キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 カイムパート。

 カイムの事がよくわかるかもしれない、第四章第四話。




04:現在と追想の中で

         ■■■

 

 

 スリーピング・ナイツの皆の《SA:O》参加を見届けた後。ぼくとユウキはログアウトする羽目になった。ユウキ/木綿季の検診がある事を木綿季自身がすっぽかしてしまっていたのだ。

 

 木綿季はこれでも検診の日にちを忘れたりする事が多く、予定管理が甘い傾向にある。だから代わりに傍に居るぼくが予定表を作っておき、木綿季が忘れている場合にはぼくが教えるようにしている。

 

 けれど今日に限ってはぼくもまた、木綿季の検診がある事を忘れてしまっていた。スリーピング・ナイツの皆と《SA:O》で会い、一緒に遊べるというのが嬉しくて、大切な検診の事が頭の中からすっかり消えてしまっていた。木綿季だけが悪いわけじゃない。ぼくも悪かった。

 

 だけど、こういう事があっても怒ったりしないのがスリーピング・ナイツの皆であるという事も、ぼくは良く理解している。今回もそのとおりで、皆は予定を取りやめてしまったぼく達を笑顔で送り出してくれた。

 

 夜には合流すると言っておいたから、夜になったら皆に何かご馳走したりしてあげないといけないだろう。

 

 

 そうしてログアウトしたぼくは、木綿季の目と耳になっている機械をバッグに入れて家を出た。普段は肩に乗せて歩くけれども、今の木綿季と機械は繋がっていないから、乗せていても意味がなかったのだ。

 

 街の中へ差し掛かると、人の数が一気に増えた。休みという事もあって混んでいるようだ。人が森の木々のようになって視界を塞いでくる。だから人混みは嫌いだ。

 

 車道方面を見てみれば多少人の数が減るけれども、それでも車道の近くを歩くのは嫌だった。人混みも嫌いだけど、走る車も嫌いだし苦手だ。仕方なく、ぼくは人混みの中に混ざって、歩道の真ん中を歩いて駅に向かった。

 

 家から最も近いところにある駅だけど、家の場所が繁華街から離れたところだから、歩いて十五分くらいかかる。それでも通い慣れた道だから、迷う事はない。街中よりかは少ないけれども、混んでいる電車に乗って駅をいくつも乗り継いでいく。

 

 

 出発から一時間半近く、電車と徒歩の旅を繰り返したぼくは、目的地に辿り着いた。

 

 神奈川県横浜市都筑区にある、横浜港北総合病院。

 

 

 それほどの高さはないけれども、かなり横に長い設計になっている建物。病院らしい清潔感のある白い外壁のその建物は、ぼくはすっかり見慣れていた。

 

 でも、良い思い出があるわけじゃないから、来るたびに溜息が出るし、脚も重くなる。出来る事なら行きたくないけれども、行くしかないのが現状だった。

 

 物自体が新しいのだろう、綺麗なガラスの二重ドアをくぐってエントランスに入ると、病院らしい消毒の匂いが鼻に流れてきた。嗅ぎ慣れているつもりだけれども、この匂いを嗅ぐと胸が少し締め付けられるような気がする。

 

 周りには車椅子に乗った若い人や、小さな赤ちゃんを抱いた母親と思わしき女性の姿がある。その人達の間を縫って進んでいき、面会受付カウンターで手続きをする。面会相手の名前は二人。どちらも書き慣れているから、すんなりと書き上げる事が出来た。

 

 その面会相手のうちの一人の名前を受付の看護師が口にすると、受付の奥の方から一人の女性医師が歩いてきた。ぼくを目的地まで案内してくれるらしく、ぼくが行くべき場所を言って、そこへ向かって歩き出す。

 

 

 中央棟最上階、《メディキュボイド臨床室》。

 

 

 何度も立ち寄っているから、自分の足でもそこまで行けるけれど、目的の部屋は病院のスタッフの人達しか立ち入りが出来ないようになっているから、結局病院の人達の協力がいる。だからぼくは渋々先頭を歩く女性医師の後をついていき続けた。

 

 エレベーターで上がっていって最上階へ向かうと、《スタッフオンリー》と書かれた扉があった。その扉の傍らに設置された装置に医師がカードをかざすと、ボス部屋のそれのように扉は開かれた。

 

 ぼく自身ここには何度も来ているから、迷う事なく目的の場所まで行ける。けれどやっぱりこの奥も病院関係者以外通れない扉があるから、結局女性医師の先導は必要だった。

 

 下層と違ってつるつるとした白いパネルに覆われた通路。窓がなく、照明の光だけに照らされている廊下。光がなく慣れば一気に闇のなかに落ちるのだろうけれど、そんな事がないのもわかりきっている。それくらいぼくはここを知っているのだ。

 

 普通の人はここを通り慣れるなんて事はないだろうけれども、ぼくは一年のうちに何度も来た事があったから、すっかり通り慣れてしまっている。いずれもいい思い出がある訳じゃないけれども。

 

 

 そんな事を考えているうちに、女性医師とぼくの前に一際大きな扉が姿を現した。第一特殊計測機器室と書かれている、なんだか妙な堅さを感じさせる扉だった。その脇に設置されている機器に医師がカードをかざすと、扉はゆっくりと開いた。そこからはぼく一人でいいという事を話され、ぼくは一人で奥に向かった。無機質なタイルが構成する廊下を歩いていくと、話し声が聞こえてくるようになった。

 

 

「容態だけど……えぇ、良好。ちょっとずつ快方へ向かっているわ。……そうね、少し他の患者と比べて遅い方だけど、それでも良くなってる」

 

「もう少しという事に変わりはありません。もうすぐここから出られます」

 

 

 女性と男性の話し声だった。ぼくはこの声の持ち主と話をした事がある。この女性の方がぼくをここへ呼んだのだ。廊下の奥に人影が見えてきた。もう具体的な形がわかる。長い黒髪をぼくと同じように一本結びにしていて、医者らしい白衣を着ている女性と、若干体格のいい小柄な男性医師だ。二人は近付くぼくにすぐに気付き、顔を向けてきた。

 

 

「「海夢くん」」

 

 

 二人は見事にハモっていた。ぼくは二人に近付き、すぐ目の前にまで行った。二人のうちの女性の方は、少し嬉しそうにぼくの事を見ていた。

 

 

「倉橋先生、治美(なおみ)先生」

 

 

 男性医師は倉橋先生だ。この病院の常勤医で、メディキュボイドの運用を受け持っている内科医。年齢は聞いた事がないけど、きっと三十代だろう。声と同じで見慣れた顔だ。

 

 

「来てくれてありがとう、海夢くん」

 

 

 もう一人、女性医師にぼくは頷きで答える。

 

 治美先生――フルネームで狐灰(こはい)治美(なおみ)という彼女は、ウイルス学、ウイルス治療の専門家。高度な研究技術を持ち合わせている事から、世界中で引っ張りだこの先生だ。本来狐灰先生と呼びべきなのだが、どうも名前で呼ばれる方がいいらしく、ぼくは治美先生と呼んでいる。

 

 そしてこの治美先生こそが、ここにぼくを呼んだ張本人だった。この治美先生は――。

 

 

『あっ、来た来た。いらっしゃい、海夢』

 

 

 部屋の奥の方からまた声がした。三人で一緒に向き直ると、そこには頑丈なガラスで隔てられた部屋があった。

 

 清潔感以外何も感じないようなその部屋は様々な機械が置かれている。背の高さがまちまちな四角形の箱のような機械達。その中に紛れて、部屋の中央にはジェルベッドが置かれていた。その上に横たわる小さな人影が認められる。人影の正体は女の子だった。

 

 胸元まで分厚い白いシーツがかけられているけれども、覗いている方の周辺はほとんど肉がないと思えるくらいに痩せている。そこから上を見れば頭があるけれど、顔は見えない。ベッドと一体化している巨大な機械の一部が、女の子の顔に覆いかぶさっているのが原因だった。

 

 そうじゃないという事はよく理解しているけれども、まるで女の子が大きな機械に呑み込まれてしまっているようにも見えた。

 

 

 そんな機械の上部にはモニタとカメラがあり、じっくり見るとカメラのレンズがジリジリと動いているのがわかる。こちら側の部屋の中には大きな機械と接続されたスピーカーがあり、声はそこから聞こえてきていた。

 

 機械に呑まれているような女の子の姿を見ていると、大きな溜息が出た。スピーカーには驚くくらいに高感度なマイクが内蔵されているので、ぼく達の声も既に採られて、送られている。

 

 ぼくの溜息も採れたんだろう、声が返ってきた。

 

 

『どうしたの海夢。溜息なんか吐いて。もしかしてここに来るまでに疲れちゃった?』

 

「まぁ疲れはしたよ。お昼ご飯も食べないで来たし。でも、それだけじゃないんだ。こうして君を間近で見られて、安心したんだ」

 

 

 安堵の声がスピーカーから帰ってくる。

 

 

『そっか。そういえば海夢がここに来るの、一ヵ月ぶりくらいだもんね』

 

「そうそう。だから疲れはしたよ。ここに来る事は予定に入れてなかったから」

 

『治美先生が教えてくれなかったら、ボク達今頃《SA:O》だったもんね』

 

「そうだね。とりあえず何もないみたいで何よりだよ、木綿季」

 

 

 スピーカーから「えへへ」という聞き慣れた声がした。いつもは和人達の作ってくれた機械の中に納まっている紺野木綿季は今、目の前の大きな機械――メディキュボイドの中に帰ってきていた。いや、正確に言えばこのメディキュボイドこそが木綿季の本来の居場所である。

 

 そしてメディキュボイドに接続されている女の子こそが、紺野木綿季その人だ。

 

 その木綿季の担当医である倉橋先生と治美先生に、ぼくはもう一度向き直る。直後に声をかけてきたのは、治美先生だった。

 

 

「海夢くん、相変わらず木綿季ちゃんと仲が良いのね」

 

「はい。それで治美先生、倉橋先生。木綿季の容態は今、どうなんですか」

 

「その事をお話ししましょう。どうぞ、かけていってください」

 

 

 倉橋先生の案内を受けて、ぼくは部屋の中にある簡易面談スペースに行き、椅子に腰を掛けた。

 

 本来ならば外にあるラウンジなんかで話をするものだけれど、ここで話をするという事は、木綿季も交える必要のある話だ。木綿季も交えた、ぼく達だけの会話――。

 

 

 ぼくが座ると、前の方に治美先生が座り、その隣に倉橋先生が座る。木綿季は奥にいるけれど、ぼく達にとってはぼくの隣に居るように感じられた。

 

 

「治美先生、木綿季は」

 

「そうだったわね。あなたがここに向かってきている間に、木綿季ちゃんの身体の検査をしたの。それで木綿季ちゃんの容態だけれども……快方に向かっていってるわ。効き目はしっかり出てる。何も問題はないわ」

 

「《新薬》を投与された他の患者の人達と比べるとやはり遅いですが、木綿季君の身体は徐々に元に戻って行っています。これならば年内にはメディキュボイドを外して、外に出る事が出来るでしょう」

 

「『本当ですか!?』」

 

 

 倉橋先生の言葉に二人でハモって言った。あの機械の中から出るのは木綿季の、そしてぼくの、一番大きな願いだった。それが叶いそうなんだから、喜ばずにはいられなかった。

 

 この事が嬉しいのはぼく達だけじゃなく治美先生もそうだったようで、同じように喜んでいるような笑顔をしていた。

 

 

「えぇ。ようやく木綿季ちゃんは外に出る事が出来るの。これは他の病院の医師達の間でも言われている。これまでこんな事はありえなかったし、せいぜい医者達の願望みたいなものだったけれど……それは現実になったわ」

 

「《新薬》は本当にすごいものですよ。なんていったって、これまで不可能とされていた事を可能にしてしまうものなのですから。《新薬》の基礎となるモノが見つかって、実際に《新薬》の効能が確認できた時の医学界の喜びと驚きの様は忘れられません。《新薬》の存在は魔法が現実になったようなものでしたからね」

 

 

 妙に熱が入り出した倉橋先生。その話の中に出てきている《新薬》という言葉を聞いた途端、ぼくは前を見ている事が出来なくなった。頭が一気に重くなって、胸が抑えつけられるように苦しくなり、俯く事しか出来ない。

 

 どれも本当にそう感じているんじゃない。身体に異変はないけれども、《新薬》の話をされると、とにかく気持ちが沈んで仕方がない。

 

 

「この《新薬》を齎してくれた海夢くんは、医学界ではまさに英雄(ヒーロー)と呼ぶべきだと――」

 

「倉橋先生」

 

 

 熱弁が止まらなくなりそうになっていた倉橋先生を、治美先生が宥めた。倉橋先生は俯いているぼくを目に入れて、みるみるうちに顔をすまなそうなものへ変えていった。

 

 《新薬》。その話に倉橋先生のような医師達が熱くなってしまうというのはわかる。《新薬》は普通に治すのは難しいうえに、場合によって致死率が高くなってしまう、恐ろしいモノであった事に変わりのなかったとある病気を、難しい治療方法を一切使わずに治してしまう、魔法の薬ようなものなのだから。

 

 この《新薬》が完成した時には――まだ《壊り逃げ男》の活動が本格化していなかった事もあって――ニュース番組が、新聞が、ニュースサイトが一気にこの《新薬》の話で埋め尽くされた。《新薬》は世界的大発見、人類の新たな希望なんて大袈裟に言われるくらいのものだったのだ。

 

 

「……」

 

「海夢くん……」

 

『海夢……』

 

 

 治美先生と木綿季が心配そうな声で呼んでいる。ぼくが拳を力強く握っているからだろう。ぼくが怒っているように、泣き出してしまいそうに見えるのかもしれない。そういう事を思ってくれたのだろう、治美先生はぼくの肩に手を伸ばしてきた。

 

 

「……そうね。海夢くんにとっては、《新薬》の存在はずっと引きずってしまうモノ、ね……」

 

 

 ぼくは頷いた。倉橋先生のか細い声が聞こえる。

 

 

「海夢くん……どうか受け入れてくれませんか。海夢くんのおかげで作れた《新薬》は、確かにたくさんの人々の命を救っているのです。《新薬》に救われた人々は、君に救われた人々なのです。だから、その……」

 

「わかってます。《新薬》は沢山の人達を助けてます。木綿季もそれで助かったんです。それは、わかってます……」

 

 

 沢山の人々を、とある病気から救った《新薬》。木綿季さえも助けてくれたその存在の事を、神様が作ってくれたものなんじゃないかって思う事もあった。神様が力を振るうために、《新薬》になったんじゃないかと思ったりもした。

 

 でもぼくはこの《新薬》が嫌いだった。

 

 《新薬》は、神様は、沢山の人々を救うくせに――

 

 

 ぼくの大切な人で、大好きだったおねえちゃんは、救ってくれなかったのだ。

 

 

 

 

 

           ■■■

 

 

 

 

 

 ぼくの家は、白嶺神社という神社の家系だ。

 

 

 京都に本家を置くそこは、京都の中でもかなり大きな神社で、伊勢神宮とかとほぼ同年代から続いていると言われている、とてつもなく長い歴史を生き延びてきたところだった。

 

 そんな白嶺神社の長男であるおとうさんは、おかあさんと結婚して埼玉に移り住んでも、京都に単身赴任していた。帰ってくるのは土日の間だけ。日曜日の午後にはまた京都に行ってしまう生活をしていた。

 

 おかあさんは観光や旅行を取り扱う雑誌の編集者で、仕事の関係で深夜に帰ってくる事ばかりだった。古い時代から続いている神社、周辺施設の経営をやってるおとうさんと、おかあさんの収入はとてもよく、ぼくの家にはたくさんのお金があった。

 

 でも、その引き換えのようにおとうさんとおかあさんは家にいなかった。ぼくは一人ぼっちになる予定だった。しかしそうはならなかった。

 

 ぼくの家に両親はほとんどいなかったけれど、ぼくが生まれた時から、ぼくの傍に居てくれた人は居た。

 

 

 それが、ぼくのおねえちゃん――白嶺(しらみね)澪夢(れいむ)だった。

 

 

 おかあさんもおとうさんも家に居ないから、家の事をやるのはおねえちゃんだった。掃除も洗濯も料理も、ぼくが熱を出した時の看病も、全部おねえちゃんがやっていた。そのせいで全然自分の事なんかできなくて、普通の人なら怒りだしそうなものなのに、おねえちゃんは絶対に怒ったりしないで、いつも優しかった。

 

 休みの時は流石におかあさんがぼくの世話や面倒を見てくれたりしたけど、その時間は結局おねえちゃんよりも短かった。だから、ぼくにとってのおねえちゃんは、おかあさんも同然だった。おねえちゃんはぼくと六歳しか違わないのに、他の女の子達よりもずっとずっと大人だった。

 

 そんなおねえちゃんがずっと傍に居て、おかあさんと一緒になって育ててくれたおかげで、ぼくは周りの子達みたいに我儘を言ったり、駄々をこねたりしなかった。

 

 自分の名前である「かいむ」が言えるようになったくらいから、おねえちゃんを困らせたくない、おねえちゃんの助けになりたいと思うようになっていたのだ。だからぼくは、おねえちゃんの手伝いを率先してやった。洗濯、料理、掃除――一般的に家事と言われる事をするおねえちゃんを、手伝った。

 

 おねえちゃんは「海夢がやらないでもいいよ」って言っていたけれど、それでもぼくはおねえちゃんの手伝いを、教わりながらやるようになった。

 

 そのおかげでぼくは小学校二年生くらいになった時には、家中の洗濯も掃除も料理も出来るようになっていた。あまりによく出来るものだから、家庭科の時なんか先生が驚くくらいだった。元からぼくは勉強が得意な方だったけれど、家庭科はずば抜けていた。

 

 ぼくはそれが嬉しかった。ぼくがおねえちゃんと同じ事が出来るようになる事で、おねえちゃんの助けになれていたからだ。実際ぼくとおねえちゃんの二人で家事をする事で、いつもより早く、上手に終わらせる事も出来た。

 

 家事がいつもより早く終わったりすると、その度におねえちゃんはぼくを褒めてくれて、頭を撫でてくれたり、抱き締めてくれたりした。それが気持ちいいというのもあって、ぼくはおねえちゃんの手伝いをサボるような事はしなかったし、家事をすっぽかすような事もしなかった。

 

 おねえちゃんはぼくを心の底から可愛がっているようだった。だからぼくはおねえちゃんと喧嘩もしなかった。そもそも喧嘩したらおねえちゃんが困る事になる。

 

 ただでさえ家の事でいっぱいで、学校に帰ってくればすぐに家の事に取り掛かって、友達と遊ぶ事もしないおねえちゃんを困らせるのは、絶対に嫌だった。

 

 ぼくは早く大人になって、大きな身体になりたかった。大人になれば、もっと沢山おねえちゃんを助けてあげられると思っていたからだ。家の事とぼくの事でいっぱいいっぱいだったおねえちゃんに、今度こそ自由な時間をあげられると思ったから、ぼくは早く大人になりたいと、いつも思っていた。

 

 そんなふうにいつも過ごしていたある時。

 

 

 ぼくが十三歳になった頃だったーー。

 

 

 

 

          ■■■

 

 

 

「カイ」

 

 

 いつものように学校を終えて家に帰ってきて、制服から着替えてリビングにやって来ると、先客がいた。ぼくより勿論背が高くて、綺麗な黒髪をポニーテールにしている、女性大学生らしい格好をした女性。

 

 ぼくのおねえちゃんだ。

 

 

「あれ、おねえちゃん。今日は早かったんだね」

 

「えぇ、大学は結構時間に余裕があるの。今日はうんと早く終わったんだ」

 

 

 おねえちゃんはそう言って笑んだ。

 

 ぼくが中学生に上がった頃、おねえちゃんは大学生になった。元々勉強も得意で頭が良かったおねえちゃんは、東京にある大きくて有名な大学に合格して、そこに通っている。

 

 よくニュースでは地方から遥々上京してきた大学生の話が出てくるけれど、おねえちゃんはそうじゃなく、自宅から通学している。ぼく達の家は埼玉県川越市――東京まで行くのには三十分くらいしかかからないのだ。

 

 そんな大学生のおねえちゃんはソファから立ち上がると、ぼくのところへ歩み寄ってくる。

 

 

「……カイ、最近背、伸びた?」

 

 

 『カイ』はおねえちゃんがぼくを呼ぶときのあだ名だ。

 

 おねえちゃんはぼくが生まれた時から、ぼくをカイと呼んでいる。ちょっと子供っぽいあだ名だから、ぼくが小さいうち、もしくは小学校を卒業するまでそう呼ぶつもりかと思っていたけれど、中学生になってもおねえちゃんはぼくの呼び方を変えなかった。

 

 そしてぼくは、おねえちゃんの問いかけには首を横に振るしかなかった。

 

 

「全然伸びてない。ずっと変わらないみたい」

 

「やっぱりお医者さんに診てもらった方がいいかしらね。カイくらいの男の子は、もっと伸びてるもの」

 

 

 おねえちゃんは心配そうな顔をしている。

 

 ぼくの身長は今、百五十五センチで止まっている。十二歳になるまでは伸び続けていたけれど、それからずっと伸びないでいるのだ。

 

 小学校から一緒で、中学生になっても一緒の学校に通っている親友の桐ヶ谷(きりがや)和人(かずと)は、小学生低学年くらいの時には身長が同じくらいだったのに、今はぼくよりも大きい。それどころかぼくは声変わりさえも遅い。周りの男の子達が成長して大きくなっていくのに、ぼくだけ取り残されているようだ。

 

 ぼくが生まれた時から見てくれているおねえちゃんが心配するのは、当然だろう。

 

 

「なんか、成長しない病気とかかな……低身長病とか、小人病とか……」

 

 

「ここまで来ると可能性がないわけじゃなさそうね。今度の休みにでも、大きな病院に診てもらいに行った方が良いかも。休みならおとうさんとおかあさんもいるしね」

 

「そこって東京の病院?」

 

 

 おねえちゃんは首を横に振った。東京じゃない病院に行くつもりなの。

 

 

「東京っていうか、神奈川。横浜港北総合病院ってところがつい最近できたらしくて、ここがまた最先端の医療が揃ってるんだとか。行くならそういうところがいいじゃない」

 

 

 おねえちゃんの言っている病院は知っている。

 

 先々月辺りだっただろうか、神奈川県の横浜市に大きな病院がまた一つ建った。そこにはおねえちゃんの言うように最先端の医療機関が配備されていて、優秀なお医者さんが沢山在籍しているらしい。

 

 しかもその中には世界的に有名なウイルス学、ウイルス治療の専門家とされる先生もいるらしいのだ。

 

 そんな最先端の病院には、様々な病気の情報が集められているはず。おねえちゃんがそこに行こうとするのもわかるし、ぼくもかかるんならそこがいいと思う。

 

 

「そうだね。ぼくも診てもらうんなら、そういうところがいい」

 

「そうでしょ。土曜日になったらおとうさんとおかあさんに言ってみようよ。カイがチビなのは病気じゃないかって」

 

 

 ぼくは思わず「えっ」と言ってしまった。おねえちゃんに明らかに失礼な事を言われた。

 

 

「ちょっとおねえちゃん、チビってなにさ」

 

「カイ、どう見たってちっちゃいでしょ。服のサイズもそうだし。だからチビじゃない」

 

「うう、チビとか言わないでよ。これでもぼくは気にしてるんだよ、チビな事」

 

「いやいや、自分で言ってるじゃないの、チビって」

 

「ううううう~~~……」

 

 

 思わず唸るような声を出したそこで、おねえちゃんはころころと笑った。

 

 

「でも、わたしはカイがチビでもいいな」

 

「えぇっ、なんで」

 

 

 おねえちゃんはゆっくりとぼくに歩み寄り、その手を静かに広げて、そのまますっぽりとぼくの身体を抱き締めてきた。背が低いせいでおねえちゃんの肩口に顔が埋まる。

 

 

「だって、大好きなカイがこんなにも抱き締めやすいんですもの。カイがちっちゃいおかげで」

 

「……」

 

 

 ぼくは何も言い返せなかった。寸前まで言いたい文句が沢山あったような気がしたのに、おねえちゃんに抱き締められた途端、全部消えてしまった。ある意味おねえちゃんに言いくるめられたような感じだけど、気にならなかった。

 

 

「それにね、カイ。カイが普通と違っても、わたしはそれでいいよ。どんなにちっちゃくて普通じゃなくても、カイはカイ。世界に一人しかいない、大切なわたしの弟だから……」

 

「……おねえちゃん」

 

「だからわたしは、カイがちっちゃくても、大きくなっても、何も気にしないよ。カイがどんな事になったとしても、わたしはカイのおねえちゃんで、カイはわたしの可愛い弟だからね……」

 

 

 おねえちゃんが囁くように言うと、ぼくはおねえちゃんの肩口に顔を埋めた。生まれた時からずっと嗅いできた記憶のある、おねえちゃんの匂いが鼻を通じて胸の中に流れてくると、胸の中が暖かくなった。

 

 

 身長の変わらないぼくは、何かの病気かもしれない。他の人とは全然違うのかもしれない。そんなのは嫌だと思う半分、それでもいいとも思えた。ぼくが小さくてもおねえちゃんは何も気にしないし、こうして抱き締めてくれるのも変わらないからだ。

 

 

 おねえちゃんが望んでいるなら、このままでもいいかもしれない――そう思ったところで、おねえちゃんは静かにぼくの身体を離した。

 

 

 その時、偶然壁掛けの時計の文字盤が目に入って、ぼくは軽く驚いた。時計の針は午後四時三十分を指していた。夕飯の材料を買いに行かなきゃいけない時間だ。

 

 夕飯の支度はおねえちゃんとぼくの共同作業だけど、買い出しの当番はいつもぼくだ。

 

 

「あっ、もう四時半だ。買い物に行かないと」

 

「えっ、もうそんな時間だった?」

 

 

 おねえちゃんもはっとしたように壁の時計を見る。今日は時間割もあって帰りが少し遅くなった。急いで支度をしないと、夕飯をいつもの時間に作って食べられない。

 

 

「おねえちゃん、今日は何をして食べるの。ぼく、材料買ってくるから――」

 

「あぁ、待ってカイ」

 

 

 おねえちゃんは軽く首を傾げて、微笑んだ。

 

 

「今日はわたしも一緒に行く。一緒に買い物しましょう」

 

「えっ、おねえちゃんも?」

 

「うん。いつもカイにばっかり買い物に行ってもらってるからね。たまにはわたしも手伝わないと。それに、わたしが居た方が何買えばいいかもわかるから、いいでしょ?」

 

 

 ぼくの家の夕飯のメニューを考えて決定するのは、いつもおねえちゃんだ。おねえちゃんがメモに買ってきてほしい材料を書いて、ぼくがそのメモに書かれている材料を買ってくるのが毎日のパターンの一つだった。おねえちゃんが一緒に行ってくれるんならメモはいらない。

 

 

「そうだけど……本当にいいの」

 

「いいから言ってるのよ。さぁさぁ、出かける準備をするわよ」

 

 

 そう言っておねえちゃんは自分の部屋へ戻っていった。買い物袋とかお金とかを持ってくるのだろう。いつもはぼくに持たせるものだけれど、今日はおねえちゃんが持っていく。ぼくの持ち物はスマホと自分のお金だけが入った財布。

 

 そんな軽装でいつもどおりの買い物に行くというのは、なんだか不思議な気分だった。

 

 

 おねえちゃんはすぐにリビングへ戻ってきて、ぼくに「行こう」と声をかけてきた。おねえちゃんが出ていくと、ぼくも追って家を出て鍵を閉めて――二人一緒で街に出かけて行った。

 

 いつも利用しているスーパーからぼく達の家までは、結構な距離がある。だからいつもは自転車を使っていくんだけれども、今日はおねえちゃんが一緒だから、歩きだ。歩きで往復するとなると、かなりの時間がかかるけれど、おねえちゃんは気にしていないようだったし、ぼくもそうだった。こうして姉弟一緒に並んで歩ける事自体が嬉しくて、楽しかったから。

 

 

「そういえばカイ、秋の予定は聞いた?」

 

「京都の白嶺神社の例大祭でしょ。おねえちゃん、巫女舞やるんだってね」

 

 

 おねえちゃんは嬉しそうな顔をする。

 

 

「そうよ。わたしが白嶺の巫女として踊るんだから、カイもしっかり見てよね」

 

「勿論、楽しみにしてるよ。でもさおねえちゃん、本当の楽しみは京都旅行でしょ」

 

 

 おねえちゃんは「わかった?」と言って笑う。おねえちゃんはおとうさんの実家のある京都が大好きで、おとうさんと一緒に帰省する時はいつも京都旅行を満喫する。

 

 その時はぼくも隣に並んで一緒に旅行するのだけれど、その時のおねえちゃんの喜び様はいつもの比じゃないから、ぼくまで同じようになる。いつもと違うように喜んで、京都を旅行するのだ。

 

 

「京都に行ったら、まずは渡月橋に行かないとね。秋だから、紅葉がうんと綺麗よ」

 

「写真でよく見た事あるけど、本物を見たら綺麗なんだろうねぇ」

 

「勿論よ。だからカイ、今からしっかり予定を作っておくわよ」

 

 

 ぼくは軽く苦笑いする。今から秋の予定を組むのはいくらなんでも早すぎるだろう。おねえちゃんは秋が待ち遠しくて仕方がないようだ。

 

 でも、楽しみなのはぼくも一緒だ。おねえちゃんと一緒の京都旅行はこれ以上ないくらいに楽しいし、一年の中の一番の思い出になる。また一つおねえちゃんとの大きな思い出を作れるんだから、楽しみでしょうがなかった。

 

 そんな話をしているうちに、ぼく達は街に辿り着いた。空はすっかり夕暮れになっていて、街の明かりが空の下を照らしている。

 

 沢山の光に照らされた街路を、沢山の人が行き交っていた。親子連れ、制服を着た人達、スーツを着た人達。ぼく達と同じような買い物客もいれば、これから家に帰る人も沢山いるだろう。

 

 そんな色々な人達の間を抜けながら、ぼくとおねえちゃんは目的のスーパーマーケットを目指して歩いた。通り慣れたいつものルートを通っているだけだから、道に迷うような事はなかった。

 

 ある程度歩いていくと、信号のある交差点に差し掛かった。車の通る道路を挟んだ向こう側に、いつも使っているスーパーマーケットがある。そこの前に設置されている歩行者用信号機は赤信号を点灯させていて、ぼく達歩行者の足を止めていた。

 

 待ち時間ゲージが減っていくのを見ていると、おねえちゃんはぼくに話しかけてきた。

 

 

「カイ、今日は何食べたい?」

 

「えっ、何作るか決めてなかったの」

 

「今日はカイのリクエストで料理を作ろうって思ってて。何か食べたい料理ない?」

 

 

 ぼくは思考を巡らせた。てっきりおねえちゃんが食べる料理を決めているとばかり思っていたから、食べたい料理の事なんか考えていなかった。だから急に振られても応答に困ってしまう。

 

 

「そうだなぁ……って、あれ」

 

 

 ぼくは思考するのを止めた。

 

 何か大きな音が聞こえる。車のエンジンの音だ。車の数がそもそも少なかったようで、眼前の道路からは車が姿を消しているのに、車のエンジンの音が聞こえる。

 

 左側の道路を見た。この交差点に近付いてきている一台の車が遠くに確認できた。かなりの速度を出しているようで、見る見るうちに姿が大きくなり、エンジンの音も大きく聞こえるようになってくる。

 

 

「カイ、どうかした? 食べたいもの思い付いた?」

 

「なんか猛スピードで走ってきてる車がいる」

 

 

 ぼくの見ている方向におねえちゃんも視線を向ける。

 

 

「本当だわ。急いでるのかしら」

 

 

 その時ぼくは気付いた。車道の信号が赤に変わった。即座に目の前の歩行者用信号の青信号が点灯する。

 

 全ての車に止まれの指令が出され、ぼく達歩行者に渡っていいの許可が下りた。周りの人達はぞくぞくと横断歩道を渡って向こう側へ歩き出し、向こう側からも沢山の人がこちらにやってくるようになる。

 

 

 車は変わらず交差点に近付いてきていた。急いでいたんだろうけれど、残念ながらこの信号が赤になる前に渡る事は出来なかったようだ。

 

 あれだけの速度を出しているのだから、ブレーキを掛けたらすごい事になるだろう。

 

 

「あ、変わったわね。カイ、渡りましょう」

 

「うん」

 

 

 頷いて、ぼくはおねえちゃんと並んで横断歩道を渡った。目的地のスーパーマーケットはすぐそこだ。ここを渡ればおねえちゃんとの買い物だ。楽しみにしているのだろう、おねえちゃんはうきうきしている様子だった。

 

 

「あ、聞きそびれた。カイ、今日の夕飯何食べたい――?」

 

 

 おねえちゃんの声に混ざって、音が聞こえた。

 

 エンジンの音。さっきからずっと聞こえてきている、急いでいる車のエンジンの音が聞こえる。

 

 車道は赤信号だ。差し掛かった車は全て、停止線の前で止まらなければならない。急いでいるあの車も止まらなければならない。

 

 

 ――それなのに、エンジンの音は止んでいない。

 

 

 あの車のうるさいくらいのエンジン音はずっと聞こえてきている。

 

 それどころか、大きくなってきてさえいる気がした。

 

 

「?」

 

 

 不思議に思ったぼくはもう一度車の方を見た。

 

 

 すぐそこにあの車が居た。

 

 

「え」

 

 

 次の瞬間、世界がスローになったような気がした。ゆっくり、ゆっくりと車が迫ってくる。ぼくとおねえちゃんを含めた皆の渡っている横断歩道に、車は突っ込んできている。

 

 ブレーキの音は聞こえない。クラクションの音もしない。アクセルを思い切り踏んだ際に出るエンジンの音だけが聞こえていた。

 

 車は速度も緩めず、真っ直ぐこっちに向かってきている。今にもぶつかりそうだ。

 

 

「……え」

 

 

 わけがわからない。

 

 

 なんで?

 

 今そっちは赤信号だよ?

 

 渡っていいのはこっちだよ。

 

 

 

 なんで赤信号なのにこっちに来てるの――?

 

 

 

 その疑問を抱いたそこで一際大きな音がして――ぼくの意識は消えた。

 




――くだらない事――


オリキャラのイメージCV

・狐灰治美→久川綾さん

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