◇◇◇
俺達はおばけの出る森を目指して突き進み、そこに辿り着いた。
木々が鬱蒼と生い茂り、日の光がほとんど刺してこないような、如何にもな不気味な森。動物の気配も、当たり前だがモンスターの気配さえもしてこない。その中をほとんど怖がる事なく、シノンは辺りを見回していた。多分、俺の言うおばけを探しているのだろう。
「キリト、ここで合ってるの? 確かに不気味な森ではあるけれど、おばけが出るようには感じないわよ」
「まぁあくまで噂だし、プレイヤーがモンスターどころか、そこら辺のオブジェクトをおばけに見間違えただけかもしれないからな。索敵スキルを全開にしても見つからないと来たら、多分本当にただの噂だったんだろうな」
そう言うと、シノンはどこか残念そうな顔をした。
「何よそれ。つまらないじゃない……」
「だけどこの辺りは、こういうくらい森にしか生えない食材とかアイテムがあるらしい。おばけじゃないけど、一応探してみようぜ」
シノンはわかったわと言って、俺の後を付いてき始めたけれど、やはりその目は少し輝いていた。まだおばけがいるんじゃないかと思ってわくわくしているようだ。
――きっと彼女はおばけ屋敷とか喜んで入るんだろう。遊園地とかテーマパークとかに行ってもおばけ関連のアトラクションにだけは乗ろうとしなかった妹とは大違いだ。
そんなシノンを見ながら鬱蒼としている森を更に突き進む。やはり手入れをされていないからか、草がぼーぼーと生えていて、ところどころに倒木がある。多分雰囲気を出すためにこういうオブジェクトを配置しているのだろう。このマップを作っている時の楽しそうな開発陣の顔が目に浮かぶ。
そんな事を考えながら、目の前に現れた倒木をジャンプで飛び越えたその時、いきなりシノンの声が耳に届いてきた。
「お、おばけ!!」
「え!?」
思わず振り向くと、俺が飛び越えた倒木の幹の上にシノンは飛び乗って、森の奥の方に目を向けながら顔を蒼くしていた。まるでおばけなんかいないって信じていたのに本物のおばけを見つけてしまったような表情が浮かんでいる。
「ど、どういう事だシノン!?」
「と、とにかくこっち来て、森の奥の方にいる!」
俺は頷いてシノンの隣に飛び乗り、その視線が向けられている点に目を向けた。
鬱蒼と植物が生い茂り、動物の気配もない、静まり返って暗くなっている森の奥に、ワンピースと思われる白い服を身に纏った髪の長い少女の姿が確認できて、俺は背中の辺りがぞわっとしたのを感じた。
「お、おいおい冗談だろ、まさか本当におばけだって言うのかよ……!?」
それまで一切怯える様子を見せなかったシノンが、さぞかし怯えた様子で俺に声をかける。
「ど、どうするキリト、攻撃する!?」
「何で攻撃するんだよ。いや、でも攻撃が効けば実体があるって事だからおばけじゃないし……」
シノンの方からおばけと思わしき少女の方へ目を向けたその次の瞬間、少女はこちらに顔を向けてきたが、直後に少女は姿勢を崩し、そのまま地面に倒れ込んでしまったのが見えて、俺は驚いた。
――おばけや幽霊が倒れるなんて事はないはずだが、それをあの少女がやったという事は……。
「いや違う……おばけでも幽霊でもないぞ、あれ!」
そう言って俺は倒木から飛び降り、草木をかき分けながら倒れた少女の元へ駆けつけた。後ろの方でシノンの声が聞こえたような気がしたが、今はそれを聞いて立ち止まっている場合ではない。
倒れてしまった――いや、倒れる事が出来たあの少女は、幽霊でもおばけでもない、プレイヤーだ。
俺はすぐさま少女の元に辿り着き、その身体を傍で確認した。十歳前後ほどに見える少女の小さな身体は、熱が抜けてしまっているように青白く見え、顔色もとても悪く思えた。
一体どうしたというのだろう――そう思いながら少女の軽い身体を抱き上げたその時に、俺は違和感を抱いた。
普通、プレイヤーがプレイヤーの近くに行くと、相手プレイヤーの頭上にカーソルとHPバーが表示されるようになっていて、それはすべてのプレイヤーに適用されているこのゲームの仕様だ。これに例外はないはずなのだが、この少女に限ってはそれが適用されていない。
――カーソルとHPバーが出てこないのだ。
いや、一応この世界にも、この仕様が適応されない存在がいる。それはNPCだ。
NPCはカーソルもHPバーも表示されない、完全無欠のこの世界の住人だが、その存在を無理矢理動かそうとしたり、むやみやたらに触ったりすると、ハラスメント警告が出るようになっている。
だからこうやって抱き上げたりすれば、すぐさまハラスメント警告が出てくる――はずなのだが、少女を抱き上げているというのにそれすらも出てこない。
「あれ……なんだこれ」
そう言った瞬間に、後ろからシノンの声が聞こえてきて、すぐさまシノンが俺のすぐ隣に並んできた。
「キリト、この娘は?」
「すごく妙だ」
「え?」
この少女に付いて気付いている事をシノンに話したところ、俺と同じように不思議そうな顔をした。
「本当だわ、カーソルが出てこない……それにハラスメント警告まで出てこないなんて」
俺は一瞬頭の中で、何かのクエストイベントだろうかと思ったが、すぐさまそうでもない事を把握した。
もしこれがクエストのためのイベントならば、俺達のすぐ傍にクエスト内容を記したウインドウが出現するはずだが、それも出てこない。
プレイヤーでもなければNPCでも、クエストのためのイベントキャラクターでもないなんて、この娘は一体何者なのだろうか。
でもプレイヤーである可能性が一番高いと考えられるため、バグか何かにやられて、カーソルが出なくなってしまったプレイヤーだろうか。
「とにかくいつまでこの娘をここに置いておくわけにはいかないだろ、俺達の家に運ぼう」
シノンが驚いたような顔をする。
「そんな事をして大丈夫なの」
この子の歳は十歳前後、普通なら親と一緒にこのゲームにダイブしたと考えるのが妥当だ。
ましてやこのゲームはやられれば現実でも死んでしまうデスゲーム、子供は絶対に親から離れないで行動をしているはずだが、索敵スキルを使ってもこの子以外のプレイヤーの気配を見つける事が出来ない。
近くに親はいないと考えるべきだろう。
「近くにプレイヤーの気配はない。ひとまずどこか安全な、本当に安全な圏内で休ませてやらないと。ひょっとしたらだけど、安全なところに運べば目を覚ますかもしれない」
「そうね、とにかく安全な場所にこの子を運びましょう」
俺は意識を取り戻す気配のない女の子の身体を抱き上げた。武器と比べれば、武器の方が遥かに重く思えた。そしてそのまま俺達は来た道を戻り、安住の地である家の中に入り込んだ。
森で倒れていた女の子を保護してベッドに寝かせても、女の子は一向に意識を取り戻す気配を見せず、見つけた時とほとんど同じ状態のまま夕方になった。
試しに身体を揺すったり声をかけたりしたが、どれも効果は全くなく、女の子の目は閉じたままだったが、幸い正常な呼吸をしている事だけはわかったので、単純に気を失っているだけであるという事がわかった。
「それにしても、何でこんなに小さな子がこの世界にいるわけ。この世界ってそんなにCEROが低いゲームなの?」
そんなはずはない。このゲームはフルダイブを行うため、
そしてこの女の子の年齢は身体を確認する限りでは十歳前後、このゲームをプレイするには相応しくない年齢なので、このデスゲームに参加しているはずはない。
だけどこの世界にこんな小さな子がいるという事は、先程考えた通り、親と一緒にダイブしたと考えるのが妥当だろう。
「このゲームは十五歳以上対象のゲームだ。多分だけど、この娘は親と一緒にダイブしてこの世界に来てたんだよ。だけど、あの時にはこの娘の親だと思えるプレイヤーはいなかった。はぐれたのか、それとも親がやられてしまったのか……」
シノンの顔がひどく悲しそうなものになる。
「そんな……っていう事は、この娘はたった一人でこの世界を渡り歩いてきたっていうの」
「そう考えたくないけど、この娘が目を覚まさない限りは、詳しい話を聞けない。多分明日の朝になれば目を覚ます頃だろうから、それまでそっとしておいてあげよう」
シノンは小さく頷いたが、すぐに俺の方に顔を向けてきた。
「それなら明日はこの娘の分の朝ご飯も作らないといけないわね。この娘、何が好きかしら……」
「それはわからないけれど、とりあえずこの娘が目を覚ます様子はない。ひとまずは俺達の分だけを考えよう」
シノンはもう一度頷いて立ち上がり、音を立てないように寝室を出て行った。その後を追うように俺も立ち上がって寝室から出ようとしたが、少しだけ少女の事が気になって、そちらに目を向ける。
「明日は目が覚めるといいな、君……」
そう呟いて、俺は寝室を出て階段を下りた。
◆◆◆
夜十時
私達は女の子の事を気にしながら、キリトのベッドで一緒に寝る事にした。女の子の寝ているベッドは私が使っているベッドなのだけれど、今私が自分のベッドで寝たら寝返りなどで女の子の身体を打ちつけてしまったり仕舞いかねない。
だから、キリトのベッドでキリトと一緒に寝る事にしたのだけれど、キリトが寝静まった後、私は一向に寝付く事が出来なかった。
音を立てないように上半身を起こして、私のベッドで寝ている女の子に目を向ける。この女の子があそこで倒れていたのは本当に偶然なのだろうけれど、私からすれば、キリトとあんな事をした後だったものだから、まるで本当に子どもが出来たみたいで、この女の子の出現をどこか複雑に思えた。
だけど、そんな軽い事を言えるような状況じゃない。この娘がどうしてこの世界にやってきているのかはわからないけれど、もしかしたら今までずっと一人でこの世界を生きてきたのかもしれない。
他のプレイヤーにも頼れず、親を探そうにもどこにも居なくて……ずっと一人でこの世界を生き延びて来たんだと考えると、胸の中が痛くなった。同時に、この娘の境遇が、かつて誰の手も借りずに生きようとしていた私に似ているような気がしてきた。
「こんなに苦しい世界をたった一人で渡り歩いてきたなんて……」
私はもう一度音を立てないようにベッドから降りて、私のベッドで眠っている女の子の隣に並び、布団の中に身体をすべり込ませた。女の子が既に使っているためなのか、最初から布団が暖かく感じられる。
「……明日は、目が覚めるといいわね……」
私は女の子の髪の毛をそっと撫でた後に、静かに目を閉じた。キリトの隣では全く眠れなかったのに、この女の子の隣に並んだ途端、急に眠気が来て、私はすぐに眠りの中へと転がり落ちて行った。
◆◆◆
窓の外から聞こえてきた、朝を到来を告げる鳥の囀りで、私は目を覚ました。少し眠たい目を擦りながらウインドウを開いてみれば、時刻は8時。少しだけ寝坊していた。
昨日はタイマーをセットしないで眠ってしまったから、つい寝坊してしまったと思ったそのすぐ後に、私は背中の辺りに違和を感じた。
何やら、視線のような、気配のようなものを感じる。私とキリト以外の存在はどこにも居ないはずなのに、私達が眠っている間に何かが忍び込んできたのだろうか――その正体が知りたくなって、寝返りを打ってみたところ、大きくてくりくりとした黒色の瞳と私の瞳が合った。
それが昨日保護した女の子の顔だった事に、私はすぐに気付いて驚き、思わず声を上げた。
「わ、き、キリトっ!」
キリトの方に目を向けると、眠りに就いていたキリトがその身体を起こして、どこか眠たそうな顔をしながら小さな声を出した。
「おはようシノン……何かあった?」
「何かあったじゃないわよ! 女の子が目を覚ましたの!」
そう言った直後、キリトは「本当か!?」と言って私の隣に駆け寄ってきた。女の子は最初に私に向けてきた黒色の瞳で私とキリトを交互に見つめて、不思議そうな顔をしていたけれど、何も喋ろうとはしなかった。
「え、えっと、起きれる?」
私が小さく声をかけると、女の子はそれに呼応するようにその身体を起こした。どうやら私達の言葉はわかるらしいから、多分もっと問いかけに答えられるだろう。
「えっと、あなた名前は? どこから来たとかわかる?」
女の子は私の方に目を向けて、それまでほとんど開く事のなかった小さな口から、同じく小さな声を出した。
「なまえ……なまえ……?」
「そうよ、名前。あなたのお名前は、なに?」
女の子は一瞬何かに気付いたような表情をして、もう一度声を出した。
「なまえ……わたしの、な、まえ……ユ、イ、ユイ、それが、なまえ」
女の子はユイという単語を発した。多分それが名前なんだろう。
「ユイっていうのね。私はシノン。こっちの人はキリト」
ユイは私とキリトを交互に見つめて、小さく口を動かした。
「しおん、きいと?」
どこか上手く言えていないように思えたけれど、今ならユイがどうしてあそこにいたのか、教えてくれるかもしれない。
「それで、どうして森の中に居たの。おとうさんとかおかあさんとかは、どこにいるの?」
ユイは首を傾げた後に、困ったような顔をした。
「わからない……なんにも、わからない……」
ユイから出てきた言葉に私は戸惑ってしまったのがわかった。目を覚ませば、親とか保護者の事を真っ先に話すと思っていたのに、まさか何もわからないなんて。
色んなマニュアルを読んだり勉強したりしてきたけれど、何もわからないと言い出す子供の対処方法なんてものが書いてあるわけがない。
肝心な時に限って役に立たないなんて、どこがマニュアルなのよ――と思ったその時に、キリトがユイの隣に座った。
「やぁユイちゃん、ユイって呼んでもいいかな。俺はキリトっていうんだ。これからはキリトって呼んでくれ」
ユイはキリトに頷き、どこかぎこちなく言った。
「きぃと?」
「キリトだよ。キ、リ、ト」
「……きぃと?」
何度言ってもユイはキリトの名前を上手く呼ぶ事が出来ない。気を失っていた事による後遺症なのか、呂律が上手く回っていないらしい。
見た目は十歳くらいに見えるけれど、言葉を聞くと物心がついたばかりの小さな子のように思えた。
キリトはくすりと笑って、ユイの頭に手を乗せた。
「ちょっと難しかったかな。何でも呼びやすい名前でいいよ」
ユイはどこか考えるような仕草をした後に、キリトに向き直った。
「…………パパ」
ユイの口から飛び出た言葉に、キリトは目を見開いて、自分の事を指差した。
「パパ? 俺がパパ?」
続けて、ユイは私の方に顔を向けて、小さく口を動かした。
「しおんは、ママ」
ママ。私の事を本当に親だと思って言ったのか、それとも既に失ってしまった両親と私達を重ね合わせて言ったのか。
考えるよりも先に、私は微笑んで、言葉を返していた。
「そう……よ。ママよ、ユイ」
私の答えを聞くなり、ユイの顔は一気に明るくなり、顔に笑みが浮かんだ。
「――ママ!」
そしてそのまま、ユイは私の胸に飛び込んできた。まるで現実世界にいる小さな子供と同じような温かさが胸の中に広がってきて、私は溜まらずユイの身体を抱き締め、その頭を優しく撫で上げた。
「ずっと眠ってたから、お腹が空いたでしょう。早くご飯にしましょう」
ユイは私の胸の中で頷いた。