深まる夜は、その子をさらいにやってくる。
□□□
「はぁ」
ソファに腰を掛け、深々と溜息を吐いたのはシノンだった。居る場所は《はじまりの街》のいつもの部屋の中ではない。《はじまりの街》の居住区に存在する一つの家の一階、そのリビングだ。
周りに沢山の家具が並んでおり、いつでも使えるような状態となっているけれども、その全ての所有権を握らされていない。
この家の所有者は自分の親友であるアスナだ。そのアスナから一時的に鍵を預かり、家と部屋を管理する事となっているのが現状だ。
昨日、アスナはアメリカで開催されるロボットのイベントに参加すると言ってきて、更にこの家を一時的に預かってくれないかと頼ん出来た。
頼まれたのは自分だけではなく、キリトもそうだったが、二名とも意見が合致してその頼みを承諾。その通りにアスナの家で
周囲をきょろきょろしながら、ユイが言葉を発する。
「ここがアスナさんの家ですか。アインクラッドの時のアスナさんの家になんとなく似てる気がします」
シノンの傍にあるソファに腰を掛けながら、リランが頷く。その視線は忙しなく家の中を動き回っている。
「そうだな。あの時過ごしていた家に似ていなくもない。居心地は良いな」
「けれど、物を勝手に使ったりするんじゃないぞ。あくまで所有権はアスナにあるんだからな」
キリトが注意するように言うと、ユイとリランが返事をした。けれども、ユイとリランの言っている事にシノンも納得せざるを得ない。
アスナが買ったとは言っていたけれども、数えられるくらいにしか見せてもらっていなかったアスナとユピテルの家。諸事情でユウキがいなくなってしまった後の場所。
その内装はアインクラッドでアスナとユウキとユピテルの三人が暮らしていた家のそれに何となく似ているような気がしてならず、新しいものを見た時の違和感をあまり感じさせないものだった。
まるでアインクラッドのアスナ達の家が《SA:O》にて再現されているような気も感じる。ここにユウキが来れば、さぞかし懐かしいものを見たような顔をして大喜びする事だろう。……相手であるカイムまで同じような事になるとは思えないけれども。
そう思っていると、隣に腰を掛けているキリトが声をかけてきた。
「一応アスナからの借りものだけど、明日まで俺達はここに泊まるわけか」
「そうね。ある意味、アスナと同じようなものだわ。アスナも一泊二日の旅だって話だし」
「両方ともお互い様ってところだな。それにしてもロボットのイベントかぁ。俺も行きたかったよ」
その言葉を聞くのが何度目であるかというのを、シノンは数えるのをやめている。
昨日アスナからイベントの話を持ち掛けられてからというもの、キリトは学校でもここでも、何度もそのイベントに行きたかったという主張を続けている。
あまりに何度も言うものだから、学校では友人達に呆れたような反応をされており、シノンもその一人になっていた。けれど、他の友人達と決定的に違うのは、シノンはキリトの言っている事がわからないでもないという点だった。
アスナが参加したイベントはロボットの祭典だ。機械仕掛けで動くロボット達は、現在主に工業の方で使われている傾向にあるけれども、企業によっては作るものも完全に違っていて、中には人間そっくりのロボットを作っているところもあるという。
もし高性能な人間そっくりロボットがあれば、その開発が一刻も早く進んでほしいと、シノンは思っていた。
アスナはその人間そっくりのロボットを探しに行くと言っており、もし見つける事が出来れば、その時ユピテルの身体にしてもらうとも言っていた。
それと同じだ。人間にそっくりなロボットを作る事が出来れば、それこそユイやストレアやリランの外観そっくりのロボットを作り、彼女達を搭載させる事が出来るだろう。その時こそ、真にユイ達と家族になれる時、ユイ達と共に現実を見ていく日が始まる瞬間だ。
ユイ達は既にキリト/和人が学校の友人達と一緒に開発した視聴覚双方向通信プローブという機械を使って現実世界を見る事が出来ていた。
しかし、その視聴覚双方向通信プローブは現在、病院生活を未だに余儀なくされているユウキ/木綿季のため、カイム/海夢の元へ行っていて使えないし、何より視聴覚双方向通信プローブでは見る聞くくらいの事しか出来ない。自分達のように真の意味で感じたりする事は出来ないのだ。
人間そっくりでAIを搭載出来るロボットはまさしく、ユイ達が自分達と同じ立場に置かれるもの。それが出来上がった時こそまさに、ユイ達と一緒に本当に暮らして、本当に様々な思い出を作っていける時。
アスナの参加したイベントに、人間そっくりのロボットを作れる企業があってほしい。どうか、ユイ達を現実世界へ連れていけるものがあってほしい。アスナが思っているであろう事を、シノンも同じように抱いていた。
「けれど、いいわね、それ」
「え?」
きょとんとしたキリトを横目に、シノンはユイとリランに視線を向ける。ユイとリランは不思議そうな顔をしてこちらを見てきたが、それを見計らって、思っていた事を話した。
話が終わると、キリトは「あぁ」と小さく呟き、ユイとリランはどこか不思議そうな顔をするようになった。
「確かにそうだな。人間そっくりのロボットがあれば、ユイやリランやストレアの身体に出来る。ユイ達を本当の意味で現実世界に連れていく事が出来るな」
「そうでしょう。それで皆で暮らしたら、きっと楽しいと思うんだけど」
そこでユイがと事事駆けてシノンの
「楽しいに決まってます! パパとママがいて、わたしがいて、ストレアがいて、おねえさんがいるんですから、楽しいですよ!」
「同感だ。現実世界でもお前達と変わらずに過ごせるというのは、我も望んでいる事だ。お前達といつでも一緒に居られる……素晴らしいな」
ユイに賛同するリランの目にも、何かを楽しみにしているような光が浮かんでいる。
現実世界は仮想世界と違って、翅を生やして飛ぶ事も出来なければ、魔法やソードスキルを操って戦う事も出来ないなど、自由が効かないようにしか思えない。リランだって狼竜になる事が出来ないのだ。
なのに、彼女達は現実世界へ行く事を望んでいる。ユイ、リラン、ストレア、ユピテルといった仮想世界の住人達には、自分達には理解出来ない現実世界の良さが見えているのかもしれない。
ユイ達にはユイ達なりに感じるモノがある。そんなものがあれば、ユイから聞いてみたいと思ったが、それを口にするよりも先にシノンはユイの頬に手を添えた。
「そうね。現実世界でもあなた達と……家族で居られるっていうのは、とても嬉しい事ね。あなた達と一緒に暮らせる日……早く実現しないものかしら」
「
キリトが微笑みながら言った。
確かに、もし人間そっくりのロボットが発表されたとしても、それが実用可能レベルになるのには相応の時間がかかるだろうし、ユイ達を搭載するとなれば余計に開発が難航するだろう。それこそ、年単位の時間が要されるのは間違いない。
それでも、ユイ達と現実世界で家族になれる時が来るのは確かなのだ。そしてその前に必要になるものと言えば、一つしかない。
ここに来てからずっと求めていたもの。思い出しながら、シノンはキリトに微笑み返した。
「その前に必要になるものと言えば、あそこでしょ、キリト」
「あぁ、そうだな。早く見つけ出して、また皆で暮らしたいな」
この場に確かに自分たち家族は集まれている。けれど、ここはあくまでアスナの家であり、自分達の家ではない。
今自分達が求めているものは、アインクラッドの第二十二層の基となった大地と、あの家だ。
第二十二層のモデルとなった場所は、オルドローブ大森林やリューストリア大草原の外観にそう遠くなさそうだったので、くまなく探しているけれども、未だに見つける事が出来ないでいる。けれど、それに辿り着ける日は確実に近付いてきているだろう。また家族であそこに集まれる日は来るのだ。
その時の事に思いを馳せようとしたその時、部屋の中に大きな音が届いてきた。振り向いてみれば、そこにはややウェーブのかかった白紫色の髪の毛と紫を基調とした、大きな胸部を強調する衣装を身に纏う少女と、黒紺色を切りそろえたショートヘアにしている、ゆったり服装の小柄な少女の二人。ストレアとプレミアだった。
「ただいまー! 買いだし終わったよー」
「不足しているものは特にありませんでした。無事に全部揃える事が出来ました」
そう言って二人は部屋の中へと入ってくる。
二人はこの場を四人に任せて、《はじまりの街》に買い出しに出ていた。彼女達が夕食をする時刻は午後六時前後なのだが、今は既に八時を回っていても、夕食を食べていないのだ。
理由はプレミアにある。ちょっと前にシノンとアスナがプレミアに料理をご馳走してあげたのだが、それからプレミアは二人の料理にハマってしまい、宿屋や店屋の料理に満足出来なくなってしまったのだ。
今やプレミアはシノンがログインする予定があればシノンに料理をせがみ、シノンで駄目ならばアスナにせがむようになっている有様で、それで駄目でようやく店屋の料理を食べる気になるという。
別にリラン達が関係している事ではないのだけれども、リラン達もプレミアを差し置いて自分達だけ食事を摂るのも悪いと言って、食事を一緒にするようにしている。なので、リラン達が料理を口にするのはプレミアが口にするものとほとんど同じだ。
そして今日シノンがログインしたので、プレミアは料理をご馳走してほしいとお願いをしてきた。特に断る理由もなかったシノンは、二人に買い出ししてくるように言って向かわせていたのだった。
今まさに買い出しを終えてきた二人を出迎えたシノンは、二人が買ってきたものを確認する。中身の大半は《はじまりの街》で買える魚系、肉系、野菜系、飲料系食材だが、よく確認してみれば、《はじまりの街》では買えないもの――主にオルドローブ大森林のモンスターからドロップする食材アイテム――も混ざっていた。恐らくストレアがフィールドに赴いていた時に手に入れたものだろう。或いはプレミアが手に入れたものの、どう使えばいいかわからなくて困っていたものか。
いずれにしても、これだけの数があれば、キリトと自分を除くこの場にいる全員の腹を満たせるだけの料理を作る事が出来るだろう。
「二人とも、ありがとう。今日はこれで作るわよ」
「今日の晩御飯は何でしょうか、シノン」
「と言われても、かなりの品数が作れるわよ。とりあえずは準備をして待ってて頂戴」
プレミアの事を軽くあしらうようにしてから、シノンは二階へ目を向ける。料理を振舞わなければならないのは娘達だけではない。この家と一緒に事実上預かる事となった、アスナの息子であるユピテルも含まれているのだ。
リラン達からの話によると、最近ユピテルは一人で食事をしている事が多いうえに、一日のほとんどをネットワークの世界での学習や、この世界のフィールドでの戦闘訓練に割いているという。そのため、シノンは最近ユピテルと会って話をした事がほとんどない。
まさしく勉強漬けになっている優等生といったところだけれども、そんなのが長期化しているのは良くない傾向だと思うし、何より食事は皆と一緒に摂った方が美味しい。こうして家族と友人達を持った事でそれを強く感じるようになったシノンは、一人ぼっちになっているユピテルが気がかりで仕方がない。
今もユピテルはネットワークの世界で学習をしているようだが、ここは一つ、この場で食べさせてやるべきだ。振り返りながら、シノンはリランに声をかける。
「その前に……リラン、ユピテルの事だけど、あの子ってまだネットワークにいるんでしょ。呼び戻す事とか出来ないかしら。あの子にもちゃんと食べさせてあげないと」
「呼び戻す事ならば可能だ。最近あいつはろくに美味しいものも食べておらぬから、シノンの料理ににもさぞ喜ぶに違いない」
「そうでしょ。だから早くユピテルを呼び戻して頂戴。学習も大事だけど、皆との時間も大切なんだから」
リランは「承知した」と言い、ウインドウとホロキーボードを展開して操作を開始する。ユピテルへの連絡を任せたシノンはキッチンへ向かい、ストレアとプレミアが調達してきた食材を再度確認。ウインドウを開いてこれから作る料理を認め、調理を開始する。
食材を加熱する過程に至った時にリビングへ向き直ってみれば、娘達は既に食器を用意しており、料理が来るのを待っていたのが見えた。その中にプレミアも混ざり込んでいるのだけれども、不思議な事に違和感がない。
そもそもプレミアには妙な既視感がある。正体はつかめないけれども、プレミアの持っている特徴は自分は既にどこかで見ている。それが手伝っているのか、プレミアをユイ、ストレア、リランの中に加えてもやはり違和感がない。まるでプレミアもまたリラン達《MHHP》、《MHCP》の家系の一人であるかのようだ。
その中に今からユピテルが加わる事となる。AI達が揃い踏みするのだから、さぞかし賑やかな夕食となるだろう。出来る事ならばその中に参加したかったが、シノンもキリトも既に現実世界で食事を終えてきている。この娘達と一緒に夕食を摂る事が出来ないというのが、どこか悔しく感じられた。
そんな思いを胸に抱きながら調理を続けていると、リランが再度声をかけてきた。使っていたウインドウは既に閉じられており、ユピテルの呼び戻しが完了した事を証明していた。
「今ユピテルと繋がった。もうすぐこの家の二階に戻ってくるはずだ」
「それならキリト、ユピテルのところに行ってあげられないかしら。言われないとここまで来ないと思うし」
「わかった。ユピテルもシノンの料理が食べたいだろうし、腹も減ってる頃だ。迎えに行くよ」
そう言ってキリトは立ち上がり、リビングを出た。キリトがドアを閉めたのとほとんど同時に、作っている料理の加熱調理が開始され、食欲をそそってくるような匂いがリビングの中に充満し始めた。
□□□
シノンに言われたとおり、キリトは家の二階へ向かっていた。
八時を回っているため、窓から差し込んでくるのは街明かりをうっすらと宿した闇であり、それに歯向かうように天井の照明が廊下を照らしている。
「……」
階段を一段ずつ上がるたび、キリトはかつて《SAO》の第二十二層の家の事を思い出した。アスナの家の基本構造はそこら辺にある住宅とあまり変わりがないのだが、何となく自分達の過ごしていたログハウスの内装の雰囲気に似ていなくもない。
だが、やはり壁や足元を見てみると、ログハウスにみられるような質感や形状となっていないのがわかるため、あそ事は違うというのが再認識出来る。
ここはあくまでアスナの家であり、自分達の家ではない。自分達が過ごしていたあの家の所在はいまだ不明だが、この世界にある事だけは間違いない。先程のシノンとの会話を思い出していると、ごつんという大きな音が耳に届き、同時に額に強い衝撃と痛みに似た不快感を覚えた。
いつの間にか階段を上がり切り、寝室へ繋がる扉の前まで来ていた。考え事に
「ユピテル、入るぞ」
こんこんと二回程ノックしてから、キリトは寝室のドアを開ける。直後に飛び込ん出来たのは、一階や廊下のそれとほとんど変わりのない内装の部屋。白い石の壁にフローリングで、奥の壁際にベッドと簡易的なテーブルと椅子のセットが設けられているという、如何にも引っ越し仕立てといった飾り気のない部屋だ。
その中の椅子に、白銀色の長髪をほとんどアスナのものと同じ形にしている、白い服装が特徴的な少年が座っている。この部屋の持ち主であり、家と一緒に預かったのと同じ、ユピテルだった。
「ユピテル、戻ってきたのか」
ユピテルは答えない。手元にウインドウが複数展開されているのが見える。中身こそは確認出来ないけれども、ホロキーボードを操作しているのはわかった。
自分達が使っている時とほとんど同じような記入音が聞こえてくるが、その速さと頻度は並大抵のものではない。余程夢中になっているようだ。ここまで夢中になって学習しているのだから、邪魔しないべきか――キリトは声をかける事を一瞬
いくら学習する事に夢中になっているのだとしても、食事を摂る事を疎かにするべきじゃないし、ユピテルの分もシノンは作っていた。それに何より、姉妹達が長男を含めた全員で食事を摂る事を望んでいる。
キリトはそっとユピテルに近寄り、再度声を掛けた。
「ユピテル、夕飯が出来たから、一階に行くぞ」
ユピテルはまた答えなかった。よく見ると髪の中に白くて細いコードのようなものが入っているのがわかる。ゲーム内でミュージックを聞くためのアプリを起動し、イヤホン型オブジェクトとして使用しているようだ。ユピテルの返事がない理由を把握したキリトは、出来る限り音を出さないようにユピテルの側面まで移動。
いきなりその手をユピテルの顔とウインドウの間に差し込んだ。
「わあああああッ!?」
次の瞬間、ユピテルは大きな声を出して驚いた。あまりに強いリアクションだったせいか、ユピテルに連動して椅子ががたんと鳴る。予想通りの反応を示してきたユピテルに思わず吹き出しそうになったそこで、ユピテルは耳に差し込まれていたイヤホン型オブジェクトを引き抜きながら、顔をキリトへ向けてきた。
「き、キリトにいちゃん……何するの」
「こうでもしないとお前、気が付かなかっただろ。さっきからずっと呼んでたんだぜ」
「そうなの。全然聞こえなかった」
「音楽で耳塞いでれば、聞こえるわけないだろ」
苦笑いしながら言うが、ユピテルは笑う様子を見せなかった。何かあればきちんと笑う事の出来る子なのがユピテルなのに、そうしない。その時点でキリトは違和感を覚えたが、口にするよりも先にユピテルが言ってきた。
「キリトにいちゃん、何の用なの」
「あぁ、下に降りてきてほしいんだ。皆がお前を待ってるんだ」
「皆が? なんでぼくを?」
「飯の時間だからだよ。皆で一緒に食べようって言って待ってるんだ。リランから呼び戻しがあっただろ?」
ユピテルは何かを思い出すような仕草をした後に、何かを掴んだような表情を浮かべた。リランがユピテルを呼び戻したと言っていたから、その時のメールの意味を理解したのだろう。物事をなるべく単純に済ませようとする事のあるリランの事だ、ユピテルへのメールには「戻ってこい」と一言だけ添えていたのかもしれない。
「……そんな理由……? そんな理由だったの」
「そんな理由だって? 何言ってるんだよユピテル。皆で夕飯食べるんだぞ。お前だって腹減ってるだろ」
ユピテルは顔を隠すように俯いた。しばらく言葉を切らしてから、首を横に振った。
「……それなら、いらない。ぼく、戻る」
「おいおい、それはないだろ。シノンがせっかく作ったんだし、皆だって待ってるんだ」
「いらないってば。ぼくにはそんなものは必要ないんだ。ぼくの分はいらないって言っておいて」
ユピテルの口から発せられる、如何にも不機嫌そうな声と言葉にはキリトも驚くしかなかった。家族との食事をパスしようとする事なんかユピテルにはほとんどなかったし、こんな事を言ってくる事だってなかった。学習するたびに何か変な知識でもつけてしまったのだろうか。悟られないようにしながら、キリトはユピテルの肩に手を置こうとする。
「ユピテル、お前な――」
「邪魔しないでッ!!」
突然怒鳴り声をあげながら、ユピテルはキリトの手を振り払った。ぱしんという乾いた音が鳴り、延ばされていたキリトの手は明後日の方向へ引っ張られた。
ユピテルに手を振り払われた? 一瞬その出来事がわからなくなり、キリトは唖然としてしまった。ユピテルは首を何度も横に振った後に、大きく口を開けた。
「ぼくは強くなりたいんだよ! 賢くなりたいんだよ! ならなきゃいけないんだ!! だから邪魔しないでッ!! ぼくの邪魔をしないでッ!!」
一階まで飛んでいきそうなくらいの怒声。自分ならばそれくらいは出来るけれども、自分より遥かに身体の小さいユピテルが発している。そしてその内容は、普段欲するものの全てを拒否するという、これまでのユピテルから考えられないものだ。今ここにいるユピテルは、自分の知っているユピテルなのだろうか。
「……ッ!」
ユピテルの言動の全てが信じられず、キリトは茫然としたままユピテルを見ている事しか出来なかった。やがてユピテルはキリトに背を向け、ウインドウを展開して操作。間もなく目の前の空間に穴のようなものが出現した。その穴を両目で捉え、ユピテルはか細く言った。
「……お願いだから、ぼくの邪魔をしないで」
「ユピテル!」
そう言ってユピテルは、転移門をくぐった際に生じるそれとは異なった光を放つ穴へ飛び込んだ。寸前でキリトが呼びかけつつ手を伸ばしたが、指が届くよりも先に穴が閉じた。
部屋の中に静寂が戻る。家全体に防音効果が付与されているため、街の音も聞こえてこない。その中でキリトは立ち尽くすしかなかった。
「ユピ……テル……?」
ユピテルはあんな事を言うような子じゃなかった。喜ばしい事を拒否する事もなければ、相手を怒鳴りつけたりする事だってなかった。
母思いで優しい男の子。それこそがキリトの中のユピテルの像だったが、今がらがらと音を立てて崩れていっていた。頭の中に次々と疑問が沸き起こる。
ユピテルは学習を重ねて強く、賢くなっていっているそうだが、どこか不穏なところへ行こうとしているようにも見える。何か強くて大きな衝動に無理矢理突き動かされているとも思える。
ユピテルは自分の知っているユピテルとは違う存在になりつつあるのだろうか。
今のユピテルには何が起きているというのだろうか。
キリトは茫然としたまま、ユピテルの去った部屋で立ち尽くしていた。