キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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13:月夜の黒猫の喪失

          □□□

 

 

 

 やはり厄災は来た。先の戦いの後、アスナはずっとそう思っていた。

 

 そう言ってしまって良いものなのかどうかはわからないが、突如として発生した戦闘の終了後、キリト達はひとまずキリトの家に帰還した。

 

 マキリの謎のアイテムによる深手を負ったシノンは二階の寝室に運び込まれ、伴侶であるキリト、アスナの息子であるユピテルとその妹であるユイとストレアが同室していた。

 

 ユピテルとストレアはシノンの負傷を見るなり飛び付き、治療を開始した。そして戦闘が終わると一旦治療を保留し、この家に戻ってきてからユイを招き入れて、再開した。

 

 できればアスナも同室したいところであったが、ユピテルが許してはくれなかった。本当に集中して治療しなきゃいけないから、三人だけにして――ユピテルは見た事がないくらいに真剣な眼差しで母にそう言ってきた。

 

 彼は誰もいれたくなかったようで、誰もがそれに了解したが、キリトは聞いてくれなかった。頼むからシノンの傍に居させてくれ。ユピテルは仕方なくキリトの要望を受け入れ、同室を認めた。それ以降寝室には誰も入る事ができなくなり、時間だけが経過していっていた。

 

 一階には仲間の全員が集合している。あの戦いの後にアスナが連絡したところ、全員がログインしており、ここに集める事ができた。そして誰もが深刻な顔、もしくは心配そうな顔をしている。

 

 そうなって当然だ。《SA:O》で起きそうにない事が仲間の身に起きてしまった事を、マキリとのすべてを話されたのだから。

 

 

「アスナさん、シノンさんは大丈夫なんでしょうか。すごく心配です」

 

 

 そう言ってきたのがリーファだ。彼女はシノンを本当の姉のように思っているから、心配で仕方がないのだろう。アスナはわかっている事を伝える。

 

 

「わたしにもよくわからなくて……とりあえずユピテルとユイちゃん、ストレアが治療に当たってくれてるから、大丈夫だとは思うんだけど」

 

 

 それにしたってあんなユピテルは初めて見た。あの子が開発されている最中にも、あそこまでの顔をして治療をしているところはなかった。それくらいの非常事態が起きているのは確かであろう。直後、小さな少女とよく知る少女の二名がアスナの許にやってきた。それぞれセブンとリランだった。

 

 

「アスナちゃん、リランちゃんから映像を受け取ったわ。とんでもないものが出てきたものね」

 

 

 アスナは頷きつつリランに目を向ける。

 

 リランは――意味があるのかわからないが――額を白い布で巻いている。先程戦闘で負傷した箇所だ。AIであるが故に仮想世界でもブラウザを開いたりできるリランは、視覚野とリンクさせて映像を撮影していた。マキリとの戦いも、言い分も、すべて綺麗にキャプチャーしてあるそうで、先程セブンにそれを送信していた。

 

 

「マキリの映像は撮れているが、皆に見せるのも惨いものだろう」

 

「そう、だね……それでセブンちゃん、マキリはどうなったの」

 

 

 アスナに言われて、セブンは少しだけ顔を下に向けた。苦い表情が浮かんでいる。

 

 

「……痛覚抑制機構(ペインアブソーバ)、自動ログアウト機能を麻痺させて苦痛を与えるアイテムだけど、それは実験的にデータの中に仕舞われていたものよ。でもそれは実装されてはいないから、プレイヤーが手にする事は絶対にない。もし引っ張り出そうなら、それはチート行為に値するわ。それを使って他プレイヤーに現実世界にまで影響が出そうな苦痛を与えて、更に無関係な人達に危険な行為を働いた。デジタルドラッグまで使ってね。十分にアカウント凍結処分を下すに等しいわ。死に戻りどころか、ゲームそのものに戻ってくる事はないから、安心よ」

 

 

 マキリのやった事は常軌を逸していた。それだけの危険行為を働いたのだ、アカウントを凍結されるに相応しい。運営としても、あれだけ危険なプレイヤーをゲームに招き入れるわけにはいかないだろう。セブンからの報告と処分内容は妥当と言える。

 

 その報告終了後に、セブンは顔を上げた。表情は変わっていない。

 

 

「そこまではいいけれど……そのマキリっていうのは、キリト君と大きな関係があるんですって? それってどういう事なの」

 

 

 アスナは俯いた。マキリはSAOの時にいた血盟騎士団の団員の一人だった。他の団員と比べて小柄であった彼女だが、その戦闘力は誰よりも高く、キリトや自分に迫るくらいのものだった。

 

 だからこそ血盟騎士団のナンバースリーとまで言われていた実力者で、攻略組の重要人物の一人だった。

 

 しかし、そんなマキリには危うい部分も多かった。

 

 まず彼女はモンスターを見るなり凄まじい怒気を見せつけて斬りかかり、粉微塵にするまで斬り刻むような殺戮をしていた。

 

 そして血盟騎士団の二代目団長となったキリトに恨みを持っているかのような様子や言動を見せていて、いつかキリトを殺すつもりではないかと本気で思わせるような行動を取る事もあった。

 

 結局最後までキリトに手を出す事はなかったけれども、いつかキリトに再度迫り、凶刃を向けるのではないかと、アスナはずっと不安だった。

 

 ……今回、その不安は現実のものとなった。マキリはヴェルサとしてこの《SA:O》にやってきて、ヴェルサという明るくて可憐な少女を演じつつ、キリトに恨みを晴らす機会を伺い続けていたのだ。

 

 なんとかしてマキリを撃退する事はできたものの、そうなってしまってよかったのかもわからないし、そもそもマキリがそこまでする理由をアスナは掴めないでいる。

 

 何が彼女をそうさせてしまったのか、なにもわかっていない。マキリの事をなにもわからないまま、彼女をアカウント剥奪に追い込んだのが現状だ。

 

 

「《月夜の黒猫団》……マキリはそう言ってたんだな」

 

 

 口を開いたのはクラインだった。SAOを共にクリアした戦友である、ポジティブ思考で陽気な野武士が普段の姿である彼にしてはかなり珍しい、悲しげな表情が浮かんでいる。

 

 そのクラインに問いかけたのは、同じくSAOを共に切り抜けた騎士ディアベルだった。

 

 

「クライン、そのマキリっていう奴に心当たりがあるのか」

 

「あぁ。昨日キリトから話を聞いたんだ。あいつがどう思うかはわからねぇが、皆に話しておきてえ。いいよな、リラン」

 

 

 クラインの問いかけにリランは頷いた。この二人だけ事情を知っているらしい。リランはクラインに言う。

 

 

「話しても良いぞ。キリトもいずれ皆に話そうと思っていたようだしな。我も幾分か話させてもらう」

 

 

 クラインは「ありがとよ」とリランに礼を言うなり、皆の注目を集めて話し始めた。自分達が知らなかったキリトの話を、キリトとマキリの関係性を、わかりやすく。

 

 アスナはなるべく黙って聞いていたが、その内容は反応せざるを得ない部分が多く、信じられなくなったり、思わず口を覆ってしまったりした。

 

 クラインとリランによる話が終わった頃、一階の空気は重く、悲しげなものになっていた。誰もがそんな感情を抱いてしまうくらいに、悲しくて痛ましい話だった。

 

 

「キリトさん……そんな事に巻き込まれてたなんて……そんな……」

 

 

 最初に口を開いたのはシリカだった。胸元にいる《使い魔》であるピナを抱き締めて、泣き出しそうな顔をしている。SAO生還者の中で最も年下の彼女には、辛い話だろう。

 

 その話をしたクラインが答える。

 

 

「オレも正直びっくりしたぜ。あのキリトの野郎がそんなものを背負い込んでいたなんて、思ってもみなかったからな。けどよ、キリトのいたギルドの生き残りがあのヴェルサちゃんだったなんてのはもっと驚いたぜ」

 

 

 確かにそうだ。アスナの知るマキリは、髪の毛が茶色だった。しかしヴェルサとしての彼女、《月夜の黒猫団》の時の彼女の毛の色は青みがかった黒色である。

 

 恐らくマキリはキリトにばれないように髪の毛を染めていたのだろう。気付かれないように近付いて、キリトを殺すために。

 

 ただならぬ執念がマキリを動かしていたように思えて、背筋が凍えた。

 

 

「だが、なんだか妙な話じゃねえか? マキリはシノンを姉だと勘違いして近付いてきたんだろ。でも、クラインとリランの話に出てきたマキリの姉は、マキリの言ってた姉と全然違うじゃねえか」

 

「クラインとリランの言ってるマキリのおねえさんは、弱くて気も小さい人。それでマキリの言ってるマキリのおねえさんは、強くてかっこよくて、皆を守る人。正反対じゃない。どういう事なの?」

 

 

 エギルとフィリアが口にした疑問もアスナが気にしていた。クラインとリランのいっている事が真実というならば、マキリは正反対の事を言っている。まともではなくとも、マキリがそんな事を口走っている理由が理解できなかった。

 

 その問いかけに答えたのは、リランだった。悲しげな顔は変わらない。

 

 

「あのマキリの精神状態は完全に崩壊を起こしていた。あらゆる精神パロメータが滅茶苦茶になってしまっていた。そこにエヴォルティヴ・ハイなんてものを使ったのだから、狂いに狂ったのだろう。

 キリトから聞いた話だが、マキリは姉を守るために強くなろうとしていたそうだ。自分がSAOに姉を巻き込んでしまったから、自分が守るのだと言ってな。

 恐らく姉を喪った現実に耐えきれず、姉は生きていると思い込み、更に姉を守るために強くなった自分のイメージと姉のイメージがあいつの頭の中で混ざり合い、いつしか姉が自分達を守ってくれるような勇ましくて強い人だったと思うようになっていったのだろう。最早あいつの姉は最初からこの世に存在していない何かになっていたのだろう」

 

 

 アスナは背筋に悪寒を感じた。マキリは存在しない人物となってしまった姉をシノンだと思い込み、狂気の攻撃を仕掛けたのだ。マキリの精神状態と同じように、やる事なす事全てが滅茶苦茶だった。そうとしか思えない。

 

 

「……シノのんをお姉さんだと思ってた理由っていうのは? シノのんとお姉さんは何も似てないよ」

 

 

 アスナの問いかけにリランは答える。

 

 

「恐らくキリトの傍に居たからだろう。報復の相手であるキリトは姉を連れ去って洗脳して、弱々しい人物に変えてしまった。あいつはそう思い込んでいたようだ。全ては姉を喪った事を受け入れられなかったせいだ」

 

「それで黒服のブルーカーソルになってたのモ、キー坊に報復して殺すのを確実にするためカ。恐ろしい執念だよ全ク」

 

 

 アルゴが溜め息混じりで言った。情報屋として黒服のブルーカーソルを探していた彼女としても、その正体がヴェルサであり、更にそのヴェルサがキリトと行動を共にした事のあるマキリだったというのは、来るものがあるのだろう。

 

 

「けれど、それが全部キリトのせいだなんて言えないだろ。SAOではどんなあり得ない事だって起きたし、それで命を落とすプレイヤーも沢山いた。元はと言えばSAOっていう環境自体が悪いだろう」

 

 

 そう言ったのがディアベルだった。

 

 マキリがあぁなってしまったのは、確かにキリトに原因があると言えるかもしれない。しかし、キリトが本当に正しい行動をしたところで、マキリのいた《月夜の黒猫団》の人達が助かっていたかはわからない。その事件が起きたあとも、想像を絶する危機が何度も起きたのだから。

 

 だからこそキリトを責めるのは良い事ではないし、今更《月夜の黒猫団》の事でキリトを責めたところでどうにもならない――ディアベルは皆にそう告げていた。

 

 そしてそれは、皆もすでにわかってくれているようだった。誰もがキリトを責めよう、キリトが悪いと思っているような顔はしていない。それがアスナを安堵させた。

 

 しかし、間もなくしてセブンが溜め息を吐いた。そのまま姉であるレインに目を向ける。

 

 

「けれど……なんだかあたし、マキリの事がわからないでもないかもしれないわ」

 

「セブン?」

 

 

 不思議そうな顔をしたレインに、セブンは続ける。

 

 

「あたしがもしお姉ちゃんを喪ったりして、もしそれが他の誰かのやった事が原因だとわかったら、その時あたしはその人を恨んだりするかもしれない。報復して、殺してやりたいと思うかもしれない。それはいけない事だっていうのも十分承知してるけど、それでも……そうやっちゃう気がして仕方ないの……マキリみたいに……」

 

 

 セブンの言っている事は、アスナもわかっている事だった。かつてSAOでユピテルを連れ去られた際、戦闘兵器に改造された際、犯人が許せなくて仕方がなかった。それからユピテルがイリスの策で復活してくれるまで、耐えられないくらいの喪失に襲われ続けた。

 

 大切な人を喪うというのは、それほどまでに悲しいものであるというのは、痛いほどわかっている。セブンに続いて声を出したのは、カイムだった。

 

 

「……正直ぼくもだよ。ぼくもおねえちゃんが死んでから、病院の先生達を勝手に恨んだり、許せないと思ったりした。そんな事を思って、したりしたところで何も変わりはしないのに、そうしたくてたまらなくなって、実際にやっちゃって」

 

 

 カイムは苦い表情をしていた。その手をユウキが握ってやっている。

 

 ユウキから聞いた話だが、カイムにも大切な姉がいたという。その姉の事をカイムはとても大切に思っていて、亡くした時はひどい有り様だったという。

 

 そんな経験をしているため、カイムにマキリに共感できる部分があっても不思議ではない。そのカイムの視線は意外にも、レインに向いた。

 

 

「だからさ、レインがマキリに馬鹿妹って言った時は効いたよ。ぼくも結局馬鹿弟だったわけだから」

 

「カイム君、そんな、わたしはカイム君に言いたかったわけじゃ……その、ごめん」

 

 

 焦るレインに、カイムは苦笑いに近しい笑みを浮かべて答える。

 

 

「ううん、そういうわけじゃない。寧ろあぁ言ってもらえて良かったよ。ぼくがやってた事が間違いだったって、改めてよくわかったからさ」

 

 

 その後、カイムは皆の方に向き直った。苦い表情は険しいそれに変わっている。

 

 

「やっぱり間違ってる。どうにもならない事を誰かのせいにして報復しようとするなんて。それにキリトだってマキリのおねえちゃんを喪った事ですごく苦しんでるんだ。マキリだけじゃない。キリトだって今も苦しみ続けてるんだ」

 

 

 カイムの宣言にアスナは頷いた。マキリとの戦いの時、マキリに訴えかける時、キリトはずっと苦しそうな顔をしていた。キリトは今でもマキリの姉を死なせてしまった事、《月夜の黒猫団》の事で苦しみ続けているのだ。

 

 しかも同じように苦しんでいるマキリが、大切な人であるシノンを襲い、シノンは負傷した。追い討ちどころではない。完全にやりすぎだ。

 

 キリトは今どう思っているか気になるが、シノンのところにいるため、知りようがない。アスナはそれがもどかしかったが、その時に階段から足音が聞こえてきた。大小の異なる二人の足音だ。

 

 目を向けてみたところ、ユピテルとストレアだった。

 

 

「ユピテル、ストレア」

 

 

 アスナの呼び掛けに応じたのはユピテルだった。皆に聞こえるようにはっきりと言う。

 

 

「シノン姉ちゃんの治療が完了しました。無事です」

 

 

 その報告に誰もが胸を撫で下ろした。シノンに何かあったらとんでもない事だったが、どうにかなったらしい。息子達を信じてよかったと、アスナは思った。そこでリズベットがユピテルに問いかける。

 

 

「ユピテル、シノンは結局どうなっちゃってたの。本当に治せたの?」

 

 

 ユピテルは頷いた。ストレアが喋ろうとしたのを腕で軽く止めてから、話し始める。

 

 

「……仮想世界での出来事というのに、本当に助けられました。シノン姉ちゃんは高圧電撃を流される攻撃を受けました。これが現実で起ころうものならば、身体の神経はずたずたになり、肉体は内側から焼けてしまい、脳も物理的に損傷します」

 

 

 仲間達の数名が「うぅ」と嫌そうな声を出した。かなり生々しい話だったが、聞かないわけにはいかない。

 

 

「この脳の損傷によって後遺症が残ったりしますが、シノン姉ちゃんの場合はあくまで高圧電撃を流される疑似体験をさせられたのであって、脳内物質がそういう流れになってしまっただけです。ですので、シノン姉ちゃんの身体や脳は物理的な損傷は受けていません」

 

「だけど、マキリは痛覚抑制機構を無効化したって……」

 

 

 リーファの問いにユピテルは腕組をする。その様子はどこか産みの親であるイリスを連想させた。

 

 

「はい。しかし、それでも現実世界の肉体への影響はありません。シノン姉ちゃんの脳内物質が高圧電撃を受けた時のものになってしまったのを、高出力で正常化と最善化で上書きし続け、完治まで行かせました。シノン姉ちゃんの脳内物質の動きは、高圧電撃から立ち直った後のものになっています。もう心配はありません」

 

「アタシとユイを接続したうえでユピテルがやってくれたからね。まぁ、それくらいの事をしなきゃいけないくらいだったって事なんだけど……」

 

「それに、シノン姉ちゃんにはもっと深くて辛いトラウマがあります。それと比べたら今回のは些細なものではあります。ある意味では、それに助けられたのかもしれません。不本意ではありますが……」

 

 

 ひとまずはシノンは助かった。その事実にアスナはほっとする。もしこれが現実で起きていたならば、本当に恐ろしい事だっただろう。ユピテルが最初に言った「仮想世界の出来事でよかった」というのには、思わず納得してしまった。

 

 直後、ユピテルが急に姿勢を崩してふらついた。皆が驚いた時には、アスナはその身体でユピテルを受け止めていた。

 

 

「ユピテル、大丈夫!?」

 

「すみません、かあさん……ちょっと力を使いすぎたみたいで、疲労値が高くなりすぎてしまいました……」

 

 

 ユピテルとリランが該当するMHHPには、人の疲労を知るために疲労値というものが存在している。ユピテルはマキリ戦から今この時までシノンに力を使って治療を続けていたため、かなり疲れてしまっただろう。

 

 アスナは頑張り続けてくれた息子の頭をそっと撫でてやった。

 

 

「ありがとう、ユピテル。ゆっくり休んでね……」

 

 

 ユピテルは胸の中で頷いたが、言葉を続けてきた。

 

 

「シノン姉ちゃんもそうでしたが、問題はキリト兄ちゃんです。キリト兄ちゃんも場合によっては治療が必要かもしれません……」

 

 

 そう言ってユピテルは深く呼吸をし、アスナに体重を預けた。眠り――正確には休眠モード――に入ったようだ。

 

 その後、アスナはまだキリト、シノン、ユイのいると思われる二階を見た。シノンが助かった事は一安心だが、まだ安心しきるには早い。そう思えた。

 

 

 

 

          □□□

 

 

「ママ……良かったです……」

 

「あぁ、そうだな……」

 

 

 娘であるユイの消え入りそうな声にキリトは答えた。目の前にあるのはシノンの使っているベッドであり、そこでシノンは眠っている。正確には気を失ってしまっているのであり、現実にもこの世界にも、彼女の意識は戻ってきていない。

 

 だが、それでも危険域は脱した。ユピテル、ユイ、ストレアの三人が力を合わせて治療をしてくれたおかげと、この世界が仮想世界であったおかげで、シノンはあれだけの電撃を浴びせられても、身体にも心にも後遺症が残らずに済んだ。

 

 まだシノンの意識が戻ってきてはいないが、ユピテルのその言葉は信じる事ができた。ユピテルはプレイヤーのVR機器と繋がって、状態を知って治療をする事ができるのだから。

 

 

「ユイ、疲れてないか。ユピテルと接続しての治療だったんだろう」

 

 

 ユイは苦笑いに近い顔をした。少し疲れが見えていた。

 

 

「実際のところ、ちょっと疲れてます。けれど、一番力を使い続けたおにいさんと比べればそうでもありませんし、ここから……ママから離れたくないです」

 

 

 ここにシノンを連れてきた時点でユイは全てを把握したらしく、シノンの有り様を見た時には泣き出しそうになっていた。

 

 そんなユイを兄らしくユピテルが動かし、ストレア同様に自身に接続させて出力を上昇させ、シノンの治療をした。その時にはユイもMHCPとしてのやるべき事に集中しきっており、話しかけても答える様子はなかった。そのユイは今、元のユイに戻っている。

 

 

「そうだな……パパもママの傍から離れたくない」

 

「離れちゃ駄目なんです。ママのためにも、離れちゃ駄目です」

 

 

 ユイに少し強く言われて、キリトはもう一度頷いた。そのままシノンに向き直ると、ユイの言葉が続いてきた。

 

 

「……パパ、ママを襲ったマキリという人ですが……」

 

 

 キリトはすぐに返事する事はできなかった。

 

 マキリ。愛称をマキという彼女は、《月夜の黒猫団》の団員の一人であり、《月夜の黒猫団》という名前を作った人物だ。そしてかつて守りたかった大切な人であるサチの、たった一人の妹だった。《月夜の黒猫団》の壊滅、姉の死後は行方不明だった。その存在を思い出してからは、出来るならば再会したいと思う事もあった。

 

 その願いは叶った。今日、極めて最悪な形で。《月夜の黒猫団》とサチを喪ったマキは、完全に壊れてしまっていた。純粋で明るくて、ムードーメーカーであった彼女は、今や原型をとどめない程に恐ろしく、凶悪なそれに変わってしまっていた。

 

 その原因は他でもない――俺だ。俺のやった事が、マキを怪物に変えさせたのだ。

 

 

「マキリの行為ですが、ママへの危険行為とデジタルドラッグの使用での危険戦闘行為と、アカウント凍結処分が下されて当然のものです。もうマキリがこのゲームに戻ってくる事はないでしょう」

 

 

 ユイは淡々と事実を告げた。あれだけの事をやったのだから、マキがそうなっても不思議な事は何もないだろう。

 

 

「しかしパパ……マキリはパパを狙っていたんですよね。それで、マキリはかつてパパの……」

 

「リランから聞いたのか」

 

「……はい。《月夜の黒猫団》……パパがかつて所属していたギルドの、サチという人の妹がマキリであったと、聞きました」

 

 

 マキは自分が全て元凶だと言っていた。それは間違いない。自分のやった事が原因で《月夜の黒猫団》の皆は、サチは死んだのだ。改めて突き付けられて、胸が痛くて仕方がない。

 

 それを助長しているのは、マキがサチの死を受け入れられていない事だった。マキはサチが全てが変わってしまっても尚生きていると信じていた。《月夜の黒猫団》の皆が死んでも、SAOが終わっても、マキはサチの死を受け入れられずにいたのだ。

 

 

「俺のせいだよ。俺が《月夜の黒猫団》の皆を死なせたから、マキは狂ったんだ。だからマキは俺に報復しに来たんだ」

 

「ですが、だからといってこんなにひどい事をしていいわけがありません」

 

「そうだよ。俺が全部そうさせた。俺がマキにやらせたようなものだ」

 

 

 ユイは「パパ!」と言った。そんなに自分を責めるんじゃないと言いたいのだろうが、キリトはそうするのをやめられなかった。

 

 もしマキが生き残っていても、自分の知るマキのままだったならば、まだましな方だったかもしれない。

 

 しかし生き残っていたマキは自分の知るマキではない、ただの狂人となっていた。あんなに優しくて明るかった少女をあんな姿に変えてしまったのは、《月夜の黒猫団》の全滅。自分の引き起こしてしまった事が全ての原因なのだ。

 

 《月夜の黒猫団》の皆を忘れずに生き続ける事、そしてシノンを守り続けていく事。それが自分の使命であり、《月夜の黒猫団》の皆へ対する贖罪だと思っていた。

 

 だが、マキの事はどうだろうか。マキへの贖罪とは何だろうか。マキには何をすれば、何を言えばいいのだろう。

 

 キリトは溜息を吐いて頭を抱えた。何も答えが出てこない。マキに何をしてやればいいのかわからない。

 

 こんな状況をサチが見たらどう思う。

 

 あんなふうになってしまった妹を、妹をあんなふうにしてしまった自分を、サチはどう思うだろう。

 

 もし彼女が責める事があれば、それこそが真実だろう。だが、サチは居ないし、マキと会う方法も断絶してしまった。何も出来なくなってしまった。

 

 

「……俺は」

 

 

 どうすればいいのだろう。アカウント停止処分を受けるマキに何をしてやれば良かったのだろう。彼女を元に戻せばよかったのだろうか。

 

 いや、リランでも治せないのがマキの状態だったからそれは違う。では、本当にどうすればよかったのだろうか――。

 

 

「……責めないで……キリト」

 

 

 不意に声が聞こえて、キリトはそこへ向き直った。ユイと同時に気が付いた直後に、手に暖かさを感じた。ずっと気を失ったままだったシノンが目を開けて、その手をキリトの手に伸ばしてきていた。

 

 

「シノン!」

 

「ママ!」

 

 

 言ったのはユイと同時だった。弱々しく目を開けて、シノンはキリトを見つめていた。

 

 

「シノン、詩乃、大丈夫なのか」

 

 

 シノンは頷いて見せた。やはりその動作も弱々しく、今にも消え行ってしまいそうだった。辛うじて出せている動きのようだ。シノンの一連の仕草を目にしたキリトは、思わず両手でシノンの手を包み込んだ。そのまま額をシノンの手に当てる。

 

 

「……ごめん……俺のせいで、また君を……こんなに危険な目に遭わせて……」

 

「大丈夫よ……ユイ達が治してくれたおかげで……随分、良いから……安心、して……」

 

 

 ユピテル達が治療にあたっていた事はシノンも知らないはずだ。どうやら彼女はユピテルが部屋を出ていった辺りから、目を覚ましていたらしい。

 

 

「……キリト……そんなに自分を責めないで……」

 

 

 その言葉を聞くのは二回目だった。一回目でシノンに向き直ったのだ。

 

 

「シノン……だって、マキリは……マキは俺のせいで、あんなふうになって……君を襲って……全部俺のせいだ……マキは、全部俺のせいで……」

 

 

 目を戻すと、シノンは首を横に振った。

 

 

「ううん……全部が全部、あなたが悪いわけじゃない……マキリも、沢山いけない事をして……キリトを一方的に傷付けて、苦しめてた……」

 

「マキを苦しめたのは俺だ。マキを苦しめる原因を作ったのは全部、俺――」

 

 

 言いかけた時、もう一度シノンがキリトを呼んだ。キリトは言葉を区切って、聞く。

 

 

「……そんなふうに責めないで……そんなの、きっとマキリのおねえさんも……望んでない事よ……マキリのおねえさんは……キリトを責めたりなんかしない……キリトが自分を責めるのも……やめてって、言うはずよ……」

 

 

 その一言にはっとする。マキリの姉――サチ。かつて守れなかった人。マキリを誰よりも愛していた人。サチならば、今の自分を見たらなんと言うだろうか。

 

 あの時、サチを生き返らせようと必死になっていた自分に、サチは「生きて」と言ってくれた。自分達の事で立ち止まったりせずに、進み続けてほしいと、願っていた。

 

 もし今サチが生きているならば、《月夜の黒猫団》とマキリの事で悩み、落ち込む自分になんと言うだろう。

 

 あの時みたいに、「生きて」と言ってくれるのだろうか。「進んで」と言ってくれるのだろうか。正直なところそれを確認したいところだが、そんな事など出来やしない。

 

 もう一度そう言ってもらいたくても、それは叶わない事だ。そのせいで、増々答えがわからなくなった。

 

 

「……そう、かな」

 

「きっとそうよ……私は大丈夫だし……マキリも、もう来ないだろうから……だから……自分を責めるのはやめて、和人……」

 

 

 本当の名前で呼ばれて、キリトはもう一度シノンの手に額を付けた。間もなくして、ユイの声がした。

 

 

「……パパ、ティアさんとアインクラッドの異変についての調査結果が出ています。もう少ししたら、皆さんのところへ向かいましょう」

 

 

 このまま《月夜の黒猫団》とマキリについて考え続けたら、底知れぬ沼に沈んでいってしまいそうだった。なのでユイの言葉は嬉しかった。少しでも、考えを別なところへ移したかった。

 

 キリトはユイに頷いた。

 

 

「……わかった。今は……目の前の異変の解決、だな」

 


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