リリカルハートR~群青色の紫苑~   作:不落閣下

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16 貴方の隣に居れるなら

 重く苦しい空気の中、恭也の到着から更に数分後の事だった。夜の一族が得意とする心理操作能力は既に解けていると言うのに、シロノは未だに虚ろな瞳でぼんやりと虚空を見つめながら椅子に座っていた。しでかした事に対し、人としての良心を酷く痛ませた忍は恭也に宥められるまで錯乱したかのように頭を抱え込んでいた。そう、彼女とて二十と少ししか経ていない少女であり、夜の一族と言う側面もあるもののその根本は唯の人と何ら変わらない。恭也に罪深さの吐露を溢していた忍の目は少し赤らんでおり、相当に罪の重さを感じて泣いていた事が察せられる。恭也とて忍の狼狽振りを見るのは初めての事では無いが、今までとは毛色の違う落ち込み方だと気付ける辺り流石恋人と褒め称えるべきだろう。

 

「……然し、もう解いたんだろう? 何故、彼はまだあの様なままになっているんだ」

「分からないわよ……。私だって、こんな、酷い事をしてしまったのは初めてだもの……」

(……え? 確か忍お嬢様、あの自棄になって襲ってきた一族の方を嬉々とした様子で暗示を掛けて社会的に抹殺した後に今までしでかした悪事を暴露して人間的地位を最底辺まで貶めていたような……。いえ、それは今は言っちゃいけない、気がします……)

 

 何処か視線を逸らして独り言を内心に留めたファリン。忍や恭也はそれに気がついていないようだが、ノエルは何処かじっとりとした何かを責める瞳を向けていた。流石メイド長と言うべきか、彼女は仄かではあるがファリンの主に対する咎めるべき何かを感じ取ったのである。そんな瞳に睨まれたファリンは「ひっ」と一言小さく漏らして背筋を良くし、今は余計な事を考えない方が良いと震えていた。そんなメイド二人の戯れとは打って変わった悲痛めいた雰囲気の三人。

 このまま暗い雰囲気が続くのだろうか、そう誰もが考える程の時間が経った後の事。虚ろな瞳に仄かな生気が戻り、椅子に崩れ落ちるかのようにして体勢を崩したシロノ。それは、一同の緊張を張り詰めさせるには十分な行動だった。能力を解除した時と同様に己が身を持って抱え込もうとした忍の動きと反する様に、今回シロノは確りと自身の腕で背もたれを掴むようにして踏み止まる。その姿は先程まで魂を抜かれていたような姿を見せていた少年のものとは思えない気丈さが其処に有った。

 

「……何から、言うべきなんでしょうかね」

「――ッ! あ、貴方もしかして記憶が……?」

「今、思えば別に当たり前な事だった……。幾ら姿形が似ていたとしても、此処は管理外世界。この様な力を持つ……()が、種族(・・)が居ても可笑しくは無い……。まさか、読心術を心得ている種族があろうとは……、流石に思いませんでしたよ……」

「シロノ君、本当に、本当に……ごめんなさい。私は貴方に辛く酷い事をしてしまったわ……」

「……俺からも謝ろう。すまなかった」

 

 誠意を持ってというよりは溢れ出んばかりの罪悪感から、と言った様子で吐き出し場所を求めた忍は心の篭った言葉で謝罪した。これもまた自分も担うべき事であると罪の分散を求めた恭也の謝罪を聞いたシロノは、未だに余韻として残っているのであろう悪心(おしん)を顔に残したままだが、確かに見て取れる困惑している様子を見せた。

 

「……いえ、別に謝って欲しいだとかは思っていませんよ。そのような種族の方々がこうして姿を隠して生きているならば、僕と言う存在は大切な妹が連れて来た異分子にしか成りえませんし、ああして本来の力を使って情報を聞き出そうとするのは当然の事でしょう。むしろ、そのような配慮をできなかった僕もまた悪かった。きっと間が悪かったんですよ。……本来、僕はこの世界に居てはならない存在ですからね。下手をすればこの星を侵略しに来た斥候部隊であると断じられたとしても可笑しくは無いのですから」

 

 そう、生気を帯びておりながらも青白い顔で淡々と答えたシロノの言葉に二人は凍り付かざるを得なかった。「何て事をしてくれたんだ!」と叫ばれた方が、「貴様のような化物が!」と怒鳴られた方が、どれだけ胸が軽かった事だろう。前者ならば罪の意識を感じる事ができて、後者ならば夜の一族としての立場であれたと言うのに。シロノの言葉は断罪の言葉だなんて生易しいものではなかった。言うなれば、求めていたのは絞首台の様な苦しみなのだ。自身らが立っている椅子を蹴られたならば、罪の意識と言う苦しみによって自己に責めを与えて――楽になれた事だろう。然し、彼の言葉は斬首台のそれだ。罪の意識を感じたまま、首を絶たれてこれからの事を考える暇も無い衝撃をもってして致命的な何かを心に負った気分だった。

 

「……僕らはマルチタスクと呼ばれる技術によって思考を分割する事ができます。貴方の行なった能力は確かにその一つの思考を奪い、言葉を持ってして情報を吐き出させましたが、僕はその行いをリアルタイムでテレビを見ているかのような気分で見続けていたんですよ。言うなれば、メイン回路を奪われたため、サブ回路に移り変わった、と言う状況でした。ですので、粗方の事は、貴方たちの種族が行なえるであろう心理的掌握能力、とでも仮称しましょうか、それを行なったとしても記憶に残るのですよ。……ただ、まぁ、何せ思い出せなかった(・・・・・・・・)罪の告白をして、知ってしまったが故に、バックファイアめいた衝撃によってショックを受けていただけ、ですからご心配なく」

「知らなかった、と言うのは……。いや……、君は、君たちはいったい、何者なんだ」

「……そうですね、本来ならば記憶を抹消又は封印しなくちゃならないのですが……、今更、ですね。まぁ、僕を未知の生物として何らかのアクションを取らないどころか、僕なんかに罪悪感を抱いてくれるような人たちですからね。……良いでしょう。この世界の宇宙の先、原初とされる何かよりもその先に存在するそれの名は次元。その次元の先に、その更に先に……と越えて行った先に僕の故郷である魔法科学を基盤とした世界であるミッドチルダは存在します。言うなれば、多平行次元世界の星で産まれた人間なのですよ、僕、いえ、僕らは。それを宇宙人と言うカテゴリに収めるかはどうかとして、この世界に産まれた人間では無い、と言う点を言わねばなりません。そして、本来ならばこの次元世界に来る予定は無かった、そもそも次元平和を願い求め続けてきた僕ら時空管理局が認知していない次元の世界に行く理由なんて、開拓か管理行動上の査察か何かでしか無かった」

 

 現実であると言う理解は追いついてはいるものの、それを上手く呑み込む事のできない二人、いや、後ろで聞いている三人(・・)も含めた彼らは勿論ながら唖然としていた。スケールが違う、SFだなんて世界すらも通り越した未だ遠き知恵の実たるこの世の真理の一つに触れてしまったのだから無理も無かった。彼らがこれまで培ってきた常識や非常識がシロノの言った言葉を否定したくなるものの、ポケットから何かしらの機械だろうと映ったS2Uの待機状態である青いカードをそっと取り出したのを見ていた。今から魔法科学の片鱗を見せ付けられるとも知らずに、だ。思念操作で遠隔操作されたS2Uはシロノが求めた通り、次元世界ミッドチルダの衛星写真めいた画像やミッドチルダにとって常識的な魔法の行使を写した画像や映像が一斉に空中に展開された。

 

「そう、本来であれば、ですが」

 

 そして、シロノの指示によって幾つかのスクリーンが消え、その場に居た全員が驚きの声と表情を浮かべるような一つの真実――高町なのはがその魔法を行使する画像と映像がその場に存在していた。くるりくるりとその映像らはシロノの周りを円を描くように回り、やがて朗々とP.T.事件と称される事件の内容を最初から語るシロノの言葉と共に一列と為した。

 

「古代における世界的災厄や事件を齎すとされる危険な古代の遺産――ロストロギア。此度はジュエルシードと呼ばれる青い宝石状のロストロギアが人為的事故によってこの次元世界、第九十七管理外世界の海鳴市と呼ばれる地域に流れ落ちました。この世界の平穏を護ろうと立ち上がったユーノ・スクライアと言う少年によって、現地協力者として恭也さんの妹さんである高町なのはさんがその類稀なる資質から僕ら魔導師の仲間入りを果たしたのが今年4月の事、そして、紆余曲折の事情を割愛しますが、フェイト・テスタロッサと言う魔導師と現地衝突し、それによって生じた小規模ながらも危険性の高い次元震の影響により、急を要すると管理局の次元航行艦アースラに搭乗していたリンディ・ハラオウン提督率いるアースラスタッフが回収任務に当たりました。そして、そのジュエルシードを巡る事件は結果的に無事収束を果たしました。……が」

 

 並べられていたそれらが取り払われると同時に、シロノは憎しみを抱く表情と悲痛な面持ちを混ぜ込んだような顔で溜息を吐いた。浮かび上がるスクリーンに映っていたのは一つの狂った魔導書。同じくロストロギア指定されている闇の書と呼ばれる金十字架の紋章の付いた一冊の本だった。

 

「S級封印指定ロストロギア――闇の書。これが、再びこの海鳴市、それも極めて近くで発見する事が出来てしまいました。本来ならば、僕は魔法生物への襲撃犯を追う任を得ていたのですが……、ああ、この世界の常識とは違い、その資質と意気込みさえあれば幼子でも働けるのが管理局です。僕はこう見えて十四歳ですが、既に教育機関を卒業した身で管理局に所属していますよ。えっと、話がずれましたね。兎も角、この世界で言うお巡りさんの立場に居たのですが、少し諸事情が……、いや、既に知られていますし敢えて濁す事も無いでしょうね、僕の父の仇である闇の書へ辿り着いてしまったが故に此方に応援派遣と言う形で来た訳です……。ご理解できていますか?」

「……えっと、かなーり聞きたい事もあるんだけど、先ず今の話は本当、なのよね?」

「ええ、その時の出来事で最たる物と言えば……、確か、市街地に巨大な木の根が蔓延した時があったとか」

「……ああ、あの原因不明になっている巨大植物事件の事、だな。そもそも何でなのはがそんな危険な事に足を突っ込んでいるのだとか、何で黙っていたんだとか、あの時の外泊はそう言う事かだとか、少し語るべき事ができてしまった訳だが……、取り敢えず聞いておきたいのは、この情報を何故教えてくれたんだ? 君の言葉を信じるならば相当な情報統制がされている組織なのだろう。それこそ、記憶の処理を行なわねばならないような、な」

「……逆ですよ、貴方たちは既に知り過ぎてしまった。だからこそ、伝えられる情報を此処で開示し、今後の追及を封じさせて貰います。……それは、僕はこの事件が収束した後、この次元世界に特別な理由無しに立ち入る事は無い立場にあるからです。どうか、この話を内密にしてくださりませんか、と。貴方たちからすれば僕の口を消してしまえば簡単に証拠隠滅を図れるでしょう。然し、それは勘弁願いため抵抗せざるを得ない。管理外世界での魔法行使には其れ相応の理由を求められますので、此処で合った事を報告せざるを得ないのですよ。……何より、貴方たちの能力は有能過ぎる。……それは、過ぎたる力を未だに求め続ける上の欲しがりそうな能力です。……貴方たちは能力を使っていなかった事にして、能力を用いて聞き出した情報を墓まで持って行く。それだけでお互いに利益が出る、……できれば頷いて頂きたい」

 

 そう言葉を重ねるシロノの雰囲気はそこらの歳の子供のそれとは比べられない程に早熟したものであり、それは彼らの知る由も無い執務官としての顔であった。何よりもその内容はお互いの利益、いや、明らかに忍たちに対するメリットの高過ぎる密約のそれだった。罪を告白し許しを請う立場である筈の忍たちに対し、シロノは下手に出てその事を頼み込んでいる。つまり、シロノは根っからの善意からこの事を申し出ている事他ならない。申し訳無さと困惑せざるを得ない立場である当主としての有り方に揺れ動かされるようにして、忍はその内容に頷きをしようとして――。

 

「勿論ながら、これ以上の接触はお互いに利にはならないでしょう。すず、……妹さんとも一切会う事は――」

「絶対にそれは嫌ッ!!」

「――ありませ、ん?」

 

 シロノが全く来ないために痺れを切らして迎えに来たすずかは扉の前でこっそりと中を窺っていた。なのはが隠していたであろう事の真相を知り「そうだったんだ」とほっとしたような雰囲気はたちまち消え失せる事となり、思い人であるシロノが申し出た内容は確かに一族の露呈を隠し闇に葬る事で確かな安寧を得る事だろう――すずかを除いて、はだが。シロノとこれから一生会えない、その事を一瞬でも思い浮かべてしまったすずかにはもう限界だった。勢い良く扉を開け放ち、跳び付く様にしてシロノを止めるためにその胸へと縋り付いた。この声を、この愛しさを、この温もりを、もう手に入らないとしたら、悲しみのあまり塞ぎ込んで泣き喚き、そうなったであろう原因である忍を一生嫌悪しながら、触れられない愛しさの喪失感から最悪の場合命を絶ちかねない――と自己判断してしまったくらいに、それは嫌だった。その小柄でありながらも確かな逞しさと力強さを感じる胸に抱き付いたすずかはぽろぽろと大粒の涙を流しながら嫌だ嫌だと首を振る。そして、心の奥底から溢れ出るそれに蓋する事無く、口に出した。

 

「シロノさんにもう会えない、なんて、絶対に嫌です……ッ! そんな事になったらお姉ちゃんをずっと恨みます。それはもうこの手で縊り落としちゃうくらいに恨んじゃいます! そして、お姉ちゃんを八つ裂きにした挙句その血の一滴すらも食い散らかして始末しちゃったら、多分、わたしも一緒に死にたくなっちゃいます……。こんなに、こんなにも大好きなシロノさんに触れられないと思うと、もう、駄目です。駄目に、なっちゃいます……。もう……、我慢できなくなっちゃいます。でも、此処で我慢したらもうシロノさんと会えなくなっちゃいます……。それは、絶対に、嫌。…………シロノさん!」

「う、うん、何かな?」

「わたしはシロノさんの事をこの世で、幾多の次元世界の中で一番愛してます!」

「……………………………………はい?」

「大好きで、心の奥底から大好きで! いつもいつもシロノさんの事を想っちゃうくらいに愛してます! だから、一緒わたしの傍に居てください! と言うか、しちゃいますから! わたしの魅力にメロメロになって貰います! シロノさんが会わないって言うならわたしから会いに行きます! その遠い場所になっても、絶対に其処へ辿り付いて見せますから! だから! だから……っ! もう、会わないだなんて言わないでください……」

 

 そう、心の限りを言い放ったすずかは震える声で、やがて消え入るようにシロノの胸の中に納まる形で呟いた。胸元に零れた涙の冷たさによってか、自分を異性として求めてくれていると理解できたシロノは今にも壊れてしまいそうなすずかを壊れ物を扱うかのように繊細な扱いで受け止めた。それは、愛しい誰かを抱くような抱擁ではなく、泣いた子供をあやすかのような優しい抱擁だった。

 

「……ごめん。けどこれからの事を考えたら――」

「嫌です」

「け、けど本当に危ないんだ」

「嫌、です」

「危険が――」

()! です!」

「…………ええと」

 

 愚図る様にして突っぱね続けるすずかを折る事は難しいと判断したシロノは大人である忍ならば言い聞かせてくれるだろうと其方を見やるが、何故か其処には机に背後から心臓を打ち抜かれたかの如く体勢で倒れ伏す忍とその姿を見て顔を掌で覆っている恭也の姿があった。元々とんでもない事をしたと言う自覚がある忍はすずかの先程の言葉を聞いて追い討ちと言うレベルではないオーバーキル気味の絶句をして卒倒したのである。遣り過ぎの代償と言える愛妹からの抹殺宣言はかなり堪えたのだろう。完全にノックアウトされたであろう忍が其処に有った。

 正直に言えば、シロノとしては自身に行なわれた行いを盾に今の話を頷かせたかっただけだった。数日とは言え心を通わせたすずかを含めた彼女たちに対して記憶の改竄を行なうのは忍びなく、更にその一部に高町なのはの兄である恭也が居るからこそ、情報を開示できるだけして釘を刺し、自分がこの世界から雲隠れすれば事は立たないと考えたためだ。なのはから情報が漏れた場合、彼女を囲い込んだリンディが事を抑える事になり、穏便に済ませる事ができる範囲に事が動かない。だが、派遣されてきただけの陸所属の執務官であるシロノから事が漏れたとすれば話が変わってくる。しれっと人のトラウマを好奇心で自白させてしまうような人物だ、此処で釘を刺さずに居ればぐいぐいとそれらを盾にして情報開示を求めてくるに違いないと考えてしまったのである。尤も、忍としても未知の科学技術、それも魔法だなんて言う自分たちの存在以上に神秘的な眉唾な物を目の前にして目を煌めかせる人物ではあるが、その前にやってしまった事に対して消沈気味且つ自重気味であったのでシロノが去った数日後辺りに無い物強請りの呟きをする程度だったろう。

 だが、すずかの乱入により更に話がズレたのである。友人程にではあるが気を許しているすずかにここまでさせた上で先程の提案をそのまま通すのはかなり良心が痛むのであった。自身に対するトラウマ暴露の余韻すらも失せてしまう程にシロノは狼狽えていた。更に、クロノとエイミィ以外の同年代、それよりも下であれば尚更に接点が無いであろう少女の宥め方なんて知りもしなかった。

 先程の言葉を撤回せねば離さないと言った気概の心算で、シロノの胸元で縋り付く様に抱き着いているすずかの必死の抵抗に対し、シロノは完全に白旗を内心で上げて今にも取り下げたい気持ちで一杯になっているのを押し留めている内情であった。そう、執務官的に情報漏洩自体が拙いのに加え、こんなに良い子であるすずかを自分の様な環境に置くだなんて有り得ない、と言う心配でもあったのだ。自分に着いて来て一部の上層部にすずかたちの能力を知られればどれだけ恐ろしい事態となる事か、新米執務官としてCランクの任務だけをこなしている立場ではあるものの、その背後と思われる人物たちへの微かな足跡は聡明なるシロノにとっては一部上層部の腐敗化を見抜く事に十分過ぎた。何よりも、時折ハリケーンに巻き込まれるが如く隊長ズの飲み会に付き合わされた際、酒の席で愚痴を吐露した挙句、迫撃砲の如くぽんぽんと出る爆弾話の数々を聞き及んでいるが故に思い浮かべるにも容易かった。そんな居た堪れない気持ちで居たからか、すずかの悲しそうな瞳を見たシロノの心の奥で、何かが折れる音が聞こえた気がした。

 

「……分かった。けど、先程の提案は呑んで貰いたい。……ああ、最後に付け足した一言は取り消させて貰うよ、だからそんな顔はしないでくれるかい?」

「はい! なら、大丈夫です。そもそも、わたしたちも夜の一族としての能力は秘匿するべきものですから、先走り過ぎる嫌いのあるお馬鹿で頼もしくもあるお姉ちゃんでも其処まで踏み込みませんよ」

「うっぐぅ……」

「おい、確りしろ忍! おい!」

「…………つまり、要らぬ事をしてしまった、と」

「え、えーと……、し、シロノさんの事を知れてわたしは嬉しかったです!」

「あー、うん、もうそれで良いや。何でこう僕は空回りと言うか深読みし過ぎるんだか……」

 

 すずかの笑顔の前でがっくりとシロノは肩を落とした。先程の比では無いが暗い雰囲気で落ち込み始める。肩を落として前のめりになった事で抱き締め返すかの様な形になり、内心で喜色の表情を見せたすずかはこれ幸いと言った風に強く抱き締めた。その小さくも温かい柔らかな感触はシロノの心を癒す促進剤に成り得た。と、言うよりかは一種の釣り橋効果的な心理状態である。落ち込んだ矢先に颯爽と舞い降りる温かな光、その温もりは太陽の慈愛の如く優しく包み込むのだ。釣り橋効果は恐怖からの心拍数の向上を恋愛のそれと錯覚するものであるが、失墜の時に包み込むかの様な温もりを絶好の機会で与えてくれるパブロフの犬めいた錯覚により若干の刷り込みが進んでいたのである。心が疲れた時近くにすずかが居てくれると安定する、と言ったような無意識な心理状態が生じ始めているように思える。それをすずかが知れば棚から牡丹餅と言わんばかりの満面の笑みで「シロノさんの支えになれるのであれば、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、隣で支え続けます」と言うに違いなかった。この少女、既にシロノを篭絡するため外堀を掘り始めていた。そっとシロノの腕の中から這い出たすずかは慈愛を込めた表情で微笑んだ。どんよりとしていたシロノは、その笑みが聖王の齎した微笑の如く尊く感じていたのだ。ああ、何て心安らぐ微笑だろう、と。既に心理的壁は抜かれているらしいシロノの陥落具合に少々ながら察しつつもすずかは柔らかい口調で言った。

 

「シロノさんはお疲れになっているんです。だから、暗い事を考えちゃうんですよ。……これからの事は明日にして、今日はもう休みましょう。ね?」

「…………そう、かも知れないね。今日は色々と疲れたからもう寝てしまおうかな……」

「シロノさんの寝室(・・)まで案内しますね。それじゃ、ノエル、そこの駄目なお姉ちゃん、略して駄姉ちゃんをお願いします」

「は、はい。お任せくださいませ、すずかお嬢様」

 

 そう忍が優雅に振舞う時の雰囲気を彷彿させる振る舞いをしたすずか。その場を去った二人に対し、ノエルは一挙遅れる形で頭を下げて送り出した。握られた小さな手に引っ張られる形で何時の間にかすずかの寝室に連れて来られたシロノは、身近に居て嗅ぎ慣れた匂いに対し違和感を感じた。そう、自分が泊まるであろう部屋は客室の筈、なのにすずかの匂いがするのは何故だろう、と。彼は知る由も無かったが、夜の一族が好みの異性に対して放つフェロモンは性欲を駆り立てる代物、媚薬めいた香の効果を発揮するものであった。――そして、忘れてはならない。すずかは先祖返りによりその血を色濃くした少女なのだ、と言う事を。例え鋼鉄の精神で酒に蹂躙されながらも、隊長ズの女性陣による色っぽくも艶やかなからかいを耐え切ったシロノであれ、その色香に酔いを覚えるのも無理は無かった。そう、引率の任せるままに柔らかなベッドの淵に座ったシロノは、隣に座ったすずかの顔を見て何処か仄かな温かさを胸に宿るのを感じていた。それは一歩間違えれば信仰に至り狂信となるであろう類の感情であり、この場にすずかが居るからこそ心が落ち着くのだろうと言う無意識な安堵感を覚えていた。ぼんやりと隣で座り続けるシロノの様子に首を傾げたすずかだったが、次第に熱が引いていったのか自身の大胆な行動に対し赤面していった。

 

(……あれ、何でわたし自分の寝室にシロノさんをご招待してるの? も、もしかしてこのまま頂かれちゃう?! けど、今可愛い下着を付けてたっけ!? え、えっと、えっと……、あれ、そう言えばシロノさん黙ったままだけどもしかして寝ちゃってる、……訳無かった。何でかすっごいわたしを見てる。それも微笑みを交えた凄い格好良い表情で……ッ!! そ、そう言えばシロノさんわたしたちの能力で何かされていたのにわたしたちの事を考えてくれてたし……、嫌悪感を感じて、ない? 恭也さんみたいに? ……凄い嬉しい。状況を見るに凄く酷い事をお姉ちゃんがやらかしちゃったみたいだけど、此処までわたしに心を開いてくれてるって事は……)

 

 そうすずかは少し俯いていた顔を上げてシロノを見やる。優しい微笑みを向けてくれているその表情を見ただけで、蕩けたような目でとろんと頬を緩ませて喜んでしまったすずかはいやいやと内心で首を振って正気に戻る。そして、恐る恐ると言った様子でその小さな口を開いた。

 

「あの……、シロノ、さん」

「……なんだい?」

「シロノさんは、わたしたちが怖く無いんですか? お姉ちゃんが酷い事をしちゃった、って言うのに。わたしはその妹ですよ?」

「……そもそも怖いの定義が違う、かな。僕らの世界には魔導師と呼ばれる魔法を行使できる存在が大半で、その魔法の中に君たちのような行為をしようとすれば出来るものもあるくらいだ。……足が着かない、と言う意味で君たちの能力は恐ろしいものなのだろうけれども……、くくっ、すずかのような可愛い女の子に恐れを抱く事は無いよ。それに、あの自白は僕にとっても嬉しい誤算でもあったんだ。どうも、本能的に、と言うべきなのかは専門の学の無い僕には分からないけれども、確かに僕の無意識はそれを抱え込んでしまっていたようでね、最近、いやあの時から時折自分が何をしていたのか、何を考えていたのかがぽっかりと空く事があって、その原因が漸く知れたんだ」

「その、何て言えば分かりませんし、シロノさんの気持ちが分かる訳ではありませんが、一人で抱えないでください。きっと、シロノさんは一人で抱え込んでしまう人なんですよね? 相手の事を考えて拳を振り上げる事すらもしないくらいに、優しい人です。だから、頼り無いかも知れませんがわたしを頼ってください。シロノさんに何があって、何をしたとしても、わたしはあの時言った通り、シロノさんを愛して……ます!」

 

 途中素面に戻りかけたものの雰囲気に押されるのではなく確りと口にしたすずかの言葉にシロノは苦笑を浮かべて、困った顔と嬉しそうな顔を混ぜたような表情で真摯に返した。

 

「……うん。その気持ちは嬉しいんだけど、流石に今のすずかは幼過ぎるからごめんなさい、かな」

「…………だ、大丈夫です。わたしも今の年齢じゃ難しいとは思ってますので……、でも諦めません。十六歳までにきっとシロノさんをメロメロにしちゃうんですから!」

「……あはは、すずかは魅力的な女性になるだろうね。僕は……、まだ、そう言う事に気分が乗らない……、いや、はぐらかすのは止めようか、怖いんだ。大切な人をまた(・・)亡くしちゃうんじゃないか、ってね。……目の前で、血を吐いたんだ。目の前で、死んで、しまったんだ。だから、かな。自分でも分かるぐらいに僕は僕を大切にしていないんだ。求めるべき目標はある、のに、ね」

「シロノさん……」

「でも、ね。こうして誰かに想われているってのは心が温かくなるものなんだ、と知ってしまったからか、もう少し自分を大切にしようって思えたんだ。……すずかのお陰かな?」

 

 そう屈託の無い素の笑みを浮かべたシロノの顔は此れ程以上の衝撃は無かったと感じる位に衝撃的なものとしてすずかの恋心を撃ち抜いた。それはもう、最初は血の関係だけでもと思っていた頃とは打って変わったようにして、シロノを想い始めてしまったすずかの恋心に更なる油として注ぎ込まれたのだ。脳内が幸福で満たされるかのような有頂天な気分でその幸福感に身を委ねてすずかはその笑顔を見惚れてしまっていた。完全に恋に落ちた瞬間だった。ずっとその笑顔を自分だけに向けて欲しい、と。自分だけを愛して欲しいと言う女の欲求が鎌首を擡げ、すずかはその衝動のままに押し倒そうとするのを理性で振り払い、今まで見せた事はないだろう会心の笑みを返した。


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