「うわあぁぁ!」
燥ぎながらユピテルが駆けこんでゆく。
《はじまりの街》、十八時三十分。
今のアスナとユピテルの居場所は《はじまりの街》の居住区、そこに点在する一軒家の中だった。皆の協力のおかげで、アスナは無事に受けていたクエストをクリアする事が出来、報酬金を受け取る事が出来た。
それこそが最後のピースとなり、アスナの持っているコルの額は目を付けていた家を買う事の出来るところへ到達。皆に礼を言いながら街へ帰ってきて早々、アスナはその家の元へ向かい、購入ボタンをクリック。仲間達――キリトやシノン――よりも先にマイホームを獲得する事に成功したのだった。
「ここがぼく達の家なの?」
「そうだよ。今日からここがわたし達の家。ユピテルは今日から宿屋からこっちにお引っ越しよ」
「すごーい! ここがぼくの家だなんて!」
《SAO》の頃に住んでいた家と若干雰囲気の似ている内観のリビング。すぐそこにはダイニングとキッチンも備え付けられており、料理をすぐにダイニングにも、リビングにも持っている事が出来るし、十人以上の客を呼んだとしても十分なくらいの広さがある。これからは皆との集会所のようにして使う事も出来るようになるだろう。
しかもこの家は二階があり、そこに寝室が築かれている。寝室は防音仕様になっていて、ここからの音はあまり入ってこないから、ユピテルが寝ている時間でも皆と話が出来るだろう。
それに何より鍵を持っているのは自分とユピテルだけであり、尚且つ知らない人に家を開かない事もすでに教えてあるため、ユピテルは心配なく寝て過ごす事が出来るようになる。寝室は事実上ユピテルの部屋と言っても過言ではない。
この世界で家が手に入るとは思ってもみなかったのだろう、ユピテルはあちらこちらを走り回り、備え付けの家具をまじまじと見ている。
家具の品質は実用可能レベルの最低限なくらいであり、《SAO》の頃に使っていたモノと比べると劣る。
家を買ったのはいいけれど、次からは家具も買わなければならないから、結局しばらくの間はコル稼ぎがメインとなりそうだ。だが、そうであっても今日からここがこの世界の我が家となり、何よりユピテルとの居場所となる。それだけでアスナは十分に嬉しかった。
キッチンも必要最低限のものしかそろえられていないが、それだけでも十分に料理をする事が出来る。ウインドウを開いて時間を確認してみれば、いつもの夕飯の時間。この家での初めての料理と食事をするのに丁度いい。
「さぁてと。早速だけどユピテル、夕飯にしましょう。何が食べたいかな?」
ユピテルは振り向くなり、笑みを浮かべて、
「かあさんの料理なら何でもいい」
と簡単に答えてみせたが、アスナは思わず苦笑いしてしまった。
何でもいいというのが作る側としては困ったオーダーだ。具体的に何が食べたいかさえも掴めないから、何を作ったらの良いのかわからなくなる。
しかし、それは友人や仲間に言われた場合だ。ユピテルの好きな食べ物はある程度決まっているため、何でもいいと言われてもそこまで困る事はない。
アスナはウインドウを展開し、ストレージの中身を見る。皆と採取クエストを進めるにあたって、沢山の野菜系食材アイテムも一緒に手に入ったし、途中で猪型のモンスターなどとも戦闘したので、肉系食材もある。常備しているクリーム系食材と合わせればクリームシチューが作れそうだ。
「わかったわ。今持ってるものだけで作ってみるね」
「何? 何作るの?」
「それは出来てのお楽しみ。けれどもユピテルの好きな食べ物だよ」
ユピテルは「わぁい!」と言ってから、テーブルへ向かった。そこからすぐに食器アイテムをウインドウから取出し、並べていく。
《SAO》、ALOの時からやってもらっているのだが、ユピテルはご飯時になるとしっかりと準備を始めてくれる。食器の並べは勿論の事、食後にはちゃんと後片付けだってしてくれるのだ。
最初に教えた時は不安だったけれども、徐々にそれはユピテルの中で日常化されていき、今となってはアスナがご飯時というだけで準備をしてくれるようになった。これもまたユピテルの成長と言えるだろう。
息子のしっかりとした成長を喜ばしく思いながら、部屋着のアスナはキッチンへ向かい、食材アイテムをまな板の上に乗せる。続けて鍋を呼び出して置き、料理包丁を召喚して食材をクリックするように叩くと、次の瞬間に食材は一口サイズの大きさの複数個に分かれた。
現実世界ではちゃんと自分の手でやらなければならないけれども、この仮想現実世界ならば大幅に省略された手段で料理をする事が出来る。最初はその簡単さに呆れたものだが、今となっては便利さを感じるくらいだ。……流石に現実世界までこんなに便利になってしまったら不気味だとは思うけれども。
そんな簡単な調理を終え、食材とクリームとミルクを注ぎいれた鍋を
不思議な事に、この世界での料理の中で最も時間を要する調理は加熱だ。食材の切り分けなどは一瞬で出来てしまうのに、煮込みなどの加熱処理は――それでも現実世界と比べたら遥かに早いのだが――五分ほどかかる。そのアンバランスさにも、アスナは最初首を傾げたものだ。
調理をしている間にもユピテルの準備の音は聞こえて来ていたが、今は止んでいた。《SAO》の時はユウキもいたから、三人分の食器を用意する必要があったけれども、今は二人分の準備をしてしまえば済む。ので、二人分の食材があれば料理も足りるし、その分時間も短縮されている。
それがどこか寂しさを感じさせてくるものだったが、今となってはユウキにもユウキの事情があるから仕方が無い事だ。そう思いながらリビングの方に向き直るなり、アスナはきょとんとした。
ユピテルが食器の用意されたテーブルとセットになっている椅子に座っていたのだが、忙しなくきょろきょろと周囲を見ていたのだ。
新しい家に引っ越したから、様々なものが新鮮に思えて気になっているのではないかとも思ったが、それにしてもかなり
「ユピテル、どうしたの。そんなにきょろきょろして」
いつもならばすぐに答えてくれるというのに、ユピテルは答えようとしない。それ自体が疑問となり、アスナは再度ユピテルに声をかけようとしたが、それを
「……ぼく、ここ知ってる」
「えっ?」
「ぼく、ここを知ってる」
アスナは数回瞬きを繰り返した。ここは《SAO》の頃に過ごしていたあの家によく似た内装だから、見覚えがあっても不思議ではないだろう。ユピテルの言っている事は的外れな事ではなかった。
「それはそうだよ。ここは《SAO》の時に過ごしていた家に似てるもの」
「そうじゃない。ぼくはこことよく似たところを、もっと昔に見た事あるんだ」
ユピテルは立ち上がった。椅子が倒れてがたんと鳴り、アスナは一瞬だけ驚いてしまう。次の瞬間にユピテルは上を見ていた。
「……ユピテル?」
「……それだけじゃない……ぼくには……やらなきゃいけない事があったんだ。ううん、やらなきゃいけない事じゃない、
ユピテルはリランと同じ《MHHP》、《メンタルヘルス・ヒーリングプログラム》だ。人の心を治療することを使命としている、そこら辺のAI達を超越した性能と機能を持ち合わせているAI。
だから、変な事を言ったりしないのだが、今のユピテルはその変な事を口にしているようにしか見えず、徐々にアスナの背中に悪寒を走らせていった。
「今すぐに治しに居なきゃいけない人がいたんだ……ぼくはその人のところに行かなきゃいけないんだ」
戸惑ったような声を出しながら、ユピテルは上へ手を伸ばす。どこか別な世界へ繋がっている扉を開けようとしていて、その扉をくぐった先にいる何かに手を出そうとしているようだ。しかし、それから間もなくユピテルはその手を自分の頭に向け、抱え込んだ。
「けれど、けど、その人は誰? 誰だっけ? どんな名前だったっけ。どんな名前で、どんな人で、どんなふうで……その人は、その人は、その人はその人はその人は……」
ユピテルの口から出てくる言葉はどんどん数を増やしてくるが、内容は変わらない。まるで早回しにしたレコード、もしくは一つの事情を延々とループさせているかのようだ。
直後、ユピテルは自分の髪の毛を握り締めて、そのまま潰すくらいの力加減で押さえつける。現実だったらぶちぶちという髪の毛が
アスナの背中に走る悪寒は強くなっていき、頭の中にこれまでユピテルが起こした異変や異常の数々がフラッシュバックする。
鼓動がどんどん早く、はっきりとしたものへ変わってきていた。心臓が胸の中から飛び出して、喉までせり上がってきているようだ。
「ぼくは、その人は、その人が、その人の心は、心は、心を、ぼくは治さなきゃ。治さなきゃいけなかった。ぼくはそのために
「ユピテルッ!!!」
あまりに大きな声が部屋の中に木霊した時、アスナはユピテルの華奢な身体を抱き締めていた。無理矢理こちらの方を向かせ、ユピテルの顔を胸の中へ押し付けさせる。
そこでユピテルの言葉は止まり、同時にユピテルの身体が妙な熱を帯びているのがわかった。熱病を発症しているかのようだった。
「ユピテルっ……」
「……かあさん……」
胸の中からの声を聞き、アスナは更に強くユピテルの身体を抱き締めた。ユピテルは動こうとしない。何が起こっているのかわからないでいるようにも思える。
「落ち着いて……落ち着いて、ユピテル」
アスナはユピテルに、そして自分自身に言った。母の声を聴いたユピテルは顔を母の胸に埋めたまま、くぐもった声を出してきた。
「かあさん、ぼくは……? ぼくの治さなきゃいけない人って誰なの。その人は、誰だったの」
アスナは答える事が出来ない。ユピテルの身に何が起きているのかわからないし、何を言っているのかさえもわからない。まるでどこか違う世界の出来事を体験させられているようにも思えるくらいだ。
そのわからない事であふれかえっている現状でわかっているのは、ユピテルを――加えて自分自身を――落ち着かせる必要があるという事だけだ。
「落ち着こう……落ち着こうよ、ユピテル。ひとまず、落ち着こう……」
アスナは自分自身に言い聞かせつつ、ユピテルの後ろ頭にそっと手を添えて、そのまま優しく撫で上げた。自分と同じシャンプーアイテムを使っているためか、ユピテルの髪の毛は男の子のものとは思えないくらいに柔らかく、絹のような触り心地だったが、今のアスナにそれを気にする余裕などなかった。
やがてユピテルはアスナの背中に手を回し、ぎゅうと服を掴んだ。助けを求めるようにしがみ付いて来ているようにも思えるくらいの力だった。
「かあさん……ぼくは……ぼくは……」
アスナは何も言い返せない。いつもはユピテルが疑問を示したならば、すぐさま答えてあげる事が出来るというのに、今のユピテルに対する妥当な答えが見つからない。
いつだってそうだ。これまで散々勉強して様々な知恵を付け、学校で最上位に位置するくらいの成績を残して来ていたというのに、身に着けた知恵や知識は、ユピテルやユピテルの生きている世界に対しての異変には全くと言っていいほど役に立たない。自分の学んできた事は、この世界やユピテルの前では何一つとして、力を発揮した事がないのだ。
今だって、苦しんでいる我が子を助けるための答えを導き出す事が出来ない。けれども、抗う事をやめられなかったアスナはひとまず周囲を見た。先程竈で加熱処理を開始したシチューが出来上がっており、アスナの回収を待っていた。
「……ユピテル、ご飯食べられそう?」
胸の中のユピテルはしばらく動かないでいたが、やがて頷いた。更に耳元で
「それじゃあ、ひとまずご飯を食べて落ち着きましょう。それで……食べ終わったら、ちょっとわたしと出かけましょう。ユピテルに来てもらいたいところがあるの」
ユピテルが再度頷いたのを感じると、アスナはユピテルの身体を一旦離した。何も言わずにその頭を撫でてあげてから、アスナはユピテルを椅子に座らせ、出来上がったシチューの待つキッチンへ向かった。いつにもなく、部屋の中が静かに感じられた。
□□□
シチューを主食とした夕食の後、アスナはユピテルを連れてフィールドへ出た。そこはつい最近解禁され、日中は皆と共に探索に出かけていたオルドローブ大森林ではなく、そこから一つ前のフィールド――既に攻略済みのリューストリア大草原だ。
フィールドそのものにそういう気象設定がなされているのだろう、ぽかぽかとした陽気と温かい風が吹いてくるのがかの大草原なのだが、夜になると肌寒くなり、夜行性のモンスター達が活動を開始するなど、雰囲気が一変する。
しかも場所によっては
一応プレイヤーと同じ扱いを受けてはいるけれども戦闘能力を持たないユピテルを外敵から守りながら、既に日の落ちた大草原を抜けたその後、アスナは大きな岩山に空いた洞窟の中へ赴いた。
地下への通路のような形状となっているその奥へ潜っていくと、それまでごつごつとした岩肌で構成された周囲は鍾乳洞を思わせるような形へと変わっていった。
それだけで既にユピテルにとっては驚きだったようで、周りの風景が変わってきたころから周りを仕切り見渡すようになり、時折声を出して反応を示すようになった。その声に答えながら更にその中を進んでいくと、湿気が強くなってきて、加えて熱を感じられるようになってきた。
天然のミストサウナの中にいるようになり、ユピテルは更に強い反応を示すようになったが、そこから間もなくしてアスナが目的地に指定した場所に辿り着き、ユピテルは一際大きく驚いてみせた。
鍾乳洞のような形状の岩々に囲まれた洞窟の一角に、白い湯気の立つ巨大な湯池が姿を現したのだ。丁寧な事に、周りの岩壁には
「かあさん、ここって……温泉?」
「そうだよ。ここが目的地!」
ユピテルはさぞかし興味深そうに周囲を見回し、湯池より立ち上る湯気を浴びながら歩き回る。
ここは以前、アスナがリランとユウキと共にリューストリア大草原の探索を行っていた際に偶然見つけた場所だ。
モンスターやプレイヤーなどの気配には強い反応を返すくせに、フィールド関連のモノにはほとんど反応を示さないリランが、ここの入り口である岩山の洞窟に反応を示し、そこに何かあると言った。
半信半疑で潜ってみたところ、そこは天然洞窟のダンジョンとなっており、通路が何回も分岐している、非常に入り組んだ形状となっていた。
大勢のプレイヤーで潜ればはぐれる事間違いなしの構造となっているその中をリランの感じるモノを頼りに進んでいったところ、徐々に湿気と湯気のようなものを感じるようになった。
洞窟は地下に続いているため、このまま進み続ければ溶岩地帯へ辿り着くのではないかとも思ったが、その先に広がっていたのがこの温泉地帯。この場所から来ている湯気こそが、リランの感じるモノの正体であったのだ。
まさかの秘境温泉の発見に成功したその時は三人で驚くと同時に大喜びし、更にユウキの提案で湯の中に入る事を決定。見つけた三人だけで、ゆっくりとその湯を堪能したのだった。
その後だが、三人は未だに仲間や友人達にこの場所の事を話したり教えたりしていない。
皆にこの温泉を教えるのは、皆が思い切り攻略をして疲れ切った後。その時初めて公開して皆を驚かせてやろうと三人で決め、湯を楽しんだ後も知らぬ顔をしたまま戻ってきて、未だに話さないでいたのだった。
そしてたった今、ユピテルが四人目の温泉を知る者となったのだ。
「前から二人でここに来たかったんだ。ユピテルも温泉好きだから、大丈夫だよね」
「そうだけど、他のプレイヤーの人達は? ぼく達だけで利用出来るわけじゃないんじゃ」
その初見時に色々調べてわかったのだが、この温泉地帯はモンスターの入ってこれない安全地帯であるため、安心して湯に浸かる事が出来る。
更にこの温泉は利用時に所謂
その事をユピテルに話してから、アスナは温泉の入り口付近にある、プライベート設定などを扱う看板のオブジェクトを操作。自分とユピテルだけの
ユピテルは湯池に近付いてしゃがみ込み、そっと手で湯をすくったりしていた。顔に笑みが浮かんでいるあたり、湯加減はユピテルにとっても丁度いいようだ。
「よし、それじゃあ入ろっか、ユピテル」
「うん」と答えて、ユピテルはウインドウを展開。装備品ウインドウを呼び出して中にある装備フィギュアを指先で操作し、装備品、アクセサリ、そして髪型を一旦解除しておろしてから、入浴する際の形へと切り替え、下着の装着も解除した。
同刻、アスナも同じように装備品ウインドウを操作して身に纏っている装備品や衣服を全て解除、髪型をユピテルと同じものに変えて、風呂に浸かれる状態となる。
そこから二人で同時に足を湯池の中へと入れ、そのまま滑り込むようにして肩まで湯へ浸かった。《SAO》の頃からそうなのだが、VRMMOは水の表現をあまり得意としていないようで、《SAO》や《ALO》で温泉や風呂に入ったりすると、現実世界にはない何とも言えぬ違和感を抱いてしまうようになっていた。
しかし、この《SA:O》ではその辺の表現力も進化しているのか、その違和感はあまり強く感じられず、寧ろ現実世界で湯加減の良い温泉に浸かっているのとほとんど同じように感じられた。
恰も現実世界の高級温泉旅館の大浴場の中にいるような気分になり、身体の底から疲れが溶け出てくるような暖かさに包み込まれ、アスナは大きな声を出した。
「んんー! やっぱりここの温泉は気持ちいいなー」
「湯加減もすごくいいよ。あんな洞窟の中にこんな場所があったなんて」
アスナよりも身長も座高も低いユピテルは首から下がすっぽりと湯に浸かっており、まさしく温泉を全身で堪能しているようだった。
その顔も非常に心地よさそうなものであり、心と身体の底から湯を楽しんでいるのがわかる。ここまで来る途中、辿り着いたとしてもユピテルは気に入ってくれないかとアスナは数回不安に思ったが、その全てが杞憂に終わった事に改めて安堵する。
普段はここに温泉好きのリズベットや、全く温泉に行かなかったというシノンの姿もあるものだが、そんな友人達の姿はどこにもない。自分とユピテルの親子水入らずな状況に、アスナはどこか嬉しさを抱いていた。その中で、ユピテルが話しかけてきた。
「それにしてもかあさん、こんな場所、よく見つけられたね」
「ここを見つけたのはリランなんだよ。あなたのおねえさんのおかげで、こうしてわたし達は温泉に浸かれてるんだよ」
もしあの時リランがいなかったならば、今頃こうしてユピテルと一緒に温泉に入っている事などなかっただろうし、《SA:O》のフィールドにこのような穴場スポットが存在している事にさえ気付かなかっただろう。
再度リランの協力をありがたく思ったその時、アスナはその弟の方を見て少しきょとんとした。つい今の今まで湯を楽しむ事に夢中になっていたユピテルの顔が、少し複雑そうなものへ変わっていたのだ。
「ここを見つけたのも、ねえさんなんだ……ねえさんがフィールドで……」
独り言のように呟くユピテルに、アスナは首を傾げてしまう。これまでのユピテルからはあまり想像がつかない様子だった。
「ユピテル?」
「ねぇ、かあさん」
「うん?」
「ぼくはねえさんと同じ《MHHP》で、ユイとストレアのおにいさんなんだよね。なのになんで、ぼくはねえさん達みたいな事が出来ないの」
顔に影の落ちるユピテルの言葉には、アスナは何も言い返す事が出来なかった。ユピテルはリラン/マーテルの弟であり、開発者であるイリスの話によれば正式名称は《メンタルヘルス・ヒーリングプログラム試作二号 コードネーム:ユピテル》。
この正式名称をリランは良く理解しており、自分でその事を口にしているけれども、ユピテルはリランや皆に教えられる形で自分が《MHHP》であるという事を認識している。
なのでユピテルは先に作られたリランの事をねえさんと呼んでいるのであり、リラン同様の人を癒す機能を発揮する事が出来る。だが、それはユピテルがまともに機能していた場合の話だ。
今のユピテルは《SAO》の時に起きた破損がそのまま放置されている状態にあり、こうして自分達が教えなければ自らが《MHHP》であるという事を認識する事も出来なかったし、自覚する事さえなかった。
そして何より、その破損のせいでユピテルは記憶をすべて失ってしまっており、自分の使命が何であったのか、何を目的にしていたのかさえわからないでいるのだ。
《MHHP》としての使命についてはリランが後天的に教えているし、実際にそれを思わせるような言動を起こす事もあるけれども、そのような事は余程の事がなければ稀であり、リランのような積極性もない。
そして何より、リランは人の項に手を伸ばす事によって、人の精神を治療する能力を有しているけれども、同じ《MHHP》であるはずのユピテルは内部の破損の放置によってそれを発揮できていない。
人を癒す使命――それがユピテルの腑に落ちているのかと言われたら微妙なところだし、リランと比べたら非常に劣った存在のように感じられる。
「それにぼくには、治さなきゃいけない人がいたんだ。治さなきゃいけない人が、確かにいたんだ」
ユピテルがもう一度頭を抱えるなり、アスナは「あ」と小さな声を漏らす。あの不可解な現象がまた起ころうとしている。
何も思い出せないはずのユピテルが何かを思い出そうとしているという事情。壊れた中身を必死に探り、何かを見つけようとしている。
ただでさえ中身が壊れてしまっているのがユピテルなのに、無理矢理何かを思い出そうとしたならば、もっと壊れてしまう。そうなってしまったらユピテルはもう――。
いや、駄目だ。ここでそれに負けてしまっては駄目だ。込み上げてくる恐怖心をぐんと飲み込み、アスナはユピテルに問うた。
「ユピテル……それは何なの。あなたが思い出せそうな事って、何なの。それは話せそう?」
ユピテルは手を離し、俯いた。ひとまずあの時の発作的な動作は起こさずに済んだようだ。
「……ぼくのやるべき事……それはねえさんと同じ。けれどぼくには、それ以上に大切な人がいたんだ。ぼくはその人のところに行かなきゃいけなかったんだ。でもぼくは、その人の事は思い出せない。名前も形も、どんな人だったかもわからないんだ。
ううん、思い出せても駄目だよ。ぼくにはねえさんみたいな力はない。ねえさんみたいに誰かを癒したりできない。誰かのために戦ったりする事も出来ない……」
ユピテルは顔を上げて、アスナと目を合わせてきた。目尻に涙が浮かんでいた。
「かあさん……ぼくは……ぼくは何のために
アスナは言葉を詰まらせた。ユピテルの問いかけには何も答えられないのが悲しくなる。自分はユピテルにかあさんと呼ばれているから、この子のたった一人の母親なのだ。子供が困り、迷っていたら手を差し伸べてあげなきゃいけないのに、そのような事は何もできない。
何度も見てきたユピテルの青い瞳の中に自分の姿を映しても尚、何も答える事が出来なかった。
やがて、ユピテルは何かに気付いたような顔になり、顔を
「……かあさん、ごめんなさい」
「え? どうして謝るの」
「こんな事をかあさんに聞いても仕方がないのに……ぼく、かあさんを困らせて……」
アスナは小さな声を漏らした。自分は思ったよりも困り顔となってしまっていたらしく、ユピテルが困らせたとわかるくらいであるようだ。
謝らなければならないのはわたしの方だ。アスナはそう思った。
ユピテルは明らかに困っているし、悩んでいる。自分で答えを見つけ出す事も困難な状態になっているというのに、母親である自分に出来そうな事が何もない。我が子の悩みを解決してやる事が出来ないのだ。
それこそまるで、自分の事を何も気に留めてくれなかった自身の母、
けれども一つだけ、確かにユピテルに対して思っている事はあるのだ。それを胸の中から登らせたアスナは、ユピテルへ声を掛けた。
「ユピテル、あなたは今……どうしたい。あなたは今、どうしていたい。それだけ教えてくれないかな」
ユピテルは少しびっくりしたような顔をしてから、アスナから湯池へ顔を向けた。湯面に映る自分を見つめて数秒後、その顔をアスナの方へ戻した。
「かあさん……今、抱き締めてもらってもいい」
「え? 今?」
アスナは自分の身体を見る。これまでユピテルの事は何十回も抱き締めてきているけれども、それは全て服を着ていた状態の時だけだ。今の自分は裸であり、ユピテルに何も隠す事なく見せつけている状態。その状態で抱き締めてくれというユピテルの願いは、少し顔を赤くさせるものだった。
だが、それまでのユピテルの事を思い出すと拒否する気が消えていき、やがてアスナは首を縦に振った。
「……おいで、ユピテル」
ユピテルは若干ぱしゃぱしゃという音を立てながら、裸のアスナの胸元へやってきた。何も遮るもののない姿の、ユピテルの華奢な身体にアスナは手を廻し、しっかりと抱き締める。だが、やはり何も着ていないという事もあってか、ユピテルの顔が胸元に押し付けられると、くすぐったさがこみあげてきた。
それにも慣れた頃に、ユピテルはくぐもった声で伝えてきた。
「ぼくは……どうしたらいいかわからない。治さなきゃいけない人の事も思い出せないし、その人の事をどう治したらいいかもわからない。どうすればいいかわからないけれど……ぼく、ここが好きだって事だけはわかるんだ」
「ここって、温泉の事?」
「ううん。かあさんの胸の中。何も着てないかあさんの胸の中だよ」
アスナは思わず目を丸くした。ユピテルはアスナの胸の中で深呼吸をしてから、続ける。
「こうして何も着てないかあさんに抱きしめられると、全部わかるんだ。かあさんの暖かさも、匂いも、触り心地も、全部。かあさんが今ぼくのすぐ傍に居て、ぼくもかあさんのすぐ傍に居るって全部わかるから、すごく安心できるんだ。だから、ぼくの好きな場所はかあさんの胸の中なんだ。なるべく、何も着てない時の……。
だからぼく、かあさんとずっと一緒に居たい。治さなきゃいけない人のところへ行かなきゃいけないけれど、かあさんの傍にも居たいんだ……これからも、ずっと……かあさんの傍から離れたくない」
ユピテルの息が当たったりしてくすぐったいが、それ以上に胸の中が暖かくて仕方がないし、愛おしさが込み上げてくる。
我が子であるユピテル。その真実の姿がどんな存在なのかはわからない。ユピテルが何を思い出そうとしているかも想像がつかない。
だけどこのユピテルは、自分が母親であるという事だけわかってくれていて、愛してくれている。
愛させてくれて、愛してくれる。それをしかと胸の中に溶け込ませ、アスナはユピテルに
「……わたしもだよ。わたしもあなたの傍に居たい。あなたの傍にずっと居たいよ。それに……そんなに焦らなくていいのよ、ユピテル。あなたを閉じ込めていた《SAO》は終わって、あなたはもう自由なの。その人の事はわたしもわからないけど、思い出せそうなら、これからゆっくり思い出していけばいいの。そんなに急じゃなくていいんだよ」
「……!」
耳を澄まさなければ聞き逃してしまうようなユピテルの声を聞き逃さなかったアスナは、ユピテルの耳元で小さく言った。
「わたしは……かあさんは今のままのあなたが、大好きだから……」
アスナの胸の中のユピテルは小さく頷き、微笑んだような声を出した。それから湯池から上がるその時まで、アスナは愛する我が子を何にも包まれていない胸の中に入れていた。
オーディナル・スケールのBD版を見た人、残念だったな。
この作品でのアスナの美乳はユピテルの特等席だ。