キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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06:創りし者の家族

 生きた要塞を思わせる姿へと変貌してしまっていたMHHP初号機マーテル。かつての使命を果たそうとして破損してしまったそれは、様々な物を喰い尽くす魔物となった。

 

 地を喰らい、命を喰らい、ついにはアインクラッドそのものを喰い尽くしてしまおうとしていたマーテル。しかしそれは最上階よりも低い場所である80層の地で、この城の最上階に辿り着く事を目指していた者達の手によってその黒き巨体を失い、地面へ倒れ伏す事となった。勿論、立ち向かった戦士達――即ち攻略組の者達にも甚大な被害を与えたが、逃亡したものだけがいるだけで、死亡者は奇跡的にゼロ人だった。

 

 その中の1人であるアスナは、自らの所属しているギルドの長であり――仲のいい友人でもあるキリトに近付いて、声をかけた。

 

「キリト君、マーテルは……」

 

 イリスから聞いていたMHHPマーテル、その変わり果てた姿を見ているキリトの顔は、非常に険しいものだった。よく見れば隣には恩師のリラン、親友のシノンの姿もあったが、2人とも非常に険しい表情を浮かべている。

 

「……HPがゼロになってる。まるで何かの時を境に守備力がゼロもしくはマイナスになってしまったみたいだったな」

 

「マーテルが何者かに操られてたって事なの?」

 

「わからない。でも、マーテルは倒れた。戦闘能力を完全に失って、元の破損したMHHPに戻っているみたいだよ」

 

 キリトの言う通り、マーテルは地面に倒れ込んだまま動かなくなっていた。しかし、マーテルはモンスターとなっていたというのに、HPがゼロになっても一向に消滅してしまわずにいる。これは即ち、マーテルがモンスターでもNPCでもなくなっているという事を意味する。

 

「でもおかしくないかしら。マーテル、HPがゼロになっているのに、消滅する気配がないわ」

 

 シノンの言葉にアスナが頷くと、次の瞬間、マーテルの身体は突然光を放ち始めて、10mほどの大きさを持っていたその姿を小さくし始めた。またマーテルが動き出して襲ってくると思ったのだろう、集まっていた攻略組の者達は声を上げて、武器を構える。しかし、マーテルは襲ってくるどころか、小さくなっていって、ついには自分達と同じくらいの大きさになってしまった。

 

 まるで陶器のような生物感のない白い肌も、暖かさのある肌色に戻り、その姿は四肢を失い、その部分から消滅光のような赤い光を出し続けている女性にしか見えなくなった。それでもなお、まだ襲ってくると思っているのか、周りの攻略組は武器を構えたままだった。

 

 しかしその中で、リズベットとシリカ、フィリアとユウキ、リーファとクライン、エギルとディアベルと言った親密な者達がゆっくりとこちらに歩いてきて、そのうちの1人のリズベットがアスナに声をかけた。

 

「アスナ……マーテルは止まったの」

 

「えぇ。どうやらわたし達の攻撃を受けて、止まっちゃったみたいなの」

 

「本当に動かないんですか。姿を小さくして、襲ってくるつもりなんじゃ」

 

 シリカの言葉に答えようとしたその時、マーテルから比較的近い位置にいたキリトが音無くマーテルに歩み寄り、その身体をゆっくりと抱き上げた。

 

 動きを止めてはいるものの、また襲ってくるかもしれないマーテルを抱き上げる血盟騎士団の団長の姿に、周りの者達は驚きの声を上げて、その妹であるリーファが兄に声をかける。

 

「ちょ、ちょっとおにいちゃん!」

 

 キリトは顔を上げて、首を横に振った。こいつはもう襲ってこないという意思表示であり、それを受け取った者達は武器を仕舞い込んだが、その場を動く事はなかった。その中で唯一、キリトの相棒であるリランと、妻であるシノンがキリトに近付く。

 

「本当に大丈夫なの」

 

「あぁ。もうこいつは動く力も持っていない。もうすぐ、消えてしまうだろう」

 

 この世界はVRMMOの中であり、ここに生きる命達はすべてプログラムでしかない。それでもなお、リランという存在と生き続けて、この世界のプログラム達もまた命であると理解しているキリトの顔は、どこか悲しげなものだった。

 

 そして、先程まで暴れ回っていて、恐ろしさしか感じさせなかったマーテルの、四肢を失った女性としか思えない今の姿は、胸を締め付けるような悲しみを感じさせるものだった。

 

《……こいつは、何を目的にあんな事をしていたのだ》

 

 リランの《声》が頭に響くと、キリトは静かに言った。

 

「……こいつにまだ、俺達の言葉に答えるだけの力が残っていれば、聞けるかもしれない。

 マーテル、俺の言葉がわかるか。君の話を聞きたいんだ」

 

 腰まで届く長い金髪で、先程の姿と同じならば紅い瞳をしているであろう、キリトに抱き上げられている女性は、ただ疲れ果てたような顔のまま目を閉じ、口を半開きにしているだけで、何も答えなかった。

 

「もう、答えるだけの力も残ってないんだね……」

 

 フィリアの悲しげな言葉に、キリトは少し歯を食い縛った。しかしその直後に、まるでキリトの思いを感じ取ったように、マーテルは小さな声を口内から漏らした。

 

「……こ……」

 

 その言葉を聞き取って、その場に集まる全員がハッとして、キリトもまた目を見開いてマーテルに話しかけた。

 

「マーテル、俺の言葉がわかるのか!?」

 

 キリトが揺すると、マーテルはその瞼を開いて、僅かに瞳を見せた。その色は宝石のように紅かったが、焦点は定まっておらず、はるか上空に向けられているように感じられるものだった。そのまま、マーテルは小さな声で、言葉を紡いだ。

 

「……き、ひ、コ、ア、キ、ヒ、コ」

 

「え?」

 

「アキ、ヒコ、ア、キ、ヒコ、アキ、ヒコ、アキヒコ……」

 

《ア……キ……ヒ……コ……?》

 

 アキヒコ。マーテルの言葉をしっかりと聞き取れた者達は、思わず目を見開いて言葉を失った。自分達で言えば、アキヒコと言う言葉は名前であり、決して忘れる事の出来ない人物のものだった。そう、このゲームの開発者の筆頭でありこのゲームをデスゲームに変えて、自分達プレイヤーを閉じ込めた張本人、茅場晶彦(アキヒコ)だ。

 

「アキヒコ……アキヒコって、茅場晶彦……!?」

 

 アスナの言葉を聞き取るよりも前に、キリトは大きな声でマーテルに尋ねる。

 

「アキヒコ、茅場晶彦の事なのか、マーテル!」

 

 マーテルはただ、その名前をぎこちなく口にしながら、失った手を空へ伸ばすだけで、何も答えようとはしなかった。そればかりか、マーテルの身体に起きていた赤い光はどんどん強いものへと変わって行き、その光が、ユイがカーディナルによって消去されそうになった時ものと同じである事にシノンが気付く。

 

「あ、マーテルが……消える……!」

 

「そんな!」

 

 ユイがこのように消えそうになった時、ユイはリランに斬られる事によって助け出された。その時の事を思い出したキリトは、咄嗟にリランの方に顔を向けたが、リランは何が起きたのかわからないような顔をして、ただマーテルの事を見つめているだけで、何かしらの行動を起こそうとはしていない。

 

「リラン、マーテルを助けろ! ユイの時みたいに!」

 

 リランは答えない。あの時、リランは無我夢中で行動を起こし、そのままユイの事を助けたようだったが、後で尋ねたところ、自分がなぜあのような行動を取ったのか、どうすればあんな事になるのか、わからないと答えて主人を落胆させた。

 

 恐らくリランは今それと同じで、どうすればいいのかわからないのだ。どんな行動に出ればあの時のような事になるのかわからないから、主人の命令に答える事も出来ず、主人の胸で消えゆく女性の姿を見ている事しか出来ないのだ。

 

 消滅光はどんどん強いものへと変わり、マーテルの身体の周りを蛍が飛んでいるように錯覚できるようになる。

 

「マーテル、マーテルッ!!」

 

「アキヒコ、アキ、ヒコ、アキ、ヒ、コ、ア……キ……ヒ……コ………………」

 

 キリトの呼びかけに一切答える事無く、マーテルはただ、このゲームの開発者であり、この世界の神の名を呼び続けた。そしてそれが途切れると、その身体は周りの者達の目を焼くくらいの光を放った。

 

 あまりに強い光を受けて目を覆い隠し、やがて目を戻したその時に、キリトの胸からマーテルの姿はなくなっており、キリトは虚空を抱きあげていた。

 

「ッ!!」

 

 マーテルはユピテルの姉であり、唯一のユピテルの肉親であるとイリスから聞いていた。もし、マーテルを元に戻す事が出来たのであれば、その時はマーテルをユピテルのところに連れて行って、一緒に暮らしていこうと、アスナは考えていた。

 

 ――それが完全に失われてしまったという光景を目の当たりにしたアスナは、胸に太い針が刺さったような痛みを覚えた。

 

「マーテルが……」

 

 あの悍ましき《異形の裸婦》の最期。幾多のボスを喰らい、この城の層を滅茶苦茶にし、散々自分達を怯えさせてきた敵が今死んだというのに、誰一人として喜びの声を上げる事は出来なかった。

 

 しかし、その数秒後に、そこに集まる全員の耳に、レベルが上がった時になるファンファーレが鳴り響いた。何事かと自らのステータス画面を展開してレベルを確認してみたところで、そこにいる全員が驚く事となった。

 

「レベルが……上がってる」

 

 この戦いを行った時の、キリトのレベルは110であり、この中で最も高い数値だったのだが、今確認してみたところレベルは125に上がっていた。

 

 1度の戦闘の増え方とは思えないレベルの上がり方に、マーテルの抱えていた経験値が戦闘に参加した全員のステータスに流し込まれた事を、キリトは自覚した。この15という上がり方も、マーテルが喰らったモンスターとボス、その全てが持っていた経験値が合わさった結果であるとも理解できた。

 

「何だよこの上がり方……何で15も跳ねあがってるんだ」

 

 クラインの呟きにリーファが答える。

 

「多分、マーテルが食べたボスやモンスター達の経験値が、あたし達のところに来たんだよ……」

 

 リーファの言葉を受けて、その場にいた全ての者達がレベルアップの理由を把握したその時、マーテルが壊しまわった戦闘地域全体に、大きな音が鳴り響いた。少しボーっとする意識のまま顔を上げてみれば、そこにあったのはボスを討伐した際に出てくる、《Congratulations!!》の文字が空に浮かび上がっていた。

 

 いつものボス戦ならば、この言葉ほど嬉しさと達成感の突き上げてくる物はないが、今はボス戦を終えた後だというのに、誰も声を上げる事も、喜ぶ事もなかった。そのうちの1人であるエギルが、小さく呟く。

 

「レベル上がったのに、全然嬉しくねえや……」

 

 山が崩され、草木が全て土砂に呑み込まれて消えて、動物達が全て《異形の裸婦》に食われてしまった事より沈黙と静寂に包み込まれた荒地。

 

 その中で戦士達は何も言わずにただ佇んでいるだけだったが、そのうち《異形の裸婦》と化していたマーテルを抱えていたキリトが静かに立ち上がった。

 

「キリト」

 

「……全員撤退だ。77から83層までのを全部固めたボス戦は無事終了。皆死亡者がいなくて何よりだ。あの異形の怪物は死んで、アインクラッドの危機は去った。

 明日からは84層の攻略だ。このアインクラッドも残すところあと16層……しっかり休んで明日からの攻略に備えてくれ。今日は俺の独断に付き合ってくれてありがとうな。ここで、パーティは解散だ」

 

 その姿にシノンが小さく声をかけると、キリトは特に力も込めず、普段通りの声を出したが、その声は荒地となった山岳地帯全域に行き、集まる全員の耳に届いた。

 

 それから間もなくして、その場に集まっていた《異形の裸婦》攻略部隊はゆっくりと立ち上がって、転移門のある街の方へと歩き出した。山が全て崩れてしまったとはいえ、正確な位置がわからなくなっているわけではないし、いざとなれば転移結晶を使ってそれぞれの場所に戻る事も出来るので、どの者の表情にも心配の表情は浮かんでいなかった。

 

 実に100人を超える連合の戦士達が立ち行く中、リズベットとシリカ、フィリアとユウキ、リーファとクライン、エギルとディアベルは、血盟騎士団の長であると同時に自分達の友人であるキリトの元へ赴き、その傍まで行ったところで、リズベットがじっと虚空を眺めているキリトに声をかけた。

 

「キリト……」

 

 声に反応したのであろう、キリトは周りに集まる頼もしい仲間達を見回し、そっと口を動かした。

 

「皆、生きてたんだな。よかったよ」

 

「えぇ。あたし達は何とかなりました。でもキリトさん……」

 

 シリカに続いて、ユウキが言う。

 

「マーテルが消える直前……アキヒコって言ってたよね。アキヒコって……あのアキヒコ?」

 

 ユウキが言いたい事がわかったと言わんばかりに、キリトは頷く。

 

「……多分そうだと思うけれど、本当の事はよくわからない。――その本当の事を、俺は今から確認しに行くつもりだ」

 

 咄嗟にアスナが言う。

 

「イリス先生のところ、ね。イリス先生だったら、第1層でユイちゃんとストレアさん、ユピテルと一緒に居るはず」

 

 キリトは頷き、再度周囲に集まる者達を見回した。

 

「皆はどうする。俺はこれからイリスさんのところに行くつもりだけど……」

 

「あたしはあんたについていくわ。何だか、マーテルにはただならない理由があったみたいだし」

 

「あ、あたしもキリトさんについていきます。あのマーテルが何者だったのか、本当のところが知りたいですし」

 

 リズベットとシリカに続いて、ユウキとリーファが言う。

 

「ボクもキリトについていくよ。あんな事になって、気にならないわけがないし」

 

「マーテルの事はイリス先生がよく知ってるんだから、イリス先生に聞けば分かるよね」

 

 更に続いて、フィリアとクラインが言った。

 

「わたしも、一緒に行くよキリト」

 

「俺も同じだ」

 

 さらに、エギルとディアベルが言う。

 

「俺も付いていくぞキリト。ただならない事情があるみたいだからな」

 

「俺も行かせてもらうよ。今のを知ってるのがイリスさんなら、是非とも真実を聞いておきたい」

 

 最後に、キリトはアスナ、シノン、リランの方へ顔を向けた。

 

「シノン、アスナ、リランは……」

 

「付いていくに決まってるでしょ。イリス先生ならマーテルの事はこれ以上ないくらいによく知ってるはずだし、ユイも迎えに行かなきゃいけない」

 

「わたしも同じだよ。ユピテルの事を迎えに行かなきゃいけないし、イリス先生の口から、今の事の詳細をちゃんと聞いておきたい」

 

《我はお前の<使い魔>だからな。お前から離れる事は基本的にないぞ》

 

「わかった。それじゃあ、みんなで行くとしようか。あまりの大人数に、イリスさんが驚かなきゃいいんだけど」

 

 そう言ってキリトは集まる仲間達を引き連れて、層を出ていこうとする者達に混ざって荒地となった山岳地帯を抜けて、休暇の時に利用した港町に入り込んで転移門を起動、第1層を選択して、転移した。その間に会話をする事はほとんどなく、皆沈黙し続けていた。

 

 

 

 

          ◇◇◇

 

 

 

「やはりあれはマーテルであったという事か。そして君達はそれを無事に止める事が出来た、というわけか」

 

「はい」

 

 俺達は第1層の教会の院長室に集まってイリスと話をしていた。この教会に来た時、ユイとストレア、ユピテルが無事に帰ってきた俺達を出迎えてきて、俺達はもう一度ユイ達に会えた事を嬉しく思ったが、直後にイリスがやってきて、それどころではなくなった。というのも、最初はイリスも俺達の帰還を喜んでいてくれたのだが、それと同時に起こりえた事を悟って、俺達を院長室に招いたのだった。

 

 そこで、俺はマーテルとの戦いの中と後で起きた事を全てイリスに話した。

 そしてその話が終わった頃、イリスはこれ以上ないくらいに険しい表情を浮かべて、話を始めたのだった。

 

「マーテル……破損したまま彼女は死んでしまったという事か……」

 

「えぇ。すみません、俺達は彼女を止める事が出来ても、彼女を助ける事は出来ませんでした」

 

「いやいや、君達は実によくやってくれたよ。暴走した彼女を、死亡者無しで止めて見せたんだし、それに何より彼女も、あのまま暴れ回り続けるのは辛かっただろうからね。

 君達は十二分に彼女を助けてくれたよ。彼女を作り出した者として礼を言うよ。ありがとう」

 

 イリスに礼を言われても、俺は全く嬉しさを感じなかった。あの戦いの中で、俺はどうすればマーテルをユイやユピテルのような形に出来るか考えていたし、出来れば彼女を救ってやりたいと思っていた。マーテルを倒せた喜びはなく、寧ろマーテルを助けられなかった事が心に引っかかっていたが、やがてシノンが言った。

 

「イリス先生。マーテルは消える寸前で、アキヒコという名前を口にしていました。あれって、茅場晶彦の事なんですか」

 

 イリスは頷いた。

 

「そうだとも。マーテルが口にしていたアキヒコという名前は、間違いなく茅場さんの名前だ。――彼女が暴走してあの姿になった理由も、きっとそれにあるよ」

 

 俺は、イリスに気になっていた事を言った。

 

「イリスさん。茅場とマーテルは、一体どういう関係だったんですか」

 

 イリスはすぅと息を吸った後に、軽く吐いて、目を開いた。

 

「――メンタルヘルスヒーリングプログラム試作1号《マーテル》。それはこの電脳の世界で生み出された生命体であり、茅場さんの唯一の家族だったともいえる存在だ」

 

「茅場晶彦の……家族?」

 

 その言葉に皆が動揺すると、イリスは更に続けた。

 

「茅場さんは天才科学者であったと同時に、ずっと一人ぼっちだったんだ。誰かと親密に話す様子もなければ、誰かと一緒に居る事もない。親兄弟と連絡を取っている様子さえもなかったから、家族関係もきっと無し。ただ開発を続けているだけの仕事人間みたいなもので、誰一人として彼と親密になる者はいなかったんだ。いや、ひょっとしたら彼自身が人間を遠ざけていたのかもしれないね。どこにいても、あの人は一人だった。

 しかし、そんな茅場さんに近付いたのが、この電脳の世界で生まれた生命体、マーテルだったんだよ」

 

 現実世界での茅場晶彦の人間関係の話を少し聞いたところで、シノンが少し下を向いた。――茅場晶彦の人間関係、置かれていた状況はどこか現実世界にいた時のシノンのそれに似ている。茅場晶彦も人間関係を作ろうとせず、ただただこの世界を実現させるだけの研究と開発を続けていたのだろうし、あいつが天才科学者であったが故に、一般人からは別な世界にいる存在のように感じられて、人が寄りつかなかったのかもしれない。

 

「マーテルはダイブしてきた茅場さんに寄り添って、様々な話をしたり、時には食事をしたりしていた。最初茅場さん自身も、なんだか複雑そうな感じではあったものの、次第にマーテルを慕うようになっていった。というか、マーテルは茅場さんに懐いていたんだ。二人が仲良くしているところは私もよく見ていたんだけれど、その様子は父と娘のそれによく似ていたね」

 

 その言葉に俺は目を見開く。父と娘と言えば、今もっともな例は俺とユイの関係だけど、あの茅場も俺みたいにマーテルと接していたというのだろうか。普段からそれなりのイメージ力があると自負しているけれど、全くと言っていいほど茅場とマーテルが父と娘のようになっているシーンは想像できなかった。

 

「父と娘……わたしとパパみたいなものですか」

 

 ソファに座っているシノンの膝に座っているユイが小さく呟くと、イリスは頷いた。

 

「あぁそうだとも。君達ほどではないけれど、茅場さんとマーテルはすごく仲が良かったんだ。彼女だって、私が作ったものであるけれど、その大元を作ったのは茅場さんなんだ。ネットの世界に飛んで情報を集めたマーテルは、そういう事を知って、茅場さんの事を父親だと思うようになった。しかし、父さんとかパパとか、そういう呼ばれ方をされるのが嫌だったんだろう、茅場さんはマーテルに、自分の事を《アキヒコ》と呼ばせるようにしたんだ。私も同じで、《アイリ》って呼ばせてたよ」

 

「つまりあの時マーテルが口のした言葉、アキヒコっていうのは茅場晶彦って事なんですね」

 

 クラインの問いかけに、イリスはもう一度頷く。

 

「あぁ、違いないよ。そして君達が彼女の話をしてくれたおかげで、私は彼女の目的がわかったよ」

 

 一番聞きたかったことがイリスの口からようやく出てきて、俺は強く食いついた。

 

「何が理由なんですか。マーテルは一体何をするつもりだったんですか」

 

 イリスは椅子の背もたれに体重をかけて、上を眺めた。

 

「彼女は……茅場さんを止めたかったんだ。茅場さんは罪もない人々を1万人とっ捕まえてこの世界に閉じ込めた。しかもこの世界はゲームオーバーが直接死に直結する世界――おかげでもう4千人もの人間の命が奪われる事になった。しかも何を考えたのか、茅場さんはMHHPも、MHCPも封印してこの世界を稼働させた。

 彼女の本来の姿はMHHP、プレイヤーの心を癒す力を持つAI。守るべき命が無残に散り続けていく光景を彼女はどこかで見ていて、いても経ってもいられなくなり、自ら封印を破壊して外に出て、茅場さんの元へ行こうとしていたのだろう。彼の暴挙を止め、彼の真実を知るために」

 

 ユイの表情が一気に曇り始める。

 

「でも、マーテルさんは……」

 

「あぁ。彼女は自分が出ていかなければならない状況なのに、それが出来なかった。結果として身体の中に無数のエラーが蓄積される事となり、ユイと同様破損する事となった。

 しかし彼女はMHHPというMHCPの上位モデル、自己進化能力を持ったプログラムだったが故に、破損した自らを直すという方法に出た」

 

 エギルが腕組みをする。

 

「その答えが、無数のモンスターやボスを喰らうって方法だったのか」

 

「そうだね。ボスもモンスターも、かなり優秀なAIを使っているから、彼女は本能的にそれを感じ取って、捕食していったんだろう。

 しかし、彼女は自らを直そうとするあまり、アインクラッドを危機に追い込むほどの災害になってしまった」

 

 アスナが膝に座るユピテルを抱き締めながら言う。

 

「でもマーテルは最後まで、アキヒコって……」

 

「あぁ。その行動も茅場さんを思っての事だった。きっと彼女は100層を、そこにいる茅場さんを目指して進んでいたんだ。

 そしてその結果、君達に葬られる事になってしまったというわけだ。まぁ……これでよかったんだよ。彼女はもはやマーテルの姿をした怪物だったからね」

 

 イリスが口を閉じたのを最後に、部屋を重い沈黙が覆った。まさかマーテルが茅場と、娘と父のような関係だったとは思っても見なかったし、それを知らないで俺達はマーテルを倒してしまった。マーテルを救うどころか、マーテルの望んだ事さえも潰してしまっていた事に今更になって気付き、俺の胸の中には後悔が起こり、ちくりとした痛みを与えてきた。その痛みを、部屋の静寂が助長していたのだが、それを破ったのは意外にも、それまで言葉を発する事のなく俺の肩に座っていたリランだった。

 

《……本当にあいつは茅場晶彦を目指していたのか》

 

 いきなり《声》を出したリランに俺は顔を向ける。

 

「どういう事だ?」

 

《我は……あれが茅場晶彦を目指していたようには思えぬのだ。あれはただ暴れ狂い、NPC達を喰らい尽くそうとしていたようにしか思えぬ。まるでAI達を喰らう事で何かを得ようとしていたかのように》

 

「そりゃ、マーテルが破損した自らを直そうとして、他のAIを取り込んでいたからだろ。そんなふうにも見えなくはないな」

 

 ディアベルの言葉に、リランは首を横に振る。

 

《それに、何故あいつに突然攻撃が効くようになったのだ》

 

 その時、イリスが何かに気付いたような顔になる。

 

「そういえば、君達はよく無数のモンスターを取り込んだマーテルに勝利する事が出来たね。一体何をしたんだい。普通に攻撃したのか?」

 

 リランとイリスの言葉で、俺はマーテルを倒したばかりの時の事を思い出して、その時からずっと気になっていた事をイリスに話した。

 その話が終わると、イリスは眉を寄せた。

 

「最初だけ攻撃が効いて、次に攻撃が全く効かなくなってピンチになったけれど、ある時突然攻撃が効く部位が出現して、そこに総攻撃を仕掛けたところ、いとも簡単に彼女を倒せてしまった……常に頭をフル回転させていても全くショートを起こさない私の頭をこんがらがらせるとは、いいセンスだ」

 

「いいえ、本当なんです。急に弱点部位みたいなものが出現して、そこに攻撃をしたら一気に倒せてしまって……」

 

 イリスは半信半疑そうな顔をして、周囲に集まる皆を見回す。

 

「えっと、キリト君の話は本当なのかい」

 

 周りの皆は一斉に頷いた。この話が嘘ではない事にすぐに気付いたイリスが、もう一度眉を寄せる。

 

「前代未聞だな。最初は攻撃が効くけど効かなくなって、しばらくしたら弱点が出てきて倒せた。マーテル自身完全なイレギュラーだから、このゲームの基本に当てはまらない事情を起こしたとしても、別に不思議な話じゃないんだけど……それにしても妙だな。キリト君はこれを、誰かがマーテルに手を加えた結果であるって思ってるんだね?」

 

「はい。なんというか、マーテルの中で何かが起きて、急に攻撃を受け付けるようになったっていうか……マーテルはそれまで抗体を作って俺達の攻撃を防いでいたけれど、ある時それが発動しなくなって……なんというかマーテルが外部から何かを受けて、それで倒れたみたいな」

 

「外部からか。即ちマーテルは誰かの目的のために動いていたけれど、ある時突然言う事を聞かなくなってしまったから、それによって排除されてしまった。そう言いたいのかい?」

 

「はい。ざっくり言えばそんな感じです」

 

 リーファが驚いたように言う。

 

「あれを、誰かが操ってたっていうの」

 

「あぁ。あくまで憶測なんだけどさ。どうも不自然さがあったっていうか……」

 

 フィリアが眉を寄せる。

 

「マーテルを操るって、誰が、何のために……?」

 

「わからないけれどさ……何かおかしいんだよ」

 

 俺の考えが通じたのか、イリスはきっと顔を上げた。

 

「マーテルはあのまま行けばアインクラッドを崩壊させていただろう。そのマーテルが誰かに操られていたものであるならば……そいつは破滅を望む者っていう事になるね。

 何にせよ、マーテルを操るなんて常人に出来る事じゃない――そんな事が出来るのは、茅場さんもしくは私クラスの化け物だ」

 

 シノンが少し複雑そうな顔をする。

 

「……それってハッキングですか。イリス先生ってハッキングも出来るんですか」

 

「何を言うかねシノン。私はこれでもプログラム技術なら茅場さんの次に秀でてるって自負できるくらいの腕前はあるつもりだよ。ただ、私を疑っているであればそれは全く違うと否定しておこう。私も大事な子供を悪事に利用されて、最終的に殺されるっていう結末を迎えて怒り心頭なんでね」

 

 イリスの顔が険しくなり、瞳の中に強い光が瞬いているのが見えて、俺はイリスの言葉が真実である事を理解する。

 マーテルはイリスが作り出したプログラムであると同時に、イリスの娘でもある存在だった。大事な娘を殺されてしまったようなものだから、イリスは怒らずにはいられないのだろう。

 

「とにかく、その線も考えた方が良いだろうし、もしそれが本当なのであれば、そいつは間違いなく次の行動を起こしてくる。

 マーテルによる災害が無くなったとはいえ、危機回避には至っていない。――被害を起こされるのを防ぐには……ゲームを一刻も早くクリアしてこの世界を脱する事だ」

 

「はい。それだけは全員、変わらない目的です。今のところ84層までの攻略が終了してますから、あと16層で100層です」

 

「あと16層……できれば一気に駆け抜けてもらいたいところだけど、無理はするんじゃないよ。そしてちゃんと休暇も取る事。いいね。

 まぁ何にせよ、もう一度礼を言わせてもらうよ。マーテルを、私の娘を止めてくれてありがとう」

 

 イリスの言葉に俺達は頷いた。残すところ16層……色々な事があったとはいえ、俺達の攻略先々もあと16層で最上階に辿り着く。マーテルの乱入や、それの討伐戦といった様々な事があったけれど、それでも俺達は間違いなく頂上に辿り着こうとしている。最後まで気を抜かずに行かなければ。そして、全てのプレイヤーをこの世界から脱出させるんだ。

 

 俺は心の中でそう呟くと、ぐっと拳を握って、天井を眺めた。


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