キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

58 / 565
11:少年と医師

 シノン、ユイ、リランと共に眠った後に目を覚ましたところ、すっきりと目覚める事が出来た。シノンの言っていた通り、悪夢で飛び起きるような事は無かった。まぁ正確には夢の内容を覚えていないのだけれど。

 

 しかし、目を覚ましたところで、俺は少し驚いてしまった。時間はまだ5時30分となっていて、シノンとユイが起床するよりも2時間も早く起床してしまっていた。しかもすっきりと目覚めてしまっているため、2度寝する事も出来そうにないと感じていた。

 

「起きるか」

 

 小さな声を出し、音を立てないようにベッドから降りて一階へ降りると、リビング中に朝の光が差し込んできていて、既に明るかった。5月の、日の出が早いところもこのアインクラッドは再現している。

 

 窓際に近付いて、少し山に近いところにある太陽の光を浴びて背伸びをした後に、いつも使っているソファに腰を掛ける。相変わらずというべきなのか、シノン達が起きてくる気配はない。やる事も考えるけれど、素振りをしたい気分でもなければ、寝たい気分でもない。

 

 出来れば、起きてくる彼女達に朝ご飯を作ってやりたいところだが、俺の作れる料理は朝ご飯に出来そうなものもない。やはり美味しいご飯はシノンに作ってもらうしかないのが、どこかもどかしく思えた。

 

「どうするかな……」

 

 ソファの肘置きに肘を付けて掌を手に付けたその時に、心の中で霧が立ち込めてきた。先程――というかまだ深夜だった時に見た、リランの暴走する夢の映像がフラッシュバックしてきて、俺はびくりとする。まだ、忘れられないなんて。

 

 そういえば、なんで俺はあんな夢を見てしまったのだろうか。リランに対する不安はあまりないし、これからリランを暴走させるつもりもないのに。《笑う棺桶》を殺した時の印象が、残り続けているのか。

 

 《笑う棺桶》を殲滅した時の映像は頭の中にいつまでも残り続けるくらいに衝撃的なものだったし、命の危機を感じさせるものだった。あの時の危機感が俺の中に残留し続けていて、俺に警鐘を鳴らしているのか。だとしたらあの夢も……。

 

「こういう時は……」

 

 誰かに相談したいところだけれど、親しい人は意外と少ないし、ディアベルやアスナは聖竜連合、血盟騎士団の作戦会議辺りで忙しそうだし、シノンもユイも、いつも話を聞いてくれるリランも眠ってしまっているから話せない。だからと言って彼女達が起きてくるのを待っていたら、何だかこの嫌な感じが大きなものになりそうだ。

 

(あ、そうだ)

 

 イリスだ。イリスはシノン……詩乃が最も信頼していた精神科医だし、このゲームの開発者の一人で、ユイの真のママだったりする人だ。もしかしたら、イリスならリランの暴走の原因も、この嫌な感じの正体もわかるかもしれない。

 

「イリスさん、起きてるかな」

 

 イリスは子供達の保護施設である教会の院長をやっているから、意外と早く起きて、色々な準備をしているかもしれない。いや、ひょっとしたら忙しいかもだけど、カウンセリングの予約くらいはさせてもらえるはず。

 

 俺は咄嗟にメッセージウインドウを開き、宛先をイリスにして、光のキーボードで文字を打ち込んだ。「おはようございます。今日の午前中、御暇があったら面会をお願いしたいです。可能でしょうか」と、テンプレに等しい文章を書き、送信ボタンをクリックした。

 

 さっきは院長だから早く起きているかもと思ったけれど、イリスだって人間だ、こんな時間から起きている事は、そんなにないかもしれない。きっとメッセージの返事が届くのは、2時間以上先になるだろう――。

 

 そう思った次の瞬間に、メッセージが届いたという通知が来て、俺はソファごと後ろに倒れそうになった。一体何事か、誰からだと思って、メッセージウインドウを開いてみれば、そこにあったのは《Iris》の文字。彼女はもう起きているのか。

 

「どれどれ」

 

 メッセージウインドウを展開して、中の文章を確認してみる。

 

『おはよう。随分と早起きじゃないか。今は起きたばかりだし、サーシャ達も子供達も眠っているから私もフリーだ。都合が悪くなければ、今第1層に来てもらっても構わないよ』

 

 どうやら、イリスは今の時間、相談オーケーらしい。院長だから忙しいんじゃないかと思っていたのに、まさかのフリー発言に驚くと同時に、何だか拍子抜けしたような気分になる。でも、相談オーケーならばちょうどいい。

 

 シノン達が起きてくるのは7時30分以降……2時間以内に戻ってくれば、怒られるような事も、心配をかけるような事もないはずだ。

 

「ちょっと行って来よう」

 

 そう呟いて、俺は休日の格好である灰色のTシャツ、黒いズボンを装備して玄関から出て鍵を閉め、朝日に包み込まれて煌めいている草原と湖を横目に、22層の平穏なフィールドを歩き、村に等しき街に辿り着いて転移門を使用、昔懐かしき第1層に飛んだ。

 

 石造りと街路樹の街並みが特徴的な、第1層の街、《始まりの街アルハン》。その転移門に辿り着いて、俺は思わず驚いてしまった。この前来た時には、人のいないゴーストタウンのようになっていたのに、今は早朝であるにもかかわらず沢山の人や冒険者が行き交い、露天商などが出ている。しかも露天商に至っては、その全員が、商業スキルを上げていると思われるプレイヤー達だった。

 

(そうか……)

 

 以前ここはキバオウ達、ならず者の軍が支配する独裁国家のような状態にされていた。しかしシンカーとユリエールが軍を解体して再構築、キバオウ達ならず者を追放して、尚且つキバオウ達ならず者も残らず死んだ。不謹慎ではあるものの、そのおかげで第1層の街が軍の圧政から解放され、活気を取り戻したのだ。これならば、子供達も過ごしやすい街と言えるだろう。

 

「解放された街って、こんな感じなんだな」

 

 そんな事を呟き、活気あふれる街を嬉しく思いながら歩いて、イリスの経営する教会を目指した。行き交う人々の間を抜けて、露天商に声をかけられながら抜けていくと、すぐさま教会の前に辿り着いた。いつもならば、中から子供達の騒がしい声が聞こえてくるのだが、今は完全に静まり返っている。

 

 流石の教会も、早朝は静かなんだなと思いながら中に入り、子供達や他の保母さん達を起こさないように、森閑としている教会の廊下を歩き、やがて俺は二度訪れた院長室に辿り着いた。索敵スキルをこっそり回してみれば、中からプレイヤーの気配を一人分、感知する事が出来た。

 

「イリスさん、キリトです」

 

 こん、こんと、静かにノックをすると、中から応答があった。

 

「入りたまえ、キリト君」

 

 聞き慣れた女性の声色……シノンの専門医であるイリスの声だった。メッセージの通り、起きてくれていたようだ。

 

「失礼します……」

 

 ドアを開けて部屋に入り込んでみると、まず最初に見えてきたのは、イリスの部屋の最大の特徴ともいえるアンティーク家具の群れだった。シックで古風なその風貌は、この部屋だけがどこか別な、過去の時代にタイムスリップしているんじゃないかと思わせるようなものだった。その中で、過去の西洋で使われていたように感じさせるベッドがあり、そこに今日の目当てであるイリスの姿があった。のだが……。

 

「えっ」

 

 イリスは下着姿だった。いや、正確に言えば下着の上から白いワンピースのようなものを着ているのだが、その生地は半透明に見えるくらいに薄くて、下着と、イリスのボディラインがくっきりと浮かび上がっている。しかもイリスの下着の色は紅く、ワンピースの白と混ざって、赤ピンク色に見える。どう考えても、男性が見たらごくりと息を呑んでしまうこと間違いなしの格好だ。俺もその一人だったようで、口の中に瞬く間に唾液が溢れ出し、俺は咄嗟に、ごくりと音を立てて呑み込んだ。

 

「い、イリスさん」

 

 ほぼ下着姿なイリスは、部屋に入ってきた俺に顔を向けた。寝起きのせいか、とても血色がよいように感じられる。

 

「おはようキリト君。まさか君がこんな時間にメッセージを送って来るとは思ってもみなかったよ。おかげで、寝間着で君を迎える事になってしまった」

 

「す、すみません。まさかイリスさんがこんなに早く起きてるとは思わなくて」

 

「今日はちょっと早く目が覚めただけさ。教会の仕事もそんなに早くからやらなければならないものでもない」

 

「そうなんですか。というか、あんたいつもそんな格好して寝てるんですか」

 

 イリスは自分の身体を見た後に、頷いた。

 

「そうだけど、何か問題でもあるのかい」

 

「その恰好、ほとんど下着が見えてるじゃないですか。仮にもイリスさんは子供達のいる教会の責任者でしょ。子供達にそんな恰好を見せるのは……」

 

 自分でも顔が赤くなって、目を逸らしたくなるのがわかった。しかしなんとか耐えて、イリスに顔を向けてみると、どこかいたずらをしているかのような表情が浮かんでいた。

 

「なんだいキリト君。もしかして私の身体を見て、興奮してるとか?」

 

「そういう事じゃないですッ」

 

 イリスは「ふふん」と笑った後に、アイテムウインドウを展開し、装備フィギュアを操作して、OKボタンをクリックした。直後に、イリスの格好はいつも見ているそれと同じものに変わり、目が向けられるようになった。

 

「正直なところ、あの恰好をしているのは布団に入ってる間だけで、出る時に装備を変えるようにしているんだけど、たまたま操作を忘れてしまったようだ。下着姿で出迎えてしまった詫びをしなければな」

 

 そう言ってイリスは立ち上がり、アイテムウインドウをクリックしてながら部屋の真ん中にあるテーブルへ向かい、ソファに腰を掛けた。そのすぐ後に、テーブルの中央付近にティーポットとティーカップが出現。イリスはポットを手に取って、カップの中に傾けた。こぽこぽという音を立てながら、ポットの口から赤橙色の茶が注がれて、カップの八分目付近まで行ったところで、イリスはポットを傾けるのをやめ、残った片方の手で、カップを対面側に押した。

 

「ほら、座りなさいな。それとこれは紅茶だけど、飲めるかい」

 

「いただきます」

 

 イリスの言葉に答えつつ、俺はイリスの前にあるソファに座り、ティーカップを持って、香りを感じながら紅茶を口に運んだ。いつも飲んでいるものはコーヒーだが、そのせいなのか、紅茶の香りや風味は、どこか上品なものに感じられた。

 

「さてと……話とはなんだい、キリト君」

 

「あぁはい。実は、昨日悪い夢を見てしまって……」

 

「悪夢。それはどんな。もしかして、先日の《笑う棺桶》との戦いの夢かい」

 

「え、なんでわかったんですか」

 

「君達にとって、あれは悪夢のような戦いだったのだろう。しかも君は暴走したリランの背中で、暴れ狂うリランに振り回されながら、リランが殺戮を繰り返していく様を見ているしかなかった。大方、その時の事が夢になって出て来たのだろう」

 

 最近起きた事で、もう俺の夢が推測できるとは、流石心療内科の先生兼心理学者なだけある。

 

「はい。ボス戦をやってる夢で、リランの背中に飛び乗ったら、そのままリランが暴れ出して、周りの皆を殺していったんです」

 

 イリスはふんふんと頷いてみせた。

 

「なるほど、君の中には、リランの力が制御できなくなるのではないかという恐れがあるんだね」

 

「わかるんですか」

 

「人は酷い目に遭った後、またそんな事が起きるんじゃないかっていう恐れを抱きやすい。君もそのパターンだね。君はリランがあんな事になったから、次の戦いで、リランがまた暴走するんじゃないかって、思い込んでしまっているんだよ」

 

 確かにその通りだ。悪夢から目覚めて、シノンと話をしても、心の中にあるしこりのような不安は一向に消える気配を見せてくれなかった。次にリランと人竜一体したら、リランが暴れ出して、みんなを《笑う棺桶》の時のように殺してしまうかもしれない。

 

「俺自身は、リランを信じたいですし、リランを信じてます。でも、またあんな事が起きそうな気がして、仕方無くて……」

 

「なるほど、不安に恐れか……それを取り除く方法なら、一つあるよ」

 

「それは?」

 

「ずばり、リランをフィールドに連れ出してその背中に飛び乗り、一緒に行動してみる事だ。君の中にあるのはリランが暴走する事の恐れだから、その可能性はないって自覚するしかないよ。そのためには、これまでと全く同じことをやってみて、試してみるしかない。もし、何も起こらなければ、君の中の恐れは消え去るだろう。リランは大丈夫だってね」

 

「リランに乗る? それで大丈夫なんですか」

 

 イリスは頬に手を当てた。

 

「わからないね。そもそも、どうしてリランが暴走してしまったのかをまず、知らなければならないんだけど……その理由はわからないし、付き止める方法も模索中だから、ひとまずは、リランが暴走しない事を確認して、安心しなければならないよ。それでも、目が覚めたあの子にこれと言った異常は見られなかったから、大丈夫だとは思うけれど」

 

 イリスは小さく溜息を吐きつつ、俺に微笑んだ。

 

「それに君は、暴走したリランに振り落とされず、最後までしがみ付いて、最終的にリランを止めて見せたそうじゃないか。もし、またリランが暴れ出すような事があったならば、その時君が止めればいいと私は思うんだがね、いかがかな」

 

 確かに俺は、あの時死に物狂いで攻撃して、リランを止めた。でもあれはたまたま上手く行ったのであって、もう一度あんな事になったら、上手く止める事が出来るなんて保証はどこにもないし、それ以前に、暴れ狂うリランが俺を殺す可能性さえある。

 

「あれはたまたま上手くいったわけで、もう一回できるなんて事は……」

 

「ふむ、わからない事だらけで不安なのはわかるよ。だけどキリト君、リランは君にとって、最高の相棒じゃないか。向こうはあんな事になってしまったけれど、それでも君の事を信じている。そんな彼女の事を、君が信じられなくなるのが、一番最悪のパターンだと私は思うよ」

 

イリスは俺の手に、自らの手を覆い被せた。

 

「信じないで後悔するより、信じて後悔しよう。君がシンカーを助け出そうとした時に、みんなに言った言葉じゃないか。相棒を信じないで、酷い目に遭って後悔するよりも、自分の事を信頼してくれる相棒を信じて酷い目に遭って後悔する方が、まだいい。そうじゃないのかな」

 

 イリスの言葉にハッとする。そうだ、リランはあんな事になっても、俺の事を信じてくれたし、今も尚信じ続けている。なのに俺は、リランがまたあんな事になるんじゃないかと思って、リランを信じられずにいた。

 

 きっとこれから、俺達はボス戦に参加する事になる。リランの持つ大きな力は、これまで沢山の攻略組の者達を助け、守ってきた。もし俺が暴走させる事を恐れて、リランの力を使わなかったら、それこそリランを暴走させるよりも大きな被害を出し、守るべき人々を死なせてしまうかもしれない。

 

「そうか、俺は……リランが信じられなくなってたのか。でも、リランは俺の事をずっと信じてくれてる……」

 

「そうだろ。だからキリト君、恐れないで、リランはもう大丈夫だと思って、彼女の背に乗って力を解放してごらんよ。君を信じる彼女は、きっと君に答えるはずだ」

 

 イリスが笑むと、心の中に残っていて、いつの間にか大きなものに変わっていた不安が、まるで霧が晴れるようにスーッと薄く、消えて行くような気を感じた。今ならば、リランが怖くない。リランの背に乗っても、いつも通り戦えると思える。

 

「ありがとう、ありがとうイリスさん。なんだか俺、リランが信じられるような気がします」

 

「信じれるさ。なんたって、今日まで君と一緒に戦い続けて、ここまでアインクラッドを昇ってきた子なんだから」

 

 そう言って、イリスはもう一度笑んだ。帰ったら、リランを信じて、もう一度リランの背に飛び乗ってみよう。そして何もなかったら、信じられなくなってごめんって、リランに謝らないと。

 

 しかしその直後に、俺はある事を思い付いた。イリスは元アーガスのスタッフで、ユイ達MHCP、この世界に封印されているMHHPを生んだプログラマーだ。もしかしたら……。

 

「あの、イリスさん」

 

「なんだいキリト君。まだ不安かい」

 

「そうじゃないんです。イリスさんは、リランが何者なのかわかりますか」

 

 俺はこれまでずっと疑問に思っていたリランの謎を、全てイリスに話した。その全てをじっとイリスは聞き続けて、俺の話が終わった頃に、ようやく口を開いた。

 

「まるで心を持っているかのように話を理解し、時にプレイヤーを癒したり、感情的になったり、一緒に戦ったりするか……改めて思うけれど、随分と高度なAIを積んだ子なんだな、リランは」

 

 イリスは軽く上を見つめつつ、顎に手を添える。

 

「話を聞く限りでは、私の作ったMHCPのパターンに酷似しているね。しかし、それという可能性というのも、限りなく低いだろう」

 

「何でそう言えるんです」

 

「確かに、MHCPはMHHPを元に作り出したものだから、学習能力も感情模倣機能による心も持ち合わせている。だけど、用意したモデルはすべて、人間型なんだよ。でも君の元にいるリランは知っての通り竜型だ。竜型をMHCPに用意した覚えはないし、モデルが切り替わってしまっているなんて事もないだろう」

 

「となると、リランがMHCPである可能性はない……」

 

「あぁ。君は最初リランを、イベントクエストのキャラに例えたそうだが、恐らくそうじゃないのかな。他のゲームで言うグランドクエストみたいなイベントクエストを多少配置したみたいな事をプランナーやデザイナーが言ってたような気がするし」

 

「あんたは知らないんですか」

 

「知らないね。テストプレイは他の連中がやってたし、私はMHHPとMHCPの製作で忙しくて、それどころじゃなかったから。デザイナーやプログラマが私に隠れて高度なAIを作って、それをグランドクエスト級イベントクエストキャラに設定したか……」

 

 確かに、このゲームは元々普通のMMORPGとして制作されていたから、そういうイベントクエストがあっても不思議ではない。しかし、たかがクエストごときで、リランのよう、それこそMHCPに匹敵するくらいに超高度なAIを使うだろうか。そうすればリアリティが出るけれど、何もそこまでやる必要があるのかと言われたら……。

 

「彼女は記憶を失っているそうだから、記憶を取り戻すまで突き進み続けたらどうかな。私にはそうとしか言いようがないよ」

 

「そうですか……イリスさんならわかりそうだと思ったんですが、やはり自分で解き明かしていくしかないみたいですね」

 

「そうだね。考える事も、推理する事も大事さ。よし、君の悩みは吹っ切れたみたいだね」

 

「はい、おかげさまで。だけど、もう一つ聞きたい事があります」

 

「なんだね」

 

 俺はずっと気になっていた事を、イリスに言った。

 

「イリスさんは何で、シノンを……詩乃に付きっきりになってるんですか。普通、カウンセラーとか精神科医なら、どんな患者でも平等に診るものだと思うのですが……」

 

 次の瞬間、イリスは俯いた。しかし口元を見る事は出来、口角が徐々に上がっていくのが見えた。

 

「何故、私が詩乃に付きっきりになってるか、()()()()?」

 

 イリスはそう言って、顔を上げた。その顔は、これまでにないくらいに妖艶で、どこか怪しげな笑みを浮かべているものだった。その顔のまま、イリスは突然俺の座るソファに四つん這いの格好で来て、そのまま俺に這いよってきた。突然の行動に、ぬるりとした空気が心の中に入り込んできたような錯覚を覚える。

 イリスの大きめの胸が迫って来るけれど、顔の方が如何せんすごくて、それどころじゃない。

 

「わたしがあの娘を診るのは、好きだからよ」

 

「す、好き……?」

 

「わたしはね、あなたと同じで、あの娘が好きなの。あんな幼気(いたいけ)な女の子が、ハンドガンで人を殺した事のあるなんて、本当に素敵だわ。本物のハンドガンで悪人を射殺した事のある女の子なんて、日本中のどこを探してもあの娘、詩乃しかいない……」

 

 イリスはぐっと俺に顔を近付けてきた。顔に、不思議な匂いのするイリスの息がかかる。

 

「そんなあの娘の姿は……あなたの瞳にはどんなふうに映っているのでしょうね? ねぇ、キリト?」

 

 まさか、そんな。そんな理由で、シノンを、詩乃を見ているというのか。詩乃がハンドガンで人を殺した事のある、いわゆる殺人者であるから、魅力を感じて、あんなふうに気をかけていたりするのか。

 

 イリスは、芹澤は詩乃が最も信頼している医師だと聞いていたのに、当の本人は……!

 

「あんた……あんたは……そんな理由でシノンを、詩乃を……!?」

 

 思わず怒りを露わにして言い放つと、イリスは何も言わずに俺から離れて、ソファから立った。そして、そっと振り向いた。顔はさっきまでのとは違い、どこか穏やかなものに変わっていた。

 

「びっくりさせてごめんよ。半分本当で、半分嘘だよ」

 

 イリスは窓の外を眺めた。その目線は、22層の詩乃の元へ向けられているような、そんな気がした。

 

「あの娘は、正当防衛とはいえ、人を射殺してしまい……とんでもなく大きな傷を心に作ってしまった。詩乃は、私の元にやってくるどの患者よりも重い症状を持っている。きっと彼女があまりに特異な過去を持っていて、それによる心の傷を患っていたから……私は彼女に感情移入してしまった」

 

 イリスは俺に振り向く。

 

「普通、カウンセラーとか心療内科の先生は、患者に感情移入しないようにするんだ。だから何を言われても、感情的な言葉を返したりはしない。

 だけど、私は詩乃にそれをやれなかった。あの子の過去を聞いた途端、この子は普通の患者とは違うんだって一発で理解できてしまってね。結局カウンセラーとしては失格の、感情移入をやってしまったわけだ。でも、感情移入した事に、彼女と仲良くなれた事に、後悔はしてないよ」

 

 イリスはふふんと笑った。その笑みは、さっきみたいなものではなく、朗らかだった。

 

「そんな彼女にも大切な人が出来た……彼女を悲しませたり、彼女の心に傷をつけるような行為は許さないよ、キリト君」

 

「は、はい」

 

「わかればよろしい。それではキリト君、今回の診察は終了だ。早いところシノンの元へ帰ってあげなさい」

 

 俺は上の空に近い状態で、イリスの部屋を出たが、すぐさまシノンとイリスの関係について考え始めた。シノンがイリスに懐いていた理由は、イリスがシノンに感情移入した医師だったからだ。それまで上目だけの言葉しか言わない医師とばかり話をして来たから、感情移入してくれたイリスの存在は、シノンにとってこれ以上ないくらいに温かいものに感じられたのだろう。

 

 しかし、あの時、俺に迫った時のイリスの顔は、あまりに真に迫るようなものだった気がする。言葉はすぐさま嘘だって否定してたけれど……。

 

(あの人って、ほんと、なんなんだろう。あの時の顔は、本当に嘘だったのか?)

 

 そんな事を考えながら、俺は教会を出て転移門へ行き、22層に戻った。その時には、リランに対する恐れも完全に消え果ていた。

 




前回の、「『今作のみあり得る』カップリング回」

答えは、キリト×イリス。即ちキリイリ回でした。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。