キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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シノン回。


03:少女と医師

 シノンの話が終わると、イリスは子供達の声が聞こえなくなったかのように、険しい表情をしてコップの中の氷を鳴らした。

 

「なる、ほど。血盟騎士団の団長ヒースクリフが、実は茅場さんだったってオチか。そして茅場さんこそが、このゲームのラスボス……か」

 

「はい。みんな、すごく落ち込んでましたし、衝撃を受けてました」

 

 イリスはドリンクをぐいっと飲み干して、中の氷を見ながら一息吐く。

 

「この街の連中にも、最終的にはヒースクリフがゲームをクリアしてくれるって信じてる奴はかなりの数いるからね。そのヒースクリフがまさかのラスボスで茅場晶彦だったなんて聞いたら、そりゃ絶望もしたくなるだろうさ。でも、自らがラスボスになるなんて、茅場さんらしいっていえば、その通りかな」

 

 イリスの視線が氷からキリトへ動く。

 

「そんな茅場さんの正体を、キリト君は見破り……茅場さんとゲーム解放を賭けた殺し合いを展開した、と」

 

 キリトは渋々頷いたが、すぐさまリーファがキリトに顔を向けた。

 

「そんな、おにいちゃん、なんでそんなことを!!」

 

「だって、あいつを倒せば、リーファもシノンも、アスナもディアベルも、ここにいる子供達も、アインクラッドに閉じ込められてる全員が解放されるって事だったんだ。

 受けないわけにはいかなかったんだよ」

 

 キリトが言い終えると、イリスはからんと氷をコップにぶつけた。

 

「そんな最終決戦を迎えて、キリト君に止めを刺そうとしたその時に――茅場さんは突然消滅してしまった。キリト君の持っている剣《インセインルーラー》と、ディアベル君に渡された盾《インセインコンカラー》」を残して」

 

 あの後、回収されたヒースクリフの盾は、ヒースクリフと似たような装備で戦闘を行っているディアベルに渡される事になった。――本人曰く、このままではヒースクリフの物という感じが抜けないから、リペイントしてもらってから使う事にするそうだが。

 

「そうなんです。あの時茅場はメモリがぶっ壊れたプログラムみたいになって……そのまま消えてしまったんです」

 

「ふーむ、その話だと、茅場さんは私が君達くらいの時に動画サイトで見て、思わず大爆笑したチートバグ動画みたいになってしまったようだね。でもこのゲームだとそんな事はありえないはず」

 

 口の中の食べ物を全て飲み込んだユイが頷く。

 

「はい。そんな事が起こる事はあり得ません。この世界を調整しているカーディナルシステムは、そんな事が起こってしまわないように常時監視していますから」

 

「うむ。流石私の娘、その辺りの事は詳しいね。まぁ君よりも私の方が詳しいんだけどね」

 

 ユイとイリスを交互に見つめて、サーシャは首を傾げる。

 

「か、カーディナルシステム? ユイちゃんがイリス先生の娘?」

 

 イリスはおっとと言って、サーシャに笑んだ。

 

「すまない、この辺りは企業秘密だから、深く入り込もうとしないでほしい」

 

 サーシャはイリスに顔を向けて、首を傾げた。

 

「イリス先生って……何をしていた方なんです?」

 

「何って、心理学者と心療内科の医師だけど?」

 

サーシャは頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになったかのような表情をしたまま首を傾げた。イリスはサーシャからキリトへと向き直る。

 

「話を戻そう。キリト君の言う通り、茅場さんの身に何かが起きたのは間違いない。でも、カーディナルシステムによる守りがある場合は、そんなのはありえない。ここから導き出される答えは……」

 

 キリトは頭の中で答えを導き出したが、その内容に思わず背筋を凍らせた。

 基本、このゲームはカーディナルシステムによって支配されているが、同時に守られている。だからこそ、自分達プレイヤーはバグなどを気にせずにこの城の攻略に立ち向かう事が出来るのだが、あの時の茅場晶彦のみに起きた事は、カーディナルシステムに守られているうえでは、あり得ない事だという。ここから導き出される答えは、イリスの言うようにただ一つだし、自分達からすれば最も恐れていた事柄だ。

 

「まさか、カーディナルシステムが麻痺してきてる……!?」

 

 イリスがこん、とコップをテーブルの上に置いて、険しい表情を浮かべた。

 

「それが最も正解に近いと、私は考えてるよ」

 

「カーディナルシステムが麻痺するなんて事は、あり得るんですか」

 

「あり得ない話じゃない。現にこの世界はリーファやユウキといったALOプレイヤーを呼び寄せてしまうくらいに、外からの侵入にはガバガバだ。セキュリティの穴を突かれて、ハッカーやクラッカーが入り込んできてしまってもおかしい話じゃないっていうのは前にもしただろう」

 

 リーファが何かを思い出したような顔をする。

 

「や、《()り逃げ男》……!」

 

「そう。前から危惧していた事が、どうやら現実になってしまったらしいね。

 アインクラッドに目を付けた《壊り逃げ男》が入り込み、カーディナルシステムを持ち前の技術力である程度麻痺させて、茅場さんにクラッキングを仕掛けて動きを止めて消滅させた。そんなところじゃないかな」

 

 イリスの言葉に、《壊り逃げ男》を知る者達は震えあがる。しかし、周りの子供達に気付かれている様子はなかったので、ひとまず安心しながら、リランが言った。

 

《《壊り逃げ男》が現れたとして、そ奴は何のためにヒースクリフを消したのだ。理由もなしにそんな事をする事は無いだろう》

 

 リランの言う通り、《壊り逃げ男》がSAO(ここ)に現れたとしても、何の理由もなしにあんな行動に出るはずはない。いやそもそも、《壊り逃げ男》というのは、突如としてネットの世界に姿を現し、ネットに関連している社会を破壊工作で混乱させたその手口から、《壊り逃げ男》という名前がメディアによってつけられただけで、住所も使命も年齢も、性別さえもわかっていない本当に謎だらけの存在だ。それ故に、《壊り逃げ男》がどのような目的を持って破壊工作などに及んでいるのか、どう言った理由があるのか、まるでわかっていない。

 頭の中でそんな事を考え付いて、キリトは言う。

 

「何一つわかっちゃいないんだ。どんな目的があって破壊工作をするのか、何か宗教的な理由があるのか、また破壊工作に快感を覚えるテロリストか、それとも、社会が慌てふためく様を見たくてやってる愉快犯か……」

 

 アスナがコップの中の飲み物を一口飲んでから、キリトに言った。

 

「一番最後のが大きい気がするね。実際、《壊り逃げ男》は政治家達をクビにさせたり、マスコミに攻撃を仕掛けたり、株価を操作したりしたんでしょう。おかげで社会が大混乱と来たら、もう社会を混乱させる事を楽しんでる愉快犯としか思えないよ」

 

 警察やマスコミ、政治家などの、攻撃されれば社会が慌てふためく、国の重要な部分を狙った破壊工作。そのあまりに特異なやり口は、社会や国を混乱させ、その様子を遠くから眺めて大笑いする愉快犯に他ならないと、皆の話を耳にしたシノンは思っていた。前にも、お菓子メーカーの大手企業を狙ってテロを仕掛け、警察やマスコミを散々振り回して両者を疲弊させた愉快犯の事件があった事を、現実世界にいる時に本やネットで調べた事がある。

 

 それらの情報を照らし合わせると、《壊り逃げ男》の手口もまた警察やマスコミ、政治家を狙ったもの――かつての愉快犯による事件とターゲットが合致するのだ。

 

「私もアスナと同じ意見だわ。《壊り逃げ男》は愉快犯よ。警察とマスコミを引っ掻き回して、慌て(ひし)めくさまを見て大笑いしてるんだわ」

 

 イリスが何かを思い付いたような顔をした。

 

「そういえば知識欲を持ったハッキングAIが、ネットワーク社会を滅茶苦茶に引っ掻き回して、マスメディアから警察、消防局とか鉄道までとにかく滅茶苦茶にして、最終的に人工衛星を地上に叩き落とすなんて話が15年くらい前のアニメ映画にあったな。もしかして……」

 

「《壊り逃げ男》もハッキングAIじゃないかって?」

 

 キリトが目を半開きにして言うと、イリスは苦笑いした。

 

「いや。自分で言っておいて何だけど、そんなのはありえないね。そんな事が出来るとすれば私の自信作である、ここにいるユピテルと、この世界のどこかにいるであろうマーテルくらいだ」

 

 イリスの言葉を聞いて、アスナは隣に座っているユピテルの方に顔を向けた。ユピテルは食べる事に夢中になっていて、こっちが見ている事に気が付いていないが、この子は精神年齢が対向してしまっているし、自分の出来る事などもほとんど忘れてしまっている。

 

 まだイリスによって世話をされていた、即ち開発されていた頃は、そんな事も出来たのだろうけれど、今のユピテルには到底できないだろう。そもそも、こんなに無邪気なユピテルにそんな事はしてもらいたくないと言うのが、アスナの本音だった。

 

「マーテルがSAOから逃げ出して、《壊り逃げ男》のような事をやったっていう可能性はないんですか」

 

 リーファの言葉に、イリスは眉を寄せた。

 

「確かに彼女をネットの世界に解き放った事もあったけれど、彼女がハッキングやクラッキング能力を身に着けたのは《壊り逃げ男》の出現のかなり後だし、そもそもこの2年間でマーテルは完全に封印されていたから、ネットの世界に行く事だって出来なかった。それに、マーテルの封印を解いた要因というのも、《壊り逃げ男》が原因だって私は読んでるからね。マーテル=(イコール)《壊り逃げ男》というのはないだろう」

 

 イリスは一頻り喋り終えた後、コップの中に紅茶らしき飲み物を一気に注いだ。

 

「何がともあれ、《壊り逃げ男》は間違いなくこの世界に潜んでいて、悪事を始めている。もしかしたらプレイヤーとなって我々の前に姿を現す事もあるかもしれないから、もし怪しげな奴を見つけたならば、私に話してみてくれ。《壊り逃げ男》はこの世界を、そしてこの世界に生きるプレイヤー達を狙っているのかもしれないからね」

 

 キリト達はごくりと息を呑んだ。ただでさえ、この世界に殺されそうになっているというのに、《壊り逃げ男》がプレイヤーを殺す存在になったら、それこそ自分達が何の兆候もなく殺される日が来る事になるかもしれない。そう思うと、腹の底から震えが来てしまって、つい先程まで、箸が止められなくなるくらいに美味な肉を食べるのが難しくなってしまった。

 

「まぁ、本当に《壊り逃げ男》の仕業かどうかはわからないし、《壊り逃げ男》の目的が悪意に満ちているものかどうかというのも全然わかっていない。今日はせっかくS級食材があるんだ、この焼肉パーティーを満喫しようじゃないか」

 

 イリスはそう言って笑んだが、やはり一同は《壊り逃げ男》の話が頭から離れなくなって、肉を口に運ぶ速度を大幅に落とす事になってしまった。その中で唯一、箸を止めなかったのは、AIであるユピテルとユイだけだった。

 

 

 

      □□□

 

 

 

 その日の夜、11時30分。

 キリト達はイリスの提案により、教会の空き部屋に1日宿泊していく事になった。最初はそれぞれ自分の家に帰るから大丈夫だと言ったのだが、イリスは「君達は激しい戦いとなれない経験をしてひどく疲れている。

 

 今宿屋に入って休むより、今日このまま教会に泊まっていった方がいい」と宿泊を勧めてきた。その結果、キリト達はイリスの言葉に甘える事にして、一晩教会で宿泊する事を決めた。

 

 その時シノンは、てっきりキリトの妹であるリーファも自分達と同じ部屋に泊まるのではないかと思っていたのだが、リーファはアスナ、ユウキ、ユピテルと同じ部屋に泊まる事になり、部屋はキリト、シノン、ユイ、リランの4人で使う事になったのだった。

 

 

 最初は理由がよくわからなかったが、後々アスナから小声で「あんな事があった後だから、しっかりと家族との時間を過ごしてね」と言われて、リーファを自分達の部屋ではなく、アスナ達の部屋に行かせたのは、アスナの計らいによるものだったと理解した。

 

 正直に言ってしまうと、シノンはキリトとユイとリラン、この4人で過ごしたいと考えていたため、アスナの計らいはすごく気の利いているものに感じられた。

 

 しかし、お腹いっぱいになって満足したのか、部屋に入ってすぐ後にユイはベッドに入り、そのまま寝付いてしまった。それだけで終わらず、キリトもリランも戦いの疲れにあったのか、瞬く間に眠ってしまった。せっかく生死を賭けた戦いを無事に乗り越えて、また家族との時間を過ごす事が出来ると思ったのに、自分以外の家族が全て寝てしまったのが、シノンはとても残念だと感じた。

 

 仕方がないので、シノンも明かりを消して、眠ろうとしたが、ベッドが既に満杯になりかけている事に気付いた。勿論原因はキリトとユイとリランがいつもの形で眠ってしまっている事。ここにシノンが加われば、見事な川の字が完成する。その時初めて、このベッドが普段使っているベッドと同じくらいである事を自覚した。

 

 シノンはそっと音を立てないように――愛する、このゲームでの夫と娘を起こさないように、静かに布団の中へと滑り込んだ。既に3人が入っているためなのか、布団の中は心地よい温かさを保っていて、被ると全身が暖かくなった。

 

 目の前には、穏やかな寝息を立てている、愛する人達の姿。このゲームに巻き込まれてから、手に入れた愛する人達、自分の事を愛してくれる人達。キリト、ユイ、リラン。

 

 

 この3人の齎す温もりは、自分が現実世界にいた時には、決して得る事の出来ないものだった。このゲームに巻き込まれてしまった頃は、何でこんな世界に巻き込まれるような事になってしまったんだと思っていたが、今となっては、何でもっと早くこの世界に巻き込まれて、キリトやリラン、アスナ達に出会う事が出来なかったのだろうかと悔やみたくなるくらいだ。

 

 あの事件の日から始まった雪と氷しか存在しない冷たい世界――その雪と氷を溶かし尽くし、暖かい世界に変えてくれたのは、紛れもなくキリトとユイだ。特にユイは、あんな事をしてしまったからには母親を名乗る権利なんて存在しないと思い込んでいた自分を、ママと呼んで、本物の娘のように振る舞ってくれる。いや、本物の母親だと思っているのだ。

 

今思えば、現実世界にいた時の自分は完全に心を閉ざしていた。その閉じた心を、ユイは開いてくれた。

 

 だが、それもこれも、全てキリトとの出会いが始まりだ。最初にキリトに出会えたからこそ、今の自分があると言っても過言ではないし、キリトと一緒に居る時間こそが、自分の中で最も幸せな時間であると思うようになった。

 

 

 しかし、あの時。キリトが茅場晶彦であると告白したヒースクリフと戦い始めたあの時――生きた心地というのがなかった。キリトが死んでしまう。キリトが自分の前からいなくなってしまう。信じたくないとキリトに帰していたけれど、あの時シノンの心は、キリトが死んでしまうと言う恐怖に満たされていた。

 

 

 あの時もし、ヒースクリフが死なないで、その凶刃がキリトの胸に食い込み、キリトの命を斬りおとしていたとしたら……ほんの少しそう思うだけで、あの時の恐怖が蘇り、胸の中を満たし、支配する。自分の力ではどうしようもない、どうにもできない大きな恐怖。

 

 この恐怖を感じる度に、これまでずっとキリトに頼ってきた。キリトならば、この恐怖を消す事が出来るのだ。

 

 

 今、キリトは眠っているけれど、起こしたい。

 キリトの声を聞きたい。

 キリトの温もりが欲しい。

 キリトに、甘えたい。

 

「……!」

 

 その時、シノンの中に声が響いた。他の人ではない、自分自身の声だった。

 

《駄目ね、私は……強くなりたいって思ってたのに、全然強くなる事なんか出来てなくて、寧ろ、あなたに甘えてばっかりになってる……あなたが居なくなった時の事を考えたら、怖くてたまらなくなる……》

 

 自分はこれまで、強くなりたいと思って来た。しかし、自分は自分で思っているよりも、弱くて、全く強くなっていない。そればかりか、キリト達と出会ってからは、確かに暖かな日々を手に入れる事が出来たけれど、その分これらを失う事への強い恐怖を抱くようになった。

 

 もし、明日目が覚めてキリトが居なくなっていたら。

 

 目が覚めたらユイが居なくなっていたら。

 

 少し考えるだけで、骨の髄まで凍り付き、心が壊れそうになる。この世界に来て、確かに強くなった部分もあるけれど、心を開く事が出来たけれど、その分心に弱い部分が出来てしまった事を、シノンは自覚した。

 

「私、やっぱり……」

 

 急に目頭が熱くなり、涙が出そうになる。――そこでまた気付く。

 そうだ、これもだ。自分は現実世界にいた時は、そんなに涙する事なんてなかったが、この世界にやってきてキリト達と出会ってからは、よく泣くようになった。そこまで些細ではないけれど、現実の時よりも遥かに簡単に、涙が出てくるようになった。

 

「やっぱり、駄目だ」

 

 小さな声でシノンは呟くと、頭の中である人を思い出した。キリトやユイと同じように大事な人が、この世界にもう一人だけいる。その人は現実世界でも世話になったし、今も尚世話になり続けている人だ。こういう時、自分ではどうにもならなくなった時に行くと、良い助言をくれて、癒しをくれる。

 

「いこう」

 

 シノンは音をなるべく立てないように立ち上がって、ウインドウを呼び出して寝間着の上からいつものパーカーを羽織るという、非常に簡素で薄着な格好をして、部屋を出た。扉の向こうに広がっている廊下の中は、壁にあるいくつかの小さな照明の光によって、薄らと明るかった。

 

 幸い、みんな寝静まっているのか、人の気配はないし、隣の部屋からアスナ達が出てくる気配もない。誰もいない、一人だけの深夜の廊下。

 

 その中を、足音をなるべく立てないようにシノンは歩いて、やがて1室の扉の前まで来て止まった。心に甚大な傷を負った自分の恩師であり、この教会の保母達をまとめる女性、イリスのいる部屋だ。

 

 

 こんな時間だから、もしかしたら寝ているかもしれないし、ノックしても出てこないかもしれない。それでも、今の気持ちをイリスに診てもらいたい。どうか出てきて、答えを返してほしい。心の中で祈りながら、シノンは目の前の木製の扉を、拳で軽く2回叩いた。声は、出さなかった。

 

「こんな時間に誰だい。サーシャか?」

 

 中から聞き慣れた声が返ってきた。少しして、がちゃりと戸が開いて――これまで見た事が無いくらいの薄着になっている恩師が姿を現したが、気にならなかった。そればかりか、向こうの方がこちらの服装に驚いたような顔をしている。

 

「シノンじゃないか。こんな時間に、そんな恰好でどうしたんだ」

 

 言われて、シノン――()()は小さく答えた。

 

()()……先生。今、いいですか」

 

 イリス――(あい)()は目を丸くした後に、やがて薄らと微笑んだ。

 

「……そういう事か。いいよ、詩乃。診てやるから、入って座りたまえ」

 

 詩乃は小さく頷いて、結構な回数入った事のある愛莉のこの世界での部屋に足を踏み入れた。最初に出迎えてきたのはアンティークな家具達だったが、詩乃は何も気にしないで、部屋の中央付近にあるテーブルに添えられたソファに座った。そしてすぐに、愛莉が隣に座った。

 

「眠れないのかい」

 

 詩乃は小さく頷いた。

 察したように愛莉が答える。

 

「まぁ確かに、君達はとんでもない目に遭ってきたわけだからね。眠れなくなって当然と言えば、当然か。キリト君の方はどうだい」

 

「キリトは、眠ってます。眠れてないのは、私だけみたいです」

 

「そっか。キリト君と出会ってから、君はもう私に診られなくても大丈夫だと思っていたのだけれど……そうでもないみたいだね。何が、君の心に引っかかっているんだ。まだ、例のあれか?」

 

「いいえ、現実世界の事じゃないです。この世界の事です」

 

「この世界の事?」

 

「はい」

 

 そう言ってから、詩乃はすべてを、愛莉に打ち明けた。75層の戦いが終わった時から思っていた事、そして先程気付いたすべてを。

 詩乃の話が一通り終わると、愛莉は小さく溜息を吐いた。

 

「なるほどね……キリト君やユイ、リランという愛してくれる人が現れたのはいいけれど、今度は逆にそれらを失うのが怖くなってしまった。そういう事か」

 

 詩乃は小さく頷くだけだった。愛莉は続ける。

 

「確かに、大切な人が出来ると同時に幸せも手に出来るけれど、それと同様に、その人達を失うのではないかと不安になる事も多い。君の場合は、過去が過去だから、そう思ってしまって当たり前なのかもしれないね」

 

「愛莉先生、私は、強くなりたかった」

 

「ん」

 

 唐突な詩乃の言葉に、愛莉は口を閉じた。詩乃は俯きながら続けた。

 

「私は、キリトと出会ってから、すごく幸せです。キリトは私を守ってくれます。だから、私もキリトを守るんだって、そのために強くなるんだって、思ってきました」

 

 愛莉は腕組みをした。

 

「君が強くなりたいと思っていたのは現実世界の時からだろう。もっともあの頃は、一人でも生きていけるように、トラウマを乗り越えるために、強くなりたいと思っていたけれどさ。それが一人で生きていけるためから愛する人を守るために変わったのは、いい事じゃないか」

 

「そうですけれど……でも、私、寧ろ弱くなったみたいなんです」

 

「弱くなった?」

 

「はい。今いるこの幸せが突然なくなったら、もし、キリトが私の目の前で死んでしまったら、朝起きたらキリトが居なくなっていたらって……考えなくていいはずなのに、考えてしまうんです」

 

 愛莉は震える詩乃の肩に手を置いた。

 

「それはいつから?」

 

「ヒースクリフとキリトが戦って、キリトが殺されそうになった時です。あの時、私は本当に何も出来なかった。ただキリトが殺されそうになるのを、見ているしかなかったんです。私はキリトを守りたいって思ってたのに、あの時はすごく、自分を無力だって思いました。あの時はどうにかなったけれど、またあんな事が繰り返されたらって……」

 

「なるほどね……」

 

 愛莉はしばらく黙った後に、やがて口を開き直した。

 

「君は確かに過酷な環境に置かれていて、ずっとそこから出る事が出来なかった。ところが君はキリト君と出会った事により、過酷な環境がいきなり終わって、とても幸せな環境に置かれる事になった。そしてそれはキリト君という存在がもたらし続けているもの、キリト君が死んでしまったら、終わってしまう――こんなふうに考えるのは、意外と自然な事だよ。私だって、失うのが怖いものは沢山あるしね」

 

「愛莉先生も、ですか」

 

「あぁそうだとも。だから君は、そういう事が考えられるようになったんだ。幸せを失うのが怖い、幸せを失いたくないって、そう思えるようになったのさ。現実世界にいた頃は、そんな事はなかっただろう」

 

 現実世界にいた時は、大切な人なんていなかったに等しかった。いや、あの銀行強盗から守った母、祖父と祖母は大切な人と思っていたが、東京の高校に行って一人暮らしを始めてからは、そうは思わなくなった。

 

「ありませんでした」

 

「だから君は、キリト君と出会った事によってそういう事を思えるようになったんだ。だけど、その不安に負けてしまっては、意味がない」

 

 愛莉は横から、詩乃の身体を抱き締めた。愛莉の持つ独特な温もりが全身を包み込む。

 

「幸せを失うのではないかという不安や恐怖を抱くのは、自然な事だよ。それは弱さじゃないし、寧ろ君は現実世界にいた時よりもはるかに強くなってる。強くなったからこそ、君はそういう不安を抱くようになったんだ」

 

「そう、なんですか」

 

「そうだよ。恐怖や不安を抱く事は気にしなくていい。君は強くなってる最中なんだ。そして今より強くなれれば、君はきっと恐怖や不安を抱かなくなるだろう」

 

「そうするには、どうすればいいんですか」

 

 愛莉は詩乃の背中を撫でた。

 

「簡単さ。自分を信じて、自分を好きになる事だ」

 

「自分を、信じる?」

 

「そうだ。君は今までずっと否定される毎日を送ってきたせいで、自分を信じる事っていうのが出来なくなってるんだ。君は十分に強いし、いざとなればキリト君を守る事だって出来るんだ。それを、君自身信じる事が出来てない。自分を信じる事が出来なくて、この世界に負けそうになってる」

 

「……」

 

 そのとおりだった。これまで、ずっと自分は人殺し、幸せになってはいけない人間なんだと思い込んで、そのまま過ごしてきた。そんな自分が好きなわけが無かったし、自信だって皆無だった。

 

「だからね詩乃。君は、もう少し自分を信じて、自分を好きになってみるべきだ。そうすればきっと、君はもっと強くなる。物理的にも、精神的にもね」

 

「本当ですか」

 

「そうだとも。大丈夫、君なら出来るさ。だって君は、ちゃんと愛される人間だし、愛する事の出来る人間なんだから。人を愛せる自分を、愛さなきゃ。まぁ、愛しすぎるとただのナルシストだけどね」

 

 思わず、愛莉の最後の言葉に吹き出しそうになったが、詩乃は心の中が暖かくなるのを感じた。確かにこれまで、自分で自分を信じてみるという事が詩乃は出来なかった。愛莉の言う通り、その自信の無さが、キリトとユイ、リランを失う恐怖を生んでいたのかもしれない。

 

「君は自信を持ってはいけない人じゃないし、君には射撃スキルという大きな力もある。大丈夫、君なら大事なものを失う前に、守る事が出来るさ。自信を、持ちなさい。君なら、出来る」

 

 詩乃は愛莉の手を掴んだ。

 

「……なんだか、それが原因だったってわかってきたような気がします」

 

「そうだよ。君はちょっと自信が持てなかっただけなんだ。だから明日からは、自信を持って戦うんだ。大丈夫、君はキリト君達を守れるよ」

 

「わかりました。明日からは、もうちょっと自分を信じてみようと思います」

 

「そうだ、その息さ。君は自分で思っているよりもずっと強い。これからはもっと自分を信じて戦いなさい。君は大事なものを守れる強さを持っているんだから」

 

 詩乃は微笑んだ。

 

「なんだか不思議です。愛莉先生にそう言ってもらえると、元気が湧いてきます。自分を信じてみようって思えます」

 

 愛莉もまた笑んだ。

 

「そりゃあ、私はそういうお医者様だからね。さて詩乃、悩みの方はどうだい。今夜は眠れそうか」

 

「もう、大丈夫です。部屋に戻ってベッドに入れば、すぐに眠れそうです」

 

 詩乃の答えを聞くなり、ゆっくりと愛莉は詩乃の身体を離した。その際に、詩乃は愛莉の顔を見たが、そこには微笑みが浮かんでいた。

 

「そっか。じゃあ、今日はもうお休み。君だってボスと戦って疲れているんだから」

 

「わかりました。今日は、ありがとうございました」

 

「どういたしまして。困った事があったならまたおいで。私は君の専属医師なんだから」

 

 詩乃は頷き、ソファから立ち上がって、出口まで行ったところで振り返った。

 

「失礼しました、イリス先生」

 

「あぁ。ゆっくりとお休み、シノン」

 

 愛莉――イリスの言葉を聞いて詩乃――シノンは静かに戸を開けて廊下に出て、そのまま自分の守るべき人達の眠っている部屋へと戻っていった。

 

 

 


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