リリカルハートR~群青色の紫苑~   作:不落閣下

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14 閉じ込めていたモノは

 朝早い時間にごぼりと水面へ浮かぶ泡の様にして夢が弾けた。ぼんやりとした感覚でゆるりと開かれる瞳は青い色をしていた。一つ、二つと瞬きを交えてシロノは思考の撃鉄を引き上げるのと同時に上半身を起き上がらせる。視界に映るのは昼時でありながらも何処か肌寒い自然公園のいつもの光景、そして自身がいつものベンチに座って居眠りをしていたのを思い出してふわぁと欠伸を一つ溢した。利き腕の右腕で口元を抑えようと持ち上げようとしたが、何かに引っ掛かったように動く事は無かった。そして、自身の右腕を抱え込むようにして、成長途中の小さいながらも自己主張する二つの柔らかさと子供の高い体温の温もりを知覚した。

 一つ二つどころじゃない瞬きをして即座に状況判断に努めたのは執務官としての習慣か、それとも予想外に対する自己防衛反応だったのか、どちらにせよシロノの表情は驚愕の文字に尽きる滑稽なものだった。寄り添うようにしてシロノの右腕を両腕で抱えて枕にする濃い紫色の髪が特徴的な少女の寝息が聞こえた。見知った相手のすずかに抱きつかれて居ると理解して、驚愕が安堵めいた苦笑の形へ変わる。

 

「……ぐっすりだなぁ」

 

 寝起きの幾つかの行動で揺れたからか逃がしはしないと言わんばかりにすずかが強く密着して身動ぎする。その際にふわりと彷徨った甘い香りが鼻腔を擽り、少女であっても女性である事を男と言う性に無意識に意識させた。幼くも妖艶な香りを纏うすずかの整った顔をシロノはぼんやりと見つめていた。其処には近所の兄が構ってと愚図っていた妹が寝てしまったために浮かべる苦笑混じりの微笑みが浮かんでいた。

 

「シロノ……さん……」

 

 何処か安堵した表情で嬉しそうに紡いだ寝言が自分の名であった事にシロノは少し意外そうな表情をした。もしかすると夢の中で自分に会っているのかもしれないな、そう微笑ましくなったシロノはすずかの髪をさらりと撫で付ける。端から見れば男女の愛撫にも見えてしまう程に何処か魅了される遣り取りに雰囲気が柔らかくなる。

 普段のシロノを知る人物が見れば二度見した後に絶叫めいた驚愕の声を上げるに違いない。地球での生活に慣れて一ヶ月は経っている時間は数えてみると少なく感じるが、体感する時間としては十分な長さを持っていたのだろう。考えれば分かる事だ。犯罪者の行方やその動機の推察、更には犯行現場での検分と言った少年の精神に対し多大な負担を掛ける環境に居たのだ。そんなシロノが仕事に手を付けず、外に居ると言うのに自然の中で居眠りができる程までに精神が落ち着いた環境で過ごせばどうなるか。

 日和に似た安心感が齎すリラックス効果は冷たく磨り減って行く精神を穏やかに留め、更にはストレスの発散場所として自然や誰かとの会話を得れる環境は確かな変化を齎していたのだろう。以前に増して柔和な笑みを浮かべる事ができるその変化は、シロノが誰かに対して少しだけ優しく、そして、誰かに居て欲しいと言う無意識の欲求を満たすのに十分な環境であった証拠だろう。ミッドチルダに居た頃のシロノであれば、そもそも居眠りすらも億劫に軽んじて仕事に没頭していたに違いない。

 両親を亡くした影響からかシロノは偶に食事の温かさを求めていた。それは、近くに誰かが居て欲しいと言う心からの渇望だったのだろう。こうして、年下の少女であれども確かな生命の温かさを感じる事に深い安堵感を覚えていた。昔の自分が見れば呆れそうな行動に出てしまっているのも無意識的な親愛表現であり、性欲と言った感情を帯びない愛しさから心に温かなものを確かに感じていた。

 どれだけの時間が経っただろう。すずかの髪を撫でるのを止めたシロノは何処か満足したような達成感を覚えながら一つ息を吐いて空を見上げた。いつもの場所で、いつもの時間で、いつもの空。それなのに、隣にすずかが穏やかな寝息を立てて寝ているからか、それとも抱きつかれて子供特有の体温の高さを感じているからか、見上げた空の夕暮れは何処か温かみを感じる。ふと、遠くから仲良さげな会話の声が聞こえた。甲高く何処か柔らかみを感じる声の高さから女性の会話なのだろうと理解できた。声のする方角へ視線を向ければ視力の高いシロノには口元が動いている車椅子の少女と――その姿に凄まじい既視感を覚える桃色髪の女性を見つける事ができてしまった。

 

「あれは……。まさか……」

 

 方角からして翠屋のある方角から歩いてきたらしい。翠屋の特徴的な色合いのロゴが印刷された箱の入った袋を車椅子の手元に引っ掛けていたのが見えた。そして、彼女たちは会話に夢中のようで誰かにぶつからない程度の注意はしているもののシロノたちを視認している様子は無かった。大通りに向かうのだろう、シロノたちが居るこの道の先は大通りに面する出口が存在するため察するには十分だった。ぼんやりと輪郭が分からない距離から段々と鮮明になってゆく距離へと近付くに連れてシロノの目尻もまた吊り上がって行く。車椅子に乗る少女が膝元に置いている装飾が施された金十字のカバーが付いた黒い本に気が付いたからでもあった。シロノが追い求めていた悲劇を齎す本にして最悪な災害と化すS級封印指定ロストロギア、その名は闇の書。魔導師ならばその異様さとおぞましさを孕んだ気配が齎す魔力の圧力の威圧に気が付ける。それは秘匿されながらも目にはっきりと見えてしまうかのような邪悪さを持て余していた。会話に夢中になり注意が散漫になっていたのだろう。車椅子を押す女性が貫くような殺気と共に視線を浴びている事に気付き、シロノへと視線を向けて漸くに視認した。

 

「くっ、何たる不覚……っ」

「んー? どうしたんやシグナム。お? あれすずかちゃんやないか! 隣に居るのは……誰や? 何やら怖い顔しとるけども……」

 

 無機質な表情で車椅子の少女ではなくシグナムを睨み付けるシロノとの距離は数メートルのものとなった。車椅子の少女が居る以上逃げ出す事はできないと判断したシグナムは、少女の友人であるすずかが隣に居る事に希望の一端を握る賭けに出た。一般人であるすずかの前でシロノが強行に出るか否か、そんな危うい賭けであった。

 

「おーいすずかちゃーん! おろ? なんや寝てるみたいやなぁ。日向ぼっこしてるヴィータみたいにぐっすりな顔しとるし……。ああ、すみません。わたし、すずかちゃんの友人しとります八神はやて言います。お兄さんは?」

「……ああ、僕はすずかの友人のシロノ・ハーヴェイ。……まぁ、後ろの人の知り合いでもあるね。そうだろう? シグナム(・・・・)

「……そうだな。容態は如何なものだハーヴェイ」

「なに、お陰様で出歩くには十分さ」

 

 そう意味深な問いかけをしたシロノの提案とも取れる口調に、シグナムは賭けに乗ってくれた事に安堵の息を内心吐きながらも頷いて肯定の意思を示した。相互的にこの場で争いを行なう事はしない、そんな暗黙の線引きを引いたのだ。一つ肩の荷が下りたような表情でシグナムは従来の真面目さからとても申し訳なさそうな顔でシロノの傷を労わった。皮肉混じりではあるが、そんなしゅんとしたシグナムの表情に毒気を抜かれたシロノは肩を竦めながら答える。

 

(んー……? 何やシグナムとすずかちゃんが言っとったシロノさんの雰囲気が悪いなぁ。初対面らしい訳でもないし、何かやらかしたんかな?)

 

 そう首を傾げながらもシロノの右腕にべったりとくっつて幸せそうに寝ている友人のすずかを見てほっこりとした笑みを浮かべるはやて。左米神にぐりぐりと空いた左手の指を押し付けるシロノは何処か悩ましげな痛みを感じているようだったが、先程のような険悪とした雰囲気は霧散しており、すずかから聞く優しいお兄さんみたいなシロノの雰囲気を感じ取っていた。シロノとしては目の前に鎮座する闇の書の持ち主であろうはやての一般人然とした様子に、悪い予想が当たった事の世の不条理さに舌打ちしつつもこうして何か大きな事件が起きる前に出会えた事の奇跡に感謝していた。目の前のはやては首を傾げながらもころころとした笑みを浮かべており、同じ歳程であるすずかの温かさから失ってはいけない市民の一人であると再認識する。何処か意を決したようにしてシロノは先程までの憎悪の炎を鎮火させ、極めて冷静に二人と接する事にした。

 

「……さて、どうやら君はすずかの友人みたいだね。申し訳無いがこの有様でね、十分な睡眠時間だろうからそろそろ起きるだろうとは思うのだけれども……」

「あー、別に無理して起こそうとは思ってませんから大丈夫ですよ。それにしても……可愛い顔して寝とるなぁすずかちゃん。よっぽど好きなんやねぇ」

「ええ、自身の身を任せられる程の信頼感を感じる寝顔ですね」

「……僕としては其処まで信用されているのが驚きの身ではあるんだがね。まぁ、無碍にするつもりも無いけれども……」

 

 肩を竦めてそう嘯くシロノにピーンとアイデアが浮かんだはやては察した。シロノはすずかを女としては見ておらず、護るべき妹か何かの括りに放り込んでいるのだと。よくある近所のお兄さん的存在であると認知しているのだろう、そう理解できた。そして、そんな彼に猛烈アタックするすずかの奮闘に幸あれと言わんばかりに内心で合掌する。罪作りな人やなぁ、と。明らかに好意を迫られているのに関わらず歳の差からかそれに気付いていない様子は女心としてはあちゃーものであるが、年下の少女に言い寄られて鼻の下を伸ばすような性癖を持っていない常識人である事に少々の安堵も感じていた。流石に、シロノさんはロリコンでね、とカミングアウトされてカップルになった報告をされるよりも精神的にも安心できる結果である。尤も、その恋愛道はとても険しいものになるだろうと言う直感は正しく、恋人になるまでは大変だろうなぁとはやては苦笑を表情に露にする。対してシグナムは堅実な性格に好感的であるようで、女に好かれるからとがっつくような人物で無い事に好意的な見解を覚えていた。

 

《……彼女が闇の書の主、と言う事で良いんだろう? 僕としてもこの場で、いや、そもそも一般人であろう彼女を無理矢理捕縛するつもりは無いさ》

《……そう、か。正直に言ってお前を無条件で信じるには難しい。然し、主はやての友人であるすずかの信頼を得ているお前ならば……信じてみたい、とは思うのだ》

《どうやら当ては外れたらしい。率直に聞こう、感情があるんだな?》

《む? 見れば分かるだろう、……と言いたい所ではあるが確かに初期の頃は無機質なそれと言って良い状態だったのは間違い無いだろうな。その口振りだと私たちは感情の無いものだと認知されているようだな……》

《ああ、闇の書のプログラムであるヴォルケンリッターは無機質的な人形であり、主の意向によって殺戮機械然とした様子でテロ行為すらも躊躇い無く行なう精神性である、との事だが、……どうやら此度の主は慈悲深いようだね》

《……ふっ、成る程。あの時の言葉はそう言う事だった訳か。認めよう、我らが主である主はやては善良な一般人だ。そもそも魔力蒐集は我らが独断、主はやての意思は無い》

 

 その一言にシロノは驚愕の表情を浮かべた。他愛の無い世間話をしている最中にそんな表情を浮かべれば、はやてが疑念を持つのも無理が無かった。シロノは何でもないよと手を振って考え事をしていたと白状し、はやてはむーっと膨れっ面を向けた。それに申し訳なさそうな表情をしてから翠屋の話題を振ったシロノは念話を続ける。

 

《其れほど驚かれるとは思わなかったが……、まぁ先程の事を顧みれば妥当な驚きか。……正直に言おう。主はやての病状、下半身に回った麻痺がじわりじわりと昇っているらしい。これは恐らく闇の書の侵食だと我らは判断している。その麻痺が心臓に達すれば……主はやては死に至るだろう。故に我らは主はやてとの約束を破り、闇の書の完成を目指している》

《……闇の書の完成は、主を取り込んでの暴走である事を知っていて、か?》

「何ぃっ!?」

「おおぅ、何やシグナム、凄い喰い付きやな。やっぱりシグナムも女やなぁ、甘いものには弱いんやな?」

「す、すいません。実はその、前に食べた味が忘れられなくて……」

《くくっ、それなら今度連れて行ってあげようか?》

《五月蝿いっ! 余計なお世話だ! ええい、そんな事はどうだっていい! 闇の書の暴走とは如何言う事だ!? 完成させれば大いなる力を得るだけでは無いのか!?》

《……その前に一つ聞きたい。十一年前の事件の内容を覚えているか?》

《………………いや、分からん。我らは起動の度に記憶を消去されている。辛うじて一部が残っている程度だ。……まさか。そんな筈は……ッ》

《そのようだね。どうやら君たちは記憶の継承はされていないようだ。それも、一番大事な所を抜かれているようだね。……いや、違うか。そもそも此方の情報では闇の書はその根幹のプログラムが改悪されている魔導書であるとされている。更に、原型を辛うじて留めている程に壊れているとも、ね。恐らくは記憶を消去されているのではなく、幾度も行なわれた暴走によってプログラムが破損し、その影響から断片のみを覚えている、と言った具合だろう。思い出せないのは再生しようとしているものが既に砕かれてしまっているんじゃないかな。そして、過去の闇の書事件の内容を省みるに暴走の際にヴォルケンリッターは吸収されるらしい。その条件は蒐集の後半、それも瀬戸際に因るものらしいね。まぁ、恐らくながら最期の蒐集なのだろう。だから暴走の際の記憶が無いんじゃないかな》

《そんな……っ、いや、然し、それならば暴走と言う末路を知らないのも頷ける。……ならば我らのしていた事は……》

《いや、無駄では無いさ。……シグナム、僕を信じる事は出来るか?》

《……何?》

《僕は闇の書と……、以前の君に対して憤りを感じてはいるが、記憶の無い今の君と宿命に巻き込まれただけのはやてさんを憎んでいるつもりは無い。最良の結果にさせるために、取引を申し込みたい》

 

 雑談の合間、シロノは一瞬ながら真剣な表情を浮かべた。その一瞬の表情をシグナムは見逃さない。それはそうだろう。シグナムは剣の扱いから察せられるように歴戦の武人でもある。その一瞬を見逃せば相手の刃によって致命傷を負うのは自明の理であり、数瞬の瞑目の後にシグナムは意を決したかのように瞼を開いた。

 

《……時間を貰っても良いだろうか。我らは主の剣であり盾だ。私は将ではあるが、統括の任に就いている訳ではない。故に話し合う時間を貰いたい》

《そうかい、何日欲しい》

《……最低でも三日、か。幸いにも主はやての病状が蒐集によって落ち着きを見せている。それぐらいの時間は取れるだろう》

《そう、か。ああ、分かったよ。僕のデバイスのアドレスを送る。場所の指定は其方で決めてくれて構わない。……勿論、君と出会った事と主の事はその時の結果までは伏せておくさ。何ならサーチャーを送ってくれても構わないよ》

《……感謝する》

「さて、そろそろお開きにしようか。大分話し込んでしまったようだしね」

「え? あちゃー、ほんまや。もう夕方落ちかけやんか。ほんならすずかちゃんの事は頼んでええか?」

「勿論さ、この時間に一人で帰らせる事はしないよ。確りと家まで送って行くさ。……それにしてもよく寝てるなぁ、もう四時間は経っているんだけども……」

「ふっ、それほどまでにお前の隣が気に入っているのだろう。大切にしてやると良い」

「……そうだね。君も、確りと護ると良い。その気概はとても好ましいからさ」

「当たり前だ」

「あはは、二人とも仲ようなったみたいやな。最初はおっかない顔して睨み合ってたからどうしようかと思ったけど、仲良しさんになれたみたいやな」

 

 はやての朗らかな笑みには確かな安堵と安心の色が見え、内心かなり心配していた事を二人は読み取れた。だからだろう、似たような苦笑を表情に浮かべたのは。何処か似ている雰囲気を持つ二人だからだろうか、ふっと笑った顔を同じタイミングで作った。

 

「みたいだね。少々ながら行き違いがあったようだ」

「ああ、正しく擦れ違いなのだろうな。……すまなかった。これだけは先に言わせて欲しい」

「……ああ、その言葉を貰えただけで軽くなったよ」

 

 シロノは何処か遠くを見やる風にしながらもシグナムの謝罪を受け入れた。怒鳴る事は既に済ませ、一発殴るのも既に終えている。だから、次は負の連鎖を断ち切るための行動を起こさねばならない。それは、執務官としてのシロノの本位であり、被害者の一人としての真意でもあった。それは、闇の書被害者の会の定例に一度参加した際に見た被害者たちの暗さとその狂気染みた怨嗟の愚痴に対し、こう成りたくは無いと言う同属嫌悪的な感情を得たからかも知れない。ふっと儚い笑みを浮かべたシロノはシグナムに対して確かな好感を得た。武人らしい無骨ながらも芯の通った謝罪は確かにシロノの心を打ったのだった。

 

《良い返事を期待しておくよ》

《……ああ、善処すると誓おう。大事な人を失う辛さを、今の私は一端ながらも理解できるからな……。君の両親の仇であるらしい私が言うのも何だが、どうか主はやてに慈悲を。その尊き心に平和を齎して欲しいと願うばかりだ》

《……勿論さ。善良な一般人を悪に担ぎ上げてまで事を成そうだなんて執務官である僕が許しはしない。むしろ、この段階で出会えて良かった。もし、闇の書の主が危険思考を持たない一般人であった場合の草案を考えていたのが功を制するかも知れない。今ならば、まだ、間に合う。負の連鎖を此処で、僕の手で断ち切る事が出来る……》

 

 その念話越しの感情の発露にシグナムは感嘆の声を漏らし掛けた。何と言う誠実な心か、と。そのような少年の明るい未来を奪った以前の自分の行いに自己嫌悪の念を覚えながらも、この少年ならば、とシグナムは信じるに値すると歩み寄りの一歩を踏み出す事ができた。その瞳に灯る確かな決意は武人の誇りの様にとても熱いものに違いない。

 

《先に言っておく。もしも、君たちがこのまま蒐集を行い完成後暴走を果たしたとして、仮にもそれを押さえ込む事が出来たとしても君たちの主であるはやてさんは過去の罪を突き付けられる格好の的となるだろう。闇の書の最期の主として、管理局で無償奉仕を得て監視と怨嗟の声に塗れた生活を送る事だろう。……けれど、そうならないための案が僕にはある。そして、その案を実行するだけの力を、いや、コネを持っている。だから、どうか考えて欲しい。管理局側である僕を信じられないのも分かる、だからこそ、君たちは未来を考えなければならない。もしも、たらればも、過去となっては意味が無い事を忠告としておくよ。……後悔をしないように、それだけは言っておくよ》

《……ああ》

「じゃあね、はやてさん、シグナム」

「ほな、帰ろうか。またねシロノさん。次はすずかちゃんも交えてお喋りしよな!」

「……ええ、それが良いでしょう。では、また(・・)シロノ(・・・)

「……っ、ああ、また(・・)、な」

 

 そう別れの挨拶を交わしてシグナムは車椅子をゆっくりと押し始め、シロノへ一礼してからその場を去って行く。その姿をシロノは複雑な心境で見送った。父を殺した原因とも呼べる致命傷の刺傷を与えたのは刀剣型のデバイスを持つシグナムのみ。けれど、記憶を失っているらしい今のシグナムを恨み切れる自信がシロノには無かった。はやてを見た時の慈愛のあるその表情は確かに今を生きている証拠であり、大切な人を護るために動かんとするその心は好ましい武人のそれ。感情が無いお人形だなんて見れやしない。其処らの人よりも人らしい感性を持っている人間にしか見えなかった。例えそれが未だ胸に燻る憎悪の対象である闇の書のプログラム人型魔法生物であると知っていても、以前の邂逅の時のような殺意は込み上げて来やしなかった。大きく溜息を吐いたシロノは何処か投げ遣りな気分で背をベンチへ任せ、頭をくしゃくしゃと掻き乱した。胸元に掛けている父の形見とも言える真紅の宝石が込められたネックレスが揺れた時に存在を思い出し、その鎖を掴み上げて夕方に暮れる太陽に重ねる。それは隣から感じる日溜りのような温かさを視覚化したように感じた。強く歯軋りの如く噛み締めた口元は獣の慟哭の様に曲がり、行き場の無い怒りを何処へ解き放てば良いのかと子供の癇癪のように悶える。それは灼熱の憎悪の炎を一身に浴びるかのような感覚であった。

 

「……父さん、僕は……、どうすれば良いんだろう……。あんなに憎しみを抱いていた筈なのに……」

 

 如何にかなってしまいそうだ、そう声にならない呟きを口内で噛み締めたシロノは力無く頭を横へ振って項垂れる。負の連鎖を断ち切る、それはきっと素晴らしいもので善人的な考えなのだろう。けれど、今焦がれるように込み上げてくるこの熱さはその考えとは裏腹な性質を持つであろう恐ろしい感情だった。憎しみと優しさが込み上がっては交じり合い、まるでコールタールのような泥沼を作り出してシロノの心をぐちゃぐちゃに掻き混ぜてしまう。涙が出ないのは隣に確かな温もりを感じるから、この少女の前で恥ずかしい姿を見せたくないと言う男の意地がシロノの感情に蓋をしていた。そんなシロノを思い遣ってか無意識にすずかはシロノの右腕を強く抱き締めた。それは、何処かへ落ちて行ってしまいそうなシロノを踏み止まらせるには十分なものであり、彼女から感じる愛情の一端に段々と落ち着きを見せてゆく。

 傍に誰も居なくなった時から感じていた喪失感が埋まったような気がして、シロノは静かに涙を溢した。どうしようもない感情が箍を外したように溢れて、左掌に落ちて行く涙は何処か冷たくは感じなかった。首を振ったシロノは無理矢理にでも涙を止めようと表情を留め、右腕を抱き締めているすずかの温もりに胸が暖かくなるのを確かに感じていた。そして、その傍らに冷たい何かが冷え込んでいた。

 

「…………こんなんじゃダメだ」

 

 シロノの表情は何処か険しい。温かさに安堵を感じている様子は無く、何処か思い詰めるようにぶつぶつと同じ単語を繰り返していた。それは、まるで、自己暗示のようだった。塞き止めていた筈の何かが涙の拍子に外れてしまい、それを必死で両手で閉じ込めているような、そんな焦燥とした様子だった。独りで重過ぎる何かを背負うような姿はまるで茨のロープで登攀しているかの様な痛々しさと、隠れていた薄暗い狂気の一端を感じてしまう事だろう。普段のシロノではないと誰からも分かるような恐ろしさに一歩足を引いてしまうに違いない。けれど、そんなシロノの右腕をすずかは離さない。

 

「こんなんじゃダメだ。ダメだ。そんなの父さんじゃない。復讐に焦がれるだなんて父さんはしない。しない筈だ。そうだ、しない。しないんだ。僕は、僕は、ぼく(・・)は……。父さんにならなくちゃダメなんだ。こんなんじゃダメだ――」

 

 その壊れたラジオのように呟かれる言葉が眠りを覚ますノックとなったのか、すずかは夕暮れの肌寒さからか身じろぎながら小さな声を漏らしてとろんとした眼をゆっくりと開けた。その視界には左掌で顔を隠すシロノではなく、何処か薄い微笑みを浮かべて苦笑するシロノの表情だった。大好きなシロノの顔を寝起きに見れたためにご満悦と言った様子でえへへと夢心地のまま抱き枕にしていた右腕をぎゅっと抱き寄せて頬擦りをした。

 

「……あはは、そろそろ起きなくちゃ駄目だよ?」

「うーん……、もうちょっとだけ……ほんのちょっとだけで良いですから……」

「困ったな。……なら、後ちょっとだけだよ? ん、一応恭也さんに電話しておこうかな」

 

 そう困った顔ですずかに苦笑しながら携帯を取り出すシロノは普段通りのそれだった。穏やかで誰かに優しくそれと無く手を差し伸ばすその姿は、一度揺らいだ事で誰かの面影めいた虚像を感じさせる。揺らいだ水面は段々と落ち着きを見せて次第に静寂となった。黙殺された秘密は誰にも暴かれては居ない。それを見つけるのはきっと、同じくらいに可愛そう(・・・・)なのだろう。それを暴くのはきっと、同じくらいに辛そう(・・・)なのだろう。そして、それを受け止めるのはきっと――。

 閉じられた冷えた扉に掛けられた枷に伸びたそれは引き摺る程に重く、それは人一人分の重さがあっただろう。扉に縋り付くように両手を広げているのに関わらず、受け止めはせずに残酷な程までに爪を立てるその姿は何処か――人のような姿をしていた。


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