キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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13:真実の姿

          □□□

 

 

《ど、どういう事だ……!? この光景は一体なんだ!?》

 

 

 頭の中にリランの《声》が届いた。彼女の見ている光景がそう言わせた原因であるが、それを見ているキリトも、頭の中も身体も(しび)れて動かないかのようになっていた。

 

 目の前にシノンがいる。自分と一緒にこの大会に参加した、見慣れた恰好をして《ヘカートⅡ》を得物としているシノンが、確かにそこにいた。

 

 そのシノンの前方に、黒いゴシック調のコートに身を包み、つい先程までは帽子と猫の仮面で頭部を(おお)い隠し、《ヘカテー》と呼ばれていた少女がいる。その隠されていた頭部と仮面こそが常軌(じょうき)(いっ)した光景を作り出した要因だった。

 

 ヘカテーの顔は、シノンのそれと全く同じだったのだ。いや、正確にはヘカテーの顔はシノンの顔つきを少々幼くしたようなものであるという違いがあるが、ほとんどシノンのそれと同じ形をしているという点に変わりはなかった。

 

 自分にとってこれ以上ない大切な人であり、生涯その(そば)に居て、守っていくと誓った恋人であり、伴侶。その人と瓜二つの顔をした存在が《死銃》の一人だったというのが、今キリトの目の前で起きている現実のあり様だった。

 

 

「な……なんで……」

 

 

 シノンのか細い声が聞こえた。彼女は震えてヘカテーを、自分と全く同じ顔をした《死銃》を見つめていた。翡翠(ひすい)がかった水色の瞳と、ヘカテーの黒茶色の瞳が交差し、互いの姿が映し出されている。互いに自分の姿を見つめ合っていた。そんな彼女が合わせ鏡の中に生じるという無限の地獄の中に落ちていきそうになっているのが、キリトはすぐにわかった。

 

 しかし咄嗟(とっさ)にシノンの(もと)へ駆けつけるという事はできなかった。あまりの光景で身体が金縛(かなしば)りに遭っているかのように動けない。だからこそキリトは今できる唯一の行動として、腕組をしながらシノンとヘカテーを見ているハンニバルへの呼びかけを行った。

 

 

「ハンニバル、これはどういう事だ。お前は一体何をしたんだ!?」

 

 

 今は黒死病(ペスト)医師のマスクで顔を隠しているハンニバルは姿勢を変えないまま声で答えてきた。

 

 

「詳しい事は全てヘカテー……いや、()()()が教えてくれる。その声を聞いてみるといい」

 

 

 ハンニバルはそう言った後に言葉を発するのを止めてしまった。その答えの内容に強い苛立(いらだ)ちを覚えながら、キリトは二人のシノンに向き直った。その片方であるヘカテーと呼ばれし者が口を動かした。

 

 

「あなた、《死銃(デス・ガン)》は知ってるわよね。この《GGO》で多くの人を殺しているプレイヤーの事……まぁ、知らないはずないわね。あなたは《死銃》を自分の手で倒したいから、殺したいから来たわけだし」

 

「……!」

 

 

 シノンがぴくりと反応すると、ヘカテーが右手の(てのひら)を上に向けた。間もなくして複数の赤い光を(まと)った小さな球体が複数そこに姿を見せた。それはリランとプレミアとティアの三人から聞いていた、ペイルライダーの頭部を取り囲んだ無数の赤い光に酷似(こくじ)している。《死銃》が使用していた殺人道具だ。

 

 それを手に出したヘカテーは独り言のように言った。

 

 

「あれをやっていたのは私よ。私がこの武器を使って、プレイヤー達を殺してきたの。(おご)り高ぶって、強い人の真似をしている連中にとどめを刺してきたの」

 

「なんで……」

 

 

 シノンの問いかけを受けて、ヘカテーは光の球体をストレージに戻して応じた。

 

 

「そうすれば私が罪人だって事が知れ渡って、私に裁きが下されるからよ。私を罪人だと認めてもらえれば、ちゃんと裁かれる事ができるの。本当はあの強盗を撃ち殺した時点で十分な罪が課せられて、裁かれなきゃいけなかったのに、誰も私の事を本当に罪人だとはしなかった。そのせいで下されるべき裁きだって下されなかった。それがずっとずるずる続いて、今まで引きずり続ける事になった」

 

 

 ヘカテーの言っている事にキリトは息を呑んだ。彼の者の語る過去は、シノンの過去そのものだった。シノンを今でも苦しめている宿痾(しゅくあ)であり、誰にでも話していいものではない経緯。

 

 それをヘカテーは一言一句間違える事もなければ、イメージや憶測(おくそく)を含む事なく、全てを話していた。まるで実際に体験した事があるかのように。だからこそキリトは、ヘカテーはシノンであるという事実を信じたくなくても信じるしかなくなっていた。

 

 

「強盗を撃ち殺した、だって……?」

 

 

 聞けば当然のように引っかかる話を聞いたイツキが反応を示した。ツェリスカ、アルトリウス、サチ、マキリもひどく驚いたような顔をしている。

 

 (まず)い。聞いてほしくない人達にまで、この話が知れ渡ってしまっていっている。シノン本人は決して話したがらない、彼女の過去が余計なところにまで広がっていこうとしている。その元凶となっているヘカテーは、アルトリウス達を見た。

 

 

「そうよ。私はね、人を殺した事があるの。銀行に強盗に入ってきた奴が持ってた拳銃を奪って、そいつを撃ち殺したのよ。そのせいで《PTSD》っていう病気にかかっちゃって、ずっと苦しめられてきてた」

 

「違う……違う違う違うッ!!」

 

 

 シノンが必死に首を横に振って否定するが、それをヘカテーは一蹴(いっしゅう)するように言った。

 

 

「否定したところで変わらないわよ。実際あなたは今でも拳銃が恐ろしくてたまらないじゃない。銃……特に《54式黒星(ヘイシン)》を見れば、一瞬であの事件の事が蘇ってきて、怖くなって、何もわからなくなる。苦しくて何もできなくなる。そうでしょ、私」

 

「違う……ち、が……」

 

 

 ヘカテーは軽蔑(けいべつ)するような目でシノンを見下ろしていた。他人を見ているのに、強い自己嫌悪を抱いているかのような顔だった。認めるべき事を認めようとせずにいる人間を侮蔑(ぶべつ)しているような表情のようにも感じられる。間もなくして、ヘカテーは右手をくいっと動かして、背後方向へ伸ばした。

 

 

「ステルベン、アレをちょっと貸してもらえるかしら」

 

「承知した」

 

 

 ヘカテーの正体が判明してキリト達が動きを止めた時、一緒に攻撃をやめていたステルベンがヘカテーに向かって何かを投げつけた。それは黒いブーメランのようなものだった。ステルベンの手から離れたそれはくるくると回転しながら、弧を描く軌道でヘカテーの許へ飛んでいき、ヘカテーの伸ばされた右手に収まった。そこでようやく正体が何だったのかが認められた。

 

 拳銃だ。明らかにわざとであろう、ヘカテーはグリップ部分を浅く持つ事で、そこに彫り込まれた紋章を見せつけている。丸の中に星の形。それは紛れもなく、シノンのトラウマの象徴である拳銃――《54式黒星》の姿だった。

 

 

「ッ!!」

 

 

 それを見たシノンはただでさえ動けない身体の動きを止めさせてしまった。目はひどく見開かれて、一直線に《54式黒星》を見てしまっている。明らかにトラウマによる症状が出る寸前の兆候だった。そんな状態になっているシノンを認めたヘカテーは、わざとらしくシノンへ《54式黒星》の銃口を向けた。

 

 

「これが何かわかるでしょ。《54式黒星》。あの時あなたが使った銃。強盗が持ってて、強盗を撃ち殺した銃。覚えてるよね。忘れるわけないわよね」

 

「い゛……や゛あ゛……」

 

 

 シノンはほんの少しだけ後退(あとずさ)りしようとしていた。それに合わせてヘカテーは銃口をどんどんシノンに近付ける。

 

 

「怖いでしょ。怖くてたまらないでしょ。私もそうだったわ。この銃を見るとあの時を鮮明に思い出してしまうの。それで怖くなって、震えが止まらなくなって、寒くなって、冷たくなって、どうにもならなくなって、気持ち悪くなって、お腹の中の物を全部吐き出しそうになる。そうでしょ、私。今、そうなってるでしょ」

 

 

 シノンは答えるのをやめていた。ただ銃口を見つめてぶるぶると震えているだけになっている。ヘカテーは続けた。

 

 

「でもね、私はもう平気なんだ。あなたは平気じゃないけど、私はもう平気なの。この銃を見ても何もならないの。確かにあの事件の事は思い出すけれど、それでも苦しくなるような事はない。何も怖くないの」

 

 

 キリトは思わず「は」と言ってしまった。あの拳銃を見ても何にもならなくなる、何の症状も起こさずに済むようになるというのが、今のシノンの目指している目的であり、キリトがシノンを連れて行ってやりたいと思っている場所だった。

 

 そこにヘカテーはいち早く辿(たど)り着いているだと?

 

 

「どうしてなのかわかる? どうして私は平気になってて、あなたはそんなままになってるのか、わかる?」

 

「な゛……ん゛で…………」

 

 

 シノンが(しぼ)り出したような声で尋ねると、ヘカテーは持っている《54式黒星》そのものを自身の胸に当てるような仕草をした。

 

 

「それはね、自分の罪を受け入れただけよ。あなたみたいにいつまでも()()()()()()しようとせず、罪を犯したんだって事を、裁きを受けるべき人間だっていう事を受け入れたのよ」

 

「な……」

 

 

 ヘカテーの宣言にキリトは声を漏らしていた。勿論それが聞こえているはずがないヘカテーはシノンへもう一度向き直る。シノンは驚愕しきったような顔でヘカテーを見ていた。

 

 そのヘカテーを少し離れたところから見ているハンニバルから声がした。

 

 

「シノン、私も君を見てきているからわかるよ。君は強さを求めている。強くなり、拳銃を見てもトラウマが蘇らないように、何の症状も出なくなるようにしたい。そのために《GGO》にいる強者達を討ち、倒し、勝利を掴みたい。それが今の君の願いだろう?

 

 だが、《GGO》にいる強者達を討ったところで、強さを手に入れたところで、君の過去が覆るわけでもない。君のやった事が帳消しになるわけではない。君が銃で強盗を、人間を撃ち殺したという現実が変わる事などないのだ。

 

 強くなる、強くなりたい、《GGO》の強者達を討ちたい、《GGO》の頂点に君臨して銃へのトラウマを克服したい。そうしたところで何が変わるというんだね? そうすれば君の過去がなくなるとでも、過去が改変されるとでも思っているのか? もし過去が変わるのだとすれば、それは君の中でのみだ。現実は何も変わる事はない。君は結局、自分の罪から逃げたい一心でやっているだけ、罪に目を(つむ)り、耳を塞いでいるだけ……そうする事で()()()()()()()()()()()()()()()()()に過ぎないのではないかね」

 

 

 ハンニバルの機関銃のような言葉はシノンだけではなく、キリトにまで飛んで来ていた。その内容にはキリトも目を見開くしかなかった。腹立たしくて悔しくて仕方がない事に、ハンニバルの言っているのは全て揺るぎない事実だったからだ。

 

 確かにシノンが銀行強盗を撃ち殺したというのは事実であり、現実だ。それが変わる事などない。シノンがいくら強くなったところで、銃へのトラウマを克服したところで、その事実が覆る事もなければ、改変される事だってない。結局何も変わる事がないという指摘は、間違っていなかった。

 

 ヘカテーとハンニバル。両者揃ってシノンに事実を撃ち込んで来ようとしていた。そのうちのヘカテーが続ける。

 

 

「あなたが未だにこの銃を見てそうなるのは、あなたが自分の罪を受け入れないから。強くなる、強くなるって言って、罪を見ようとも聞こうともせずに逃げているから、いつまで経ってもこの銃が恐ろしくて仕方がないのよ」

 

「……そ゛……そ゛ん゛な゛……こ、と……」

 

 

 ようやく出てきたシノンの反論に、ヘカテーは首を横に振る。

 

 

「そんな事がないと言いたいわけ? じゃあ、どうしてあなたは今でもこの銃が平気じゃなくて、私が平気なの。逃げてばかりで罪と向き合おうとしないあなた、色んな人に色々言ってもらう事で殺人を正当化しようとしてるあなたは、どうしてこの銃が今でも怖いっていうの」

 

「……そ……れ……は…………だ……って……」

 

 

 ヘカテーは溜息を吐いた。目の前にいる自分自身に呆れ果てているかのようだ。ヘカテーにとってのシノンは、見ていられないほど情けないモノである――そう言葉を出さずに言っていた。その光景を目にして、黒髑髏(くろどくろ)仮面を付けている青年、《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の幹部の一人ジョニー・ブラックが不意に声を出してきた。

 

 

「ねぇねぇ、いい加減認めちゃえば? 自分は結局人殺しだって事、()()()()()()()だって事をさ。そうすれば楽になるよぉ。ヘカテーはそれを認めたから、こんなに気を楽にしてるんだよぉ」

 

 

 キリトは思わず「なッ」と零していた。そこから反論を考える余地を、ヘカテーが与えてこなかった。急に彼の者の声が耳に届いてきたのだ。

 

 

「そうよ。私は自分の罪を受け入れた。私はかつて戦った《笑う棺桶》と変わらなかったっていう事を認めたの。そうしたら一気に気持ちも心も楽になったわ。今まで苦しかったのが嘘みたいにすっきりした。

 けれど、そうなっても私に裁きが下される事はなかった。殺人犯である私を、誰も裁こうとなんてしてくれなかった。だから私はもっと沢山人を殺したのよ。裁きを下してもらえるように、沢山殺してきたの」

 

 

 ヘカテーは何も恥じらいや後悔がないように言っていた。間もなくして、骸骨仮面を付けていて、カメレオン型戦機の近くにいるザザが声を飛ばしてきた。

 

 

「ヘカテーはシノンだ。シノンはヘカテーだ。だから、ヘカテーの殺した人間は、浄化されていく世界は、シノンの手柄だ」

 

 

 明らかに信じる事のできないザザの宣言を、シノンは瞬きを繰り返し、口を半開きにしながら聞き、やがてまた絞り出したような声量の言葉を零した。

 

 

「わた……しが……人を、もっと……殺し……た……?」

 

 

 シノンの聞き()らしそうな声をちゃんと聞き取ったのであろう、ヘカテーは深く頷いた。

 

 

「そうよ。あなたは殺人者。私は人を殺した犯罪者。でも裁きを下されずに放置されている。どこに逃げたって無駄なの。目を閉じても耳を塞いでも、罪は覆る事などないの。どこまでだって追ってくるのよ。この罪を消すには……自分の罪を受け入れて裁きを受けるしかないのよ」

 

「つ……み……」

 

 

 シノンの声はか細いまま変わらなかった。認めたくない事実を突きつけられて思考を動かす事ができなくなっている。これまでずっとシノンを見てきているキリトにはそれがすぐにわかった。

 

 シノンをそうさせたヘカテーの宣言のすぐ後に、ハンニバルの声がした。

 

 

「……さてキリト、一つ質問をしていいかね。いつまでも罪を認めようとしないで、あの銃を向けられればこの通りになっている情けないシノンと、罪と(あやま)ちを認め、あの銃を向けられても平気になっていて、裁きを受け入れる覚悟を決めているシノン。

 

 どちらが本物のシノンだ?」

 

 

 キリトは思わず「え?」と言ってしまった。ヘカテーとシノン、どちらが本物のシノンかだって? その答えなど瞬時に出せるものだ。そんな質問を自分に投げかける事など、どれだけ愚かな事なのかを、ハンニバルは理解していないのか。あれだけ自分に対してこだわりがあるように言っていたというのに。

 

 その質問を投げかけてきた黒幕は、すぐに両掌(りょうてのひら)を上げる仕草をした。

 

 

「まぁ、こんな質問をされれば、すぐに君は『倒れている方のシノンが本物である』と答えるだろう。だが、彼女が本物のシノンだと言い張るのであれば、君はシノンがここまで弱い人間であると、自身の罪を認めずに逃げてばかりいる卑劣な人間であるという事を認めるという事になるがね」

 

「あ……!」

 

 

 ハンニバルからの指摘に、キリトは思わず目を見開いた。しかし頭の中で思考が回り出すより先に《声》が響いた。リランの《声》だった。

 

 

《キリト、こいつらの言葉に耳を貸すでない。こいつらはお前を、我らを惑わすつもりでいるのだ》

 

「……」

 

 

 キリトは何も言い返せなかった。リランにもハンニバルにも、ヘカテーにもシノンにも何も言えなかった。

 

 シノンは今現在目の前で繰り広げられている光景の通り、《54式黒星》を見れば発作を起こして動けなくなる。自分やイリス、リランやユピテルの力を借りなければ抑える事ができない発作に襲われてしまう。

 

 それは「シノンが自身のやった事を認めていないから、自分の人を殺したという罪から逃げてばかりいるから」という指摘がハンニバルとヘカテーから来ていた。

 

 そんな事があるわけあるか。

 

 シノンに足りないものがそんなものなわけがないだろう。

 

 何も見ていないくせに偉そうに言うな――キリトは即座にそう言い返したいと思ったが、果たしてそうする事はできなかった。ここまでのシノンとの経緯が全てを物語っていたからだ。

 

 シノンは強くなろうとしていた。この《GGO》という銃の世界に飛び込み、強者達を討ち倒す事によって、銃に対するトラウマを克服し、何の発作も起こさなくなりたいという願いを抱いていた。それをキリトは彼女の専属医師であるイリスと共に認め、それまで――それ以降もだが――彼女の支えになると決めて、傍で戦い続けてきた。《GGO》の強敵達を、エネミーを、プレイヤー達をシノンと共に討ってきた。

 

 だが、結果は今の通りだ。シノンは確かに強くなっただろう。しかしそれは《GGO》におけるステータスだとか経験の部分のみであり、本当に強くなるべきシノンの真実の姿である朝田詩乃が強くなったわけではなかった。

 

 どんなに敵を倒しても詩乃が強くなる事はなかった。詩乃が銃への、《54式黒星》へのトラウマを克服する事はなかった。どんなに強敵とやり合っても詩乃の望む強さが手に入らなかったからこそ、彼女は本当に心から浮かばれたような表情を見せたりもしなかったし、そういう事を言ったりもしなかった。

 

 結局シノンばかりが強くなって、詩乃は強くなっていなかった。ある時からキリトの頭の中にあった考えは、彼女の現実の形だった。

 

 そしてそれは今、最悪の形で具現化している。

 

 正直なところヘカテーの正体が何なのかは掴めていない。だが、ヘカテーの口振りや言動から考えるに、ヘカテーはもう一人のシノンだ。どういう原理で誕生したのか全く想像が付かないが、朝田詩乃から分離した朝田詩乃なのだ。

 

 そのヘカテーは、自分の罪を認める事、自分が裁かれるべき悪人であるという事実を認める事によって、《54式黒星》へのトラウマの一切を克服したと言っていた。現に彼の者はその銃を持っているのにも関わらず、平気な顔をしているので、この話に嘘はないのだろう。

 

 つまりヘカテーは詩乃に足らないものを持っている。それを持っているからこそ、《54式黒星》を見たり、持ったりしても発作を起こさなくなっている。ヘカテーにあって詩乃にないものが、ヘカテーの言う《自分が罪を犯した犯罪者、裁かれるべき悪人である事実を認めた心》というのであるならば、今の詩乃とヘカテーの対比に説明が付く。

 

 詩乃が今でも《54式黒星》に対するトラウマを克服できていないのは、結局詩乃が自分の罪を認めていないから、受け入れないで逃げてばかりいるから――ヘカテーの指摘は、否定して跳ね退けようとするキリトをがっちりと捕まえて離さなかった。

 

 時間を置かず問いが降りかかる。誰でもない声色だった。

 

 

《詩乃は殺人を犯したんだろう?》

 

 

 いや、あれは仕方のない事だったのだ。詩乃が悪いわけではない。あれは正当防衛だ。

 

 

《詩乃はそうしなくてもあの場を切り抜けられただろう?》

 

 

 あの場はそうするしかなかったのだ。詩乃は悪くない。

 

 声は続いてきた。声色は――ヘカテーのそれになっていた。

 

 

《私が罪を犯したのは事実よ。だからこそ、それを認めていない私は苦しむ。それを認めた方の私は苦しまない》

 

「……ぇ……ねえ、キリト」

 

 

 問いとほぼ同時に聞こえてきた声にキリトははっとし、向き直った。そこにいたのはヘカテー/詩乃だった。自分の知っている、自分が守り、愛している詩乃から分離した、少し幼い顔つきをしている詩乃が、不安そうな表情を浮かべてこちらを見ていた。

 

 

「キリト、ううん、()()。あなたにとっての私はどっちなの。あなたが愛してくれているのは、罪を認めた私? それとも罪を認めないで逃げる、弱くて卑怯な私?」

 

 

 キリトはごくりと唾を呑み込んだ。立ってあの拳銃を持っている詩乃と、倒れて震えている詩乃。自分のやった事を罪と認めたであろう詩乃と、そうではない詩乃。

 

 その後者もこちらに振り向いてきた。恐怖と不安でいっぱいになりそうな顔をしながら。

 

 

「和……人ッ………………」

 

 

 そのどちらが俺にとっての詩乃なのか。

 

 俺が想っている、俺を想ってくれている詩乃は、どちらなのか。

 

 いつもならば瞬時に様々な答えを出してくれる頭は、その役割を放棄しようとしていた。二人の詩乃から視線と声を向けられ、キリトは口を動かせないでいた。

 

 

「詩……乃は……詩乃はッ……」

 

 

 辛うじてそう言えたその時だった。急に遠くから声がした。

 

 

 

「キリトにいちゃん、シノンねえちゃん――ッ!!」

 

「《死銃》――ッ!!」

 

 

 

 声は二つ。片方は少年の声で、もう片方は女性の声だった。違う人物から発せられた声にキリトが反応するより前に周囲が突然爆発し、濃霧のような土煙が舞い上がった。目の前が土の茶色一色に染め上げられて、二人の詩乃も、あの世から蘇ってきた亡者となった《笑う棺桶》の幹部達も、黒幕のハンニバルの姿も認められなくなった。

 

 

《キリト、一旦退()くぞ!!》

 

 

 あまりに急な出来事に呆然としているキリトは、背中を何かに掴まれて持ち上げられたような感覚に襲われた。

 


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