リリカルハートR~群青色の紫苑~   作:不落閣下

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15 愚かなる再認識

 身体の数箇所に比較的長く残り易い傷跡が存在するその身体。健康的な色合いと引き締まった肉体からは男らしさを感じる事だろう。師匠ズによって満面の笑みで叩き落された経験のあるシロノは、その修練地獄から自力で這い出す事のできた唯一の弟子であった。それ故に武人としての心構えを芯と見立て、熱いうちに叩けとばかりに総出で叩き込まれた武技や知識は士官教導センター以上の情報量だった。そんな日々を一年過ごしてきたシロノの身体は恭也や士郎からしても武人の逞しい筋肉であると判断できる伸び代の良い成長をしていた。

 と、そんな自身の身体を見やる事ができるのは久方振りに対面した少し大きめな円鏡があったからだ。更に付け加えると此処は居候しているハラオウン家の物では無い風呂場であり、何処か甘い良い香りがするかなり大きめな風呂場。シロノにはその名称は分からないが、日本人であれば分かるであろう。素晴らしい巧みの造形がされた大理石を多量に使われた西洋風の高級な風呂場だった。外からは見えぬ角度が計算されているのであろう景色からは、遠くの山が鳴海港の海と絶妙にマッチした雅な風景が見えていて、この風呂場を設計した者の才能の高さを感じさせる。

 

「……なんで、こうなったんだっけ……?」

 

 そう心身の疲れを流し落としたいとばかりにぐったりとした表情を浮かべるシロノは月村家ご自慢の風呂に浸かっていた。シロノが覚えているのは、結局寝ぼけていて足先が覚束無いすずかを背負う事となり、恭也のナビゲートの下に辿り着いた月村家で忍と会話していたら何時の間にか宿泊する事が決まっていた事だけだった。誘導尋問めいた見事な話術によって泊まる事に頷いてしまったシロノは、にっこりと笑みを浮かべた忍の末恐ろしさを実感してしまったのであった。既にクロノへ外泊の言を伝えているため、今更帰るには月村家に対する失礼に当たってしまう事だろう。まんまと蜘蛛の巣に自ら飛び込んできたようなものであり、忍が本気であったなら既にすずかとベッドインしていたに違いなかった。

 恐るべきは月村家の科学力なのだろう、忍が揺らす小瓶の中身の効果の程は恐らく恭也が熱弁する事だろう。あれはヤバい、と。因みに、それは発情期を迎えた忍の愛液から抽出された媚薬成分を濃縮した物を薄めた媚薬液であり、それを食事に盛られた恭也は二日間も忍を求め続けたと言う禁制染みた代物である。勿論ながら、恭也の鉄の意志があったと言うのに関わらずこの効果である。通常の人間に用いれば、希釈倍率によっては漫画のゾンビめいた素振りで女を求めるだけの獣になるに違いない代物であり、先に恭也から電話で釘を刺された事で阻止された一品である。その他にも二人の年齢、特にすずかの年齢を気にした恭也による懸命な釘刺しにより、忍は今回(・・)は手を出さない事に落ち着いたのだ。シロノが恭也へ電話を入れなかった場合、間違いなく婿入りコースの手筈であった。残念ねぇ、と小首を傾けて棒読みな言葉で漏らした際、恭也は電話越しに感じ取っていた。確実に妖艶な悪魔の微笑だろう、と。未来の義弟であるかもしれないシロノが、四面の外堀が陥落した状態で滲み出るかのような追い込みによって愛を囁かるのは不憫だろう、と言う理由から恭也はシロノに味方する事にしたのである。尤も、手出しができない時は致命的な状況だろうとも考えているので、近々そこらへんの事を教えてやった方が良いだろうと考えているあたり、見事に尻に敷かれているのであった。愛する恋人のえげつなさをこれでもかと思い知った後であるため、諦めが肝心であるとも悟っているのである。男として喜ぶべきか、複雑な恭也の心境であったのは言うまでも無いだろう。

 普段よりも柔らかな髪の艶やかさに何処か複雑な思いを感じながらも、恭也用の新品な黒いスウェットに上下を通したシロノは風呂場から出る。すると、ずっと待っていましたと言わんばかりに立ち尽くす薄い紫髪の女性が静かな微笑みで出迎えてくれた。首下に赤いリボンのワンポイント、触り心地の良さそうな品のある紫色のドレスに、フリル付きのエプロンとヘッドドレスを装着したメイド服を着こなす姿は瀟洒な雅であるのと同時にメイド長としての威厳を示していた。

 

「お洋服をお預かり致します。翌朝に間に合う様にさせて頂きますので、如何かご安心を」

「あ、すいません。ありがとうございます」

「ふふ、そう硬くならなくてくださいませ。私たちメイドは主人に使える身であり、使用される事を是とした人であるのです。主人の大切なお客様であるシロノ様ならば、どうぞご自由に扱ってくださいませ。それこそが私たちメイドのあるべき立場ですから」

 

 メイドと言う使用人の存在に慣れていないどころか先程知ったばかりのシロノは何処かぎこちなく接してしまう。しかし、ノエルはそれを心得ていると言う様子で無表情めいた顔を動かして小さく口角を上げて微笑んだ。それだけで何処か冷めている印象を感じるノエルの雰囲気が柔らかく感じる。尤も、以前無表情の顔が怖いとすずかに泣かれた事があったため、忍ともう一人のメイドであるファリンと猛特訓し、無表情が常ではあるものの少しだけ動かせる範囲で工夫をする事で雰囲気の転換に成功したのである。そんな事を知らないシロノはその大人な微笑みに何処か色気を感じて頬を赤らめてしまう。

 そう、シロノはこの手の経験が少ないため、特に年上の大人っぽい仕草に弱かった。年上の女性として真っ先に上がるのがオーリスと師匠ズの二人と母親であるため、このような落ち着いた様子のタイプとは無縁だったのも大きい。レジアスの娘であるオーリスは弟として扱ってくるため何処か気軽であり、師匠ズの女性二人は言うまでも無く暴走系であるため暴風の様な扱いにならざるを得ない。そして、一番身近であった母親については――思い出さない様にしているため脳裏に浮かぶ事は無い。浮かべたくない程に嫌悪している訳ではなく、家族として愛していたが故に、シロノは触れるのを止めたのだった。

 見惚れられている事に勘付けないノエルは少々ながら首を傾げつつも、シロノが手に持っていた洋服を受け取って案内を申し出た。シロノは無意識めいた動作で洗濯物を手渡し、歩き出したノエルの背を何処かふわりとした感覚で着いて行く。二人の行く先はリビングルームから繋がっているダイニングルーム。時既に夜に近付いた頃合い故に夕飯を取るには適している時間であると、洋物の大きな振り時計が長針を七に短針を六に示して十九時半を伝えていた。

 ダイニングルームの扉を恭しく開けたノエルが促すままに中へ入ったシロノは、香ばしい牛肉の焼けた匂いを鼻腔に感じて漸く自身の空腹に気付く。父の仇だったシグナムとの再会によって精神的に疲れを感じていたのだろう。自身の感情が所々揺れ幅が大きく普段通りとは狂ってしまっている事を自覚するまでに時間が掛かってしまったのだろう。そう、シロノは思った。何処か呆けているシロノにくすりと笑みを浮かべた忍は手招きをして、対面の席に座るすずかの隣を指差した。其処にはシロノの席であると予め決められていたのだろう、鉄板に乗った肉厚なステーキがポテトやニンジンのソテーを添えて皿に飾られていた。ハラオウン家でも中々出会う事のできない豪華な食事にシロノは驚きながらも戸惑いも感じていた。

 

「あら、もしかしてこういうのは初めてかしら?」

「……ええ、お恥ずかしい事ながら友人の家に遊びに行った思い出がありませんので」

「えっ、あ、えーと……そ、そう、楽しんで行ってくれると嬉しいわ」

「はい。お言葉に甘えますが、そうさせて頂きますね」

(A5ランク超えのステーキに関する問いだったんだけど……、地雷踏んだみたいね。もしかしてこの子、結構ハードな人生送ってたりするのかしらね。……経歴も戸籍も、ましてや出生届けすらも見つからないんだもの、普通じゃ無いわよねぇ……。まぁ、うちも大概普通じゃないけれども、ね)

 

 何処か引き攣った表情を笑みを浮かべる事で上手い具合に隠した忍はそっと仄暗い感情を思考に走らせる。忍は夜の一族の家の一つ、月村家の当主である。幾ら最愛の妹が愛焦がれようとも見知らぬ男、それも裏のルートを使っても素性すらも手に入れられない人物を懐にそう易々と受け入れられる訳が無かった。妹の手前、肯定的で親愛的な素振りを取っているが忍の心情は疑心暗鬼めいた疑問の嵐に見舞われているようなものだった。一瞬別口から出掛けたが、表情に暗に出さないその腹芸の深さが夜の一族と言う存在の深さを物語っているようなものだろう。

 隣に自然な様子で座ったシロノに心一杯の喜びを見せるすずかの姿は藍色の可愛らしいワンピース。かつて社交場の間で意中の相手の瞳の色や髪色を意識した格好をして己の恋心をそっと仄めかしたのを意識したチョイスであった。シロノはそんな背景がある事を知る由は無いが、可愛い服装だねと微笑みを交えて素で送った。胸を撃たれたかの様な喜びが込み上がった途端に惚けた表情で満面の笑みを返したすずか。そんないつかの自分たちよりもいちゃらぶしている二人を見た忍の心境はかなり複雑だった。

 

(うーん……、この子天然と言うか……、どちらにせよ判断できないわね。身内にはかなり甘いタイプ、そう見せかけてるならかなりの役者よこの子……。…………はぁ。恭也が恋しい。私たちがいちゃついてる時の周りはこんな気分だったのね。すっごくもやもやするわぁ……)

 

 とても楽しそうに談笑しながら食事を続けるシロノとすずかの姿は兄妹の様にも見えるが、明らかに好意を持って一つ一つの会話を楽しんで喜んでいるすずかの甘い雰囲気に触れたのか次第にシロノも柔らかい表情で会話を楽しんでいた。そんな幸せそうな状況に、とある理由を目的に話術を駆使して家に引き込んだ忍の内心はとても複雑だった。最愛なる妹への罪悪感と当主としての不信感、更には何処か暗がりの雰囲気を感じ取れた事での同情や危機感も相まってかなり混沌としていると言うのにこの光景である。胃薬が欲しいと初めて思った瞬間だった。その心境を恭也が知ったならば、漸く自重を覚えたかとほろりとするに違いなかった。

 

「ご馳走様でした。久方振りに満腹まで食べた気がしますね……。お料理は何方が?」

「僭越ながら私が担当致しました。満足して頂けたようで何よりです」

「ああ、成る程。ノエルさんでしたか。また、機会があれば有り付きたいものです」

「……ふふ、その時には全霊を持って腕を振るわせて頂きますね」

「むぅー……、……次、頑張らなきゃ……」

 

 二人の仲良さげな会話に嫉妬心が芽生えたすずかはむっと小さく唇を尖らせて、シロノに手料理を振るうためにより一層練習を頑張ろうと熱意を込めて決意した。そんなほのぼのとした雰囲気に毒されたのか忍は一度考えるのを放棄して静かに大きく溜息を吐いた。それを見ていたファリンは何処か同情めいた困った表情でどうもできないと肩を落とした。そして、彼女が持っていたお盆もまた傾いたのだった。均等に並んでいたデザートが音を立てた事で慌てて姿勢を戻したが、するりと滑った一つが床へと落下してゆく。普段ならおっちょこちょいでドジっ娘なファリンのフォローをする人物が一人や二人居るのだが、意識外での出来事に誰もがあっと声を漏らして動く事ができなかった。

 唯一、複数の思考を得意とする人物以外は、だが。

 流れるようにして椅子を倒しながら床を蹴り付け、ゆるりと横合いから落ちて行くバニラアイスの入った小食器を掬う様にして手に取ったシロノの姿が其処にあった。アイスが固形状であったと言うのもあるが、中身が落ちない様に丁寧な拾い方をしたのもあって床も小食器も無事だった。

 

「ご、ごめんなさい……! シロノ様ありがとうございます!!」

「あはは、取り合えずそのトレーを置きましょうか。二次災害に成りかねませんし」

 

 そう何の考えも無しに頭を下げた事で、再び傾いたお盆の片隅を掴んだシロノは苦笑混じりに呆れつつファリンを窘めた。それにはっと気付くようにしてしっかりとお盆を平行にしたファリンは、とっても申し訳無さそうな表情でお盆をテーブルに置き、しょぼんと肩を落として顔を上げる。その先には心底呆れた様子の主人とこの場で無ければ(シロノがいなければ)説教を始めるであろう冷たい瞳で見つめている先輩メイドの姿があった。小動物の様に震え始めたファリンは縋るようにしてすずかを見た。が、そのすずかはヒーローみたいに小食器をキャッチしたシロノの横をぴょんぴょんと飛んで可愛らしい様子で談笑していた。

 

「凄かったです! もう駄目かと思っちゃいました!」

「くくくっ、これぐらいなら朝飯前さ。先程美味しい夕飯を食べ終えたところだからね」

「……あ! 夕飯の後で、朝食の前! そんな感じのタイトルの小説がありましたよね」

「友人が持っていてね、暇潰しにどうだと渡されたもんだから……。面白いタイトルだと思ったよ」

 

 頼みの綱とも呼べる人物たちが談笑しているのを見たファリンはぎこちない様子で振り返る。すると笑っているのに笑っている雰囲気をしていないノエルとばっちりと目が合い、「あ、これもう駄目だ」と諦めの表情と共に涙を目尻に浮かべた。普段通りな静かなる折檻(おせっきょう)が始まったのを一瞥した忍はすっと視線を横へ、シロノへと移した。あの瞬間、忍は恭也が居れば、とふと思った。愛しの彼ならばあれぐらい軽々とキャッチするだろう、と。それは恭也の身体能力で護られた事で知っているからであり、当然めいた帰結からの無類の信頼である。だが、彼はどうだろうか。経歴も、戸籍も、出生届も、更には彼が居候とする家族のそれらも見つからない事実は、とうとう忍が引いた一線を越えてしまった。

 

(……黒に近いグレー、ね。あの身体能力……明らかに普通じゃ無い。それも、彼は知覚すらしてなかった筈の出来事に対応した。……予知能力? いや、そのHGSならあの小食器が落ちる前に注意している筈……。アドレナリンの過剰分泌? いや、それにしては動悸も脈も匂いも同じ……。……駄目ね。今夜、恭也を呼んで決行、ね。……ごめんなさいね。例え罪が無くても、疑わしきは撃たねばならないのよ。……私たちは、平穏に暮らしたいのだから……)

 

 そう黒い感情を瞳に灯した忍の視線に気付いたのかシロノが忍を見やる。けれど、その視界には既にその感情を隠し切った忍の微笑む表情だけが残っていて、その残滓すらも手に取る事は出来やしないだろう。少し寒気を感じたシロノは冬だからかなと気のせいにして席へと戻ってデザートのバニラアイスを食べ始める。少し時間が経ってしまったからかバニラアイスはくったりと溶けてしまっていた。尤も、二人の談笑の内容でそれに気付いた忍は既に溶け切ってしまっていた。何処かしょんぼりとした様子で掬ったバニラアイスは忍の感情を表すかのようにどろどろと零れ落ちる。そんな光景を見た忍は溜息を吐いた。ままならないな、と。

 

「ああ、そうだ。シロノ君、少しいいかしら?」

「中々痛烈な遣り取りで――はい?」

「お喋りしてるところ悪いけれど、シロノ君に伝えておかない事があるのよ。だから、少しついて来てくれるかしら?」

「はい、構いませんよ。此方としても厄介に成っている身ですから」

「そうそう、入っちゃいけないスペースだとかを、ね。すずかは部屋で待っててくれるかしら」

「……え?」

「その、そんな片翼を毟り取られたかのような表情をされると正直すっごく心が痛むし今も色々ときっついんだけど、ちょっとだけだからお願いできる?」

「…………もしかして。……うん、分かった。シロノさん、お部屋で待ってますからもっとお喋りしましょうね!」

「うん、また後でね」

 

 何かを察した様子でとっても名残惜しそうな表情を向けてから、すっとシロノからは表情が見えない角度に首を動かして忍を見たすずかの顔はとても冷たいものだった。けれど、家族としての信頼があるからだろう、笑ってない笑みであると分かるぐらいで嫌われている類の感情を持っていない事は見て取れる。それは、奇しくも高校生時代の時に恭也が他の女性と話している時の忍の表情と似たものであり、露にする感情は嫉妬から至る憤怒、もしくは疑惑の視線であった。

 

「シロノさんに手を出したら……めっ、するから、ね?」

 

 そう夜の一族が持つ特殊な力の一端である血、それも先祖返り染みた血の濃さから本来の力に手が届くすずかの魔眼は一際強力なものだ。心理操作能力の上位である意識操作能力を有しているすずかには忍の操作は受け付けず、更には逆に傀儡とする事もできるだろう。そして、夜の一族が誇る肉体美の他に、単純に力が強いと言うのもある。それは高い運動能力や再生能力にも及ぼすものであり、本気で取っ組み合いをした場合すずかが勝つ程までに圧倒的な差があってしまうのだ。だからこそすずかは他の夜の一族の者にその血の濃さを理由に狙われていたのもあり、その制御には特に注視して訓練を行った事もある。それは日常生活で咄嗟に用いた際に起きる悲劇を減らすための努力でもあった。

 が、故に、忍が調子に乗って遣り過ぎた時にかっちーんとすずかが怒り、マウントを取ってからの執拗なまでのくすぐり攻撃にこてんぱんにされた事があった。そして、酸素切れの手前まで追い込まれながらも必死で謝ったのを機に、すずかは「めっ」と当時彼女が叱られる時に用いられていた言葉を敢えて使って忍を許したのであった。

 かなり本気で言っているらしいすずかの様子にその記憶が浮かび上がった忍は強く頷いた。最悪記憶を消してすずかに渡そうとまで考えていた忍の脳裏からその手の荒事に罰点印を付けられたのであった。何処か怯える色が見えた忍に小さな溜息を吐いたすずかはファリンを連れてダイニングから去って行った。当初は忍の部屋で恭也の合流を果たしてからと考えていたが、あそこまで釘を刺された以上手荒な事は愚か外道なアプローチも駄目だろうと判断し、忍は自身を見やるシロノの瞳に自分の瞳と交差するように心理操作能力を発動させた。

 途端、目尻が下がり何処か寝ぼけたような表情になったシロノの隣、すずかが座っていた席へ対面するように座りなおした忍は問い掛ける。

 

「さて……、貴方は私の質問に答えなさい」

「……はい」

 

 そう虚ろな瞳を忍に向けたシロノの様子は何処か人形めいており、自白剤を打たれたかのような恭順さで忍に頷いた。それを良しとした忍はあっさりと掛かった事で何処か呆気無さを感じながらも質問を続ける事にした。

 

「貴方の名前と出身は?」

「……シロノ・ハーヴェイ。……第一管理世界ミッドチルダのクラナガン首都出身です」

「…………んん? もう一度出身を答えてくれるかしら」

「……はい、第一管理世界ミッドチルダのクラナガン首都出身です」

「…………そ、其処は如何言った場所かしら?」

「……この第九十七管理外世界から遠く離れた次元にある第一管理世界ミッドチルダは、魔法文明を基盤に歴史を経た世界です。また、機械技術も進歩しており、この世界で言う高度な技術は魔法と成り得るを体言したかのような世界です。極めて短縮して答えるならば、この世界とは別の次元にある異世界であると答える事が一番分かり易い答えでしょう」

 

 そう実は語り癖のあるシロノの口から齎された情報に目を見開いて驚きを隠せないと言った表情でありながら、頭を抱えて「そりゃ見つからない筈よ」と此れまでのリサーチの掴みが無かった理由を悟った。まさか異世界とは思わなかったのだろう。それを疑うにも、夜の一族の心理操作能力は極めて効果が強く、強靭な意思を持つ者に対しては破られかねない代物ではあるものの幾多の場面でその有効さを発揮してきた信頼できる技術でもある。よって、シロノが嘘を告げていると言う点が無くなり、本当に異世界から来たのだ、と言う証拠になってしまったのである。流石にノエルもこの返答には驚いた様で、珍しく口元に手を当てていながらも驚いた表情で呆けていた。

 

「……本当なのね?」

「……嘘は言いません」

「そう。なら、異世界人である貴方は何故此処に、この街に居るのかしら?」

「……捜索指定S級ロストロギアである闇の書の封印及び破壊の任務でクロノの家に居候する事になりました。此処に来た理由は寝てしまったすずかを運んで来ただけで、別段泊まる気も無く、何時の間にか泊まる手筈になっていて此方も驚きました」

「あ、本当にそうだったんだ。……んん? S級ってのは高いランクを示す感じっぽいわよね。それは如何言ったものなのかしら」

「……S級はコードレッド級措置を前提とした災害レベルの災禍を齎す可能性があるものに付けられます」

「…………その、闇の書ってのはどんなのかしら?」

 

 忍は何処か他人事のような距離感を掴み兼ねる気分でそれを聞いた。そして、シロノは数秒黙した後、正確に伝えるための言葉を吟味したのだろう――口を開いた。

 

「……この魔法文化的防衛手段を持たない第九十七管理外世界であれば二日で全人類が死亡した後、あらゆる生物が滅びる程の危険性を孕んだ代物です。もし、対処を間違えればこの星そのものに寄生し、搾り取れるその最後の瞬間までを共にした後無限転生プログラムによって他の主人の下に移る事でしょう」

「……………………は?」

「……闇の書は原型が魔導書型記憶処理特化デバイスだったのもあり、改悪されたデータによって今もプログラムエラーを起こし、その不具合によって間違った修復をされ続ける悪循環を辿って狂っています。……けれど、今生の主であるはやてと言う第九十七管理外世界出身であると思われる少女の意向によって、今はその凶悪さを押し留められている様です。足元からの麻痺の継続によってその命を削っている事を知らずまま、純粋なる善性から闇の書を護る守護騎士たるヴォルケンリッターに新たな意思を齎した。更には主を救う手立てとして蒐集活動を行なった様子もあり、癪上の余地有りと判断し、闇の書の被害者として今の段階であれば十分な手筈が取れる状況でしょう」

「ちょ、ちょっと待って頂戴! え? はやてって、それ多分すずかの新しいお友達って言う八神はやてさんよね!? 世間は狭いってレベルじゃないわよ!」

 

 妹の恋する相手の素性を探ろうと突っついたら、得体の知れないダークマターと共に時限式の爆弾が出てきたかのような心境である忍は吼える様にして頭を抱えた。待てと言われたシロノは口を噤み、次の指示を待つと言った様子で虚空をぼんやりと見つめていた。うがーっと若干オーバーワーク気味の頭を唸らせた忍は現状を整理した。シロノはそのかなりやばい闇の書を何とかするためにクロノの家に居る事、更にそのかなりえげつない代物を持っているのがすずかの友人である八神はやてである事、そして、これが一番重要であるがシロノがこれに対して何かしらの対応を取ろうとしている事、だろう。

 

「……現状で取れる最善の一手は?」

「……人道的な否定材料を取り組まないならば八神はやての暗殺による先延ばし。然し、この手は僕の理念から絶対に取る事は無い。次にイデアシードによるプログラムを記憶と見立てたアプローチによる初期化。これは成功確率が不明のため一か八かの最後の切り札。本命は八神はやてに対し状況を説明し、ヴォルケンリッターにも監視下に置いて闇の書の起動と共にワクチンプログラムを注入し、暴走していると思われる箇所を魔力ダメージによる追い出しを行ない封印処理を行なう事。そのための布石として既にヴォルケンリッターの一人に対し極めて拙い状況であると伝え、協力を申し出させるための一手を数時間前に取った。相手側の反応からして数日の猶予があるため、一度報告に戻り闇の書の初期化処理又はワクチンによる修復を行なうプランを立てるべきと言う旨を伝える。ヴォルケンリッターとの協力を前提に、マスメディアに対し此度の主である八神はやては管理外世界の善良な一般人でありながらも此度の闇の書修復計画に快く協力した人物であるとイメージアップを図る手筈を整える。事態の収拾が着いた後の事を考えて、下半身麻痺の状況下で暮らしていたなどの内容からドキュメンタリー的同情を誘い、彼女に対するヘイトを格段に下げる宣伝を水面下で用意し、成功と共に即座に行なう。そのような草案を提案する予定です」

「……何と言うか、用意周到なのね……。そのはやてさんに対してはどんな印象を持っているのかしら?」

「……一般人である八神はやてが以前の闇の書の所業によって齎された怨嗟を担う必要は皆無。むしろ、主になってしまった事に対し同情すべき人物であるとするべき、と僕は思っている。それ故に、要らぬ心の傷を負う必要は無いと考え、全面的にフォローする立場で動く必要があると感じている。また、父さんであればそんな悲劇を許しはしないだろうから彼女を救うべきだと思っている」

「……ん?」

 

 一つ目と二つ目の理由は分かるが、三つ目の理由がどうしても忍は嚥下する事はできなかった。常識的な一面から見て上記二つの理由は尤もであり、好感が持てる考え方だろうと思えた。然し、父親が理由に絡むとなると、と忍は考えを一端止めて、意識を操作して理不尽に尋ねている状況であるからこそ尋ねた。そう、尋ねてしまった。

 

「お父さんが理由って如何言う事かしら?」

「……父さんは十一年前の闇の諸事件で負った傷によって後遺症を得てしまい、内臓器官の衰弱から四年前に亡くなりました。そして、その結果を受け止め切れなかった母さんは父さんに対する知識の混濁によって僕を父さんであると心を病む事で正気を保とうとしました。僕は、死んだ父さんの代わりになろうと努力をしました。けれど、母さんは正気に戻る事は無く、精神から来る衰弱によって精神病を伴い、僕を父さんだと思って性的行動に出ようとしました」

「――ッ!?」

「……僕は、父から託されたこのイデアシードにより母さんの記憶を消しました。それは、数時間前と思われる性的行動に出ようとする思考した内容を狙っての事でしたが、操作に不慣れだった事から父さんが亡くなる前、二年前までの記憶を消してしまいました。父さんが居ない理由を単身赴任であると誤魔化したけれども……、母さんは日記を付けていたようでその記述から起きた事を理解してしまったのでしょう。イデアシードには記憶を抽出し純粋魔力水晶へ変換する機能がありますが、対象者がその記憶の欠損を理解してしまった場合、加えて純粋魔力水晶が消費されていない状態であった場合のみ記憶を取り戻す作用もありました。それにより、全てを思い出してしまった母さんは僕に謝罪の言葉を掛けて泣きながら、翌日命を絶ちました。僕は、イデアシードに頼るだけじゃいけなかった。父さんにならなければならなかったと強く後悔しました。母さんの自殺によって父さんの上司であるレジアスさんが僕を引き取った後も、僕は後悔し続けています。だから、僕は父さんにならなくちゃいけないのです。故に、父さんが取るであろう思想を紡ぎ続かなくてはならない。そうでなければ父さんと母さんが居た事を誰もが忘れてしまうから。だから、僕は、僕は、ぼくは……」

 

 息を呑んで口を閉ざしてしまった事で忍の静止が無かったが故に、淡々と、冷たい氷を滑るかのような口調で語り終えたシロノの瞳から頬にかけて涙が流れる。それは、彼の奥底に眠るトラウマだったのだろう。無意識的な状態であるが故にトラウマを話す事が出来たが、その代償として心へと返ったダメージは衝撃的なモノだった事だろう。ぼくは、ぼくは、と壊れたラジオの様に呟き続けるシロノの頬には絶えず涙が零れていた。忍は取り返しの付かない事をしてしまったと漸くにして自覚した。何の決意も覚悟も無くトラウマを口に出した事により、シロノの心の傷は深く抉れた。それも無意識状態であるために、正気に戻ったとしても忍とノエルが言い出さない限り知る由も無い傷跡である。忍は自身の犯した事に手の震えが止まらなかった。もしも、この先シロノが完全に壊れる事があったならば、その楔を入れたのは間違いなく彼女の尋問によるものだろうと帰結される。しかも、月村家に仇為す存在ではなく、むしろ世界規模的に救おうとしている立場の人物であった。何時ぞやの恭也に対し自身の正体を明かした時のような恐ろしさを忍は感じていた。奇しくも自身が夜の一族と言う化物であると再認識できてしまったのだ。

 健気に咲く花を手折るかのような所業をやってしまったからこそ、忍の後悔の念は深いものだった。心理操作能力を解いた途端に崩れ落ちたシロノを忍は正面から抱き抱える様にして受け止めた。涙を溢しながらごめんなさいと言う呟きが止まらなかった。ノエルはそんな主人を見て何も言う事はせず、そっと恭也に連絡を取るのだった。


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