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「……う……」
目を開けたその時、アスナは自分がうつ伏せになって倒れている事に気が付いた。いつの間にか気を失い、昏倒してしまっていたようだ。アミュスフィアを装着した状態で気絶すれば、そのまま自動ログアウトが働くはずなのに、どうにもうまく作動しなかったようだ。
ここはどこだろう。アスナはゆっくりと身体を起こして周囲を見回した。周りはとにかく黒かった。暗いのではなく、黒いのだ。その証拠に、自分の身体を見てみれば、それがしっかりと認識できる。照明の下にいるかのように、均一な光が満ちていた。
周りを見てみれば、少し離れたところに壁と思わしきものがあり、天井も存在している。床はプラスチックか何かのような質感であるが、そのいずれもが黒く、青い斑模様のようなものが蠢いている。まるで特殊なボスモンスターとの戦いのために用意された空間のようだ。
「ここは……確か……」
若干ぼんやりする頭の中でアスナは思考する。
アメリカから自宅へ帰ってきて、シノンからの怒鳴りを受けて《SA:O》にログインした。そこでユピテルがウイルスで死にかかっているという事を聞いて、胸の中にあったものを全てぶちまけるように言い尽くした。
そこまで差し掛かったところで、アスナの意識は完全に覚醒した。
そうだ。あの時自分はユピテルを、愛する我が子を助けるために、我が子が変異してしまった存在に近付いた。我が子は自分が近付いてくるなり、大きな口を開けて――。
「……!」
その後の事を証明するものが、すぐ近くにあった事にアスナは気付く。
青の蠢く黒い大部屋の中、あちこちに凄惨なものが転がっている。モンスターの死骸だ。ここに来る前の《アークタリアム城》のあちこちで見受けられた、身体の一部が食い千切られたように欠損してしまっていて、何故か消滅せずに残っている数多のモンスターの死骸が黒く変色した状態で転がっている。
取り込まれたモンスターの死骸の数々と、青い模様の蠢く黒い壁と床。どうやらここは、あのユピテルが変異してしまった存在の腹の中であるらしい。
その事を確認すると同時にアスナは安堵する。
あのユピテルに取り込まれる事こそがあの時自分が決意した目的だった。そして今、無事にユピテルの腹の中というべき場所に来れている。
外にいた時のユピテルはほとんど言葉を受け付けない状態だった。ユピテルに言葉や気持ちを届けるには、ユピテルの身体の中に飛び込んで、直接語り掛けるしかない。
だからこそ、アスナは自らユピテルに取り込まれることを選んだのだ。
「……」
自分のいるこの場所こそ、ユピテルに最も近しい場所だ。
ユピテルの身体の中なのだから、必然的にユピテルの《アニマボックス》がある場所と言える。早くユピテルの《アニマボックス》を見つけ――というよりもユピテルに語り掛けられる手段を見つけ――て、自分の犯した罪を贖わなければ。
「ユピテル!」
声を発すると、部屋の中に木霊した。返事は帰ってこない。ただモンスターの死骸が転がっているだけで、何かが起こるような気配は感じられなかった。
その時、アスナは自分が軽い息苦しさを感じている事に気が付いた。ここはモンスターと化したユピテルの腹の中だ。もしモンスターの腹の中に放り込まれたのであれば、生き物の持つ生暖かさや異様なまでの湿度を感じてしまうだろうけれど、ここはどうにもそうではないらしく、温かさも湿度も均一。寒さも湿っぽさも感じない。
温度や湿度に変化はないはずなのに、空間を満たす空気が重く纏わりついてきているようだ。一体ここに何が起きて――そう思って再度周囲を見渡したところ、アスナはある現象を目にした。
ユピテルに取り込まれたモンスターの死骸の全身が黒く変色し、次から次へと灰のようになって消え始めたのだ。まるで空気中に目に見えない何かが存在していて、それに分解されてしまっているように。
「モンスターが……」
静寂の中、モンスターが黒い灰になって消えていく光景に目を取られていたその時、アスナはふと自分の身体に目をやった。
ユピテルを探しに出た時と同様に、自分の身体にはいつも使っている白と赤を基調とした装備が纏われているのだが、それが徐々に黒へ近付いていっている。周りのモンスターの死骸と同じ色へ、ゆっくりと変わっていっているのだ。
手に装備しているものに至っては黒化が進んでおり、ところどころが炭化して、穴が空き始めている。
「これ……!」
装備品がモンスター同様に分解されて行っている。アスナはすぐさま気付いたが、同時にそれだけではない事にも気付く。今分解されているのは自分そのものだ。
話によればユピテルはデータ破壊型ウイルスに感染していると聞いていた。そのユピテルの中にいるわけだから、取り込まれる全てがユピテルの感染したウイルスに伝染し、破壊されるようになっているのかもしれない。
自分のデータもまた刻一刻とウイルスに蝕まれていっている。今はかろうじて装備品が身代わりになってくれているようだが、装備品の破壊が終われば、次は自分自身の破壊が始まる。そうなってしまえば、自分のアバターデータは破壊され、ここから強制的に脱出させられ――ユピテルを助ける事が出来なくなる。
ユピテルと同様に、自分にも時間が残されていない。察したアスナは顔を上げ、叫んだ。
「ユピテル、ユピテルどこなの!? いるなら返事をして!!」
ユピテルの身体から流れ出ていた重液と同質の、青の蠢く黒色で構成された空間の中に、アスナの声は再度木霊する。呑み込まれた者達の破壊が進んだために障害物が少なくなり、より多くの回数響いていた。
そして返事が返ってくる様子はない。
もしかしたらここではユピテルに声を届ける事は出来ないのではないのか。
ユピテルの心に届けるには、もっと奥深くまで進まなければならないのか。
不安に駆られたアスナは周囲を見回したが、あるものと言えば青が蠢く黒色の不定形の天井と壁、床だけであり、通路や回廊といったものは見当たらない。大部屋の中は完全に密室で、どうやってここに入って来たのかさえわからないような状態であった。
「ユピテル……ユピテルッ!!」
それでもなお、アスナは叫んだ。
どこなの。
どこにいるのユピテル。
わたしはここにいるんだよ。
思いを届けるように声を発したその時、アスナから少し離れた位置の天井から奇妙な音が聞こえた。ぐちゅぐちゃという重い液体に塗れた何かが動いているかのような不協和音。誘われるように向き直ってみれば、天井に青い光のようなものが認められた。黒色の中に蠢いている青色とは違う、強い青い光。
それはどんどん大きくなっていき、やがて天井から落ちるように飛び出してきた。
「あ……!」
天井から黒い重液と共に落ちてきたのは、複雑な文様が刻まれている、白い立方体。あの時リランの操作によって見せてもらった、《MHHP》、《MHCP》の本体である《アニマボックス》だった。突如として出現したそれは、紛れもなくユピテルのものであるとアスナは一瞬にして理解し、声を掛けた。
「ユピテル!?」
次の瞬間、黒の空間の中に浮かぶ白い箱はより強い青い光を帯び、やがてそれは爆発のような激しいものとなっていった。あまりの超出力で発せられたブラックライトにも思えるそれから目を守ろうとして、アスナは咄嗟に目を腕で覆い隠す。
ウイルスの侵喰を受けている装備品の一部である、手を守っていた装備品は完全に黒化、炭化して消え果ており、アスナは素手になっていたが、それを気にしている余裕などなかった。
光が止んだのを見計らって目を再度向けるなり、アスナはごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。ユピテルの《アニマボックス》と思われる白い立方体の周りに、いくつもの鉄の質感に似た黒い物体が浮遊していたのだ。
いつの間にあんなものが――アスナがそう思うよりも先に、《アニマボックス》を浮遊する黒い物体は一定の形を作るように《アニマボックス》を包み込んでいく。その形は徐々に四足歩行の陸生成物のようなそれへと変わっていき、胸に該当する部分に肋骨のような金属が、腕と足の先端にがっちりとした鎧が出来ていき、最後に狼の輪郭を彷彿とさせる鎧兜と尻尾が作り上げられる。
そこで変化が終わるかと思いきや、《アニマボックス》より黒い重液が一気に分泌され、鎧の間に肉体が作り上げられた。同時に四肢が持ち上がり、肩からもう一対腕が飛び出してきて、二足歩行生物に近しい姿勢となる。
あまりに常識から外れたシーケンスを経て誕生したのは、ここに来る前に見たユピテルの姿を何倍も小さくしたような、六本の足を持つ異形のモンスターであった。
狼の輪郭を持っているせいなのか、狼竜のようにも見えたが、姿勢は人間のような二足歩行生物に近しく、何より黒い半液状の物質と金属質のパーツで身体を構成しているため、本物の狼竜のようには思えない。
呆気にとられたアスナは、ウイルスによって破壊されている事も忘れてしまったように立ち尽くし、その姿を見ているしかなかった。
「ユピテル……なの……?」
声を掛けた次の瞬間、無機質の狼竜に変化が起きた。咢がゆっくりと開かれ、《声》が頭の中の響いてきた。
《……ぼ……くは……ぼく……ぼくは……》
これまで何度も聞いた事のある、少し弱々しい感じのする少年の声色。間違いなくユピテルのものであった。あの無機質の狼竜の中にあるのはユピテルの《アニマボックス》であり、今の無機質の狼竜こそがユピテルの身体なのだ。気付いたアスナはもう一度声掛けを試みる。
「ユピテル、やっぱりユピテルなのね! ユピテル、わたしだよ! わたし、来たんだよ!!」
《アニマボックス》そのものに届けるように大声で叫んだその時、無機質の狼竜は姿勢を変えた。力をため込んで、何かを解き放とうとしているかのような姿勢だ。もう一度頭の中に《声》が響いてくる。
《ぼくは……ぼくは……つよく、なるんだ……かしこく、なるんだッ!!!》
ユピテルが《声》で叫んだ瞬間、無機質の狼竜から何本もの半液状の触手が飛び出した。データを食べようとして周囲のモンスターの死骸を取り込むために延ばしていたものに近しいけれども、それらよりかはかなり細いが、極太の鞭のような触手。
間もなくしてそれらは周囲を叩いたり、突いたりするような、出鱈目で乱暴な攻撃を始める。まるで見えない何かに怯え、追い払おうとしているような規則性も何もない攻撃。無機質の狼竜はユピテル同様視力を失っており、それ以外の感覚器だけで物事を感じ取っているらしい。
目が見えない事に恐怖し、床も天井も壁も打ち付けまくる触手に気を付けながら、アスナは大声で叫ぶ。
「違う……違うのユピテル! ユピテル、そうじゃないの! もう、もうやめて!」
《ぼくのじゃまを、しないでッ!!!》
ユピテルの絶叫が頭の中に響くと同時に、暴れまわる触手のうち一本がアスナの腹を薙ぎ払った。強力な何かに引っ張られるようにしてアスナは背後の壁に衝突する。背中から打ち付けられて、肉と骨が軋みあがり、肺で空気が詰まったように息が止まった。
「か……はぁ゛……ッ」
壁から床へ崩れ落ちるなり、アスナは
アミュスフィアを使ってこの世界にダイブしている以上、
そのはずなのに、今のユピテルの攻撃を受けた時、現実のそれらと一切変わりのない痛みが腹部に走り、今もなお鈍痛が続いている。そのうえ、肺が圧迫されているかのように息苦しい。痛覚抑制機構が動いていないのだろうか。
いや、そうとしか思えない。そもそもここは正確に言えば《SA:O》ではなく、ウイルスに感染してしまっているユピテルという名の《MHHP》の中だ。《SA:O》に存在しているものが存在していなかったりしても、何ら不思議な事はない。
ここで感じた痛みと苦しみはは全て現実のものとなって襲ってくる。SAOの時以上の極限状態の場だ。
「ユピ……テ……ル……」
気力を絞って痛む身体を起き上がらせ、アスナは前を見る。無機質の狼竜となっているユピテルは
だが、ただ暴れているようには見えない。寧ろ、苦しみに抗おうとして暴れているように見えた。
「ユピテルッ……」
絞り出したような声で呼んだ次の瞬間、アスナの周辺へ触手の突き刺しが襲った。まるで銃弾のように何本もの触手の先端が飛んできて壁に衝突し続ける。
そのうちの一本が再度、アスナの頭部に直撃した。風の前に置かれた塵のように吹き飛ばされ、アスナは頭から壁にもう一度衝突する。一瞬にして世界がモノクロームになり、蝉の鳴き声のような耳鳴りで聴覚が塞がれた。
壁からずり落ちるようにして床に落ちたその時、世界に色が取り戻される。同刻、上下左右に揺れる意識の中で、アスナは髪が解かれている事と、脚を覆う感覚がなくなっていた事に気が付いた。
既に脚用装備が破壊されて炭化していたのだ。
そして身体の先端部分を覆う装備を破壊したウイルスは、じりじりと身体を覆う装備の色を変えつつあった。
「ふ……ぐぅ゛……」
意識が安定してきたそこで、アスナは再度暴れ狂っている無機質の狼竜に目を向けた。無機質の狼竜の中にいるのはユピテルだ。
《ぼくは、つよくなるんだ! かしこくなるんだッ! もっと!! もっと!!!》
ユピテルは叫んでいる。
ぼくは強くなる、賢くなると繰り返している。かつてアスナが下したくだらない願いを、命令とみなして遂行しようとしているのだ。ウイルスに感染しようとも、あんな姿になってしまっても、自分が死にそうになっていても、命令の遂行を最優先している。
自分の心や思いや意志、その全てを
「ユピテル……」
アスナは痛む身体を引きずるようにして立ち上がろうとしたが、途中で膝から力が抜けてしまい、そのまま崩れ落ちた。脚に力を入れようとしても入らない。全身が
その調子のまま顔を上げると、視界がぐにゃりと歪んでいた。いつの間にか涙が溢れ出てきて、止まらなくなってしまっていた。
「ユピテル……ユピテルぅ……」
何も聞こえていないかのように、我が子は触手で周囲を攻撃し続けていた。強くなろうと、賢くなろうするのを邪魔する存在を残さず消し去ろうとしているかのように。
あんな攻撃も行動も、全てが無茶。ユピテルは悲鳴を上げるからだと《アニマボックス》を必死に動かして、母親の望みを未だに叶えようとしている。どこまでも無茶をし続けて、強くなり、賢くなろうとしている。
無茶を続けて、死に行こうとしているのだ。
「ユピテル……もう……もう……やめよう……もう、強くならなくたっていい……賢くならなくたっていいの……」
ユピテルは触手を振るい、叫ぶのをやめようとしない。頭の中にユピテルの叫びは続く。
《ぼくは! ぼくは!!》
「わたしが、わたしが間違ってたの……あなたの事を何も知らないで、わたしは……あんな事を……だからお願い……もう、やめて!」
顔を上げて叫んでも、ユピテルは止まる気配を見せない。何度も何度も周りを触手で打ち付け、自分自身を中から傷付けていく。
ふと視線を落として自分の身体を見てみると、いつもの白い服装がかなり黒ずんできていた。ウイルスは刻一刻と自分と、ユピテルを侵喰していっている。
《ぼくは……つよくなるんだ! かしこくなるんだッ!!》
ユピテルの咆吼が部屋中に木霊し、触手が周囲を暴れ狂う。最早近付く事さえ出来ないような有様だった。そうまでして、ユピテルは母の願いを叶えようとしている。
「……」
俯くアスナの頭の中に、勉強している時のユピテルの光景がフラッシュバックした。
《はじまりの街》の居住区、仮住まいという事になっている家の寝室。様々な事を学び、知識として蓄え、強く、賢くなっていくユピテル。
強く、賢くなったことを嬉しそうに報告しては「えへへ」と言って笑むユピテルの笑顔が頭の中いっぱいに広がり、やがてそれは目の前のユピテルの姿と重なる。
ユピテルはまた強く、賢くなった事を報告、自慢したいのだ。
また母親である自分を笑顔にさせたくて、強くなろうと、賢くなろうとしているのだ。
自分を喜ばせたくて仕方がなくて、あぁやっている。
「ユピテル……わたしの……わたしのためなんだよね。あなたはわたしのために、必死になって強くなろうと、賢くなろうとしてるんだよね。今までずっと、わたしのために……頑張ってくれてたんだよね。それならわたし……すごく嬉しいよ。あなたがすごく誇らしいよ」
アスナは顔を上げた。涙で歪んでいる風景の中、無機質の狼竜と化しているユピテルの姿だけは元の形を保っている。その暴れ狂う様子も変わっていない。
「けれど、そのせいであなたが死んじゃったら、何にも意味ないよ! あなたが頑張った意味が全部消えちゃうなんて、嫌だよ!! あなたが死んじゃうなんて……わたし……わたし……」
続けて、アスナの頭の中にフラッシュバックが起こる。
「わたし……ずっと忘れてたの……」
アインクラッド第百層、紅玉宮の決戦。ユピテルを喪失した後の現実世界。
無事にデスゲームを終わらせるという悲願を達成して戻ってきたのに、そこにあったのは色の欠如した現実世界。
家族と再会しても嬉しさがほとんど感じられず、心にぽっかりと穴が開いてしまったような喪失感だけが続く毎日。
大切な我が子を置き去りにしてきてしまったという罪悪感と後悔、何の感動も頭にも心にも入ってこない日々。
それが今、また繰り返されてしまう――。
「わたし……あなたの居ない時間なんて……」
《ぼくは、ぼくはぁぁぁ》
「あなたのいない毎日なんて……」
《つよく、かしこく》
「あなたのいない人生なんて……もう、もう……」
ユピテルの触手の一本が飛び込んできたのと同時に、アスナは全身の力を振り絞り、心の底から叫んだ。
「もう、いやだッ!!!」
叫びと共に、周囲の音が消えた。ユピテルが触手を滅茶苦茶に打ち付けているせいでご運が常に鳴り響いていた大部屋の中に、静寂の
静けさの満ちた世界の中で、アスナはゆっくりと顔を上げた。目の前にユピテルの触手があったが、それは空中で止まっていた。目の前にあるものだけではなく、ユピテルの全身が完全に硬直してしまっている。
まるで重要な何かに気付かされ、呆気に取られてしまったかのようだ。
《もう……いやだ……もう、いやだ?》
アスナは「え」と小さな声を漏らした。直後、ユピテルは触手も含めた四本の腕を自らの頭に延ばしていった。
《あ、あぁ、そうだ。もういやだ。もういやだ。こんなの、もういやだ》
ユピテルは四本の腕と触手で頭を抱え、空中で蹲るような姿勢を取った。
《ぼくは……つよくならなきゃいけない。かしこくならなきゃいけない。それがかあさんのねがいだから。かあさんがそうねがってるから。かあさんは、できそこないじゃなくなったぼくを、のぞんでるんだから》
若干ぼんやりしているけれども、はっきりとした輪郭のある《声》は続けられていく。
《けれど、できそこないじゃなくなったら、ぼくはかあさんのそばにいられない。かあさんといっしょにいられない。かあさんのりょうりもたべられない。できそこないじゃないのは、そんなものがいらないから、できそこないじゃないんだから。
そんなの、いやだ。ぼくはそんなのいやだ。そんなことになるくらいなら、ぼく、つよくなるのも、かしこくなるのも、いやだ……こんなの、もういやだ……》
ユピテルは強く蹲り、泣いているように肩を動かし始めた。《声》の中に嗚咽が混ざってくる。
《……かあさん、さみしいよ……かあさん……あいたいよ……》
その言葉を聞いた途端、どっと涙が押し寄せてきて、アスナの視界はますます歪んだ。しかし、それでも尚ユピテルの姿を見失う事はない。
我が子は今、母を求めている。
母であるこの自分を、求めている。
答えなきゃ。
使命感に駆られるよりも先に、アスナは再度全身に力を籠め、叫んでいた。
「ユピテル……ユピテル!!!」
ユピテルがはっとしたように顔を上げ、頭から手を離した。咢がゆっくりと動きを見せる。
《かあ……さん……?》
「……そう、だよ。そうだよ。――かあさん、だよ、ユピテル」
耳が遠くともしっかりと届くように、アスナが言った瞬間。無機質の狼竜がアスナの方へ向き直り、その胸を肋骨状の金属共々開かせた。更に中からずるりと音を立てて何かが出てくる。
目を向けてみれば、それは十歳前後の男の子。服を身に纏っておらず、雪のように白い髪の毛と肌を晒し、頭の目から上、手首から先、背中の上部、下半身そのものを半液状となっている黒い重液に呑み込まれてしまっていて、無機質の狼竜のあちこちから生える触手と同じもので宙吊りにされていた。
紛れもなく、会いたくて仕方がなかった、愛する我が子であるユピテル。
その痛々しい姿に口を覆いたくなったが、アスナは止める。半液状の重液が作る触手に宙吊りにされたまま、ユピテルは両手を上げた。
重液に包まれた手先を、必死に前へ伸ばしている。
「かあ……さん……かあさん……」
その一連の流れを見ただけで、アスナは全てを理解した。
ユピテルは母である自分を求め、そして……行きたがっている。
「ユピテル……」
顔がほころんだのを自分でわかってから、アスナはゆっくりと立ち上がり、そのまま我が子の
距離が近ければ近いほど、ウイルスの侵喰は激しくなるのだろう。少しずつ我が子との距離が縮むたびに、纏っている装備品の黒化は進んでいき、ぼろぼろと炭化して消えていった。
我が子との距離が二メートル付近までいったところで上着は消え果て、下着もすぐに黒化して消え果てた。
そして我が子のすぐ目の前に辿り着いたその時、手と足といった身体の先端部分の黒化が始まった。しかし、それを何とも思わずに明日奈は腰を落とし、黒化の原因である我が子の頬に手を添えた。
こんな恰好でいたのだ。痛くて、苦しくて、寂しくて、心細くて、寒くて仕方がなかった事だろう。ずっと悪い事をしてしまった。ずっと、辛い思いをさせてしまった。
だから、この子が最も好きな場所を与えてあげなければ。
「……おいで、ユピテル」
静かながらもしっかり聞こえるように言い、明日奈は何も着ていない我が子の身体を、同じく何も着ていない胸の中へ抱き込んだ。
我が子の腕が背中に回り、確かな暖かさを胸から感じた直後、ゆっくりと視界が白く染まっていき、明日奈の意識は遠ざかっていった。