あたしの兄貴がこんなにモテるわけがない 作:powder snow
「ご相談があるんです、お兄さん」
閑散とした公園の片隅に落ち着いた少女の声が響く。
その声の主は、俺の目の前に立ちながら涼やかな表情を浮かべていた。
彼女の名前は――新垣あやせ。
桐乃の同級生であり、ティーン誌を飾るプロのモデルでもあり、一応は俺の知り合いに当たる人物だ。
黒猫を桐乃の裏側(やましい意味じゃねえぞ)の親友とするならば、あやせは表側の親友ってところか。
「その台詞、何度目だっけな?」
清楚で可憐な黒髪の美少女。
性格は明るめで礼儀正しく、何事にもキッチリと線を引くタイプ。潔癖というべきか、融通が利かないというべきかは人によって感想が異なるだろう。
ただ見た目だけならもう俺の趣味ど真ん中ドストライクで、彼女のことを“ラブリーマイエンジェルあやせたん”と呼ぶことに対して、俺は一切の遠慮も呵責も持ち合わせていない。
ちなみにこのあやせと出会ってからというもの、エロゲーの最初の攻略ヒロインは黒髪ロングの娘からにするという不文律が、俺の中に出来上がってしまったのは言うまでもない。
「なんですか、その嫌そうな声は? わたし、まだ何も言ってませんけど?」
「あのね、お前と関わって大変な目に遭わなかったことないからね!?」
「……え? そうでしたっけ?」
え? って自覚なしかよ、このアマァ!
「思い出すのも恐ろしい出来事が過去にいっぱいあったろーが!」
文字通り思い出すのも恐ろしいので回想シーンはカットする。
「んー」
ほっぺに人差し指を当てながら、可愛くちょこんと小首を傾げるあやせ。
「そんなことあったかな?」と考え込む素振りは、まさしく俺のラブリーマイエンジェル。
あやせたんマジ天使。
「着拒なら解除しましたよ、お兄さん」
「アレは加奈子の件でチャラだろ。正当な報酬つーか、等価交換だ」
「それは……そうですけど」
あやせにしては珍しく言葉を濁し、言い淀むようにして視線を外した。
はっきり言ってこの女は思ったことを口にするのを憚るようなタマじゃない。例えそれが俺への殺害予告だとしても笑顔でしれっと言ってのけるだろう。
なのに、何なんだこの煮え切らない態度は?
いったい何を企んでやがる?
本能から危険を察知した俺は、思わず半歩だけ後ろへと下がっちまった。
「――――どうして後ろへ下がるんですか、お兄さん?」
「いや……怖いから」
「は?」
想定外の台詞を受けて、あやせがキョトンと目を瞬かせる。
呆気に取られたその表情を見て、どうやらこの場で俺を殺害する意思はなさそうだと胸を撫で下ろした。
「……んなことより、俺に何か相談があったんじゃねーの?」
「そ、そうでした。ですがお兄さん。その前に一つだけ訊いても良いですか?」
「訊くって何か質問でもあんの? ま、いーけどよ」
「大したことじゃないんですけど……お兄さん、どうして着拒されたことに半年も気付かなかったんですか?」
「え?」
これまた妙なことを訊きやがる。
あやせはある事件の折に、俺のことを『近親相姦上等の変態鬼畜兄』だと誤解したままなのだ。とある理由からその誤解を解くことが出来ない俺は、こいつに嫌われまくってると思ってたんだが……。
事実、出会う度にバカだのスケベだの変態だのと罵られてるわけで、挙句の果てには蹴りくれた上に死ねですよ?
だから何の用もなしにあやせ宛に電話をかけるのは憚れたのだ。
だけどさ、俺こいつのこと結構好きなんだよね。
可愛いし。可愛いし。マジ可愛いし。
それだけに着拒された件を知った時はショックでさ、往来でさめざめと大泣きしたもんさ。その場にいた麻奈美には鼻水まみれの顔見られるし、本当この世の終わりかと思ったね。
そのあやせが何でわざわざ着拒の件を蒸し返す?
まさか――この女!?
その時、京介(俺)に電流走る。
まさしく天啓だった。
ある考えが脳裏に浮かんだ瞬間、俺の身体は指先一つに至るまで“その考え”に支配されちまっていた。思わず、握り込んだ拳がふるふると震えちまうくらいに。
「理解したぜ、あやせ。おまえには随分とおまえに寂しい思いをさせちまってたんだな。俺が悪かったよ」
「……あの、お兄……さん?」
「そうか。――そうだったのか。おまえ、俺のことが好きだったんだな!」
「え? …………えええええええぇぇッッッ!???」
ズズいっと近寄る俺から今度はあやせが後退さった。
――フッ。全力で照れてやがるぜ。
「アレだろ? そんなこと訊くってことは、おまえ俺に電話掛けて欲しかったんだろ? 気付けなくてごめんな」
「ど、どうして今の話の流れからそういう結論になるんですか!? お兄さん、頭の中身大丈夫ですかッ!?」
「照れんなよ、マイハニー。今までの辛辣な行動はぜ~んぶ愛情の裏返しだったんだな。だけどもう大丈夫。万事オッケーだ」
俺は両腕を広げ、極上の笑顔を浮かべながらあやせの元へとにじり寄って行く。
きっとあいつからは、麗しの白馬の王子様が花束を持って自分を迎えに来ているような光景に見えているはずだ!
「ジュテ~ムッ! さあ、あやせ! これから二人で愛の逃避――――ごほあッッ!!」
ハイキック……だとッ!?
あの時に勝るとも劣らない一撃が、俺の顔面を側面から襲う。
直撃を受けた俺は、大回転キリモミ状態となって空中を吹っ飛び、地面に落ちた後は砂塵を巻き上げながら転がっていく。
「……な、何をするんだ、あやせたん!?」
「あやせたん、じゃありませんっ! 突然発情して……ブチ殺されたいんですか、この変態ッ!」
「え? だって電話……」
「かけて欲しくなかったから着拒したんですっ! 当たり前じゃないですか! 質問したのは……その、少し疑問に思っただけで深い意味なんてありませんっ! ばか! エッチ!」
顔を真っ赤に紅潮させながら怒鳴り散らすあやせ。
罵詈雑言ここに極まれり。
その姿を見ていると、とても俺のことが好きだとは思えない。つーか、好きだったらそもそも圓明流ばりの蹴りなんてくれないよね?
――ちっくしょおおおおおっっ!!
普通はさ、あんな甘えたような声で『お兄さん、どうして私に電話してくれなかったんですか? ずっと……ずっと待っていたのに』なんて言われたら誤解するよな?
俺のこと好きかもって期待しちゃうよな?
「……ぐ……うッ」
襲いくる走馬灯を必死に振り切り、痛む頬を押さえながら何とか立ち上がった。その僅かな時間を利用して、精神の均衡を平常まで持ってくる。
簡単に説明すると、今の俺は幾分冷静になり、物事を多角的に見つめられる程度には回復したということだ。
さっきの俺は一種の錯乱状態に陥っていたんだと思う。
あやせに好かれてるかもしれない。そう考えた瞬間、あらゆるリミッターが外れたのだ。
「いきなり悪かったよ、あやせ。けど今の蹴りは流石に冗談じゃ……」
「お、お兄さん! それ以上近づいたら、半径一メートル以内に近づいたら……鳴らしますから!」
「鳴らす……だって!?」
「これを見てくださいっ」
「なあっ!? そ、それは――!?」
あやせがこれ見よがしに突きつけている卵型の白い物体……って、それはいつぞやの防犯ブザーじゃねえか!
手榴弾よろしくピンを引っこ抜けば辺りに爆音が鳴り響く代物である。
ちなみにこの公園のすぐ裏には交番があったりする。
アレが鳴らされるイコール俺の人生終了って寸法だ。
「やめろ、あやせ! 俺を……社会的に抹殺するつもりか!?」
「お兄さんがいけないんですよ! いつもいつもセクハラしてきて……。この前なんてわたしに、け、結婚してくれーなんて言って……迫ってきて」
「心配すんな。ありゃマジだ」
ブウウウウウウウウ――ッッッ!!!
途端、辺りに防犯ブザーの音が大音量で鳴り響く。
この後俺が『ブザーの音を止めてくれ! おまわりさんが来ちゃうでしょ!?』と、あやせ様に対して泣きながら五体投地礼をしたのは語るまでもないだろう。
「……相談事というのは、桐乃のことについてなんです」
図らずも騒ぎになってしまったので、少し場所を移すことにする。
俺達は公園を出て、近くにある遊歩道の脇に据えられているベンチに座ることにした。
「ま、そんなこったろーと思ったよ。おまえが俺に相談する事柄っていや大概は桐乃のことだしな」
先に腰掛けていたあやせの隣に座りながら(自己防衛の為、若干距離は離れている)俺はさっき買っておいた缶コーヒーを差し出した。
「ほらよ」
「え?」
俺の意図が掴めないとばかりに、あやせが目を丸くしている。しかし再度差し出された缶コーヒーを見てようやく合点がいったようだ。
あやせは「ありがとうございます」と礼を述べながら、両手で缶コーヒーを受け取る。その際の仕草はすごく自然で、ありていに言えばめちゃくちゃ可愛かった。
動作の一つ一つが絵になってるっていうか、一瞬マジでドキっとしたもんさ。
「で?」
「……お兄さん。最近の桐乃、少し様子がおかしくないですか?」
コーヒーを一口啜ってから、あやせが今日の本題を切り出してきた。
「そうか? 別に普通だと思うけどな」
「その普通なのがおかしいんですよ」
あやせが横を向き、俺に視線を合わせてくる。
身長差があるからか、あやせが丁度俺を見上げるような格好になった。
「ほら、桐乃ってアメリカに行ってたじゃないですか。でも留学途中で帰ってきてしまった。――ああ、勘違いしないでくださいね。私は桐乃が帰ってきてすごく嬉しいんです。もう二度と離れ離れになりたくないって思ってます。でもそれとは関係なしに、目的を果たせなったことは辛いんじゃないかなって……」
「目的、か」
「……その為の留学だったはずですよね?」
「ま、言いたいことはわかるけどよ……」
「桐乃、すっごく優しい子なんです。友達思いで頑張りやで、それでいて弱音一つあげない強い子で」
あやせに言われるまでもなく、そんなことは俺が一番良く分かってる。
あいつは人一倍頑張るくせにその努力を他人には見せたがらない。勉強だって、スポーツだって、優秀なのには訳がある。その成果もあって俺なんかじゃ足元にも及ばないスゲー妹になっちまったが、辛い事は辛いし、その事で心が痛くない訳じゃないんだ。
あいつだって……まれに泣くことはある。
「だから、本当は辛いのにわたし達のことを思って無理してるんじゃないかって。泣きたいのに我慢してるんじゃないかって、そう思ったんです」
「まあな。おまえの言う通り普段のあいつならそうするだろうよ。けどなあやせ。今回は本当に違うんだ。なんつーか、うまく言えねえんだけど、今の桐乃は無理もしてないし我慢もしてない。見てくれ通りのあいつだと思う」
実際、俺も不思議だった。
だって無理やり俺が連れ帰った格好になるんだぜ?
大金叩いて留学したのに俺が全て台無しにしちまった。桐乃はその事に対して絶対に恨み言は言わないだろう。だけど昔みたいに言葉も交わさない冷戦状態に戻っちまうかもって覚悟すらしてたんだ。
あの時は“ああ”するのが最善だと思ったからそうしたし、そのこと自体は後悔しちゃいない。
なのに、拍子抜けするくらいあいつは以前のままで――いや、ちょっとばかり優しくなったような気さえするくらいだ。
伊達に生まれてからずっと兄妹やってる訳じゃない。
だから、今あやせが何を考えているのか、大体は把握できる。
「心配すんなよ、あやせ。桐乃なら――あいつなら大丈夫だ。少なくとも今回のことに限って心配はないはずだ」
「本当、ですか?」
「ああ。逆にあっちで無理してたんだよあいつ。――弱音を吐いたら今まで勝ってきた人達に申し訳ないってな。んで無理して、体調崩して、遅れた分を取り戻そうとしてまた無理してさ。だから俺は連れて帰ってきた。それがあいつの為になるって思ったからな」
それだけが“桐乃を連れ帰った理由”じゃないが、選択は間違ってないって思ってる。
「結局さ、あいつも自分なりに納得した上で帰ってきてんだよ。だからあやせが心配してるよーなことはない……と思う」
「……だと、良いんですけどね」
苦笑いのような微妙な表情を浮かべてから、あやせがすっと視線を上げた。それに釣られて俺も空を見上げてみる。
夏を目前にした空には雲ひとつなく、晴れ晴れとした光景が何処までも広がっていた。
まるで目的に向かって突き進むあいつのように、澄み切った青空が。
――ああ、眩しいな、ちっくしょう!
あやせは本当に桐乃のことを心配して俺に相談しに来たんだろう。
ちょっとばかり思い込みの強いところがあるけど、あやせは桐乃のことを一番に考えてくれている。
こういうのを親友って言うんだろうが――黒猫といい、あやせといい、本当に桐乃は良い友達を持ったよ。
「……」
それからしばらく視線を上げていたあやせだったが、一度大きく頷いてから俺へと目線を戻してくる。
「わかりました。お兄さんがそこまで言うなら信用することにします」
柔和な微笑みに、もう翳りの色は見られない。
「そっか。役に立てたか、俺?」
「少し、ですけどね。話して良かったって思いましたよ。なんて言いますか、お兄さんでも役に立つことあるんだなって」
「うっせえ」
「フフ。それじゃお兄さん、わたしそろそろ行きますね」
今日の目的を達成したあやせが、すっくとベンチから立ち上がる。
そして数歩分歩いてから――くるりと俺の方向へと振り返ってきた。
「どうした? 忘れもんか?」
「いーえ。もう一つ相談事があったのを思い出したんです」
「ま、マジで!?」
「もう、そんなに驚かないでください。ちょっとだけ傷つきましたよ?」
あやせが心外だとばかりにぷうっと頬を膨らませる。
けどすぐに表情を軟化させると
「お兄さん。桐乃を見ててあげてください。気にかけてあげてください。さっきの相談と被るんですけど、まったく無理してないってことはないと思うんです。悔しいけど、桐乃の一番近くにいるのはお兄さんですから」
それからあやせは自身のスマホを取り出して
「ですから、桐乃に変化を感じたら私に教えてくださいね。どんな些細なことでも結構ですから」
「それってさ、おまえに電話かけてもいいってことか?」
「……イヤですけど、我慢します。これも桐乃の為ですから仕方ありません」
照れたように目線を外すあやせ。
正直、俺は桐乃のことなんかどーでもいいんだけどよ、あやせにこうまで言われたらイヤとは言えねえ。
俺は軽く頷いて了承の意思を示してやった。
「分かったよ。ちょくちょく連絡する」
「ち、ちょくちょくなんて言ってませんっ! あくまで……定期的に連絡してくださいって言ってるんです!」
べーっだとばかりに可愛く舌を突き出してから、あやせは“今度こそ行きます”と、駆け足でこの場を去って行った。
そんな彼女の後姿を視界の隅から消えるまで追っていく。
そして完全に見えなくなってから立ち上がり――ふと気になって自分の携帯電話を取り出してみた。軽く指先で操作し、アドレスからある番号を呼び出してみる。
「…………ま、いっか」
少し迷った挙句、俺はパタンと携帯を折りたたみ、やや乱暴にポケットに仕舞い込んだ。
どうせこれから顔を付き合わせるんだ。
態々電話することもないだろう。
そう思った俺は、手にしていたコーヒーの空き缶をゴミ箱へ投げ捨ててから、家路に着くために歩き出した。