キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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03:央都の夜にて

 

 

           □□□

 

 

 魔獣討伐隊のために用意された個人用天幕にメディナは案内された。そこそこの広さ程度の中に入ると、大きな溜息が出てきた。

 

 

「はあー……」

 

 

 全く持ってわけがわからない事が起きてしまった。オルティナノス家の汚名をそそぐべく、出現した魔獣の討伐隊に加わるための試験を受けに行ったら、何故かそこには罪人として捕まったはずのキリトとユージオが、何故か整合騎士と和解した状態で居た。

 

 そして事情はともかくとして試験を受けようとしたら、その場で合格判定が出た。出したのはキリトだ。彼(いわ)く「メディナとグラジオは十分に強いから、立ち合いをしなくたって大丈夫だ」と。

 

 他の者達はしかと立ち合いをして実力を見せつけたうえで合否を決められていたというのに、自分達はそれをすっ飛ばして採用されてしまった。随分(ずいぶん)と不公平な事になってしまった気がしてならない。

 

 

(これでは……)

 

 

 またオルティナノスが何かをやらかした、不正をしたなどと言って、他の貴族共が言ってきても不思議ではないだろう。どいつもこいつも、確証のない話を信じて、オルティナノス家を《欠陥品》呼ばわりしてくる。

 

 そいつらに(ののし)られるのはいつまで経っても慣れないし、そんな事を抜かす連中の(みにく)い顔を見るのはもっと慣れない。それなのに、奴らを付け上がらせるような事をしてしまった。

 

 

「メディナ先輩、やりましたね!」

 

 

 頭を抱えているメディナにかけられる声があった。振り返ってみると、そこには少年以上青年未満の男性が一人。丁度試験官であったキリトと似たくらいの長さの赤茶色の髪と、(あめ)色の瞳が特徴的だ。

 

 名前はグラジオ・ロレンディアといい、メディナの《傍付き練士》だった。彼も彼女同様にキリトによって入隊試験を免除されて、実戦配備される事になった剣士であった。

 

 メディナのいる小型天幕の隣にある、同じような小型天幕が彼の居場所のはずだが、彼は今、自身の天幕ではなく、メディナの天幕に入ってきていた。

 

 

「おれ達、無事に魔獣討伐隊になれましたよ。これで、人々のために戦う事ができます」

 

「……あぁ」

 

 

 グラジオの目は輝いていた。その光が、どこかメディナには(まぶ)しく見えた。

 

 

「メディナ先輩はとても強いです。だから、沢山の魔獣を倒す事だってできますよ。そうすればきっと、メディナ先輩の家が、オルティナノス家が《欠陥品》なんていう話はなくなって、他の貴族達も考えを改めるはずです」

 

 

 メディナは何も答えなかった。きっとグラジオの言っている事は真実だ。オルティナノス家の最後の当主となった自分が魔獣達を倒し、人々を守ったという功績が作られれば、貴族達も考え直してくれるかもしれない。

 

 だが、本当にそうなってくれるのだろうか。オルティナノス家は《欠陥品》。その評判は長い歴史に刻み込まれているようだ。オルティナノス家の汚名返上をするという事は、その長い歴史に終止符を打つという事になる。

 

 それだけの事が自分にできるのだろうか。急に不安になってきて、心に(もや)が立ち込めてくる。それはやがて、メディナの口を動かした。

 

 

「……本当にそれだけで変わるのか。オルティナノス家が《欠陥品》って言われてるのは、ずっと昔からだぞ。しかもなんでそういうふうに言われるようになったのか、私でさえ知らない」

 

「それ、やっぱり何回聞いてもひどい話ですよね。なんで《欠陥品》って言われてるのかわからないのに、皆が皆それを信じて、メディナ先輩にひどい事をしたりしてるんですから。最高司祭様が昔言ったらしいからって、どんな理由なのかわからないのに」

 

 

 メディナはグラジオを見た。まるで理不尽な事を目にして、怒りを燃やしているような顔をしている。

 

 こいつはいつもそうだった。傍付き練士に選ばれた時も、「《欠陥品》に選ばれた」などと言わなかったし、他の貴族達の言い分の方がおかしいと言ってさえいる。もしかしたら自分の知る貴族の中で、唯一自分を《欠陥品》と言わない貴族かもしれなかった。

 

 

「お前は本当に変わっているな、グラジオ。《欠陥品》の一族かもしれない私に選ばれたというのに、全く落胆しないし、私を(けな)したりしない」

 

 

 グラジオは両手を腰に添えた。

 

 

「そりゃあそうですよ! おれの家であるロレンディア家は、他の貴族とは違うんです。ロレンディア家は、戦いにおける数々の功績を残してきて、皇帝に認められて土地もいただいたりしてきました。それは他の貴族達もそうですけれど、ロレンディア家は上に昇る事をやめないんです。もっともっと上を目指して、もっともっと多くの功績を残そうとして、日々鍛錬も実戦も欠かさない。そういう一族です」

 

 

 グラジオは急に別な方を見た。どこか遠くにある、嫌なものを見ているような顔になった。

 

 

「でもなんですか、周りの貴族達ときたら。一回皇帝に認められた程度で高慢になって、胡坐(あぐら)かいてふんぞり返ってるじゃないですか。それで実際に戦うと目も当てられないくらい弱い。なのに高慢な態度を絶対にやめようとしない。そんな連中の誰かの《傍付き練士》にさせられるんじゃないかって、ひやひやしてたんですよ、おれ」

 

 

 メディナはきょとんとした。それはつまり――。

 

 

「だから、私に選んでもらえてよかったと?」

 

「はい! メディナ先輩はロレンディア家みたいに、日々鍛錬する事、上に昇る事を欠かさないでいるオルティナノス家の人です。他の貴族達みたいに高慢じゃない。だからおれ、メディナ先輩に選んでもらえて、本当に嬉しかったんですよ」

 

 

 グラジオは座るメディナの目の前まで来て、腰を落としてきた。飴色の瞳がメディナの翡翠色(ひすいいろ)の瞳と交差する。

 

 

「だからメディナ先輩、おれに恩返しさせてください。メディナ先輩の、オルティナノス家の汚名返上をするっていう目的を、手伝わせてください」

 

 

 メディナは数回瞬きを繰り返した。グラジオの事は最初から変わっていたと思っていた。だが、ここまでとは思ってはいなかった。自分を《欠陥品》呼ばわりせず、《欠陥品》呼ばわりする者達が間違っていると言ってくれる。

 

 そしてなんだか――むかつかない。キリトやユージオはむかついて仕方がないというのに、このグラジオについては何故かむかつく気持ちが湧いてこない。

 

 それはもしかしたら、オルティナノス家の思想と似たものを持つのがグラジオの家だからというのもあるのかもしれない。だが、詳細についてはわからなかった。

 

 そんな気持ちを胸に抱いた時、自然と笑みが(こぼ)れた。

 

 

「……いいだろう。明日からはこれまでお前が受けてきた、どの鍛錬よりもきつい戦いの連続になるぞ。私に恩返しするつもりなら、今のうちに覚悟しておけよ、グラジオ」

 

「はい、メディナ先輩! 精一杯頑張らせていただきます!」

 

 

 グラジオは笑みを返して答えてくれた。その顔を見ただけで、グラジオは言った通りの事をしてくれるとわかった気がした。

 

 先程までは少々不安になっていたが、その気持ちは今のメディナにはなかった。不安になっている場合ではない。オルティナノス家の汚名返上のため、剣も力もない人々を守るため、戦わなければならないのだから。

 

 

「何としてでもやり遂げるぞ」

 

 

 

 

           □□□

 

 

 

「はーっ……」

 

 

 対策本部の近くにクィネラが建ててくれた《自宅》に戻ったキリトは、一階の居間の椅子に深く腰を掛けた。身体の重さが一気に強くなって、怠さも出始めている。まるで自分にだけ強く重力がかかっているかのようだ。

 

 そうなった理由については、既に把握している。昼間に《EGO(イージーオー)》を使い過ぎたせいだ。これまで使ってきたどの剣よりも鋭く、どの剣も出す事のできなかった劫火を身に(まと)い、斬れぬものが《カセドラル・シダー》以外にないと思わしき白き炎剣は、自分のエゴから生まれた《EGO》だ。

 

 白き炎剣の姿をしている《EGO》は、すさまじい力を発揮する事ができ、あらゆる魔獣を難なく倒し、本日発見されたカラントも容易に斬り裂く事ができる。実に頼もしい武器なのだが、使用から数時間後に強い疲労感がきて、身動きがかなり制限されてしまうという反動がある。

 

 今まさに、その反動がキリトを襲っていた。まるで激しすぎる運動を数時間に渡って繰り返し続けた時のようだ。正月の伝統行事である箱根駅伝に参加した選手達はこんな感じになるかもしれない。

 

 

(困ったな……)

 

 

 《EGO》を使い続けるとこうなるという事はつまり、《EGO》の連続使用は禁忌であるという事だ。《EGO》を使っても仕留めきれない敵が出てきた場合、戦闘中に《EGO》の反動が来て動けなくなるという事象に襲われる危険性がある。

 

 そうなってしまっては周りの仲間達に多大な迷惑がかかる。それだけではない。仲間達も動けなくなった自分を庇おうとして、同じように身動きが上手く取れなくなり、隙を晒す事になりかねない。そうなれば本当にやられてしまう事だろう。

 

 

「何らかの対策をしないとだな……」

 

 

 カーディナルとクィネラならば、このアンダーワールドの事について知らない事はないようだから、《EGO》を使っても疲れないようになれる方法も知っているかもしれない。明日、南帝国に出発する前に聞いてみよう。

 

 そう思いながら椅子に深く腰を掛けたその時だった。玄関の外にあるチャイムの音が耳に届いてきた。共にこの家で暮らし、今は買出しに向かっているシノン、リラン、ルコの三名ではない客人が来たようだ。

 

 

「はい」

 

 

 キリトは重い身体を何とか動かして椅子から立ち上がり、玄関へ向かった。ドアを開けると、部屋の明かりを反射する金色の髪の毛が見えた。リーファだった。

 

 

「……おにいちゃん」

 

「あぁ、リーファだったか。どうした?」

 

「ちょっとおにいちゃんの顔を見たくなっちゃったから来たっていうか。ううん、おにいちゃんに話があって来たんだ……って、うん?」

 

 

 リーファの新緑の瞳は、真っ直ぐキリトの顔を捉えていた。しかし、何故こんなに見つめられているのかはわからず、キリトは思わず戸惑いを覚える。

 

 

「えぇっと、どうした」

 

「おにいちゃん、顔色悪くない? 疲れてる?」

 

 

 キリトは少しびっくりした。疲労が顔色にまで出てしまっていたのだろうか。だとすれば、次にリーファが言い出しそうな事と言えば、「話は後でもいいよ。早く休んで」だ。彼女は話がしたくて来たのに、正直に答えれば追い返すような事になりかねない。

 

 

「いや、そこまで疲れてないよ。それより、話ってなんだ」

 

 

 リーファは背伸びをしてキリトの背後を見るような動きをした。家の中を伺っているようにも感じられる。

 

 

「んーと、玄関だと話しづらいって言うか……」

 

「そうだな。よし、上がってくれ。中で聞くよ」

 

 

 そう言ってキリトはリーファを家の中へ招き入れた。ドアを閉めて、比較的簡素な家具で彩られた部屋の中央付近まで案内する。食事をする時にも、その他の時にも使っているテーブルに備え付けられた椅子に再び腰を下ろし、キリトはリーファに向き直る。

 

 

「そう言えば、お前を上がらせるのは初めてだったかもな。ごめんな、お前がここに来てもう一ヶ月以上経ってるっていうのに、上げてやれてなくて」

 

「ううん。そんな事は気にしてないよ」

 

「そうか? それでリーファ、話って――」

 

 

 言いかけたその時、キリトの身体を軽い衝撃が襲ってきた。すぐ前を見下ろすと、そこにはリーファの頭部。

 

 椅子に座るかと思われたリーファが、キリトに抱き付いてきたのだった。リーファが持つ特有の柔らかい感触と温もりが胸元を包んできて、ふんわりとした匂いが鼻腔(びくう)に流れてくる。

 

 もし、普通の高校生くらいの年齢の男だったならば興奮を覚える場面であろうが、果たしてキリトはそうなっていなかった。

 

 

「……どうしたんだよスグ。急に抱き付いてきて」

 

 

 リーファから「ぐすっ」という声が聞こえ、身震いしたのがわかった。

 

 

「おにいちゃん……本当に良かった……」

 

「スグ……?」

 

 

 リーファはキリトの背中に回す手に力を込めてきた。胸元が湿ってくる。泣いているのだ。

 

 

「やっと二人になれた……お願い……ちょっとの間で良いから……こうさせて……」

 

「……」

 

「……おにいちゃんが大変な事になって、どこに行ったかわからなくなって……あたし、どうしたらいいのかわからなくって……でも、絶対に会いに行くんだって思って……この世界に来て……そしたらおにいちゃんは起きてくれなくって……こんなに心配して、必死に会いに来たのにさ、死んだみたいに眠ってたから……!」

 

 

 キリトはリーファの後頭部に手を添え、髪を優しく撫でてやった。謎の人物の襲撃を受けて薬物を投与され、危険な状態にされた後、自分達は行方不明になっていたという話だった。

 

 その間、リーファ/直葉(すぐは)がどんな気持ちになっていたのか、どれだけ悲しい思いをしていたのか、今更になって想像できてきた。きっと彼女は、今にも押し潰されそうだったのだろう。《SAO》の時と同じで、自分が死ぬかもしれないと心配で仕方がなくなっていたのだ。

 

 

「ごめん、スグ……思い出したよ。お前は心配性で、思いやりがあって、そして泣き虫なんだったな……」

 

「ぐすっ……泣き虫は余計だよ……」

 

 

 リーファはキリトの胸の中で顔を上げた。目元に涙があるものの、柔らかい表情が浮かんでいた。

 

 

「でもね、ここに来るまであっという間だったの。ずっとおにいちゃんの事を考えてたから。今何してるんだろうとか、ちゃんとご飯食べてるのかなとか、痛い思いをしてないかなとか、笑って過ごせてるかなとか……ずっとずっと、考えてたんだよ」

 

 

 アドミニストレータの罠に引っ掛かり、意識を閉ざされてしまった時、アリスに起こしてもらう直前には、皆の声に混ざったリーファの声が何度も聞こえてきていた。その時も今言ったように、自分を想ってくれていたのは間違いない。目覚められたのはこの子の力と思いがあったからこそだ。

 

 

「ああ……ありがとう。スグが想ってくれたおかげで、俺はこうして目覚める事ができたんだ」

 

「あたしだけの力じゃないよ。おにいちゃんが目覚めたのは、きっと皆がおにいちゃんを想ってくれてたからだけど……でもあたしだって皆に負けないくらい、ううん、皆以上におにいちゃんの力になりたいと思ってたんだよ」

 

 

 しかし、そこでリーファの表情がぐずつき、雨模様になった。見られたくないのか、リーファはキリトの胸元に顔を戻した。

 

 

「だけど……おにいちゃんはこうして起きてくれたから良かったけど……最初は本当にもう駄目だって思った……()()()()()()()()()()()、どこに行ったかわからなくなった時……もう、本当に終わりだって思った……おにいちゃんが死んじゃったって……そう思ったんだから……《SAO》におにいちゃんが囚われた時に、そうならずに終わってくれた事が……戻って来たって思った……んだから……」

 

 

 やっぱりそうだったか――キリトは胸中の予感が当たった気がした。リーファにとっては、あの《SAO》の時の悪夢の再来だったのだ。本当にひどい思いをさせてしまったと、すまない気持ちが溢れてきそうになった。

 

 

「あぁ、心配かけさせて本当に悪かった。俺はもう大丈夫だ」

 

「本当に……?」

 

「勿論だよ。だってお前もアスナ達もいるし、シノンとリランも居てくれるからな。お前達が来るまでに、シノンとリランが一緒に居てくれたから、俺はここまで生き残る事ができたんだ」

 

 

 その時、リーファの動きが止まった。本当に何も感じられなくなるくらいに動きを止めたものだから、キリトは思わず驚き、リーファを見下ろした。

 

 

「シノン……さん……詩乃(しの)、さん?」

 

「そうだよ。シノン――詩乃もあの時俺と一緒に襲われてしまったからな。本当は俺が守らなきゃいけなかったのに、力が足りなかったせいで……詩乃もこの世界に来る事になってしまった」

 

 

 思い返せば、シノン/詩乃にもひどい思いをさせてしまったものだ。あの時襲撃者を取り押さえる事ができていれば、きっと詩乃までこの世界に放り込まれるような事もなかったはずだ。現実に居る自分はなんて非力なんだろう――その時を思い出すとそんな気持ちに駆られて仕方がなかった。

 

 

「だけど、シノンが俺の(そば)に居てくれて、リランが俺を支えてくれたから、俺は今日までこの世界で生き残る事ができて――」

 

「――ねえ、おにいちゃん」

 

 

 リーファからの呼びかけでキリトは言葉を止めた。リーファは再び顔を上げていたが、その表情を見てキリトはもう一度驚かされた。

 

 ひどくびっくりしたような表情をしていたのだ。まるで信じがたい何かを見てしまったかのように。

 

 

「詩乃さんは……あたし達の家族だよね? おにいちゃんの結婚相手で、あたしのお義姉(ねえ)さん。だから、あたしにとっても大切な家族なんだよ、ね?」

 

 

 キリトは一瞬何を問われているのかわからなくなった。しかしすぐさま、リーファの問いかけを頭の中で反響させる。

 

 シノン/詩乃は自分の結婚相手。今はまだ恋人だが、もう数年したら結婚しようとは思ってはいる。なので、リーファ/直葉にとって義理の姉という事になる。

 

 その事はもう直葉本人も自覚しているようだった。現実世界に居た時、二人がとても仲良くしているところも、詩乃がその場にいない時ではあったが、「詩乃さんはあたしのお義姉さん! 早く一緒に暮らしてみたい!」と、直葉が嬉しそうに言っていたところも何度も見た。

 

 どうして今更その確認をする?

 

 

「いや、そう言ってたのはお前だろ。詩乃は義理の姉だ、お義姉さんだって、現実世界に居た時に何度か言ってたぞ?」

 

「そうだよね……そう、だよね……」

 

 

 リーファの信じがたいものを見た顔は変わらなかった。先程までの涙も完全に乾いてしまっている。何だか様子がおかしいという感覚を抱かせるには十分すぎる状態だが、リーファからの独り言がそれを加速させてきた。

 

 

「詩乃さんは、おにいちゃんのお嫁さん……あたしにとってお義姉さん……大切な人……家族……なのに……なんで……」

 

「おいスグ、どうしたんだ」

 

 

 リーファははっとしたようになった。我に返ったらしい。唖然としたような顔をキリトに向けてきたが、なんでこんな顔をしているのか、キリトは依然読む事ができなかった。

 

 

「スグお前、大丈夫か?」

 

「あ……うん……」

 

 

 リーファはそう言うと、キリトから離れていった。ようやくそこで表情に動きが出て、若干の柔らかさが戻ってきた。

 

 

「ごめんね、おにいちゃん。急に抱き付いたりして……」

 

「大丈夫だよ。俺の事が心配だったから、してくれたんだろ」

 

「うん。()()()()()()()()()()()()()時の事を思い出しちゃって、つい……あれ……!?」

 

 

 そこでリーファは言葉を途切れさせ、自らの手を口許(くちもと)に添えた。顔がまたさっきの驚ききったものに戻る。いよいよおかしいぞ――キリトは咄嗟(とっさ)に立ち上がり、リーファの両肩に手を載せた。

 

 

「なぁスグ、どうしたんだよ。さっきからなんか変だぞ」

 

「……あのさ、おにいちゃん」

 

 

 リーファは顔を上げてきた。またしても柔らかさが取り戻された表情になっていた。

 

 

「今度で良いから、おにいちゃんとシノンさんがこの世界でどんなふうに過ごしてたとか、話してもらえたりしないかな」

 

「え?」

 

「あたし、まだ何か不安な気持ちがあるみたいなの。だからね、おにいちゃんとシノンさんが大丈夫だったっていう話を聞きたいなって……別に今すぐじゃなくてもいいの。おにいちゃんとシノンさんがいい時に、聞かせてほしい」

 

「それなら別に構わないけど……」

 

 

 リーファはすんと笑み、キリトの手をゆっくりと降ろさせた。

 

 

「ごめんねおにいちゃん、急に押しかけちゃって。明日からのカラントの捜索と魔獣討伐、一緒に頑張ろうね!」

 

「あ、ああ。頑張ろうな」

 

 

 キリトのぎこちない返事を聞くなり、リーファは「じゃあねー!」と軽く手を振り、家を出ていった。部屋の中に静寂が取り戻されたが、それは先程リーファが来るより前のものとは違う、異質なものになっている気がした。

 

 

 

 

           □□□

 

 

 

 兄であるキリトの家から逃げるようにリーファは走り、自身のために用意された天幕に入り込んだ。力いっぱいに入口の布を閉め、外界から見えないようにする。

 

 そこでようやく、リーファは自身の息が上がっている事に気が付いた。激しい悪寒が背中を撫で上げてきて、寒気が止まらない。今、鏡を見れば、さぞかし真っ青になった自分の顔が見える事だろう。

 

 

「なんで……」

 

 

 リーファは自分で自分が信じられなかった。まだ現実世界に居る時に、兄であるキリト/和人とその恋人である詩乃が襲撃を受けた後に行方不明になった時、心配を通り越して恐怖に襲われた。

 

 それは大切な兄である和人と、同じく大切な義姉である詩乃が死ぬかもしれないと思ったからだった。和人の命が失われるのは何よりも嫌だったが、それと同じくらいに詩乃の命が失われるのも嫌だと思っていた。

 

 だから明日奈の話を聞いて、真っ先にオーシャンタートルへ向かったのだ。

 

 

「なのに……なんで……」

 

 

 先程和人/キリトと話している時、リーファ/直葉の意識の中から、詩乃/シノンの存在は消えていた。

 

 同い年なのに年上みたいに思えるが、とても優しくて、暖かくて、本当に血の繋がった姉のように接してくれるのが詩乃だ。

 

 この人がキリトの恋人であり、義理の姉になると聞いた時は驚いたものの、その後はそうなってくれて本当に良かったと思った。

 

 こんなに素敵な人が義理の姉になってくれるのは、とても最高だと、彼女との日々を過ごす中で思った。できれば兄が早く詩乃と結婚してくれないものかと思いさえした。

 

 それくらいにまで、詩乃の存在は直葉にとって大きなものだった。なのに――。

 

 

「なんであたし……詩乃さんの事を心配してないみたいになってたの……?」

 

 

 それが何よりも信じられなかった。

 

 どうして、あの時あたしは詩乃さんの存在そのものを忘れたみたいになっていたの。

 

 どうして、大好きな義姉さんを忘れてしまうような事になっていたの。

 

 わからない。

 

 わからない。

 

 わからない。

 

 

「なんで……」

 

 

 

 ――どうしてだろうね?

 

 

 不意に声が聞こえたような気がして、直葉は震え上がった。

 

 え? 誰かいるの――そう思って天幕の中を見てみるが、誰もいない。

 

 閉め切った布を開いて外へ出てみるが、やはりそこには誰もいなかった。

 


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