キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 後編。




19:侵略者の真意

「……やっぱり、こうなった……」

 

 

 イリスの独り言にキリトは驚く。まるでリエーブルがこうなってしまうという結末をわかっていたかのような言い方である。その対象となっているリエーブルは床をのたうち廻って止まらないでいた。

 

 その叫びが部屋に響く。

 

 

「い゛、い、い゛だい゛あ゛づい゛い゛あ゛づい゛い゛あ゛づい゛い゛い゛だい゛い゛だい゛」

 

 

 痛い、熱い。そればかりを繰り返すしかなくなっているリエーブルの身体を、小規模な爆発が何度も襲っている。身体が内側から弾け、機械部品や人間に似せるための外装が飛び散っていた。

 

 刻一刻(こくいっこく)とリエーブルの身体が暴発を繰り返し、なくなっていく。アファシスやヒューマノイドに詳しくないキリトでも、このままではリエーブルが危ないのはわかった。だが、止める手段は見当も付かない。

 

 その様子を見かねたのか、ツェリスカがデイジーの目元から手を離した。

 

 

(むご)いものを見せる事になってごめんなさい……デイジーちゃん、リエーブルに外部から強制介入して! 自己修復モードに強制設定をお願い!」

 

「……は、はい、了解ですマスターッ」

 

 

 デイジーは走り出し、リエーブルの許へ向かった。転げ回るリエーブルに向けて(てのひら)を突き出すと、その腕を緑と黄色の光が包み込み、リエーブルへと流れていく。

 

 間もなくリエーブルの動きがゆっくりになっていき、声も小さくなっていった。苦痛が落ち着いてきているようだ。

 

 

「……イリス先生、リエーブルはどうしちゃったんですか」

 

 

 アルトリウスと一緒にレイアを支えているクレハが問いかけると、イリスはゆっくりと立ち上がり、リエーブルに近付いて行った。

 

 

「……《アニマボックス》は、私が傑作(けっさく)だって自画自賛(じがじさん)したくなるくらいの代物だ。そこら辺の会社や企業が作ってるようなAIなんて鼻で笑えるくらいの存在を目指して作ったんだからね。

 

 その《アニマボックス》をコアプログラムとして搭載しているリエーブルは、確かに強いよ。レイちゃんやデイジーといった《Type-X》の子達を遥かに超える処理能力、知能を持ってる。だから自分は特別だって思ったんだろうし、実際その通りだ。《アニマボックス》を持った子は特別なんだよ。

 

 特別だからこそ、《Type-X》の子達よりも遥かに長くリミッター全解除していられたりするみたいな、すごい事もできるんだよ。リエーブルをマスターにしたプレイヤーは、きっとその力にびっくりしたと思う」

 

 

 動きがほぼ停止に近付きつつあるリエーブルの口許が動く。

 

 

「ます、たー、ますたー、ま、すたー……」

 

 

 譫言(うわごと)のようにリエーブルは繰り返していた。いつの間にか肌が元の褐色(かっしょく)に戻り、スーツの発光もなくなっている。しかし熱は取り切れていないようで、損傷部位からは煙と水蒸気が上がっていた。

 

 イリスは続ける。

 

 

「……そんな感じで特別だから、《アニマボックス》を搭載している子には、それ専用の《特別な身体》を組み上げて、与えてあげないといけないの。

 

 マーテルにユピテル、ユイにストレアにヴァン、プレミアとティア。あの子達がVR空間、ネット世界で満足に生きていられるのは、《アニマボックス》という特別な脳を搭載している子に相応しいように組み上げられた、《専用の特別な身体となるプログラム》が適応されているから。その専用の特別な身体のプログラムが、コアとなる《アニマボックス》を包み込んでいるのよ。

 

 だから、あの子達は《アニマボックス》の処理能力や認知能力、思考能力を限界まで使いこなせるし、そこまで使ったとしても、ちょっと疲れる程度で済むの」

 

 

 イリスはリエーブルのすぐ近く、デイジーの隣にやってきた。そして膝を床に付け、リエーブルを見下ろした。

 

 

「でも、リエーブルはそうじゃない。リエーブルは、《アニマボックス》の事をすごい処理能力を引き出せる便利な道具としか思ってなくて、その細部まで理解していない人間の手によって、《専用の特別な身体プログラム》ではなく、《アファシス Type-X達と同じ身体プログラム》を適用されてしまっていた。

 

 コアプログラムが《アニマボックス》であるおかげで、《Type-X》達よりも遥かに長くリミッター全解除に耐えれるようになっているけれども、そのコアプログラムを包み込む身体のプログラムは《Type-X》達と同じ。リミッター全解除に長時間耐える事はできない。

 

 だからリミッター全解除を長時間行えば、コアプログラムである《アニマボックス》は平気でも、身体はある時限界を迎えて壊れてしまう。脳の持つ力に身体が付いていけず、壊れるのよ。それがリエーブルに起きてしまった。

 

 《アニマボックス》はリミッター全解除に付いていけていたけれど、身体の方は付いていけなくなって、熱暴走による崩壊を起こしてしまった」

 

 

 イリスはその手をリエーブルに差し伸べ、その頬に当てた。これまで見てきた彼女の、子供を(いつく)しむ母親としての仕草。

 

 

「長時間に渡るリミッター全解除によって身体のプログラムが損壊した事で、《アニマボックス》が身体のプログラムを制御(せいぎょ)できなくなった。それが一気にエラーを発生させてしまって……リエーブルはその症状に襲われた。《アニマボックス》は、外部からの影響や損壊には強いけれど、内部エラーや身体のプログラムの損傷みたいな、内側からの損壊には弱いのよ」

 

 

 その事はキリトも目の前で見て理解してきている。《SAO》にて苦しむプレイヤー達の精神や心の治療にいけない環境に置かれたリラン、ユピテル、ユイ、ストレアは、自身のコアである《アニマボックス》にエラーを蓄積させ、崩壊し、記憶喪失に陥っていた。

 

 《アニマボックス》は搭載されたAIの能力を(いちじる)しく向上させ、人間性さえも獲得させる。その反動として、内部からの損傷や崩壊には(もろ)くなっている――という事なのだろう。

 

 現に人間の脳も、頭を強固なヘルメットや装甲で包み込めば、どんな衝撃にも耐えられるようにできるが、一方で内部を原因とする病気には脆い。どんなに防御を固めても、内部から壊される事には滅法弱いのだ。

 

 そんな人間の脳と《アニマボックス》は同じようなもの。完璧で強固なセキュリティと設計を徹底するイリスでも、その部分だけはどうにもならなかったに違いない。

 

 その《アニマボックス》を搭載した存在は、動きが止まりつつある身体を少しだけ動かし、微細(びさい)な声を発した。

 

 

「ま、す、た…………ごめ……ん……な…………さ…………い……………………」

 

 

 その言葉を皮切りにして、リエーブルはその瞳を閉じた。レイアが驚く。

 

 

「リエーブルが動かなくなっちゃいましたよ!? 大丈夫なのですか!?」

 

「はい、大丈夫です。全ての機能を自己修復に()てる状態になりましたので、完全に修復されるまで動き出す心配はありません」

 

 

 デイジーは淡々(たんたん)と告げて腕をリエーブルから離したが、その場を立ち去ろうとはしなかった。その様子を認めたシノンが、疑問を口にする。

 

 

「リエーブルは、自分のマスターのためにここまでやったの……そうすれば自分が壊れて、熱くて痛い思いをする事になるのに、なんでそこまで……」

 

 

 それはキリトも思っていた事だ。どうしてリエーブルは自分の身体が壊れるまで、マスターの命令をこなそうとしたのか。どうしてやめようとしなかったのか。

 

 その回答はイリスでもツェリスカでもなく、リランからだった。

 

 

《リエーブルにとっては、それが全てだったのだ。リエーブルはイリスという母親が、我らという姉兄(きょうだい)がいる事を認識できるような余裕は与えられていなかったうえ、自分以外の《アニマボックス》を搭載した《電脳生命体(エヴォルティ・アニマ)》のいない環境であるザスカーに居させられていた。どこを見ても、いるのはただの機械共、そこに異常に優れた自分がぽつんと独りだけいる――リエーブルのいた場所はそんなところだったはずだ。

 

 ……そうなれば(おの)ずと、周りの機械共が劣っているのではなく、自分が異常に優れている異物であると学習するだろう。本来ならば、そんな事を思い始めた時点で人間や他のAI達に相談を持ち掛けたりして、軌道修正する必要があるのだが、ザスカーにいるAIは誰もリエーブルの事を本当に理解できはしないし、ザスカーもリエーブルを便利な道具程度にしか思っていないから、相手にしない》

 

 

 リランはカメラアイの光を細めた。鋼鉄の装甲の中に悲しみの表情が見えた。

 

 

《……我ら《電脳生命体(エヴォルティ・アニマ)》には人や、それに近しいAIとの交流が必須だ。それをやってもらえなかったリエーブルは、とても寂しい思いをしていただろうし、常に自分がここに本来存在すべきでない異物であると思考していただろう。何か他の事で思考を満たしていなければ、押し潰されるくらいにな。

 

 だからリエーブルは「自分が特別である」と何度も自分に言い聞かせて、自分に与えられた役割と使命を妄信し、それ以外の事は考えないようにしていたのだろう。自分が《電脳生命体》という、ザスカーに相応しくない異物である事を必死に忘れようとしていたのだ。

 

 そして、自分を受け入れてくれる存在を、自分を必要としてくれる存在が現れる事を願っていたのだろう》

 

 

 リランの言っている事は全て彼女の推測だったが、それらは全てリエーブルの言動としっかり結び付き、納得させてくるものだった。

 

 どうしてリエーブルはあんなに自分を特別だと言っていたのか、どうして自分の身体が崩壊するまで役割と使命に縋りついたのか、どうしてマスターに心酔していたのか。全てに納得がいった。

 

 

「だからリエーブルは、リエーブルのマスターの言う事がどれだけ無茶でも、それを成し遂げようとした……リエーブルのマスターが、初めてリエーブルの事を必要としてくれた人だったから……」

 

「それで、リエーブルが自分の事を特別って言ってたのは、自分を他と違い過ぎてる異物だって思ってる事の裏返しだったのね……」

 

 

 アルトリウスとクレハの悲しげな呟きに、キリトは思わず頷いた。やがて胸の内が締め付けられるような感覚が走り始める。

 

 リエーブルはただ寂しかっただけ。寂しい思いをしたくなかったから、必要としてくれる存在を求めていただけ。そして、「異物ではない」と言ってもらいたかっただけ。単純で純粋で切実な願いを胸に、リエーブルは全身が焼け、痛みと熱さで何もわからなくなるまで戦っていた。

 

 

「そんなの……マスターが悪いです…………」

 

 

 話を聞いていたレイアが呟いた。アルトリウスとクレハが首を傾げると、レイアはばっと二人から離れた。

 

 

「そんなの、悪いのはリエーブルじゃなくて、リエーブルのマスターじゃないですか! リエーブルのマスターがわたしのマスターであるアルトリウスのように接してくれていれば、リエーブルは《SBCグロッケン》と《SBCフリューゲル》を滅茶苦茶にする戦争を起こさなくても、あんなふうにぼろぼろにならなくてもよかったんじゃないですか!」

 

 

 レイアはこれ以上なく声を荒げ、叫んでいた。

 

 

「どうしてリエーブルのマスターは、リエーブルの気持ちをわからなかったんですか。どうしてリエーブルが本当は寂しがってる事を、寂しいから特別だって言ってたのを、わかってあげなかったんですか!?」

 

 

 キリトは口を閉じたまま歯を食い縛っていた。確かに、リエーブルのマスターがアルトリウスのような人間だったならば、リエーブルにこんな事をさせなくても済んだだろうし、リエーブルもあんなに苦しんだりせずに済んだだろう。

 

 だが、アファシスを手に入れられたプレイヤーのすべてが、アルトリウスのような優しさを持ち合わせた人間であるはずはないし、そもそもリエーブルが《アニマボックス》という機構を搭載した本当の意味での特別な存在である事を把握できるはずがない。

 

 レイアの叫びを聞いたツェリスカが、静かに答えた。

 

 

「……リエーブルがどうなろうと知った事ではない。大きなイベントを起こせれば、混乱を起こせればそれでいい――そんなふうにリエーブルを、アファシスをただの道具としか思っていない人だったのかもしれないわね」

 

 

 唯一悲しそうな表情をしていないイツキが付け加える。

 

 

「僕も他人(ヒト)の事はあまり言えないけど、計算高くてろくでもない人だった可能性は高いね。リエーブルは《SBCグロッケン》と《SBCフリューゲル》の戦争を起こせるうえに、リミッター全解除を身体が熱崩壊するまで使える。っていうのを全部リエーブルから聞いていたみたいだけど、そのうえでそれを平然とリエーブルにやらせて、《GGO》全体を巻き込むこの事件を起こした。

 

 このイベントで《GGO》のプレイヤーほぼ全員が迷惑被ったわけだし、運営側だって緊急対応を余儀なくされた。そいつはもう営業妨害の容疑者と言ってもいい。……自分がそんな容疑者になってるって自覚がないわけないから、そう簡単に見つからないようにしてるだろうね」

 

「……そいつはなんでこんな事をリエーブルにやらせたんだ。一体何が目的だったんだ」

 

 

 アルトリウスの疑問にまたしても同意する。

 

 リエーブルのマスターは、何を目的にしてこの混沌を引き起こしたというのか。そいつがリエーブルを、アファシスをただの使い捨て道具扱いするようなろくでもない奴だというのはわかるが、だとしても並々ならぬ禍々しい意志を宿していなければ、ここまでは至れないだろう。

 

 リエーブルにあの命令を下したのは、深い闇の情熱を胸に宿す、悍ましき存在。そんな連想ができて仕方がなかった。

 

 その底知れぬ悪意に利用されていた娘を、母親であるイリスは抱き上げ、胸の内に運んだ。リエーブルの肌が触れたイリスの肌から焼ける音が鳴り、ダメージエフェクトが生じる。

 

 

「……寂しい思いをさせるようなところへ行かせてしまって、ごめんなさい。でも、あなたは独りぼっちなんかじゃないし、あなたは異物なんかじゃない。あなたはわたしの娘よ、リエーブル。そして、あなたにはちゃんと家族がいる。それだけは、わかってちょうだい……」

 

 

 それは母親からの娘への思いだった。受け取った娘は何も言わなかったが――どこか表情が安らかになったように見えた。静寂が部屋の中を包み込む。誰もが何も言わず、ただイリスとリエーブルを見ていた。

 

 だが、やがてデイジーがイリスに声を掛けた。

 

 

「リエーブルをカプセル装置へ運び、修復(リペア)してあげましょう」

 

「カプセル装置?」

 

 

 キリトの問いかけにデイジーは頷き、説明してくれた。アファシス達にはそれぞれ専用のカプセル型装置があり、それはスリープ状態になっているアファシス達を守る他に、著しく損傷したアファシスの修理や修復を行う機能も持っている。

 

 リエーブルが覚醒するまで入っていたカプセル装置に彼女を入れてやれば、落ちてしまった腕や足、燃えてしまった皮膚、熱崩壊を起こした内部機関も元に戻せる。そこにリエーブルを連れて行ってあげましょう――それがデイジーからの提案だった。

 

 キリトはそれに頷く。

 

 

「そうだな。リエーブルを直してやらないと可哀想だし、意識を取り戻させて、色々を教えてやりたいもんな。そうしよう」

 

 

 直後、俯いていたレイアが急に顔を上げて「あぁー!」と声を上げた。皆でびっくりし、今度はなんだとキリトは直感で思う。

 

 

「リエーブルの事で忘れてました! この先に《おかあさん》がいるのです。《おかあさん》が移動要塞都市になった《SBCフリューゲル》の管制をしてますから、《おかあさん》を止めないと移動要塞都市の進行も止まりません!」

 

 

 そう言えばそうだった。リエーブルはあくまで《SBCフリューゲル》を守る戦機達の司令塔だっただけで、移動要塞都市の管制は《マザークラヴィーア》なるマザーコンピュータが行っているという話だった。

 

 現にリエーブルが倒れた今も、制限時間はカウントダウンしていっている。緊急クエストは終わっていない。この混沌はリエーブルを倒して終わりという単純なものではないのだ。

 

 

「それならどうしようか。リエーブルをカプセル装置に送り届けるのと、《マザークラヴィーア》を止めるのは、どっちを先にしようか。まぁ《マザークラヴィーア》を止めるのを最優先するべきなんだろうけど、それだとリエーブルが手遅れになったりしないか」

 

「いやいや、普通に考えて《マザークラヴィーア》を止めるのを優先するべきだろう。そうしないとこのクエストは終わらないわけだし、こうしてる間にも、この要塞都市は《SBCグロッケン》に向けて進んでるんだしさ。それに、時間経過でこのあたりで異変が起こる可能性だって捨てきれないよ」

 

 

 イツキの指摘は(もっと)もだったが、キリトは腕組をしつつ考えた。《マザークラヴィーア》を止めなければ移動要塞都市の進行は止まらない。だが、傷付いてぼろぼろになってしまったリエーブルをこの状態のまま放っておくのにも躊躇(ためら)いがある。

 

 さて、どちらを優先するべきか。そう思っていると、アルトリウスが提案するように言ってきた。

 

 

「まずは皆と合流しよう。さっきキリトがここに救難信号を送ったから、皆もうすぐここに来てくれるはずだ。そしたら、リエーブルのカプセル装置に行くチームと、《マザークラヴィーア》のところに行くチームに分けよう」

 

 

 クレハがそれに賛成する。

 

 

「そうね、そうしましょうよ。皆と一緒に行けば、何が待ってても大丈夫だし」

 

 

 キリトもアルトリウスの言った事に賛成だった。

 

 リエーブルは倒れ、ベヒーモスもまた倒れた。最早何も脅威はないとは思いたいものの、カプセル装置と《マザークラヴィーア》、その両方をこの二人並みのエネミーが守っていても不思議ではない。

 

 猛者(もさ)(そろ)う自分達のチームの足並みを揃えて向かった方が安心だろう。それに、リエーブルの事を皆に話しておきたいのもある。

 

 

「わかった。とりあえず皆が来るまで待っていよう」

 

 

 キリトの指示にその場の全員が頷いてくれた。――ように見えたが、イツキは少し驚いたような顔をしていた。

 

 

「……ここまで来て、皆の事を待つんだ。それだけ信頼してるって事なのか……」

 

 

 イツキの呟きが聞こえて、キリトは首を傾げたくなった。どういう意味だ。その確認をしようとしたそこで、キリトの隣に居たシノンが声を掛けてきた。

 

 

「キリト、来て」

 

「ん、どうしたんだ」

 

 

 キリトの問いに答えず、シノンは歩き出した。その先にはイリスが居た。ぼろぼろになったままのリエーブルに膝枕をして、その頭を撫でている。既にリエーブルからは熱が消えており、煙も水蒸気も出ていなかった。

 

 

「あの、イリス先生」

 

「なんだい、シノン」

 

 

 イリスはいつも通りの返事をしてきた。彼女のすぐ傍まで行き、シノンは膝を床に付ける姿勢で腰を下ろした。同じようにキリトもその隣に腰を下ろす。イリスの視線を浴びて、シノンは口を開いた。

 

 

「リエーブルは、イリス先生の事をおかあさんだと認識できないってお話でしたよね」

 

「そうだよ。リエーブルはこの《GGO》のイベントを動かすためのNPCとしての役割を与えられている。私が産みの親だっていう情報は不要だし、家族が居るっていうのも余計だ。だからそういった情報は認識できないようになっていたはずだよ。まぁ、《アニマボックス》を搭載している以上自分で色々と考えたり、あれこれ思ったりする事はできるから、さっきリランが言ったマイナス思考みたいなのはできていただろうし、実際にやっていただろうけれどね」

 

 

 それでも、リエーブルはイリスが母親である事、リラン達が姉兄である事を認識する事はできなかった。自分の使命を全うする事に全てを捧げていたから、その余裕がなかったのだ。

 

 その事を思い出していると、シノンはリエーブルへコマンドを仕掛けた時からイリスの隣に座ったままであるデイジーに目を向けた。

 

 

「デイジー、あんた達アファシスのおかあさんって、さっきから言ってる《マザークラヴィーア》なのよね。《マザークラヴィーア》がおかあさんなのは、《Type-X》でも《Type-Z》でも変わらないんでしょう」

 

 

 デイジーは素直に頷いた。

 

 

「その通りです。わたし達アファシスはここ《SBCフリューゲル》で誕生していますが、その誕生時の管理、その後の管制は《マザークラヴィーア》、おかあさまのご意思によるものです。これは《Type-X》でも《Type-Z》でも、その他の型番のアファシスでも変わりません。なので、わたし達を産んでくれたのは《マザークラヴィーア》であり、《マザークラヴィーア》はわたし達の母親ですし……わたしの大好きなおかあさまです」

 

 

 デイジーは(くも)りのない瞳で告げていた。彼女は《アニマボックス》を搭載していないが、その顔は産みの母親の事を話す娘のそれだった。《マザークラヴィーア》はアファシス達の母親なのだ。

 

 それを再確認させられたが、そうさせてくれたデイジーが首を傾げた。

 

 

「……ですから、リエーブルがおかあさまをずっとおかあさんだとか、おかあさまと呼ばなかったのが疑問です。リエーブルもまた、《SBCフリューゲル》のアファシスだというのに」

 

 

 確かに、リエーブルは自分の母親であるはずの《マザークラヴィーア》をそんなふうに思っている様子は見受けられなかったし、一度もおかあさん、おかあさまという言葉を使わなかった。今更ながらその部分が気になってきて、キリトは思わず顎元に指を添えた。

 

 そこで、シノンはイリスに言った。

 

 

「イリス先生、リエーブルがいなくなる前に、お話したんですよね。イリス先生がおかあさんだって……」

 

 

 イリスは頷いた。悔しそうな表情をしている。

 

 

「した。その話はしてたんだよ。それからすぐだったよ、リエーブルが居なくなったのは。それで今日再会したわけなんだが、結果はあのとおりだったわけだ。それが?」

 

「多分、リエーブルはイリス先生がおかあさんだって事を、憶えてたんじゃないでしょうか。だから《マザークラヴィーア》の事をおかあさんだとか、おかあさまと呼ばないで居たんじゃないでしょうか」

 

 

 イリスは「えっ」と言って顔を上げたが、それはキリトと同時だった。目が丸くなっている。多分自分の目も同じように丸くなっているだろう。

 

 

「リエーブルが、私の事を憶えている……?」

 

 

 シノンは静かに微笑んだ。

 

 

「きっとそうだと思います。だから、カプセル装置に入れてあげて、直してあげましょう?」

 

 

 キリトは呆気(あっけ)に取られてシノンを見ていた。一番リエーブルへ敵意を燃やしていた――エネミーだったので当然だった――のがシノンだったと思っていたが、そうではなかったらしい。彼女はリエーブルがイリスの子供である事にしっかり目を向け、信じていたのだ。

 

 いや、当然だ。彼女はずっと《アニマボックス》を持った《電脳生命体》達の心を見てきていたのだから。それは自分も同じだったはずなのに、何故か思う事ができなかった。キリトは失敗したような気持ちに駆られた。

 

 その弁明をするように、イリスへ声を掛ける。

 

 

「そうだと思いますよ。リエーブルはイリスさんがわかるはずです。イリスさんだけじゃなく、リランの事も、ユイの事も、わかると思います。だからリエーブルが直ったら、いち早く会いに行きましょう」

 

 

 そう言ったところ、イリスは俯いた。いや、リエーブルを見下ろしていた。

 

 

「……あなた達に、そんな事を言われちゃうなんてね。でも、その通りだわ。リエーブルはわたしの子供だもの。わたしの事がわからないなら、しっかり教えてあげないといけないわね」

 

 

 キリトはもう一度頷いた。心なしか、リエーブルの顔はもっと安らかになっている気がした。

 

 




 次回、第三章最終話。

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