ちょっと遅くなってしまいましたが、アイングラウンド編第四章第十三話、どうぞ。
「新型ウイルスに対抗できる術は今のところない。抗体もないし、ましてや新薬から生まれたから新薬は効かない。
まだ私が勝手に考えている段階だけど……木綿季ちゃんの身体は……罪のない人だろうと無差別に殺す、最悪のウイルスの苗床になろうとしているかもしれないの。いずれにしても、今後の結果によって、木綿季ちゃんをもっと深いところに隔離しなければいけない」
治美先生にそう言われた途端、身体が凍り付いたような気がした。身体だけじゃない、感覚も、時間さえも凍り付いてしまったかのように、何が起きたかわからなかった。治美先生が何を言ったのかさえ、わからなくなりそうなのに、何故かその内容はわかって仕方がなかった。
木綿季の身体の中に未知の性質を持ったウイルスが誕生している。それはHIVと似たような性質を持っているけれど、感染経路がわかっていない。しかしその感染経路がHIVと違って木綿季の粘膜の中などに存在し、飛沫感染を引き起こせるようになっているというのであれば、最悪どころではない。
木綿季は殺人ウイルスの苗床になり、木綿季から最悪の
「隔離……木綿季が、ウイルスの苗床……?」
自分でも驚くくらいに絞り出したような声だった。でも、今のぼくに出せる声はこれが限界だった。ぼくに続くように、明日奈がもう一度治美先生に言う。
「それじゃあ、木綿季は、木綿季はこれからどうなって……」
治美先生は顔を伏せていた。もう何も言いたくなさそうだったけれど、そうはいかない。
「……詳しい事はまだ調べてみないとわからない。ウイルスの詳しい性質も、まだわかっていないの。けれど、木綿季ちゃんの身体は新型ウイルスに蝕まれて行っている。木綿季ちゃんの生命は……せいぜい持って後二ヵ月くらい……今のところ、対抗手段は何もないもの……」
やはり木綿季の命が二ヵ月後に無くなる事は確定しているようだった。せっかく生き永らえたと思われていた生命は、それを取りやめにされた。治美先生も倉橋先生も、悲しさと悔しさを隠せない様子だったが、ぼくはそこまで気にしている余裕がなかった。
「……木綿季くんですが、私達もすでに、彼女をより深いところへの隔離をするべきと考えています。木綿季くん自身のウイルス感染もそうですが……」
倉橋先生が治美先生のように顔を伏せながら言った。倉橋先生も治美先生も、木綿季を深いところへの隔離を認めている。
無防備にされてしまった木綿季をウイルスや細菌の群れから守るためじゃなく、木綿季の体内で増殖する凶悪なウイルスから、人々を守るため。
木綿季を守るためじゃない。木綿季の体内のウイルスから大衆を守るために、木綿季を隔離する。
怒りも悲しさも何もない。ただ空虚な気持ちだけが胸の中で渦を巻いていた。その中で、ただ一つだけ疑問が存在していて、不思議な事に、ぼくはそれを口に出来た。
「……この事は木綿季は知ってるんですか。木綿季に教えるんですか」
「いいえ、さっきも言ったでしょう。木綿季ちゃんの意識は今閉ざさせてるって……」
『――む――――――――――かい――む――――』
その時、どこからともなく声がした。それはあまりに小さいものだったけれど、ぼくはしかと聞き取る事が出来てしまった。確かにぼくを呼んでいる声。しかしその発生源までもを突き止める事は出来なかった。
「え?」
『――かいむ……かいむ、海夢』
今度はぼく以外のこの場の人物も聞き取れたらしく、全員が驚いたような顔をしていた。そしてぼくは声の発生源を突き止める事に成功する。それはぼくが肩からぶら下げている大き目のバッグの中。
ジッパーを開けてみればきちんと並んだ教科書の奥に、丸い装置。現実世界での木綿季の目と耳であるプローブだった。今日、一度も使う事の無かったその装置の電源ランプは今、赤く光っていた。
気付いた直後に、プローブのスピーカーから声がした。
『……海夢』
「ゆ、木綿季……!?」
ぼくは驚いて、プローブをバッグの中から引き抜いた。
三人もひどく驚いているようだ。実はこのプローブには、木綿季がメディキュボイドの中で操作する事によって、電源を入れられるようになっている。プローブのバッテリーが十分に残っているという条件こそあるが、それさえ満たしていれば、木綿季は好き勝手にプローブの電源を付けたり消したりできる。
いつでもプローブが映し出しているモノを見る事が出来るのだ。
「木綿季ちゃん!?」
「木綿季くん、どうして!?」
治美先生も倉橋先生も驚きを隠せない。
今、木綿季はメディキュボイドの中で意識を封じられているはずだ。それは木綿季の意思に関係なく、メディキュボイドの操作者によって起きているものであるから、木綿季が自分で解く事は出来ない。
木綿季は今、プローブを動かせるわけがないのに、どうしてプローブは動き、その中に木綿季がいるというのか。
その事を聞こうとする前に、治美先生が懐から携帯電話を取り出して通話を開始した。院内連絡専用の携帯電話だった。
「はい、狐灰です。あの、木綿季ちゃんは今……え、意識の封鎖を解除!?」
どうやらメディキュボイド操作者からの連絡のようだ。驚きながら、ぼく達はそれを聞き続ける。
「どうしてそんな……木綿季ちゃんはまだ調査中で、意識があると駄目で……え、木綿季ちゃんの心拍数に異常? それも精神由来のもので? メディキュボイドで意識を封鎖しているのに、そんな事が?」
治美先生が話しているところを、倉橋先生はじっと見ているだけだった。とても唖然としてしまっている様子だった。ぼくも明日奈も同じような状態だったけれど、そこに木綿季の声が届けられてきた。
『海夢、明日奈……何の、何の話をしてたの』
「……!」
『今、ボクが死ぬとか、ボクが助からないとか、そんな話してなかった? それで海夢、すごく声張り上げて怒ってたよね?』
ぼくは声を出せなくなった。ぼくが治美先生と倉橋先生に怒鳴っていたのを、木綿季は全部聞いていた。あの時既に木綿季はプローブの電源を入れて、話を盗み聞きしていたのだ。一番聞かれたくなかった話を、よりによって全部。
『それに、なんでボクのメディキュボイドの操作が勝手にされてるの? そんな事ほとんどなかったのに、なんでこんな事になってるの。治美先生、ボクはどうなってるの』
プローブのカメラ――木綿季の目は治美先生に向けられていた。しかし治美先生は答えずに、携帯電話の向こうの相手と話し続けていた。
「なんで木綿季ちゃんの意識が……悪夢のせい? 木綿季ちゃんが悪夢を見ていた? それでウイルスの様子は……今のところそうなのね……増殖箇所は――」
『ウイルス? 増殖? え、治美先生、何の話してるんですか』
木綿季の声に焦りと戸惑いが混ざっている。
治美先生の話を聞くには、どうやらメディキュボイドで意識を封鎖しているにも関わらず、木綿季の意識を由来とする何かが起こり、意識の封鎖を解除する事になったようだ。
そしてプローブには高感度マイクが装備されているので、治美先生の会話など丸聞こえだ。治美先生からの返答を得られずに戸惑う木綿季に、明日奈が声をかける。
「ゆ、木綿季、あのね」
カメラは素早く明日奈の方に向けられた。その声に木綿季は割って入る。
『明日奈、明日奈達は何の話をしてるの。ウイルスとか、助かる助からないとか、何の事なの?』
明日奈は言葉を詰まらせる。あんな真実を木綿季に告げる事など、彼女にできるわけがない。――当然、ぼくもそうだ。いつもはあん何気軽に話しているというのに、今の木綿季には何を言ったらいいのか全く分からない。倉橋先生も同じ様子だ。
皆で黙り込んだその時、ひときわ大きな声がプローブから発せられた。
『黙ってないでよ! 黙ってないで何か言ってよ!! みんなして、みんなしてなんなの!!?』
明らかに木綿季らしさを掻いていた。ぼく達のあの話を聞いてしまったのだ。木綿季もいつもの木綿季らしくいられるわけがない。そして最悪な事に、彼女は自分自身の中で起こっている最悪の事態を詳しく知ろうとしていた。
それを話すべきなのは誰なのか。
ぼくか。
明日奈か。
治美先生か、倉橋先生か。
誰も木綿季に真実を話そうとしなかった。いつもなら、そんな大きな声を出すんじゃないと叱らなきゃいけないぼくも、口にチャックをされてしまったように声を出せなかった。声を発せているのは木綿季だけだ。その木綿季の焦りと怒りはぼく達の沈黙によって増長したらしく、プローブから更に大きな声を出してきた。
『なんなんだよ、みんなは何の話をしてたんだよ――』
「木綿季ちゃん!!」
割って入ったのは治美先生だった。ぼくを止めた時と全く同じ勢いで木綿季に大声で呼びかけた。プローブの高感度マイクはそれをしっかり拾ってくれたらしく、木綿季は怒鳴るのをやめた。
「木綿季ちゃん……今、私達があなた抜きで大事な話をしていたのはわかるのね」
プローブから返事があった。木綿季の声は格段に小さくなっていた。
『……何の話してたんですか』
「それを今から具体的に話すわ。これはあなたも理解しないといけない話、教えないでいるわけにはいかないの」
ぼくと明日奈は並んで驚く。あの話を木綿季に聞かせるつもりか。木綿季に告げるにはあまりに残酷すぎる現実を、突き付けるというのか。そんな事をしたら木綿季がどうなるか、想像できないわけがない。
あれは木綿季に話すべき事じゃない――同じ事を思ったのだろう、明日奈が治美先生を止めに掛かるが、治美先生は顔を上げて明日奈を見つめた。そして何も言わずに首を横に振った。
医者として、この事実を患者に隠しておくわけにはいかない――あまりの短時間で固められたであろう治美先生の決意が見えた気がして、明日奈もぼくも黙るしかなくなった。
そして治美先生は、木綿季に真実を告げた。ぼく達に話して、何もかも信じられなくさせた話を木綿季にした。木綿季は一切声を出さずに聞いていたが、治美先生が話を終えた時、漏らすように声を出した。
『ボクの身体に……新種のウイルス……? 新薬が……変異して……それで……ボクの身体……壊されて……る……?』
一つ一つ確認するように、木綿季はか細い声を出していた。本当はどれも否定してやりたいけれども、全てが事実だから否定のしようがない。治美先生の話を聞いている倉橋先生も顔を伏せたまま、何も言い出せない。
「ええ……どうしてこうなったかは私達にもよくわからない。まだ調べている途中なの。このウイルスの性質自体も調べてる途中……けれど、このまま何も対策しないで居たら、木綿季ちゃんはエイズに逆戻りして……そして……」
『……死んじゃう……?』
治美先生は唇を噛んだ。今思えば、治美先生はぼくとおねえちゃんと、木綿季をずっと診てきている。特におねえちゃんを助けられなかったという事もあってか、木綿季の治療に関しては大きな熱が入っているように見えたし、木綿季自身にも特別な感情というモノを持って接しているような節もあった。
もう少しで治ると思ったのに、メディキュボイドの中から解き放ってあげられると思ったのに。そんな悔しい思いを誰よりもしているのは、もしかしたら治美先生自身かもしれない。
「木綿季ちゃんの身体は……持って後、二ヵ月くらいよ」
一度木綿季は余命一年未満と言われた。本人もそれを自覚して、覚悟をしていたらしいけれども、新薬の登場でその必要は一切なくなった。余命一年未満どころか、余命普通の人の寿命と同じくらいになった木綿季は、その時覚悟も決意も全部捨てた。
そんな死への覚悟や決意なんてものを抱いて生きていく必要なんかない――心も胸も身体も軽くして、本当に妖精のように軽やかな気持ちで、でありながらも強く意志を持って、今日まで生きてきた。
その強さと軽やかさがあったからこそ、彼女はぼくの家に行く事も拒まなければ、自らぼくの家の神社の巫女に志願もしたのだろう。
そんな木綿季に今更、「お前はやっぱり助からないから死ぬ覚悟をしろ」、「捨てた決意と覚悟をもう一回拾ってこい」など、無茶苦茶にも程がある。
『……嘘だったんですか。ボクが助かるって話は』
木綿季とは思えないような声色に、ぼくと明日奈はまた驚く。木綿季の声は続いた。
『ボクは助かるって言ってたじゃないですか。ボクは死なないって、言ってたじゃないですか。アレは全部、嘘だったんですか』
ぼくも明日奈も反論できない。が、意外にも反論した人物はいた。倉橋先生だった。
「……嘘ではありません。私達は木綿季くんに嘘を言ったわけではありません。ですが、私達としてもあまりに想定外な出来事です。木綿季くんの体内で新種のウイルスが発見されて、それが増殖しているなど……」
倉橋先生の言っている事はもっともだ。誰もこんな現実を目の当たりにするなど、予想していなかった。ウイルス学の専門家である治美先生さえも予想していなかったから、こんな状態になっているのだ。
『それだけじゃない。治美先生、ボクのそのウイルスは、感染力が強いかもしれないって……』
「それはあくまで私が勝手に考えている事よ。本当の事かどうかは、まだわかっていないの。あくまで可能性があるっていうだけであって……真実ではないわ」
そう、あまりに何もわかっていない。どうしてウイルスが変異したのかもわからないし、どんな性質を持っているかもわからない。そのウイルスが本当に木綿季を殺すかどうかもわからない――そうとも思いたいけれども、木綿季をウイルスが殺す事だけは確定している。
そこで木綿季はついに黙った。次に出す言葉は、ぼくも明日奈も思い付けない。先程からぼく達は黙りっぱなしで、喋っているのは木綿季と治美先生だけだ。黙る事をする気配のない治美先生は、木綿季に続けた。
「……だけどね、木綿季ちゃん。私は諦めるつもりはないわ。必ず木綿季ちゃんの体の中のウイルスに対抗する手段を見つける。あなたを死なせない。あなたを無事に海夢くんのところへ行かせてあげるわ。木綿季ちゃん、海夢くんと家族になって、海夢くんの家の神社の巫女さんになるんでしょう。だから――」
そう言う治美先生には確かな意思の強さがあった。治美先生は木綿季を治すつもりでいる。今度こそ必ず助け出す。あのときのような事はもう起こさない。絶対に助け出す。そう思って木綿季に言っているのは、間違いないようだった。もしかしたら、木綿季と自分を元気付けるためというのもあるのかもしれないけれど、そこには確かな強さが感じられた。
『……無理に決まってますよ、そんなの』
「……え」
プローブからの声に唖然としてしまったように、治美先生は言葉を紡ぐのを止めた。プローブからの声は続いた。
『二ヶ月しか時間がないんでしょう。たった二ヶ月でそんな事出来るわけないじゃないですか。たった二ヶ月で新種のウイルスを倒す方法を見つけるなんて、無理ですよ』
その場の全員が言葉を失っていた。今、ぼく達をそうさせるような言葉を告げているのは他でもない、木綿季。どんな逆境に曝されようが、どんなにウイルスや人間に虐げられようが前を向き、元気で、明るく居続け、弱音なんて決して吐かなかったはずの彼女が、信じられないような言葉を口にしている。
『……それに、そもそもボクをそんな長期間生かしておいていいんですか。ボクは、生きた大量破壊兵器とか、無差別殺戮兵器とかそういうのじゃないですか。殺人ウイルスを生むモノなんですよ。そんなに危険なモノを二ヶ月も生かしておくなんて事を、するつもりなんですか』
木綿季は淡々としていた。いつもの活気やら元気さやらはどこにもない。明るさも何もない声だった。
木綿季は何度も心が折れるような場面に直面してきた。しかし彼女は元気であろうとし続けた。明るく振る舞い続けた。きっと、そうしなければ簡単に心が折れてしまうという事を自覚していたからかもしれない。
だけど、元気であり続ける事で、いつしかそれが彼女のデフォルトになり、彼女らしさになった。その彼女らしさは、彼女の心を決して折れる事のないモノへと進化させた。だから彼女の心は折れず、荒まず、ここまで来れたのだ。そうだから、皆誰もが木綿季の事が好きだった。
明るくて優しくて暖かい、太陽のような木綿季が、皆大好きだった。
だが、そんな木綿季に告げられたのは、自分が死ぬだけじゃなく、自分からすべての人類を殺し尽くすかもしれないウイルスが拡散されようとしているという、無茶苦茶にも程がある現実。大好きな人達から、手始めと言わんばかりに死んでいくかもしれないという最悪の未来予想図。
この現実は、固く守られていた木綿季の心を、ついにへし折ったのだ。
『治美先生だって、本当はボクを隔離しなきゃって思ってるんでしょう。倉橋先生だって、ボクは本当に危ない存在だって、本当はそう思ってるんでしょ』
折れてしまった木綿季の心から、今の言葉は出てきているに違いない。元気さと明るさに追いやられ、奥底に眠っていたモノが目を覚まして、ぼく達に姿を見せつけている。ぼくも知らなかった姿の木綿季に誰もが絶句するしかなかったが、そこで意外にもそうならなかったのは明日奈だった。
「そんな事ない。そんな事ないよ木綿季! 二人は木綿季の身体をまだ治そうと思ってるんだよ。木綿季の事を本当に――」
『――ボクは』
なんとか落ち着かせようとする明日奈の言葉すら、木綿季は遮った。
『ボクはなんで生きてるんだろうって、悩んでた。最初から病気してて、周りの人達に散々迷惑かけて、薬も機械も全部無駄にして、何も産み出せないで、何も誰かに与えられないで、結局死んでいく。どうせ死ぬしかないのに、なんで生きてるんだろうって……本当は生きてちゃ駄目なんじゃないかって……』
ほとんどというか自分語りだった。一緒に過ごしてきて長いけれど、木綿季の自分語りは初めて聞いたかもしれない。
『でも、新薬で病気を治されてから、海夢に助けられてから、わかった気がしてた。ボクでも生きてていいんだって。ボクにも生きる意味があるから、ボクは新薬が間に合ったんだって。海夢が助けてくれたんだって。全部、ボクが生きる事に意味があるから起きた事だって……そう思ってた』
木綿季のか細くもはっきりした声が、一際はっきりと聞こえた。
『でも、結局ボクが生きる意味なんてなかったんだ』
木綿季の声はプローブを通じてしっかりとぼく達の耳に届いてきた。これまでの木綿季が決して抱く事のなかった、諦めの色がしっかりとついていた。その諦めに、明日奈がもう一度反論を試みる。
「木綿季……そんな事ない。そんなの違う――」
『違わないよッ!!!』
プローブのスピーカーは音割れを起こしていた。それだけの音量で木綿季は、叫んでいた。その叫びに、今度こそ全員で言葉を失う。どこまでも重い沈黙が落ちる部屋のなか、木綿季の声は続いた。か細く、小さな声だった。
『……もう……いやだ、よ……こんなの、もういやだ……』
その言葉を最後に、木綿季の声は止まった。確認してみると、プローブの電源が落ちていた。木綿季が遠隔操作でプローブの電源を落としたらしい。しかし、ぼくは何も気にする気にならなかった。
部屋のなかは、ただただ沈黙に包まれていた。
「……木綿季ッ……」
明日奈が口を押さえて泣いている。ぼくはその背中を撫でてやる事も出来ない。頭が痺れたようになって身動きがとれないのだ。
それだけじゃなく、そもそもぼくがやるよりも、彼女の息子であるユピテルにやらせた方がいいというのもわかっていたからだ。だけど、ユピテルも仮想世界にしかいないから、今の彼女に何かをしてあげる事も出来ない。
そして倉橋先生と治美先生も俯いたまま、何も言い出す気配を見せなかった。
色々な事が重なりすぎている。新型ウイルスの発見、感染力と感染性の調査、二ヶ月以内に対処方法を見つけなければいけない状況、そして心が折れて
もう、何から手を付けたらいいのかわからない。ぼくも、何から考えて何を行動すればいいか、さっぱりだった。
そんな状況下で行動を起こしたのは治美先生で、いつのまにか操作を加えていた携帯電話を、ゆっくりと耳元に近付けていった。
「……患者の状態が落ち着いたはずよ。もう一度彼女の意識の封鎖を……」
直後、治美先生は驚いたように顔を上げた、
「え? 居ない? 彼女がメディキュボイドのなかにいない!?」
その言葉にぼく達も思わず反応する。治美先生は焦った様子で携帯電話に話しかけ続けた。
「どういう事なの。VRMMOのなかに行った? ソフトは……ソードアート・オリジン? それなら早く呼び戻して――え、応じないの!?」
焦る治美先生を、ぼく達は見ているしかなかった。一体何が起きているというのだろう。すぐ近くにこうしているというのに、どこか遠くから眺めているようだった。
しかしその直後、ぼくはこの場に意識を持ってこさせれるような出来事に遭遇する事になった。懐のスマートフォンが大きな音をたてたのだ。驚きながら取り出してみると、スマートフォンは着信を受けていた。
ディスプレイに名前が表示されているが、その名前にぼくはもう一度驚く。
こんな時間に彼女が電話してくるなんて、本当に何なんだろう。そう思いながら、ぼくはスマートフォンの通話開始をクリックし、耳元に近付けた。聞き覚えのある声が聞こえてきた。
《海夢、海夢ですか?》
「施恩……こんな時間にどうかしたの」
《大変なんです!》
施恩もひどく焦っている様子で、ぼくに言った。
《スリーピング・ナイツの名簿と、私達のフレンドリストから――ユウキの名前が消えたんです!》
折れてしまった、絶剣の心。
――
《ザ・シード・ネクサス》なんてものがフェイタルバレットに登場したわけだけど、この作品でそんなものを利用するのが居るのだとしたら、それは誰だろうか。