食王ミドラ 作:黒ゴマ稲荷
1000年以上の歴史を持つ日本の古都、京都。
その一角に、お稲荷さんを祭る社が存在する。
伏見稲荷神社。
その主な神の一角である、
その神が、今や焼野原になり、瓦礫にまみれた地面に倒れ伏している。
もう、起き上がることさえままならないだろう。
なぜなら、
かろうじて残っているのは、頭と首から胸にかけての肉、それとかろうじてつながった右手のみだ。
あとは、何か獣が―――たとえるならワニのように、大きな口と鋭い顎を持つ―――が一噛みで肉を食いちぎったかのように、下半身を食いちぎられている。
「あらあら、食を司る神であるウカノミタマ様が、派手に
ウカノミタマの頭上から声がする。
「なんじゃい、パンドラか」
「そうよ、初めまして、ウカノミタマ様」
パンドラ。
かの魔女がこの地に降り立ったということは、理由は一つ。
すなわち、新たなる王の誕生である。
神を殺すという大偉業をみごと成し遂げた者こそ、
それが、エピメテウスとパンドラの呪いにも似た大呪法。
カンピオーネとして新生したものは、のちに現れるまつろわぬ神との大戦に否応なしにも巻き込まれていく。
新生した証拠として、すでにウカノミタマから神威が漏れ出し、弑逆した人間めがけて漏れ出ている。
「しっかし、私の新しい息子ってば、大食いねぇ。ほら、見える?ウカノミタマ様が連れてきた九尾の狐ちゃん、もう骨しか残ってないわよ?」
「…九尾の天狐ちゃんのう、わしの言うことをよく聞いてくれるかわいい子じゃったんじゃが、時々いたずらで辺りを荒らしまわっちゃうんじゃよなぁ…。おかげで、今回はひどい目にあったわい」
「ふふふ、
「神である我に
そう言いあっている間に、近くに歩いてきた者の気配があった。
ちょうど地面に横たわるウカノミタマを見下ろすように、その者が神の無残な姿を見下ろす。
ぐううううぅぅぅぅぅぅぅ。
音がした。
見事神殺しを成し遂げた男の、腹から奏でられる音だ。
「まぁ、まだ食べたりないみたいよ?」
「…天狐ちゃん、軽く100メートルクラスまで巨大化してたんじゃがなぁ」
ウカノミタマが目を視線を動かし、男を見やる。
体には、無数の傷跡に、やけどの跡。
さらに全身が血にまみれていた。
もちろん、それはすべてがすべて自分の体から流れ出たものではない。
口からは先ほどまで喰らっていた大狐から出たであろう血が口から顎にかけてしたっている。
何より、目からは膨大な涙を垂れ流していた。
それを手でぬぐおうともせず、ウカノミタマの方を見ている。
「…なぜ、泣く」
神からの疑問にも答えず、男は体中の水分をすべて涙に変えたかのように、大粒の涙をぽろぽろと流している。
頬から顎にかけての途中では、血と混ざって薄い赤色の雫が地面に向かって落ちていったりもしている。
「…やさしいやつじゃのう」
神には、男が流している涙の理由がわかっていた。
―――満たされない。
どれだけ食べても、どんなに喰らっても、男の腹は満たされないままだった。
食料が問題なのではない。
おそらく、男が生まれ育ってきた環境が問題なのだろう。
神が顕現してから、彼と出会い、こうして弑逆させられるまでは、関係は悪くなかったのではないか。
お互いに笑いあって、時には愚痴を交わしながらも、笑いあっていたのである。
きっかけはふとしたことだったのだ。
ウカノミタマはまつろわぬ神で、彼は人間だったのだ。
ただ、それだけの擦れ違い。
たったそれだけで、こうまで変わってしまうか。
「…しょうがないのう」
ウカノミタマは、かろうじて残っている右手で、宙に印を切った。
途端に、辺りの風景ががらりと変わる。
辺り一面荒れ果て、がれきの山と化していた伏見の景色が、長大な山脈、生い茂る植物。地平線の彼方までつづくような湖。なにより、雲一つない青い空に。
「あらあら、ここってウカノミタマ様秘蔵の地?私まで入れてもらってもよろしかったのかしら?」
「まあしょうがないの。今回だけじゃわい。どうせすぐに入れんくなる。おい、小僧」
残った右手で男を手招きする。
鈍くではあるが、倒れ伏す神に向けて近づいていく。
腰をかがめ、たとえ小声でも聞き取れるような距離まで顔を近づけると、
「お前にやるわい。わしの庭じゃ、好きに使え」
そういって、男の体に印を刻み込む。
途端―――世界が大きく変化した。
文字通り、先ほどまでのウカノミタマの庭よりも、大きく、強大となったのだ。
「まぁ」
「ほう」
神である二者ともに驚きの声を上げる。
パンドラの言うウカノミタマ秘蔵の地というのは、地上ではなく幽世――欧州においてのアストラル界、中国においての幽界、ギリシアでのイデアの世界などなど、さまざまな名称を持つ――という生と不死の境界に存在する。
そこは所有者であるウカノミタマか、ウカノミタマに招かれた者しか入ることができない。
それよりも、宇宙開闢から未来に至るまで、あらゆる時代の記憶が混在しているはずの幽世が変化したということは、どういうことか。
まるで外宇宙から来た謎の物体Xのように、未知の存在が幽世に影響を及ぼす。
ウカノミタマを弑逆した男は、そのような存在だったのだ。
新しい幽世にて次々と産声を上げる新しい命たち。
無限に成長し続ける動植物。
もはや、一つの宇宙だ。
地平線まで見渡しても、まだまだ先が見えてこない。
それどころか、この世界の理を吸って、もっともっと肥大化していっている。
何よりも、
今、この世界の所有者は、ウカノミタマからこの男になったのだ。
「…これは予想外だのぅ」
「本当ねえ、これは将来楽しみだわぁ」
男はウカノミタマの半身を抱きかかえながら、無限に広がる世界を見つめる。
口からは涎があふれ、滝のように流れ出ている。
腹はその存在を主張するかのように、音を奏でている。
何よりも、その瞳から流れ出ていた涙が、すっと引いているのだ。
「さて、ウカノミタマ様、みごとあなたを弑逆せしめた、私と
「よかろう!もっとも空腹で、満たされぬ神殺しよ!今やこの世界も、わが権能も貴様のものになった!再び会いまみえるその時まで、決して死なぬようせいぜい喰らっておくのだな。そして、いつかまた、あいまみれようぞ!」
そう言葉を発した後で、ウカノミタマの体は粒子となって消えていった。
重量がなくなった男の手の中には、もはや何も残ってはいなかった。
男は、そのあとで力を使い果たしたかのように、糸が切れた人形のように倒れ、眠りについた。
◆
小雪は空腹になりながらも、町を歩いていた。
いつものように、空き地で遊ぶ子どもたちを隠れながら眺め、暗くなって子供たちがいなくなると家に帰る。
家では、母親に碌な食べ物を食べさせてもらえない。
そんな孤独な日々を送りながらも、今までずっと生きてきた。
空腹で力の入らない、棒のような足を引きづりながらも、家への帰路に立つ。
「…マシュマロなくなっちゃった」
今日で、大好物のマシュマロも袋から姿を無くし、口に入れる物は今手元に何も残ってはいない。
骨と皮しか残っていない、細すぎる手足。
痩せこけた頬。
空腹のせいか、碌に夜も眠れず、瞼の下には大きな隈さえできている。
いままでなんとか耐え忍んできたが、もう限界だった。
視界が暗転し、小雪の意識は暗闇に落ちていく。
崩れ去るその小さな体を、抱きかかえたのは大きな手だった。
もっとも、意識を失った小雪には、その姿を見ることはかなわなかった。
ただ、何か大きな存在が自分を抱きかかえ、その暖かさに思わず顔をほころばせる、ただそれだけだった。
小雪が再び意識を取り戻したとき、最初に見たのは見知らぬ天井だった。
体を起こそうとしたが、力が思うように入らない。
手のひらは震え、思ったように握ることすらままならなかった。
「気づいたか」
横合いから声がした。
顔だけは、なんとかそちらを向けることができた。
自分が寝ていた布団の横に、あぐらをかいて座っていたのは一人の男だった。
頬に三字の傷がある、年は20代後半だろうか。
まだ若さと、今まさに来ている老いが入り混じったような、大人だった。
小雪が返事をしようと口を開けるが、あ…、あ…とか細い息の音しかでてこなかった。
「お前は無理に体を動かさなくていい」
男は小雪の小さい、小さすぎる体を抱きかかえ、壁に背をもたれさせる。
体を起き上がらせると、傍に置いておいた一つの皿を手に取った。
いい匂いがした。
食欲をそそる匂いだ。
小雪の体から、その皿の中身を求める音が鳴り響く。
皿の中身は、オレンジ色のスープだった。
ニンジンその他を煮込んだ、キャロットスープだ。
いまだ湯気が立っており、そのまま小雪の口に入れるには少し熱すぎる。
男が匙ですくったスープに数回息を吹きかけ、熱を冷ましやる。
ちょうど良い温度になったそれを、小雪の口の中に流し込んでやる。
ちびちびとした動きだったが、じっくりと味わいながら、小雪はそれを飲み干していく。
数度口に入れるうちに、元気が出てきたのか、手が動くようになっていた。
それに気づいた男が、皿ごと小雪に渡す。
受け取った後、小雪が匙ですくいながら、皿の中身を飲み干していく。
美味しかった。
それまで給食の料理がごちそうで、それも親はろくに払ってくれないせいか、最近は食べることさえできなくなっていた。
家では机の上におかれているカップめん。
それも、たまにしか置かれていない。
他人の手料理なんて、食べたのはいつ以来だったろう。
知らないうちに、頬に涙がつたっていた。
おいしい、おいしいよう。
涙を流しながら、口の中に広がる野菜の旨みを、にんじんの甘みを味わい、堪能していく。
あっという間に、皿の中身が空になっていた。
「おかわりいるか?」
男の問いに、肯定を示す。
再び、皿にそそぎこまれた、オレンジ色のスープ。
それを匙ですくいながら、口の中に流し込んでいく。
「美味しいよ」
今度は声を出すことができた。
男は小雪のその言葉に微笑んで、厨房まで戻っていく。
男の家は、1DKの小さな家だった。
今しがた小雪が眠っていた布団が引かれている部屋の他には、トイレと風呂、キッチンだけの小さな家。
部屋の真ん中に普段据えられているちゃぶ台は、壁に立てかけられている。
「ごちそうさま!」
久しぶりにありつけたまともな食事で、小雪は少しではあるが、元気を取り戻すことができた。
しかし、まだ立ち上がるほどの体力は残っていない。
部屋の中で男と小雪が向き合っている。
「旨かったか?」
「うん!すっごくおいしかった!こんなの僕、食べたことなかったよ!」
笑顔交じりで応える小雪。
「お母さんにも、食べさせてあげたいな…」
「…母親がいるのか?」
「うん。あのね、お母さん忙しくて、僕に構ってる暇がないんだけど、でも僕、お母さんが大好きなんだ!だからこのスープも、お母さんと一緒に食べたい!」
「そうか」
「…でも最近、お母さんどこかに出かけることが多くて、一緒にいられることも少ないの…。帰ってきても、僕に八つ当たりしてし…」
「―――」
「でも、大丈夫!このスープを飲めば、きっと優しいお母さんに戻ってくれるよ」
「…なら、もう夜も遅い。家まで送っていこう。体もまともに動かないだろう」
「本当!?ありがとう」
「ああ」
「…おじさん、名前教えて。僕は小雪っていうんだよ」
「
男―――貴虎が小雪を背に乗せると、出口に向かって歩き出す。
腹いっぱいになった影響からか、男の大きな背中に安心したからか、いつしか背中の揺れに眠気が来て、小雪は眠ってしまったのだった。
小雪が再び目覚めたのは、丸一日後のことだった。
目覚めた後で、貴虎から告げられたことは、母親が小雪を手放したこと。
ミドラが小雪を引き取ったことだった。
最初は告げられたことの意味がわからず、呆然としていたが、やがてわんわんと泣き出し、小一時間寝かされていた布団の上で大声で泣いていたのだった。
泣き止むと、今度はお腹が空腹を訴える音を大音量で奏で、それを聞いた新たな父から収縮した胃でも受け付けるような、消化の良い梅干しがちょこんとのっただけのしお粥を、昨日されたようにふうふうと息を吹きかけられながらも口の中に入れていくのだった。
貴虎は不器用な男だった。
手先のことではなく、人づきあいのことだ。
必要なこと以外は口を開くことはなく、小雪と暮らしていく中で口を開くのは少しで、あとは小雪の話に相槌を打つくらいであった。
住んでいる場所は川神のはずれの工業団地で、少し無法地帯と化しているところだった。
住民は極力、干渉しあわない。
しかし、それでも小雪は貴虎からの親の愛情というものを感じていた。
初めは新しい親というのを受けいられずにいたが、一緒に暮らしていくうちに自然と口数も増えていく。
何よりも、貴虎の作ってくれる食事が、小雪の毎日の楽しみとなっていた。
どこからか調達してきてくれる食材。
お腹いっぱいに、顔を見合わせて食べられる環境。
あんなに痩せこけていた体も、いつしか肉付きのいい、張りのある肌を取り戻していった。
それと、よく笑うようになった。
それまで、機嫌をうかがうような、無理やり作り出した笑顔だったのが、自然と鋼殻を上げ、白い歯をみせ笑うようになったのだ。
相変わらずマシュマロは好物であるが、貴虎の言いつけで、一日に食べられる分量は決まっている。
中学の時に、食べすぎで少し太った時には、頭をはたかれ、節制しろと厳命された。
友達もできた。
小学校高学年の時にインフルエンザにかかった小雪を、近くの総合病院へと店に行ったときに知り合った者たちだ。
葵冬馬と、井上準。
病院の院長の一人息子である冬馬と、院長の助手の息子である準とは、年が近いことに加え、小雪の明るさによってすぐに仲良くなることができた。
たまに家に来ては、貴虎の料理を一緒に舌鼓をうっている姿が目撃できる。
そんなこんなで、中学は冬馬や準の勧めもあって、二人と同じ中学を受験し、みごと合格することができた。
今では仲良し三人トリオとして、学校内でも元気にやっているのだそうだ。
明るくなり、栄養失調から回復したことによって、肌に
中学時代は、小雪に言い寄る男子はたくさんいたが、ことごとく玉砕。
小雪曰く、『好きな人がいる』のだそうだ。
もっとも、貴虎はそれがだれなのかわかっていない。
彼女の人生なので、好きにさせようというのが彼の持論であるので、ノータッチ。
彼女が友とともに編み上げた戦略もことごとく失敗中。
なかなか気づいてもらえないようだ。
それともう一組、小雪が中学時代に出会った家族。
板垣四姉妹と、その師匠である釈迦堂刑部である。
ある日河原で寝転がっていた板垣四姉妹の次女である板垣辰子が、同じく河原で釣りをしていた貴虎がゲットした魚のにおいにつられ、ホイホイと近づいていったのがきっかけである。
板垣家が住まう家も、同じ工業団地の中に居を構えていたため、今では時折おすそ分けとして料理を持っていく仲にまでなった。
家族ぐるみの付き合いとして、四女の天使がゲームをやりにきてそのまま泊まっていったり、飯を食わせろと辰子や竜兵がゾンビのごとくやってきたり、たまに亜巳の収入がいいと、買ってきた肉で鍋パーティーをしたり、釈迦堂の仕事をたまーに貴虎が手伝ったりと、そんな感じだった。
小雪は今、幸せだった。
孤独だった自分を、救ってくれたお父さんに感謝をしていた。
やがて、中学を卒業し、高校へと向かう。
行先は、川神学院。
中学と同様に、仲良し三人組と一緒のクラスだ。
今、保護者席から見守られながら、小雪は入学式での席に腰を下ろした。
◆
少し、時が遡る。
遠い、日本より離れた地にて、
その誕生の鼓動は微弱ではあったが、しかしはっきりと貴虎にも届いていた。
遠い、異国の地を見つめながら、今日も王は