【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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陸生の深海棲艦に恐れおののく前線。泊地が爆撃されるだけではなく、その艦載機は本国から輸送されてくる、なけなしの補給物資をも無慈悲に沈めていく。
一刻も早いガ島攻略が望まれるなか、ひとりの若い提督が驚くべき作戦を提案する。

着々と作戦計画が進むなか、摩耶は独り、自分という存在について想いを巡らせる。


第七話 二正面作戦

 

 

 

 一九四三年五月。

 あの空襲以来、南方の空は恐怖の対象となった。ラバウルの住人たちは、いつも頭上に怯えながら暮らしていた。この事態を受け、ただちに偵察がなされた。ラバウル以外に飛行場を持たない海軍は、敵が手薄な外洋にまで空母を進め、そこからソロモン諸島に向かって偵察機を飛ばした。そして、ついに発見された。ラバウルを襲った敵機の源。それは、ニューブリテン島より東に約一〇〇〇キロ。ソロモン諸島のひとつ、ガダルカナル島だった。島の沿岸に延々と続いていたジャングルの緑が、突如として途絶える。半径六キロはあろうかという巨大な円形の不毛地帯。まるで血液を煮詰めたような、赤黒く禍々しい色彩を地に落としている。平面に整えられた土地は、明らかに飛行場だった。近寄ると敵戦闘機が群れをなして襲ってくるので詳細は不明だが、偵察機からの打電によると、いくつもの滑走路が幾何学模様をなし、膨大な機体が待機しているらしい。さらに、その円形の中央には、白いヒトのような姿を確認したという。

 陸生の深海棲艦。予想を超えて進化する敵に、軍令部は震えあがった。

 ニューギニア方面に集中するはずだった戦力は、急遽ソロモン諸島にも割かれることになった。トラックからも訓練を終えた大型の空母部隊が援軍として準備されていた。『飛行場姫』と呼称されるようになった新手の脅威をいかに排除し、空の安全を取り戻すか。作戦本部では、昼夜問わず議論が進められた。

 だが、渋谷少佐の意識は別のところに向いていた。敵機の爆弾が鎮守府に命中し、木造の建物は薪のようによく燃えた。鎮守府に待機していた艦娘や渋谷は、とにかく炎を広げないよう、本棟と右建物を繋ぐ渡り廊下を破壊した。懸命な努力により、なんとか本棟と艦娘たちの居住区を守ることができた。渋谷は、まだ壁に焦げ跡が残っている本棟の奥へと進んだ。艦娘たちにも開放されていない、今は物置として使用されている部屋だ。空襲の前、渋谷はここを一人で掃除していた。右建物から噴き出す火が、本棟の屋根を舐めはじめたとき、もう駄目だと思ったが、風向きが良かったこともあり、なんとか全焼は免れた。

 昼だというのに薄暗い廊下を歩く渋谷。その後ろを、摩耶がふてくされた顔でついてくる。

「で、なんだよ。あたしに用って」

 とげとげしい口調で摩耶が言った。

「渡したいものがあるんだ」

 演習での不和もどこ吹く風で渋谷は答える。口さがない艦娘の相手は、もう慣れていた。廊下の突き当たりまで進み、教室らしき部屋の扉を開ける。入るよう摩耶を促す。彼女は不審そうにドアをくぐった。

 そこには光が満ちていた。磨かれた窓ガラスに曇りはなく、太陽の光を余すところなく享受する。爽やかなラバウルの風に揺れる純白のカーテン。教室みたいだが、部屋は空っぽだ。椅子も机も、余計なものは何もない。黒板と、たくさんの本棚が壁に並ぶだけ。夏の匂いがする。なぜだか、摩耶はそう思った。

「ほら、これだ」

 渋谷が部屋の隅を指さす。黒板の横に、見慣れない大きな箱のような物体が鎮座している。摩耶は一瞬、それが何であるのか理解できなかった。

「ピアノだ。知っているか?」

 渋谷の言葉で、ようやく摩耶はその物体の意味を理解する。これは楽器だ。両指をつかって音を鳴らす楽器。知識はあるが実物を見るのは初めてだ。ゆっくりとカバーを開く。白と黒の模様が並んでいる。八十八鍵のアップライトピアノ。そのなかのひとつを、そっと人差し指で押さえる。弾かれた弦のように、神経までが音で震えた。生まれて初めて触れた音楽が、摩耶の頭に直接響いた。

「どうして、こんなものを、あたしに?」

「おまえは手先が器用だからな。こういうのが得意じゃないかと思った。好きにつかうといい」

 そう言って、部屋から出ようとする渋谷。あっけにとられながらも、摩耶は彼を引き留めた。

「おい、気味悪いな。この間のご機嫌取りでもしてるつもりか?」

 問い詰めてくる摩耶。しかし、その声に険はなかった。

「いいや。ただ、おまえに似合うと思っただけだ。楽譜は棚にある。読み方は分かるか」

「あ、たぶん」

 摩耶が答えると、さっさと退出する渋谷。しばらく部屋の中央に佇んでいたが、ふとピアノが目に映り、吸い込まれるように椅子を引いた。白い鍵盤を順番に押さえていく。生きるために必要のない音。なのに、なぜこうも世界が色づいて見えるのか。摩耶の記憶は、破壊と炸裂の音で満たされていた。斉射される砲弾、穿つ敵の装甲。引き裂かれる鉄の悲鳴。軋み。小気味いい機銃の掃射音。摩耶にとって生を実感する音。圧倒的な音だ。なのに、その巨大な音が押し負けている。からくりの玩具みたいな木箱の奏でる音楽が、戦争の音を洗い流していく。生きるために必要のない音こそが、摩耶の一番深いところで鮮やかに踊る。

 摩耶は壁際の棚から楽譜を取り出す。音符の意味と読み方は知っている。気がつくと、誰が残したのかも知らない曲を、ひたすら自分の音に変えていく。まだ縺れる指先を必死に繰り動かした。気がつくと楽譜が読めなくなるくらい、とっぷりと陽が暮れていた。

 翌日からも、摩耶は時間が許すかぎりピアノ部屋に通い続けた。あらゆる楽譜の音をなぞるうちに技術は向上した。楽譜の指示に従うだけではなく、音のテンポや強弱に、そのときどきの感情を乗せたりした。独創性が生まれるにつれ、曲の好みも分かってきた。より共感できる曲。自分の魂が震える曲。難易度が高く、叙情的で激しさと優雅さを併せ持つ曲ほど、弾いていてしっくりくる。とくに好きな作曲家は、リストとショパンだった。摩耶は二人の生い立ちなど知らない。しかし、互いに超絶技巧でありながら、リストの曲には他の追随を許さない、高みへと突き抜けていく鋭さがあった。それに対し、ショパンは万人を包み込んで魅了する天衣無縫の柔らかさがある。摩耶の指は、この二人に寄り添うように複雑な旋律をものにしていく。

 摩耶は思う。艦である自分にとって、これほど無意味な行為はない。しかし、無意味であればあるほど心が満たされるのだ。戦うためにある両指が、無力で美しい音を奏でるという矛盾。その矛盾のなかに、摩耶は艦ではなくヒトとしての幸福を感じ始めた。

 彼女のピアノは、すぐ鎮守府に知れ渡った。旧校舎から微かに聞こえる謎の楽曲。その奏者が摩耶であると分かった時、駆逐艦たちは一様に驚いた。

「わたしは知ってたわよ」得意げに霞は言った。「休み時間になるごとに、摩耶はどっか行っちゃうでしょ。鎮守府から出てる様子はないし、ちょっと後をつけてみたの。観察眼の勝利ってやつかしら。ま、わたしはピアノなんて興味ないけど」

 ふふん、と高笑いする霞。曙が忌々しげに霞を睨んだ。曙は、謎のピアニストのファンだった。そこにちょうど、渋谷が通りかかる。

「そういや、霞はいつも廊下で演奏を聞いてたな。せっかくだから入ったらどうかと勧めても―――」

 渋谷が言い終わる前に、顔を真っ赤にして霞が飛びかかかる。

「そこで摩耶に相談したら、あっさり許可してくれた。今は俺と霞のふたりで演奏を聴いているわけだ」

 渋谷の言葉で目の色を変える娘たち。

「なんで言ってくれなかったの? ずるいじゃない」

 渋谷から霞を引っぺがし、陽炎が笑う。

「ほんとは好きなくせに、強がっちゃってまあ」

 朧の呟きに、霞が再び牙を剥く。彼女たちは満場一致で、摩耶のところに行くことを決めた。摩耶は二つ返事で許可した。皆が余っている椅子を持ちこみ始め、最近では第一一駆逐隊や、第一六駆逐隊の面々も演奏会に参加するようになった。

「陽炎姉さん、不知火姉さん、ご無沙汰してます」

 天津風が挨拶する。普段、なかなか演習でも会えない姉妹と思わぬところで繋がりができ、陽炎たちは喜んだ。いつの間にか演奏前後の会場は、艦娘たちの社交場になっていた。音楽に興味をもつ者も増え、摩耶に演目をリクエストするようになった。演奏の評判が駆逐艦たちのお喋りから一気に広まり、最近では長門や陸奥、新しく着任した赤城、加賀といった大型艦のメンバーも足を運ぶようになった。あの大和ですら、一度顔を出したほどだ。

 やがて、歌が好きな艦娘や、ダンス好きな艦娘が相まって、会場をさらに賑わせる。摩耶も彼女たちの要望に合わせて曲を提供した。椅子だけではなく机も持ちこまれ、音楽室は活気に満ちた社交場となった。

「もしかしたら、提督の目論み通りだったのかもしれませんね」

 駆逐艦寮に戻る途中、不知火が言った。

「そうね。他の駆逐隊の子とも仲良くなれたし。とっつきにくかった戦艦や空母の人とも打ち解けることができた」

 陽炎が答える。これから起きる大きな戦い。それに向かう艦娘たちへの慰問。皆の表情が明るくなり、笑顔が増えた。艦娘同士のいさかいも目に見えて減少した。ちょっと前まで演習のたびぎくしゃくしていたのが嘘みたいだった。

「良い提督だと思います。わたしたちの命を預ける存在としては」

 落ちついた声で不知火は言った。渋谷礼輔が艦娘部隊の総指揮をとればいい。思わず喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 

 

 一九四三年五月。

 ラバウル空襲を受け、作戦本部は決定をくだした。

 ニューギニア方面に控える深海棲艦の大部隊と、ガ島の飛行場を同時に叩く、二正面作戦である。敵に連携する隙を与えず、南方の海と空を制する、まさに戦争が始まって以来の艦隊決戦の様相を呈してきた。ガ島を攻める新たな戦力として、正規空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」がラバウルに着任した。

 飛龍に乗艦するのは、かつてハワイ奇襲の途上で、艦娘と深海棲艦に始めて接触した人物、山口多聞少将である。あの戦い以降は内地勤務に移り、未来の連合艦隊司令長官、軍令部総長を期待されていた。しかし、艦娘である飛龍が、山口を自らの提督に強く推薦した。当初、軍令部は彼女の要求に否定的だったが、飛龍本人と直接面会した山口は、彼女の希望に応えようと決めた。いち艦娘の意見が軍令部の人事を動かすほど、艦娘の力は軍部に浸透していた。

「彼女には縁を感じる。ただならぬ縁を」

 のちに、山口少将はそう語っている。

 しかし、大規模作戦を展開するにあたって、ひとつ問題があった。武器、弾薬、糧食など、戦争物資の補給である。戦線が一気に拡大したことで、補給線も必然的に伸びてしまった。人類製の船が艦娘の庇護もないまま長い航海に出れば、深海棲艦の餌食になるのは目に見えていた。そして帝国には、不足した船腹量を補う造船工業能力もなければ、そもそも鉄鋼などの資材もない。陸軍、海軍に徴傭される民間船舶は増えつづけ、ついには国内間の海上輸送すら困難になっていた。

 本土での圧倒的物資の不足、そして脆弱な補給線。艦娘という新たな力を得て勝ち続けてきた代償に、前線の兵だけではなく銃後の国民にさえ飢えと欠乏の兆しが色濃く出始めていた。

 飛行場姫が出現してから、輸送船舶の撃沈は急増した。わずか三カ月の間に、空襲によって一四隻・約一〇万トンが、なけなしの補給物資を道連れに沈んだ。敵潜水艦による撃沈数を合わせれば、さらに被害は拡大した。この事態を憂慮した大本営は、練度の高い駆逐艦を船舶護衛にあてることを提案した。しかし、南方では艦隊決戦が迫り、パラオ方面ではフィリピン侵攻のための作戦が進んでいる。さらに、本土の防衛や占領地の警戒にも艦娘は必要となる。護衛に回せる人数には限りがあった。長距離の輸送任務につく艦娘は激務で神経をすり減らした。いつ襲ってくるかもしれない敵艦や潜水艦を警戒して、二四時間気を張っていなければならない。延々続くストレスは拷問にも似ていた。疲労が溜まり、任務に支障をきたすこともあった。

 敵航空機が跋扈するにつれ、南方への補給は深夜に船を進める「ねずみ輸送」に頼るしかなくなった。

 この事態を受け、軍令部の出した結論は、できる限り速やかに敵勢力を粉砕し、海上輸送網に平和を取り戻すという内容だった。そのため南方戦線の作戦部は、拙速を強いられることになった。かくして、一航戦「赤城」「加賀」、二航戦「飛龍」「蒼龍」という、空母艦娘の顔とでも言うべき大戦力が集結したのである。

 ガ島飛行場破壊のため、新たに組織されたのは、

 

第一航空艦隊 南雲忠一中将

 第一航空戦隊 南雲中将直卒

          空母「赤城」「加賀」

 第二航空戦隊 山口多聞少将

          空母「飛龍」「蒼龍」

 第八戦隊 阿部弘毅少将

          戦艦「榛名」「霧島」

          重巡「利根」「筑摩」

 第一〇戦隊 木村進少将

          軽巡「長良」

  第四駆逐隊 有賀幸作大佐

          駆逐「嵐」「野分」「萩風」「舞風」

  第一〇駆逐隊 阿部俊雄中佐

          駆逐「朝雲」「巻雲」「風雲」「秋雲」

  第七駆逐隊(空母護衛部隊)

        渋谷礼輔少佐

          重巡「摩耶」

          駆逐「朧」「曙」「潮」「漣」「陽炎」「不知火」「霞」

 

 それらに加え、第三戦隊から「金剛」「比叡」が、直衛隊として第一九駆逐隊「磯波」「浦波」「敷波」「綾波」、前哨警戒として第二水雷戦隊より「神通」、第一五駆逐隊「黒潮」「親潮」が、新たに艦砲射撃部隊として編入された。第七駆逐隊は、練度は未熟であったが、空母艦娘の文字通り「盾」として、重巡を旗艦とする異例の編成のもと、出撃が決まった。

 

 戦力は整った。あとは、その戦力をどのように動かすか。南方の運命は、この一点に委ねられている。

 ガ島攻略は、単純な艦隊決戦よりも遥かに厄介だった。敵は沖合二〇海里まで哨戒艇を出しており、もし発見されたら、すぐに戦艦、軽母の機動部隊が押し寄せてくる。かといって、艦載機での攻撃を行おうとしても、やはり二〇海里付近まで迫ると敵の電探に引っ掛かり、飛行場からスズメバチのごとく戦闘機が溢れ出てくる。敵の戦力が未知数である以上、積載数に限界がある空母での制空権争いは危険すぎた。

 困難極まる問題に、たったひとつ冴えたる解答を与えたのは幾田サヲトメだった。

 彼女の提案した作戦は、並みいる高級参謀たちの度肝を抜いた。海戦の常識をひっくり返す、革命的な戦術だった。

「艦載機を夜間運用します」

 躊躇いも気負いもなく、あっさりと幾田は言った。これには歴戦の艦娘も半ば呆れ顔だった。艦載機を夜に飛ばしたところで敵味方とも戦闘はままならない。しかも暗闇のなかでの着艦はナンセンスだ。下手をすれば機体の大部分を喪う可能性もある。だが、二航戦の司令官である山口少将は、幾田に続きを促した。

「確かに、敵艦載機や敵艦を標的とした艦載機の夜間飛行は無意味です。暗闇のなかでは、どこに敵がいるのかも分かりませんから」

 艦娘たちの反応を窺いつつ、幾田は言葉を切る。ほとんどが不安と懐疑を顔に浮かべている。ただ飛龍だけは、好奇心を目に宿していた。

「けれども、今回の目標は艦ではなく島です。島は動くことはありません。発艦の場所と飛行場の方角をしっかり押さえていれば、夜間であっても迷うことなく目標に辿りつけます」

 会議室にどよめきが生まれた。渋谷や塚本など、彼女と親交の深い者にとっては、否が応でも海に散った天才を想起させる内容だった。

「そうは言っても、着艦はどうするの? 薄明攻撃をするとして、陽が昇れば敵も戦闘機を出してくる。もし夜間に作戦を完遂するなら、どうしても夜間着艦が必要になる。搭乗員の命を預かる空母として、無茶な作戦は聞けないわね」

 艦娘のなかでも特に練度の高い、一航戦の正規空母・加賀が毅然と言った。彼女の発言に対し、何人かの将校が不愉快そうに顔をしかめる。

「空母に着艦はしません」

 その疑問を予期していた幾田は、自信を持って答える。

「飛行場を攻撃した機は、そのままラバウルまで戻ってもらいます。ガ島とラバウルの間に我が軍の飛行場はなく、往復に加え戦闘となれば燃料が足りず、操縦士の疲労も心配されます。できる限りガ島に接近したのち、ガ島からラバウルへの片道だけなら飛行は十分に可能です」

 幾田の説明により、艦娘たちが耳を傾け始める。

「部隊を二つに分けます。空母機動部隊と、海上攻撃部隊。夜間発艦し、薄明攻撃を行います。身軽になった攻撃機は、戦闘機をともなってラバウルに帰還。空母機動部隊は、発艦を終え次第退却。万が一夜間に会敵しても、相手も艦載機を飛ばせないので第八戦隊と第十戦隊で空母を守りつつ退却できます。第三戦隊を中心とする海上攻撃部隊は、ガ島正面からの夜戦を試みます。おそらく敵の守備隊との会敵が予想されます。可能ならば飛行場に艦砲射撃。もし夜明けまでに敵海上戦力を打破できない場合、すみやかに退却してください。目的は、あくまで敵の撹乱です。海からの攻撃が本命と思わせておいて、空から艦載機が爆撃を行います」

「了解ネ!」第三戦隊の旗艦である金剛が言った。「飛行場には、ワタシ自慢の三式弾をお見舞いしてやるデース」

「お姉さまは、必ず比叡がお守りいたします」

 同じく第三戦隊の比叡が拳を握った。

「どうだね、飛龍?」

 山口が尋ねる。

「やってみる価値はあると思う。戦う相手が決まってるから、不確かな艦隊戦よりずっとやりやすい。ヒコーキさんたちも、迷うことなく攻撃して帰ってくることができる」

 例え、わたしたちが沈んでも。最後の言葉を飛龍は飲みこんだ。

 かくしてガ島方面の作戦は決定された。

 ニューギニアと合わせて、同時進行の二正面作戦。この作戦は、ただちに連合艦隊司令長官の裁可を得た。

「渋谷、漣を頼むぞ」

 鎮守府に戻る途中、一言だけ塚本が呟いた。他の司令官のもとに移った艦娘を、元部下というだけで特別扱いするのは軍人倫理に悖る。それでも塚本は言わずにはいられなかった。渋谷は、ただ笑みを返した。

「もちろんだ。武運を祈る」

「互いにな」

 若い二人の提督は、歯を見せて笑った。渋谷はガ島に、塚本はニューギニアに。いつかのときと同じ、必ず生き残ろうと誓いを立てた。

 

 ラバウル鎮守府に夕暮れが訪れる。

 明日は、いよいよ出撃のときだった。深海棲艦との戦いで、歴史上最大となる決戦。艦娘たちは、思い思いの場所で時間を過ごしていた。渋谷は、いつものように海岸に沿って散歩をしていた。今日は部下を連れていない。別の目的があったからだ。しばらく歩くと、軽やかな足音が聞こえてくる。決戦を明日に控えてもなお、彼女は自らの日常を貫きとおしていた。

「水戸少尉、ご無沙汰しています」

 渋谷が声をかける。黄昏を背に涼子は足を止めた。

「こんばんは、少佐。すみません、またこんな格好で。こうしていないと落ちつかなくて」

 少し息を弾ませて涼子は微笑む。

「先の空襲では大活躍だったね。初の出撃で七機撃墜とは、おみそれしました」

「とんでもないです。敵の練度が低かったせいで、わたしの技術が特段優れていたわけではありません」

 慌てて否定する涼子。しかし彼女の活躍は、ラバウルで戦った誰もが認めている。まだ黎明期の只中にいる女性搭乗員にとって水戸涼子は、まさに行くべき道を照らす希望の星だった。

「それで、わたしに何か御用でしょうか?」

 所在なさげな渋谷の様子を見て、涼子が尋ねる。彼女の言葉で、渋谷は自分の目的を思い出した。

「そうだ、あなたに渡したいものがあった」

 そう言ってポケットから包紙を取り出し、涼子に手渡した。

「この前、部下のことで悩んでいたとき、あなたの的確な助言のおかげで問題が解決した。そのお礼のつもりだ」

 渋谷は言った。しばらく涼子はポカンと袋を凝視していた。

「ここで開けても?」

 わずかに頬を上気させる涼子。渋谷が頷くと、彼女は壊れ物でも扱うかのように、そっと袋を開いて中身を取り出す。渋谷が贈ったのは、ハンカチだった。全て絹で織られており、透かし絵のような美しい刺繍が施されている。ラバウルの街でオーストラリア商人から無理して買い取ったものだ。風に生地がそよぐたび、夕陽の光を浴びてキラキラと模様が翻る。ガラスで織られたかのような一品に見とれつつ、涼子は愛おしげに両手で包み込む。

「ありがとうございます。殿方に、こんな素敵な贈り物を頂いたのは初めてです」

「きみには本当に助けられたからな。貰ってくれると嬉しい」

 自分でも気づかないまま、渋谷の口調は弾んだものとなっていた。

「もちろんです。大切にします」

 ハンカチを胸に抱きとめ、涼子は言った。

「きみは、山口提督の指揮下で飛龍に乗る予定だったね?」

「はい。ガ島爆撃部隊の護衛として出撃します」

 凛とした瞳で涼子は言った。彼女の覚悟に微塵も揺らぎはなかった。第七駆逐隊の役目は空母の護衛。そこから飛び立つ彼女を守る術はない。

「どうか、無事で」

「渋谷少佐も」

 二人は別れ、歩きだす。今まで感じたことのない、寂しさにも似た胸の痛みに渋谷は少し困惑した。

 

 鎮守府に戻ると、すっかり陽が落ちていた。

「おい、どこほっつき歩いてたんだよ」

 玄関で早くも不機嫌そうな声につかまる。待ちくたびれたという様子で摩耶が言った。つかつかと渋谷にせまり、いきなりその腕を掴む。

「ちょっと来い」

有無を言わせぬまま早足で歩きだす。どこに行くんだといぶかしむ渋谷を無視し、摩耶は鎮守府の奥へと向かう。そこは音楽室に続く廊下だった。渋谷にとってはほとんど暗闇だが、猛禽のように眼の良い艦娘は、躊躇いなく進んでいった。

「月あかりがあれば十分だ」

 そう呟き、摩耶は音楽室の扉を開く。部屋から色が消え、水底に沈んだように青白い光が満ちている。星と月の光だ。窓の外には無数の煌めきが散りばめられ、いっとう明るい月は星々を統べるように南天の空に鎮座している。

「おまえに聞いてほしいんだ。あたしのピアノを」

 夜の空に包まれた演奏会場。強い意志を宿した瞳が渋谷を見ている。思えば、いつも演奏を聴くときは他の艦娘たちと一緒だった。ふたりきりの演奏会は、これが初めてだ。渋谷は頷き、椅子をピアノの横に置いた。摩耶の横顔も指の動きも、すべてを視界に収めることができる。

「感謝する」

 椅子に腰かけ、摩耶が言った。彼女に面と向かって礼を言われたのも初めてだった。

 ピアノの蓋を開ける。普段の荒い言動には不似合いな、白く細く美しい指が、ふわりと鍵盤の上に舞い降りる。摩耶の気遣いが聞こえる。繊細な神経の張り巡らされた指先が、ゆっくりと鍵盤に沈む。静寂のなかに生まれた音が、ふたたび夜の闇に溶けていく。ゆったりとして綺麗な音だ、と渋谷は思う。

 その瞬間、始まった。

 優しい静寂が終わる。高音から低音へ、階段を駆け下りていくかのように怒涛の旋律がほとばしる。そして今度は駆けあがり、また複雑な旋律が螺旋に絡まりながら、高音、低音を巻きこんで音の飛沫をつくりだす。まるで時化た大海原のように豪快、しかしながら、その圧倒的な音は優雅さや気品も従える。

 摩耶の指が生みだす鍵盤の波が、音のうねりと化していく。

 渋谷は、ただ見つめていた。一瞬たりとも摩耶の横顔から目が離せなかった。高みに導かれていく音とともに、瞳に光が収束していく。燃えるでもなく爆ぜるでもなく、純粋な光が強まり、放たれている。

 やがて演奏は終わりに近づく。激しさと美しさを従えたまま旋律は頂点にのぼる。そこには光があった。摩耶の演奏。その時間だけは夜が終わっていた。

 最後の一音が消える。そのときようやく、ふたりの世界に夜が戻ってきた。

 指を降ろした摩耶が、目を閉じて空を仰ぐ。拍手をしようにも渋谷の手は動かず、立ち上がることもできなかった。彼女の演奏に、何をもって応えればいいのだろう。ゆえに座して沈黙することしかできなかった。

 ショパン エチュード 作品二五の一一 木枯らし

 あの時間だけは、それはまぎれもなく摩耶の曲だった。

「なあ、提督」

 眼の光が消えている。静かな表情をたたえ、摩耶は立ち上がる。

「あたし、人間だよな?」 

 月光を背に、少女が尋ねる。自信に満ちていて、だけど少し不安げな、屈託のない笑み。ああ、これが、これこそが摩耶なのだ。

「もちろんだ」

 渋谷は言った。うまく笑えたか分からない。それでも彼女の提督として、彼女の全てを肯定する。

「聞いてくれてありがとな。おまえがくれたピアノで、ここまであたしは出来るんだってことを知って欲しかったんだ。戦争のための道具じゃない。戦い以外のことも出来る身体なんだってことを」

 照れ隠しのように背を向ける摩耶。双眸には涙が滲んでいた。そのまま少女は夜の部屋を走り出る。扉を開けて立ち止まり、背中を見せたまま渋谷に告げる。

「おまえを守るよ」

「艦隊を守れ」

 とっさに口をついて出た言葉。すでに駆けだしている摩耶。まるで渋谷の返答を拒むかのように、彼女の足音はあっという間に遠のいていった。

 そして男と少女は、戦いのときを迎える。

 


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