キッチンへと戻ったすずかは顔が上せてしまったかのように茹で上がる気分だった。壁を背にずるずると腰が落ちて行き、前のめりに顔を覆い隠す格好で「あぅぅ」と悶え、時折その悶々とした気分を発散させるためにか身体をくゆらせてやんやんと可愛らしい姿を晒していた。シロノの前でケチャップライスを頬に付けて出迎えてしまった事はまだ良い。けれど、その後の行動が恋する乙女にとって大変な羞恥心を齎す原因となるどころか、行過ぎた妄想に発展してしまう程に衝撃的だった。
「え、えへへ……。シロノさん、わたしの頬に付いたご飯食べちゃった……っ! も、もしかして、デザートは君かな、って奴なのかな。そうなのかな、そうだよね! ……そっとわたしの頬を優しく撫で上げて、唇を親指で謎ってから身長差を合わせるために顔を上げさせて……、そのまま……、えへへ……、ふふっ……、んっ、んん……。……………………お、お待たせしちゃ駄目だよね。美味しいの作らなきゃ……」
とろんとして色気の出た雰囲気のまま細い中指で唇をなぞって妖艶な笑みを作ったすずかは、強く肩を跳ねらせた。その数秒間は荒い呼吸をしていたが、幼さに潜む艶美な雰囲気が霧散して行くに連れて正気に戻ったかの様に、満更でない様子の笑顔で照れ臭そうな顔を作った。作りかけのケチャップライスにもう一度火を入れて温め直してお皿に盛り付けた後、別のフライパンで作った中身がふわりとしたオムレツをバランス良く乗せた。それは、すずかが最近桃子からの指導で教わったふんわりオムライスの雛形であった。菜箸で長らく位置調整をする事はせず、火が通り切らないうちにナイフで真ん中をすっと切り分けると、半熟オムレツのイエローカーペットが芸術的に敷かれて行く。そして、士郎直伝のデミグラスオムライスソースを下品にならないよう量を調節して乗せたら完成だった。
何度も練習をして漸く形となった手作りオムライスの出来にすずかは一つ頷く様にして自賛し、転んで台無しにならぬよう無駄に夜の一族の血のハイスペックさを用いて速やかにダイニングへと歩いて行く。お盆の上に乗ったお手製オムライスをシロノは喜んでくれるだろうか、そんな乙女の悩みを抱きながらも、冷めないうちに食べて貰いたいとすずかは思う。
「し、シロノさん、どうぞ召し上がれ!」
「うん、ありがとうね」
そうまるで手紙を渡すかの様にお盆を差し出したすずかの微笑ましい姿に笑みを溢しつつ、店で売り出せる程にクオリティの高いすずかの手作り料理に感嘆していたシロノはお盆を受け取って手前へと置いた。そして、添えられていたスプーンを手にして、いただきます、と小さく食事の挨拶をしてから一口分を掬った。今にもケチャップライスの上から零れ落ちそうな程にふわりとした卵に、一本の線の様に引かれたソースを付ける。そして、横からの期待を込めたすずかの視線を感じつつも、その一口を口へと入れて咀嚼し始める。ケチャップライス特有の甘さが少し加えられている塩によって旨みを増し、口に広がるコクのあるデミグラスソースがそれを後押しさせていた。素人目、もとい素人舌から感じても美味しいと思えるオムライスにシロノは自然と「美味い」と口にしていた。それを聞いたすずかは内心狂喜乱舞と言ったカーニバル状態であるが、表見は必死に取り繕って満面の笑みを浮かべていた。
「……ええと、因みに此れは何て言う地球料理なのかな?」
「お、オムライスです。上に掛かっているソースはデミグラスソースって言って、洋食によく使われる種類のを少しオムライス用にアレンジしたものですよ」
「へぇ……、初めて食べたけど、すずかが作ってくれたオムライスとっても美味しいよ」
「ありがとうございます!」
普段黙々と栄養補給と言わんばかりに食べるシロノであるが、この場では流石に機械的な食べ方はしなかった、いや、できなかったようで、一口一口を味わう様に時折美味しさから頷きを見せる程に夢中で食べていた。自分よりも大きいからと少し多めに作ったオムライスがあっと言う間に完食され、少し残っていたソースすらも綺麗に掬う程にシロノは気に入ったようだった。
美味しそうに食べるシロノを眺めていたすずかはほっとしつつも胸の奥がじんわりと温かくなり、身体がぽかぽかし始める事に気付けた。愛しい人のために作った料理を美味しそうに食べてくれている、そう思うだけで溢れんばかりの幸福感を感じていた。
そして、ふと、気付く。その幸福感に疼きがある事を。自分に対して笑みを向けてくれているシロノに対して、薄暗い感情が矛先を尖らせているばかりか、まるで風邪に掛かったかのように頭がぼーっとして理性の箍が緩みかけているのに気付けてしまった。何故なら、既に理性を明け渡した後の出来事を覚えているから。想い人に鋭い小さな牙を突き刺した夜の事が思い返される。頭が沸騰してしまったかの様に跳ね上がり続ける幸福指数に後押しされる様に、勝利の美酒に酔い痴れて泥酔するかの如く
(――ねぇ、
そう、囁かれた気がした。ぼんやりと夢中でオムライスを食べているシロノの横顔を見ながら、すずかは聞こえた声を聞き逃した振りをして胸元をきゅっと握り締める。忘れるな、と。独り善がりの血の営みをして、本当に幸せか、と。問い掛けて、問い掛けて、段々と頭の中の火照りが晴れて行く。
(――ふふっ、自分に嘘吐いて満たせるの?)
そう、囁かれてしまった気がした。必死に
「――か。――すずか。すずかー?」
「ひゃい!?」
「顔、真っ赤だけど大丈夫かなって……」
「えと、そのっ……、は、初めてだったので!」
「……そっか」
優しくふわりと乗せられた掌は何処か無骨で硬かった。けれど、硬さの中に柔らかさがあった。そんな感覚が先走ると、カチューシャが外れない程度に抑えられた加減で撫でられた時のむず痒くも心地良い気分が追従して行く。荒れる海波の如く荒れていた心の水面が静寂を取り戻してゆく気分だった。
(――求めたのは何時だって
(そうだね、でも、本当に欲しかったのは、この温もりだもの。姉だからって、子供だからって、友達だからって、そんな理由じゃなくて。
(――子供のままでいいの?)
(まだ、子供のままで居たいかな)
(――あっそ、あーあ、残念、またあの美味しいのを食べたかったのになぁ……)
他の子たちよりも数段先に居るからって、別に背伸びして無理する事は無い。歳の差から生じているこの少し高い身長差が今は心地良い気分だった。すずかには分かっていた。歳が一つ二つしか離れていなかったら、シロノはこんな気持ちの良い事をしてくれなかっただろう、と。未だに自分に対して子供扱いをしているから、こんなにも自然体で接してくれているのだと。二人の距離は近かったけれども、身長差から少し離れ過ぎていた。片や大人の世界に足を踏み入れている少年で、片や女の子を一足先に卒業した少女でしかないのだから、焦らずとも良いのだ。
夜の一族と崇められし理由たる禁忌の血が
「頑張って作ってくれたんだね。凄く美味しかった」
「――はい! ありがとうございます!」
「素人目で見ても凄く上手に作れてて驚いたよ。ノエルさんから教えてもらったのかい?」
「ええと、ノエルにも教えて貰いましたけど、このレシピは桃子さんと士郎さんに教えて貰ったものですね」
「ああ、あの二人に。凄い納得した。……けど、とても大変だったんじゃ……」
「……そうですね。何回も練習して、数回はごめんなさいしちゃいました。……でも、シロノさんに美味しいの食べて貰いたいなって思ったら頑張れました!」
「そ、そっか。僕の、ためにか……。なんか、照れ臭いな。此処までして貰ったのは初めてだから……」
そう苦笑する様に微笑んだシロノの頬はほんのりと染まっていて、すずかに尽くして貰った事に対して一定以上の好感があったらしい。そんな何処か可愛さを感じる照れ方をしているシロノにすずかは胸がときめく想いであった。初めて見る一面を自分の手料理が引き出したと思うと、感慨無量と言った様子で陶酔めいた幸せそうな笑顔が咲く様だった。
遠目で二人の様子をそっと見守っていたノエルとファリンは花の咲いた様な笑顔を浮かべたすずかを見て、納得の結果を引き出せた事を知ってほっと安堵の溜息を吐いた。此度、既にシロノ来訪を知り得ていたが故に忍は空気を読んで恭也の家に向かう形でお出掛けしており、「二人がベッドインしても止めなくて良いわ」と言うとんでもな言伝を預かっていたりもする。勿論ながら、二人は脳内桃色な忍と違って常識人であるため、シロノがそんな事を仕出かす人柄でないと知っているのもあってそんな危惧はしていない。けれど、もしかしたらオムライスが苦手だったらどうしよう、ぐらいの不安は抱えていたのだった。しかし、無事に愛しの彼に手料理を振舞えたらしい小さな主人の成功に若干ながら涙ぐむ様子であった。実に親馬鹿めいている愛情の深さである。すずかの幼い頃からの経緯を知っているが故に、仄暗い過去を乗り越えたのだと言う嬉しさが含まれていたのは仕方が無い事であった。忍が恭也にお熱であった頃はもっぱらすずかの世話はこの二人が行なっていたのだから愛しさ倍々と言った様子だった。
「……すずかお嬢様、ご成長なされて……ッ!」
「うぅ、オムライスが黄色い悪魔に見えるくらいに食べた甲斐がありました……」
少し涙の理由がズレている様ではあるが、ノエルもファリンもすずかを祝福している事には違いない。ファリンの場合、練習したオムライスが勿体無いと言う理由で三食オムライスだった日もあったのもあって解放される嬉しさも相まったのだろう。
「つ、次はハンバーグに挑戦してみようかなって思ってます。……食べて、くれますか?」
「うん、喜んで頂くよ。けど、無理して大きなものを作ろうとしなくて良いからね。すずかの手はまだ成長の途中だから小さいから大変でしょ?」
「え、何で大きなのを作ろうって分かったんですか!?」
「……ふふっ、どうだろうね」
「うぅ……、なら小さいのをいっぱい作ります!」
「そうしてくれると嬉しいかな」
ちらちらと自分の小さな掌を見ていたのを目撃していたからこその言葉でもあったが、たくさん練習したのだろうと確実に思えるオムライスの出来からして、次のハンバーグもまたたくさん練習するのだろうと言う予想から出た言葉であった。焼き加減の練習なら大きいものよりも小さいものの方が時間も回数も手頃であるし、何よりも失敗したハンバーグが小さければお弁当に詰める事もできるだろうと言う配慮であった。もっとも、月村家クオリティの高い牛肉や野菜などを用いるだろうとまでは予測できなかったシロノであるが、彼の助言は一口の小さい味見役に抜擢されるであろうファリンにとっては救済のお言葉でもあったりもした。影で一際大きな安堵の息を吐いたファリンが、冷凍したハンバーグを用いたレシピを考えるのに頭を唸らすのは数日後の出来事であったのは言うまでも無い事だろう。