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「はああッ!!」
ユウキは地面を蹴り、突きを放ってきた。瞬間的な速度で迫ってくる剣先をカイムは事前に予想できていたために、即座に横方向へステップする事で回避する事が出来た。
こうなる事は、もうログハウスを出た時点で予想できていた事だ。
かつて活動拠点がALOで、スリーピング・ナイツが解散の危機に陥っていた頃、リーダーであるユウキはスリーピング・ナイツという存在があった事を遺すために、一番乗りでクリアすればその者達の名前が残る形式になっている高難度クエストに挑もうとしていた。
しかし、どの高難度クエストもスリーピング・ナイツの皆だけではクリアできないようなものばかりであるという事がわかっていた。
そこでユウキは自分達と一緒に戦ってくれる強いプレイヤーを求めて、ALOのあちこちで強いプレイヤー達の話を聞いてはすっ飛んでいって、片っ端からデュエルを吹っ掛けるというのをやっていた。
だが、その解散の危機にあったスリーピング・ナイツにカイムが加わり、尚且つ構成員の病状が良化した事により、スリーピング・ナイツの名前を世界に刻むための戦いに挑む必要は無くなった。
それは同時にユウキがプレイヤー達にデュエルを仕掛ける理由もなくしたのだが、ユウキ/木綿季は未だに強い相手を見つけると、とりあえずデュエルを吹っ掛けるようになっていた。
数多の強者達に挑んでいき、絶対なる速度とも言える剣捌きを用いて、ものの見事に勝利を収める。そんな事を繰り返していくうちに、いつしかユウキは《絶剣》という二つ名で呼ばれるようになっていった。
そしてその絶剣は今、カイムの目の前に居て、カイムに斬りかかる寸前になっている。何かあればデュエル、勝負を吹っ掛けるのが好きなのがユウキだ。こうなる事はカイムにも予想できていた。
「……ッ」
ユウキの剣を避け切り、軽く後退しながら、カイムは奥歯を噛んだ。こうなる事はわかっていたけれども、分が悪いと言わざるを得ない。
ユウキの絶剣と呼ばれるほどの剣捌きがどれほどの強さを誇っているのか、カイムは既に嫌というほど体験している。カイムがスリーピング・ナイツに加わった後も、ユウキは時折カイムにデュエルを吹っ掛けて来る事があった。
ユウキはいつだって本気で剣を振るう。だからカイムもユウキとのデュエルは全力で打ち込み、刀を振るった。ボスモンスターと戦う時よりも、シルフの領土に攻めてきた他種族の軍勢を迎え撃つ時よりも、本気で戦った。
だが、そうであってもカイムがユウキに勝てた事は一回もなかった。どんなに集中してユウキの剣を追っても、ユウキは平然とその追跡を振り切って攻撃を仕掛けてくる。嵐のように早くも激しい剣撃の雨に全く抵抗できず、いつもやられる一方だった。
まさに剣の
「しっ……!!」
ユウキは即座に攻撃後の体勢を立て直し、カイムに身体を向け直しつつ次の攻撃を仕掛ける姿勢を作る。
一度も勝った事が無いのに、勝たなければならない。
だが、このまま戦い続けたところで、またいつものように叩き伏せられて終わるだけではないのだろうか。
またいつものように彼女の剣撃の嵐に晒されて、やられる一方なのだろうか。
そんな考えが、ユウキとの戦いを開始してすぐのカイムの頭の中を駆け回っていた。
「……!!」
こちらに身体を向けるユウキの姿を見たその時だ。――ユウキの姿が変わった。
菖蒲の花弁のような美しい紫色の長髪が一気に短くなり、焦げ茶色に近しい黒色のセミロングヘアに変わる。
服装は薄オレンジ色をした長袖長ズボンのパジャマの上から赤いパーカーを羽織ったようなそれに変わり、その瞳は赤の強い紫色から髪と同じような色へ変わった。そして、身長は現実世界のカイム/海夢と同じくらいになる。
その姿はメディキュボイドの中に居る時を見せてもらった時に目にした、紺野木綿季のその姿であった。
ユウキは今、木綿季の姿で剣を構えている。
そして自分もそうだ。いつの間にか身長が縮んで、木綿季と同じくらいになっている。服装は洋服と和服を組み合わせたようなデザインのものから、休日に着ている黒いパーカーとジーンズの組み合わせに変わっていた。現実世界――本来の姿で、カイム/海夢は刀を握っていた。
「だああッ!!」
海夢が異変に気が付いたのと同時に、木綿季はもう一度地面を蹴って飛び掛かってきた。今度は斬り下ろしだ。その速度は――不思議な事に、ユウキのそれではないと思えるくらいに遅く、目で追えるくらいだった。
ユウキの姿が木綿季に見えている事、自分の姿も現実世界のものと同じになってしまっている事、そしていつもより何倍も遅く感じる木綿季の剣。どうしてこんな事が起こっているのかを気にする余裕など、今の海夢にはなかった。
木綿季の剣が、見える。
木綿季の剣が見えるという事は、自分にも勝機があるという事だ。いつもは剣が見えないくらいに早いせいで、反撃もままならないままやられてきたのだから、この機会を逃すわけにはいかない。
海夢は頭部を狙ったであろう剣を、左に飛び退いて回避する。木綿季の剣は空を割きつつ地面へ向かったが、すぐに水平になって海夢を追った。
予想通りの動き――!
海夢は咄嗟に刀を両手でしっかり持ち、立てた。その刃に木綿季の剣が吸い込まれるように向かい、衝突した。ぎぃんという鋭い金属音が黄昏を迎えている空へ木霊し、両者の顔を赤橙の火花が一瞬だけ照らした。
その時、木綿季の顔が驚きの表情になっている事に海夢は気付く。今の一撃を防がれる事を彼女は予想できていなかったのだ。デュエルで初めて、海夢の読みが木綿季の先を行った瞬間だった。
もしかして、ぼくでも勝てる――?
散々不安な疑問が浮かび上がってばかりいた頭の中に、明るい疑問が浮かび上がった。今の木綿季相手ならば、もしかしたら自分でも勝てるのかもしれない。しかしそれはきっと――。
「このおぉッ!!」
雄叫びのような声を上げて、木綿季は片手直剣による斬撃を次から次へと繰り出してきた。水平、垂直、斜め上方向からの斬り下ろしといった、あらゆる角度から斬撃が飛んでくる。
いつもならば海夢の事など瞬く間に切り傷だらけ、穴だらけにしてしまう剣の嵐だが、その全てを海夢は防御と回避で
流石に飛んでくる位置などを予知出来ているわけではない。木綿季の剣が、遅いのだ。いつもならば目にも止まらない速度を出してくるくせに、今の木綿季の振るう剣は全然遅く、回避も防御も余裕だった。
それに気付いたところで、海夢は自信の頭に浮かぶ明るい疑問を抱くに至った経緯を悟った。
今、自分は木綿季に勝てそうだ。
その理由は今の木綿季の剣が遅く、簡単に凌げてしまうものだからだ。
そんなものを繰り出す事しか出来ない木綿季は、本調子ではないからだ。
木綿季は完全に不調をきたしている――それが剣にはっきりと現れているのだ。
剣や刃は所有者の状態を映し出す窓や鏡のようなものだと、キリトやユウキ、リーファ、サクヤの剣捌き、刀捌きを見て思っていた。その思いは意外にも真相を捉えていた。
木綿季から繰り出される遅い剣が、今の木綿季自身の状態。
今の木綿季の、心の有り様だ。
「こんな……」
海夢は飛んでくる剣を防ぎながら、目を見開いていた。木綿季は容赦なく剣を振るってくるが、いつもの余裕の欠片は一切ない。いや、焦燥していつもの剣を出そうとしているようだった。
こんな剣を出す事しか出来ないのが、今の木綿季の心情だというのか。
今の木綿季は、こんなにも弱っているというのか。
こんな状態になっている木綿季に勝つ事など容易いに決まっている。そしてそこで掴んだ勝利もまた、意味の無いモノだ。
「――はあああああッ!!!」
木綿季はもう一度叫ぶと、金色の閃光を刀身に纏わせ、突きを放ってきた。
単発突攻撃片手剣ソードスキル《ヴォーパル・ストライク》。
それはシステムアシストの助けを受ける事によって、先程から繰り出されている木綿季の攻撃を遥かに上回った速度で迫ってきた。
木綿季はデュエルをしている時、ソードスキルは相手を追い詰め切ったここぞという時にだけしか使わない。もし外したりすれば、使用後の硬直を強いられ、相手に攻撃のボーナスタイムを与えてしまうからだ。そのため、木綿季は自前の腕で剣を振るっていた。
そんな木綿季がこちらを追い詰めたわけでもないのにソードスキルを使ってきたのだ、海夢は驚かざるをえなかった。
しかし、窮地ではなかった。ソードスキルの動きはこれまで何度も見てきており、その動きや軌道はほとんど読める。木綿季の使う片手剣ソードスキルならば尚更だ。
「ッ!!」
目の前が金色に染め上げられる前に、海夢は刀を下段構えにし、そのまま刹那のうちに斬り上げた。がきんっという鋭い金属音が鳴り、木綿季の上半身が上へ持ち上げられたようになった。その表情は完全に驚いてしまっているモノになっていた。
ソードスキルは確かに強力だが、使用後に硬直が発生する事と、パリングで弾かれやすいというデメリットを抱えている。このパリングの危険性もある事を熟知しているからこそ、木綿季はソードスキルを使わなかったのだ。
今の木綿季は、いつも心掛けている事さえ忘れてしまうほど焦燥している。
「もう、一回ッ!!」
すかさず、海夢はもう一度下段構えを作った。刀身に青い光が纏われるのと同時に、海夢は狙いを定めて斬り上げを放つ。システムアシストのおかげで、達人の放つ居合い斬りのような速度で刀は振るわれ――木綿季の片手直剣の根本付近に直撃する。
単発攻撃刀ソードスキル《絶空》。
ソードスキルによるカウンターを受けた剣は木綿季の手から外れ、宙を舞った。そして海夢の刀から光が消えたのと同時に、木綿季の遥か後方の地面に突き刺さった。
勝負は決まった。
初めて、木綿季に勝つ事が出来た。
全く持って無意味な勝利を決められた。
「あ……」
海夢が鞘に刀を戻すと、木綿季は脱力したようにその場に座り込んだ。
ここは《SA:O》の中だ。だからお互いにアバターとしての姿になっているはずだ。しかしどうしたものか、海夢には今の木綿季がアバターとしてもユウキには見えなかった。随分前に見せてもらった紺野木綿季そのままな少女へ、海夢は近付き、しゃがみ込んだ。
「……木綿季。ぼくの勝ちだよ」
「……」
木綿季は縮こまり、俯いていた。ぎゅうと拳を握り締めている。
「……ほら、皆が待ってるんだ。早く帰ろう――」
「――んで」
海夢の言葉を遮るように、木綿季の口が動いた。思わず海夢は言葉を止めた。
「なんで、なんでこんな事になったの……なんで、なんでこんな事になったんだよ……」
握り締めた木綿季の拳に、ぽたぽたと落ちるものがあった。それは雫だった。
「やっと終わったと思ったのに……やっと外に出られると思ったのに、やっと普通の人みたいに暮らせると思ったのに……なんで、なんでこんな事になったんだよ……どうしてこうなるんだよ……」
木綿季の瞳からはぼろぼろと大粒の涙が溢れ出していた。止まる気配は全くない。それは言葉もそうだった。
「ボクには投与されたんでしょ、ボクにも投与されたんでしょ、新薬が。新薬がボクにも投与されたから、ボクはエイズじゃなくなれたんでしょ。だからボクはもう、ボクはもう大丈夫だったんでしょ。なのに、なんで、なんでボクだけこんな事になるの。なんで病気に逆戻りしてるんだよ……なんでボクばっかり、こんな目に遭うんだよ……?」
木綿季から出ているのは、ずっと溜め込まれていた感情だ。木綿季はずっと元気に、明るく振舞っていたが、やはり心の奥底では、このような感情が溜め込まれていたのだ。それが今になって出てきている。海夢は病院で感じた事をもう一度感じていた。
直後、木綿季は自分の身体を抱き締めるように、腕を回した。そのままがたがたと震え始める。
「……寝ると夢を見るんだ。パパとママとねえちゃんがいる……でも、三人とも沈んでいくんだ。真っ黒い泥の中に沈んでいくんだ。それで、泥の中からいっぱい手が出てきて、ボクを捕まえて……沈んでいくんだ、ボクの身体……真っ黒くて深い、深い、泥の中に……」
海夢は気付いた。この前、突然木綿季が深夜にログインしてきて、助けを求めるように抱き付いてきた時の事。あの時木綿季はただならない様子だっただが、それは悪夢によるものだったらしい。今の木綿季が口にしている、ただならない悪夢。
恐らくそれはあの時からずっと木綿季を襲っているものなのだ。病院で木綿季の意識の封鎖が解除されたのも、木綿季が悪夢を見て精神的に危険な状態になったからだったなのだろう。
「それで……泥の中に化け物が居て、声がするんだ……おいで、おいでって……かわいそう、かわいそうって……ボクを……ねえちゃんたちと同じところに連れていこうとしてるんだ……それで……泥の化け物と一緒に泥の中に沈んで、息が出来なくなって……目が覚めるんだ……」
木綿季の震えは止まらない。出される声も震えてきている有様だ。
「ボクはあぁなるんだ……本当に真っ黒い泥の中に沈んで、戻ってこれなくなるんだ……あの真っ黒い泥の化け物に食べられちゃうんだ……」
木綿季の言う真っ黒い泥の化け物とは、死の事だ。木綿季は今、二ヵ月後に死ぬ事が確定してしまっている。二ヵ月後にやってくる死が、木綿季の夢の中に泥の化け物になって出てきている――そういう事なのだろう。いずれにしても、海夢は木綿季に返す言葉を見つけられなかった。
やがて、木綿季はぶんぶんと何度も首を横に振った。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ、いやだいやだ! 怖い、怖い怖いこわい……死にたくない、死にたくない……死ぬの、怖い……死ぬの、こわいぃ……」
それは木綿季の心の叫びだった。木綿季は死の到来を恐れている。
新薬が登場して投与されるまで、木綿季は死に直面していた。その時木綿季は死へ向かう覚悟も決めていたに違いない。しかし、新薬が投与されたために、その覚悟はとうに捨てられた。木綿季の胸の中に、死への覚悟など残っていないのだ。
「助かるって思ったのに……海夢と、皆と一緒にこれからも生きて行けるって思ったのに……生きてていいんだって、思ってたのに……生きてる意味、ちゃんとあったって思ったのに……なんで、ボク……助からないの……助からなくなったの……?」
木綿季は次から次へと疑問をぶつけている。その対象は最早誰でもないだろう。だが、海夢は自分に向けられた疑問だと感じていた。全然いつもどおりではないというのに、木綿季は抱いた疑問をいつものように海夢に投げかけてきている。
「……海夢……」
「……!」
ようやく呼ばれた海夢は、か細い声で応答した。それが聞こえたのかどうかはわからないが、木綿季の顔はゆっくりと上げられてきた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、木綿季は――笑みを浮かべていた。
楽しいものでも嬉しいものでもない、自嘲しているような笑みだった。
「……ねぇ、海夢……海夢は……ボクの事、本当は嫌いだったんでしょ」
「え」
「そうでしょ。だってボク、いつも海夢の事振り回して、迷惑ばっかりかけてたもんね。この前だってあんな朝早くに大きな音立てて海夢の事起こしたりしたし、このゲームでも海夢に無理矢理クエストに付き合わせたりしてたし、ALOだと……そんなの何回もあったもんね。
それに急に海夢の家の神社の巫女になるとか言って、海夢にも、海夢のおとうさんとおかあさんにも、いっぱい迷惑かけたし……おねえさんにもいっぱい迷惑かけたかもしれないしね。
だからこうなったんでしょ。皆の事を助けたウイルスがボクの身体で変異したのは、海夢が本当はボクの事嫌いだったからなんでしょ。海夢がボクの事嫌いだったから、ウイルスもボクを嫌って、ボクを殺すようになったんでしょ。ねぇ、そうでしょ。海夢、そうでしょ」
木綿季は疑問をずっとぶつけてきていた。その内容を聞く度に、海夢の頭の中に木綿季との思い出が、胸の中に湧き上がるものを感じていた。だが、木綿季は海夢にそれを言わせるのを許さないかのように、海夢の胸の胸元を掴んだ。
「そうでしょ、そうなんだよね海夢。ボクの事、本当は嫌いなんでしょ。ボクの事なんか、本当は大っ嫌いなんでしょ。そうだって言ってよ。ボクの事嫌いだって、ボクの事なんか大嫌いだって、言ってよ」
海夢は言葉を出せず、俯く事しか出来なかった。思うような返答を得られない事が気に障ったのか、木綿季は海夢の胸を掴み、ぶんぶんと揺らした。
「そうなんだよね、そうなんだよね海夢! そうだって言ってよ! そうだって言ってよ海夢! 海夢ッ、かいむぅ!!!」
「……さい」
揺すられる中で、海夢は小さな声を出した。思わず反応してしまったのか、木綿季の動きが止まる。その瞬間を海夢は見逃さず、木綿季の頭を両手でしっかり掴んだ。
そのまま頭頂部付近に狙いを定め――思い切り頭突きをかました。
ごすん、という鈍くも大きな音が、暗くなった周囲に木霊した。木綿季の頭は思いの他硬く、それなりの衝撃が返ってきたが、海夢は全く気にしなかった。
「さっきからうるさいんだよ!! 黙れッ!!!」
木綿季の頭をしっかり両手で掴み、顔を向かせたまま、海夢は叫んでいた。胸の中から突き上げてくるものは、既に海夢の口元に到達していた。
「わかるわけないだろ!! ぼくにそんな事、どうしてこうなったかなんてわかるわけないだろ!! なんでもかんでもぼくに聞こうとするな!! ぼくは木綿季の親でも兄妹でもなんでもない!!!」
木綿季は言葉を失って、茫然と海夢を見ているだけになっていた。顔と顔の距離は、吐息がかかるくらいに近い。
「そうだよ、木綿季はいつだってそうだ。いつも馬鹿みたいに元気で、ぼくの事を振り回してくる。ぼくよりも早起きで、ぼくが寝てようが叩き起こしてくる。困った事があったらなんでもかんでもぼくに聞いてくる。ぼくが知らない事でも平然と聞いてきて、ぼくが困ろうがおかまいなしだ。それでぼくが何か言えば顔をつねってくるし、迷惑だって言っても全然やめてくれないし、おまけに笑ってくる。ぼくの事なんか全然考えてないよ、もううんざりするくらい!!」
木綿季は声の一つも上げなかった。ただ黙って海夢の怒声を聞いている。
その木綿季の額に、海夢は自身の額を預けるように付けた。こすんという小さな音が鳴り、木綿季の体温が額を通じて流れてくるようになった。
「だけど木綿季はこんなに暖かくて、優しくて……すごく元気で、明るくて……誰よりもぼくを思ってくれてて……いつも、本当の妹みたいに可愛いんだ」
ようやく木綿季は小さな声を出した。しかし海夢は構わずに続ける。
「おねえちゃんが死んだ後に見つかったぼくの身体のウイルスは新薬になって、確かに沢山の患者の人達を救った。世界中のエイズ患者を治した。でも、誰もぼくにありがとうって言ってくれなかった。病気が治ってよかったとしか言わなかった。ぼくの事なんか、誰も気にかけてなかった。
けど、けど木綿季は、ぼくにありがとうって言ってくれた。ALOでわざわざぼくのところに来て、助けてくれてありがとうって言ってくれた。
それからぼくと一緒に遊んでくれた。おねえちゃんが死んで塞ぎ込んでたぼくの傍に、いつも居てくれた。ぼくを元気付けようと必死になってくれた。明るさと元気さを分けてくれて、塞ぎ込んでたぼくを立ち直らせてくれた。
それだけじゃない。ぼくの家に住むって言ってくれた! ぼくと家族になりたいって、家族になるって言ってくれた! ぼくの家の役に立ちたいって、おねえちゃんの跡を継ぎたいって言ってくれた。いつだって、木綿季はぼくの近くに居てくれた!」
まるでさっきの木綿季のように、海夢は次から次へと胸の中の思いを口にし続けた。
「嫌なところだっていっぱいある。うんざりするところもいっぱいあるよ。だけど、ぼくは木綿季を喪うなんてごめんだ。木綿季が死ぬなんて認めるもんか。木綿季がおねえちゃんみたいに死ぬなんて認めるもんか!
ぼくはもう、大切な人を喪うなんて、もう絶対に……絶対にッ」
海夢はひと際強く木綿季の頭を掴んで、叫んだ。
「もう絶対にいやだッ!!!」
海夢の絶叫に等しい声が空へ吸い込まれた時、周囲の暗さは増した。日が落ち、夜が始まったのだ。しかし、雲一つない空には闇は無く、砂粒のような星々がきらきらと光っていた。
その星に照らされて姿がはっきりしている木綿季の身体を――海夢は抱き締めた。
「木綿季がどう思ってるかなんて知らない。木綿季に何言われたっていい。顔をつねられようが、何を言われようが、ぼくは絶対に、木綿季が嫌いだなんて言わない。大嫌いだなんて絶対言わない。
ぼくは……大好きだよ、木綿季」
胸の中にずっと秘め続けていた気持ち。世界を渡ろうとも、口に出す事の出来なかった感情、言葉。それは今、ついに海夢の胸から口へ行き、伝えたかった木綿季の許へ向かっていった。
これを聞いたら木綿季はどう思うだろうか。もしかしたら嫌がるだろうか――そんな事を考え、不安になるような余裕は海夢には存在していなかった。海夢はただ、大好きだと思っている木綿季の身体を抱き締め、離す事が出来なかった。
それからどれくらい経った頃だろうか。木綿季はもう一度震え出し、同じく震えた声を出した。
「……なんで……なんで嫌いって言ってくれないの……なんで大嫌いって言ってくれないんだよ……なんで、そんな事、今更ボクに言うんだよぉ……」
「……木綿季ッ」
直後、背中に暖かさを感じた。木綿季の手が伸びてきて、抱き締め返してきていた。
「ボクも……ずっと一人ぼっちで……メディキュボイドの中で一人ぼっちで……病気に食べられて死ぬだけだったと思ってた……パパもママもねえちゃんも死んで……ボクも同じように死ぬだけだって、病気に食べられて終わるんだって、ずっとそう思ってた……ボクの、生きる意味なんて何もなかったんだって、そう思ってた……」
木綿季の抱き締める力が強くなる。
「でも……海夢が助けてくれた……海夢が、死ぬしかなかったボクに
だから、ボク……海夢の役に立ちたかった。ボクを喜ばせてくれたから、海夢の事も喜ばせてあげたかった。海夢、塞ぎ込んでたから、元気にしてあげたかった。海夢の傍に居てあげようって思った。ボクに出来る恩返しを沢山しようって思った」
木綿季の声の震えが若干取れる。
「……その途中で気付いた……海夢と話してるとすごく楽しくて、海夢と一緒にごはんを食べるとすごく美味しくて、海夢と一緒に遊んでると、これ以上ないくらい楽しくて、嬉しくて……海夢の傍、すごく暖かくて、気持ちよくて……いつまでも居たいって、そう思えたんだ……もう、海夢の傍にずっと居たいって……いつの間にか……そう思うようになってた……」
「……木綿季……」
木綿季は海夢の服の裾を掴み、力強く握りしめた。
「だから……やっぱり助からないって言われた時……海夢に嫌われたかった……結局死んじゃうなら、海夢の傍に居られなくなった方が……死ぬ時楽だと思ったから……」
ようやくあの時の問いかけの理由を聞く事が出来た。いくつかの事柄が腑に落ちると、海夢は木綿季の耳元で尋ねた。
「……木綿季……君は……本当はどう思ってるの」
木綿季は更に強く服を掴み、首を横に振った。
「……いやだ……死ぬのいやだ……死にたくない! ボク、海夢ともっと一緒に居たい……海夢と一緒に暮らしたい! 海夢ともっと、ずっと、一緒に居たい……ずっとずっと、一緒に生きていたい……ボク……ボク……」
木綿季は、海夢の胸の中に顔を埋めた。
「ボクも……海夢の事、好き……かいむ……だいすき……!!」
その言葉を皮切りに、木綿季は大きな声を出して泣き始めた。
第四章、いよいよ終盤へ。