいさ。あっけらかんと鬼は答えた。

 私の心配に、そんな小さなことなんてどうでもいいといった感じに――けれど、それもいいかな、なんてわずかに企んだ様子で。

 

「い、いえ、それならいいんです……あの社の神々とは、一応山の皆で話し合って決めた結果ですので」

「ああ、そうなの……でも」

「いや、本当に! 手を出さないといってくださって、本当にありがたい」

 

 遮るように大声を出して、それを誤魔化す。

 鬼は嘘をつかない。

 私がそう信じている考えてくれれば、きっと嘘にはしないでくれる。

 そう考えて――

 

「しかし……神社か。それも随分古いと」

 何も気にされていない。

 まるで、私はただの案山子……なんでもない路傍の石か何かのように、他に気がそれてしまえば放っておかれてしまう。忘れて、放り出されてしまう。

都合によって軽くと振り回すのだ。

 なるほどと、伝わった。

 鬼は空気など読まない。自らの産み出す空気の中だけに生きているということ――古き妖怪特有の面倒くささ。

 

「――もしかしたら、何かおもしろいものでも眠ってるかな?」

「面白いもの、ですか……?」

 

 勝手に話は進み、私はまた話相手へと戻る。

 いや、ただ相槌をうってくれる都合に良い壁か。

鬼は怪しげにほほ笑んで、「神社や仏閣といったら憑き物だろう」と語る。

古き者特有の昔話。

 

「縁起物――人が幻想を騙るために必要な証拠品だよ」

 凶悪な表情で犬歯を見せつける。

 嘲るように、おどけるように頬を持ち上げ、瓢を回す。

 結び付けられた紐によって、それはぐるぐると風を鳴らす。

 

「河童の妙薬や天狗の遠眼鏡とか」

 昔のこと。

幻想郷(ここ)でしか生活したことがなく、外に出たことのない者たちにはわからない昔にあったことを語る――彼らの尺度にある常識として存在するもの。

 

「河童や雷獣の木乃伊……人魚の干物なんてのもさ」

 

 そういうものがあったのだと。

 昔、そういうものをよく見た時期があったのだと、語る。

 神社仏閣……流行(はやり)のそれには、そういうものが憑き物だった。

 

 そして――

 

「他にも……そうさね」

 

 回っていた瓢を引き寄せて、また煽る。

 伊吹瓢――確かそういう名の、水を酒に変える酒虫のエキスを染み込ませた瓢箪。

 もしかしたら、今の動きは萃めた水をそれに馴染ませるためだったのかもしれない。さらにと、酒の匂いは濃くなっている――その気配自体が、少しずつ強まって。

 

「『鬼の腕』なんてのも、あったんだろうね」

 

 ぞくり、僅かに冷えた。

 なんだか、肌寒くなったような気がした。

 

「……鬼の」

 

 腕。

 その言葉を呟いて、何故だか彼女は大きくなったように見えた――その小さな身体が、私を呑みこんで――込み上げてくる何かを必死で振り払う。

 

「そんなものをどうやって……」

 

 逸らすように。

 どこかへ行ってしまうように祈りながら、語りの先を促して。

 

「……昔はね、人間の中にもたまに強いのがいたんだよ」

 

 鬼と戦うこと。それ自体が愚かなことだ。

 けれど、確かに過去には……はるか昔においては、それは行われていた。

 人は確かに鬼と戦い、鬼も望んでそれに付き合って――時には。

 

「私たちと対等に戦い、その意志を示す益荒男が」

 

 勝ちを拾うこともあった。

 ほとんどは、泥臭く陰惨なだまし討ち。弱点を突き、入念に準備を整えてから罠にはめるという恥を捨てた方法で。

そして、ほんのわずかな場合だけ、真正面から堂々と。

 

「それが勝ち取った戦利品……強大なものを通したという証として、奪い取らせてやったもの」

 まだ、それが外界にも残っているかもしれない。

 鬼はそう語る。

 昔、己らが暴れた場所に残るもの。兵どもが力を振るい、鬼退治にと血飛沫に紛れながらなんとか勝利を掴み取ったその残り火――夢の痕跡が、まだ、残っているかもしれないと。

 けれど、本当に。

 

「――外の世界で我々は非常識の存在なのだと……そのほとんどの存在をなくしてしまうほど否定されているのだと聞いています」

 なのに、それが残っているのだろうか。

 もし、それが残っているのなら、今でも外界にたくさんの妖怪や神々が姿を残し、恐怖や信仰を集めて猛威を振るっていてもおかしくはないのではないか。私たちが、この幻想郷という箱庭に逃げ込む必要もなく、この世界全体に、幻想が溢れていてもおかしくはなかったのではないのか。

そうではなかったからこそ、私たちはこの世界にいるのだというのに。

 

「そんなものは既に偽物、迷信だとして……すでに忘れられていてもおかしくはない」

 

失くなって――とっくにこちらへと。

 その方がずっと納得がいく。

 

「ああ、確かにそうだね――外界に、鬼はいないだろうさ」

 

 鬼はその答えを肯定する。

 確かにそうだと頷く――けれど。

 

「けれど、その残照は残っているかもしれない――鬼を忘れた、その片鱗だけが、ね」

 

 鬼は、そういった。

 

「……?」

 

 意味がわからない。

 鬼がいないのに、その力が残っている。本体が無いのにその力だけが残る。

そんなことがありえるのだろうか。

根も葉もないのに、花だけが咲いているなんてことが――そんな、おかしなことが。

 首を傾げる私に、また、ぐいと瓢を傾けて。

 

「――その身の丈よりも、その大元よりもずっと大きく、勝手に歩き出す物語もあるってことさ」

 

鬼は笑った。

 掌の上――その上に現れた同じ姿が、にこりと大小に。

 

「切り落とされた片腕が、その持ち主よりもずっと価値のあるものと――それだけが、縁起として受け継がれていくこともある」

 同じ姿。大きさだけが違うもの。二重の声。

 それを同じ姿をしたその小さな少女をにやりと笑って、同じ姿のものがぐしゃりと握りつぶす――そして、ふわりと霧が散る。

 

「その逸話が忘れられてしまおうとも、その戦いが失われてしまおうとも――価値だけが生きて、忘れられないものとして残ることもある」

 反響した声が響く。

 口は動いていない。ただ、酒を煽っているだけ。

 けれど、どこかから声が。

 

「何の腕であるかも、それが腕であるかどうかすら、関係がない」

 

 霧が語る。掴めないものが話す。見えないものが笑う。

 囲まれて、囲われて、囚われて――逃げ場もなく包まれて。

 

「ただ、『そこにある』ということに意味がある」

 

 濃くなった霧がその姿を隠す。

 霧に移った向こうに、何か大きな影が映る。

 笑っている。嗤っている。哂っている。

 

「そこにある逸話は、既に鬼のものではない……腕があることでもなく、妖怪がいたということでもなく、ただ、『話』の材として語られるもの」

 

 見えないけれど、それが恐ろしいものだということは分かった。

 見通せないけれど、それが恐ろしい力を持っていると感じた。

 とても大きな、凄いものだと。

 

「語るべき『形式』にこそ意味がある。だから、流れることはない」

 

 失われず、忘れられず。ただ、それだけに意味がある。

 その影だけしか見えなくても、それが畏しき力を持つものだとは知っている。

 

「鬼の腕という絶好の客寄せと、自分たちを大きく見せるためのその逸話」

 

 その威光は、いまだに私たちの中に。

 見たことはなかったけれど、一目でわかった。

 あれが『鬼』なのだと、伝わった。

 

「そういう本当()で構わないのさ――ちゃんと、美味しいところ(御利益)は残っているんだからね」

「……」

 

 私たちは知っている。

 けれど、それを忘れてしまった世界が、向こう側。

 知らないのなら、それが許されるのだろうか――そんな話が、罷り通るのだろうか。

 

「――怖さを忘れて、その恩恵だけを受け取りたいなんて」

 

随分と都合がいい。

 私はこんなに怖いのに。私はこんなに恐ろしいのに。

 それを知らないままで、受け取って。

 

 

「まったくだ。愚かなもんだよ。人間ってやつは」

 

 にたりとそれは――畏れるべき存在が――

 

「――まあ、だからこそ、脅かしがいがあるってもんだけど」

 

 ぱくりと、口が三日月に。

 真紅な色と白の棘。

 赤ら顔に酒呑んで、瓢箪傾け酔いの息。

 人を見下ろし、人を見下し――人を眺める。

 

――鬼。

 

 彼女らは忘れられたもの。いなくなったはずのもの。

 けれど、その恐ろしさは変わっていない。

 変わるはずがない。

 恐ろしく。怖ろしく。

 おどろおどろと。凶々と。

 

 

「さあ、今度はいつ――」

 

 

――遊びに行こうか。

 

 

「……」

 

 呟いたのは、ただの冗談なのか。

 酔いに任せた戯言なのか。

 

 そうでなければ、きっとただではすまないだろう。

何もかもが変わってしまう――戻ってしまう。

 彼女の気まぐれで、随分とここらの景色(世界)は様変わりするのだから。

 それが、旧都の支配者で、かつてはこの山を支配していた存在の、『鬼』という幻想なのだから。

 

――……。

 

 背中にあるぞっとした寒さ。

 どろりとした恐怖に呑まれそうになる。

 そうであるように。そうであってくれないように。 

 巻き込まれるのは人だけではない――私たち(天狗)ですら、その例外ではない。

だからこそ、私たちは彼の者らに障らぬよう……()れぬように、距離を空けたのだ。

 

 人も天狗も、妖怪も妖精も――

 

 彼の者等()が怖いことには、変わりないのだから。

 

 

「――またまた、ご冗談を」

 

 だから、私は口にする。

 嘘をつかない鬼に、それを口にさせてしまわないように――それを聞いてしまわぬうちに。

 

「では、私は仕事がありますので」

 

 そそくさと後にする。

 尻尾を巻いて、退散と。 

 

「おや、つれないね」

 

 鬼は、残念な声をしながら――小さく手を振って、退屈そうな欠伸へ変えた。

 別に、私に興味があったわけではない。ただ、そこにいたから話し相手と選んだだけ。

 それが人であっても天狗であっても、鬼にとっては関係ない。

 

 高さが違う。気位が違う。威光が違う。

 傲慢で、理不尽な正しさだけがある。

それを押し通す強さだけがある。

 それが彼女ら、なのだから。

 

「……失礼します」

 

 深々と頭を下げて、私は背中を向ける。

そうそうと。はやばやと。逃げようと。

 

「あ、そうだ」

 

 ぴたりと足が止まった。

 震えが頭か尻尾の先まで。

 

「一応、私がここにいたことは内緒にしといてよ」

 そういう約束だから。

 

 鬼はそれだけをいった。

 

「――はい。承りました」

 

 それだけ答えて、振り向かずに歩いた。

 その視線が届く先、その姿が見える場所。それを過ぎて――走り出した。

 速く、速く……その空気から逃れようと、呑まれてしまった世界から抜け出そうと走った。

 こわいこわい、と。

 いやだいやだ、と。

 

 早く、帰りたいのだと。

 

「……っうう、ああ」

 

 走って、走って――息を切らして。

 

「がはっ――っはあ、ああ」

 

 倒れ込んだ。

 森を抜け、林をかけて、草むらの真ん中まで走り出て、地面へと身体を投げ出した。

 

――……。

 

 ちくちくとした感触と冷えた空気。

 止まっていた時間が動きだし、麻痺した五感に火がいって。

 

やっとのことで落ち着いて。

 なんとかと、私に戻る。

 

「……ああ、っはあ」

 

 鉛のように重くなった肺から澱みが抜けて、代わりに新鮮な空気が流れ込んでくる。今まで吸っていたのは酸素などではなく、針を含んだ毒の霧だったのではないかというほど、身体から熱さが引いていく。

 

 その恐怖から、抜け出せたのだと、やっと実感する。

 

「ああ……」

 

 空を見上げて。

 星を眺めて。

 

「こわ、かった」

 酷く幼い声が出た。

 

 それほどに怯えていた。 

 ただただ、怖かった。

 

「よかった。大丈夫だった」

 

 両手を広げて、地面へと背中を預けて。

 自らの任(刀と盾)を放り出して、己の身体が存在することを実感する。

 

――ああ、生きている。

 

 それを、やっと思い出せた。

 何とか、生き残れた――まさに、生き返った気分だと。

 帰ってこられたことに、心が安堵する。

 

――本当に、人間は愚かだ。

 

 そうして改めて――そう思う。

 

 あんなのものを忘れてしまうなんて。あんな存在を、なかったことにしてしまうなんて。

 よくも、そんな大それた真似ができたものだと。

 

「あんなものを忘れている方が……知らないでいる方が、ずっと怖いじゃないか」

 

 あんなに怖いものいる。怒らせてはいけないものがいる。障ってはいけないものがある。

 それすら、知らない――そんなことすら、覚えていない。

 

「……その怖さを知らないなんて」

 

 きっと、彼らはそのまま動けない。

 気づかないまま、知らないまま――驚きに目を瞑ったまま、失ってしまう。

 命も何も、全てを一緒に。

 ああ、こんなものがいるのだと、何もわからぬうちに。

 

「あんなにも、怖いのに」

 

 それを忘れている。

 それをまた、初めて知る。

 

 それは、大層――

 

「……恐ろしいことだ。」

 

 

 暗い闇。

 目を凝らしてみる靄に、びくりと身体が震えた。

 あんな少しの時間に……短い邂逅で、すでにと私は怯えている。

芯の内から凍えて、刻み込まれてしまっている。

 

『ああ、怖い』と。

 

「……でも、私は逃げることができる――それを、知っている」

 

 いつか、きっとやってくる。

 いつか、訪れる。

 

 それでも、私はそれを知っているから、それを覚えているから――きっと、逃げられる。

 この目で見つけて。この鼻で嗅ぎつけて、全力で逃げられる。

 逃げるしかないと、知っている。

 

「……だから、きっと」

 

 なんとかなる。

 そう、想って――

 

「大丈夫」

 

 

 私は息を吐く。

 不安を吐き出し、不幸に備える。

 

 いつかくるその日のために。

 

 

 

 その刻み込まれた恐怖に感謝する。

 

 

 

 

____________________________________

 

 

 

「お久しぶり」

 

 そう聞いても、もうわからない。

 そう言われても、もう知らない。

 返し方も、帰ってもらう方法も、忘れてしまった。

 

「さあ、遊ぼうか」

 

 後悔しても、もう遅い。  

 忘れてしまった『貴方』が悪い。

 いらないといったのは、あなたたち、

 

 

 さあ、後ろを振り向いて。

 

 

「――――」

 

 

 ほら、もうおしまい。

 

 





 鬼はそこに。



 
 

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