お気に入りの場所から見上げる空は夕暮れを越えた時間帯とあって見慣れぬ物で何処か非現実的な感慨に浸らせる。肌寒い夜風が頬を撫でて行ってどれ程の時間が経っただろうか。時折口元から吐き出される白い息が冬の夜の寒さを物語っていた。待ち合わせに選んだ場所は出会ってしまったあのベンチであり、お気に入りのパーカーでは少し寒いと父を真似て買ったフロックコートに袖を通して歩いてきたのが十二分程前の事。
事が事である故に三十分程前から待つ事にしたシロノは、何時もと違った表情を魅せる夜空を眺めてぼんやりと精神を落ち着かせていた。先日の邂逅の際に、復讐の怨嗟へと一度楔を打ったが故に、此度の交渉は不思議と冷静で居られる気がした。そう、四つの電灯に照らされて出来て伸びる影を見るまでは思っていた。
幾多の戦場に出陣しては身と魂を捧げし主に勝利を齎したとされる古代ベルカ時代における秘匿された大英雄“烈火の将”シグナム。
勇猛にして苛烈なる一撃を持ってして時には攻城戦の要とも謳われた若き騎士が一人“鉄槌の騎士”ヴィータ。
如何なる戦略であれ、如何なる戦況であれど、如何なる戦火であれども、主の隣に立ち御身を守るために己が身体を盾とした“盾の守護獣”ザフィーラ。
時に風の癒し手、時に戦略の知将、時に主を支えた賢将、立てば指揮官座れば軍師歩く姿は戦場の名医と親しまれた“湖の騎士”シャマル。
――を、模した魔法生物であるヴォルケンリッターが四人の姿は圧巻と呼べる光景であり、一魔導師としてこの場で囲まれたならば片腕を犠牲にして離脱できれば上々と言った過剰戦力が此処に合流を果たす。一番前を歩くのはやはりと言うべきかシグナムであり、次に仏頂面で難しい顔をしたヴィータ、その両隣をやや不安げな面持ちのシャマルと寡黙に表情すらも黙り込んだザフィーラであった。彼らが適当な距離に近付いた所でシロノは視線をやり、一つ息を強く吐いて立ち上がると即座に懐に右手を入れた。
「てめ……っ!」
「待て、ヴィータ」
その行動に過剰にヴィータが反応するもシグナムの上げた右腕により阻まれ、シロノが手にしたそれを放り投げるまで身動きを禁じられる。放り投げられたそれを戦場で培った動体視力で当然ながら視認できた。ヴィータはぽかんと、シャマルはあらまと、ザフィーラは訝しげに、それぞれの感情を表情によって露にした。軽いトスで投げられたそれはカード状のストレージデバイスであるS2U。そして、手首を返して二枚目を投げようとした所で苦笑いを浮かべているシグナムがヴィータの歩みを止めていた右腕を動かして制する。
「それ以上は無用だ。私は少なくとも貴殿を信頼している。何より、流石に
「……そうかい?
「ああ。我ら武人は己が武技で言を成すのが道理。……あれ程重い拳を打つ者だ。不意打ちなんぞする訳が無いだろうと思っている」
そんなシグナムの飄々として豪快な返答にシロノは少し遣り辛さを感じたのか頬が引き攣る。
「…………か、買い被り過ぎやしないかい。いや、其処まで信頼を受けて尚強請るのは些か無粋だね。分かったよ。でも、起動にロックを掛けさせて貰う。向こう三時間は起動できない様にね」
そう目の前でパスワードを一定時間受け付けないと言う方法での完全なるロックを行なったシロノに、シグナムは微かに笑みを浮かべた。同じ武人であるからか、こうも礼儀を重んじる姿勢はかなり好ましいものだ。そして、そこまでの域は行かないものの、目の前で完全なる武装解除を行なった管理局の執務官に対しヴィータは内心あんぐりと口を開けて唖然としていた。こんな奴も居るのか、と。シグナムとは違うカテゴリでありながらも徒手空拳の武人であるザフィーラもシグナムと似た思いを浮かべ、印象を好意的に改めた。そして、にこやかな笑みを浮かべていながらも、知将としての思考でシロノの思惑を見抜くシャマルは戦慄を感じていた。そう、四対一と言う図で、それも一人一人が一騎当千の戦火を上げられる人物らを模倣している魔法生物であれど、デッドコピーではない実力を持つ彼らを前にしてこの飄々とした様子であった。根が誠実であると言うのに加え、若干のお人好しの一端を垣間見てしまったからか、どうも主であるはやての優しさが脳裏に浮かんで仕方が無いのである。少し口元が緩んでしまっても仕方が無い事なのだろう。
「さて、其方からの呼び出しを受けて集まったけれども、良い返答が貰えるのかな?」
「……随分と直球に聞くのだな」
「世間話を混ぜろと言うならそれでも構わないけれども、魔法生物のみを蒐集対象としていた君たちが魔導師に手を出さねばなら無い程に焦っているんだろう?」
「……ふっ、正直私もこの手の交渉事には向いていない性格と自覚しているのでな、むしろ直球な物言いの方が好ましいな。ああ、そうだ。既に主は瀬戸際まで追い詰められている状態だ」
リーダー格のプランから外れた言葉に待ったを掛ける声があった。その声色には動揺が感じられ、四人繋がる様にした念話の中で大分焦った様に声を荒げるヴィータの姿があった。
『お、おい!? 今、シャマルが一日掛けて立てたプランが総倒れした音が聞こえたぞ!?』
『あははは……、良いのよヴィータちゃん。何となく分かってたから……』
『む、しかしだな。
『だからと言ってもよぉ……』
『それに、あれ程議論した様に、難を乗り越えた後の事を考えればシロノの提案に乗る事は魅力的だ。唯でさえ我らの独断によって誓いを破っているのだ。これ以上誓いを汚す訳には行かぬだろう』
『ぐぅっ……、そりゃそうだけどさぁ……』
『……私には分からんが、シグナムに案があるのだろう。流石にシグナムとて無案でその様な事を口にはせんだろう』
『ふっ、無論。私に任せておけ』
『……大丈夫か、これ……』
一気にシリアス気分が吹っ飛んだ四人の念話会議であるが、ザフィーラの言葉に一応の納得を見せたヴィータが引き下がる。けれど、その表情は不満ありありのぷくぅ顔であり、対面しているシロノとてシグナムの発言がかなりぶっちゃけたものであると察してしまうのも無理も無かった。同時に腹芸が上手くないと言う露見とあって、一番知的に見えるシャマルの方を見やれば頭を抱えていた。
「……ええと、話をこのまま続けて大丈夫かい」
「む? 私は一向に構わんが」
「いや、その後ろの……、いや、よそう。兎も角、流石に此方の言い分はまだ具体案を出していない状態だから判断も難しいと思う。だから……、こうして用意をしてきている」
そうシロノはトランクケースを開き、大量の紙束を取り出した。その光景を見たシグナムは瞼を瞬かせ、ヴィータはうわぁと口元を引き攣らせ、ザフィーラはそっぽを向き、唯一シャマルだけがうんうんと頷いていた。それを見たシロノは露骨過ぎるヴォルケンリッターらの在り方に苦笑し、一気に緊張感が抜け落ちてしまった。手元の資料をシグナムに手渡すと、眉に皺を寄らせつつも恐る恐ると言った様子で読み始めて段々とその表情が変わって行く。概要を纏めてある最初の数ページを読み終えたシグナムは瞑目し、胸奥から込み上がった苦い感情に歯噛みせざるを得なかった。嘘か誠か。そう内心の天秤を揺らせども、目の前の文字は変わりはしない。苦々しい表情でシグナムは対面するシロノを見やる。
「これが、これが我らの成した事なのか……」
「ある程度の脚色や色付けすらも当時の記録や証言から切り落としているから、これが削ぎ落とされた真実って奴だよ。そもそも、君たちを扱っていた人物たちが揃いに揃ってテロリストや快楽殺人者や狂信者……、手に負えない人格の類のオンパレードと言って良い。だからこそ、今回の件が極稀なイレギュラーなんだ。……十一年前の被害者である僕でさえ、機械的に人を殺して回る姿しか印象に無い君たちが、こうも生き生きとしているのには今も慣れないよ」
「は? え、いや、アンタらにとってアタシたちの印象っていったい……」
「そうだね、君ならば――」
シロノは何処か仄暗い雰囲気で声を漏らしたヴィータへと視線を向ける。その視線に篭る色は何処か感情の色を失いつつあり、今にも幽鬼に化けて夜に出てきそうな印象を受ける。その視線にぞくりと背筋が凍る様な冷たさを感じた。聞いてはならないと、騎士としての勘が警鐘を鳴らしていた。
「――得物のハンマーを片手に、脚を砕いて四肢の関節を押し潰し、必死に逃げ回る姿を嘲笑ってから、最後に頭を首が引き千切れる程に強く打ち据え、壁に押し花作っていたそうだよ?」
「……え?」
「男性の方は、老若男女の差別無く四肢を引き千切り首を圧し折り、赤子を握りつぶしていたらしいし、女性の方は黙々と光る鏡の前で心臓を引き抜き続け、時折繋がってた側から吹き出た血飛沫を受けても動じる様子は無かったそうだ。そして、シグナムは……」
「いや、良い。これを、見た途端にそのような断片が脳裏に思い浮かんでいた。ああ、そうだな。私は、いや、我らはただの機械だった。プログラムに従い行動し続ける殺人鬼でしかなかった。武人としての誉れすらも汚物の泥に漬け込まれ、引きずり出されたかと思えばこの挙句だ。所詮、我らは狂ったプログラムでしかない」
ヴィータは、いや、他の三人も酷い既視感に襲われていた。それは目の前の光景にではなく、瞼の下に映り込んだ脳裏の古惚けたノイズ混じりの映像を見ていた。目の前で泣き叫んで命乞いをしている者、慌てて我先にと自分から逃げ出そうとする者、壁や床に一部を失くした人間の血が噴水の如く撒き散らされた。
――鮮血が、舞った。
轟音と共にバットに打たれたボールの様に吹き飛んだ青年の首、少し力を入れただけで握り込めてしまうであろう赤子の首、力無く脈打つ血液の道を一つ二つと引き千切って呆気無く握りこんだ老人の心臓。
――その感触が、甦る。
嘲笑って、殺した。
見下して、殺した。
蔑んで、殺した。
自分が行なっていた時の感情が足元の影から這い寄る様に形を作って行く。ひたりと足首を誰かに掴まれたかと思えば、聞こえる筈の無い呻き声が聞こえて真下を見てしまう。其処には、幾多の死体が蠢いて己に向かって怨嗟の声を浴びせてくるオゾマシイ光景が広がっていた。三人の内、特に精神的にも幼いヴィータは青白い表情で口元を押さえており、同じく女性であるシャマルは今にも悲鳴を上げかねない苦痛の表情を浮かべており、ザフィーラは唇の端から血筋が流れる程に強く歯噛みして憤りめいた感情を押さえ込んでいた。
瞬間、甲高い手を打ち鳴らした音が響いた。
足元に居た人々の幻視も、呪い殺してやると意気込む怨嗟の幻聴も、まるで泡が弾けたかの様に霧散した。
「はっ、はっはっはっ、はー……、はー……、はー……っ! 嘘、だろ。何で、こんな……」
「シグナム、話は明日に回すかい? それとも」
「……そうだな。私とザフィーラは兎も角ヴィータとシャマルの調子が芳しくない。……ザフィーラ」
「……嗚呼、面目無い。俺も少し参っている様だ。二人を連れて行こう」
「そん、な……。け、けど、どうしてこんな事……」
「簡単な話さ」
二人の様子を見て気遣いを見せたシロノであったがその雰囲気は先程の冷たさが感じられ、その雰囲気が口から言葉に乗った様にシグナムは思った。浮かんでいる表情は憐憫に似た可哀想なものを見るもので、そして、何処か諦めを含んだものだった。
「君たちが、今まで人じゃなかった。ただ、それだけの事だ」