空都ライン エギルの経営する喫茶店
「皆、今話した通りだよ。俺はレインにどんな意図があったとしても、彼女を責めるつもりはない。だから皆も、レインの事を許してやってくれないか」
レインの真相を聞いた後、俺達は空都ラインに戻り、エギルの喫茶店で今後の事を話しあう事にした。レインは、俺達にシャムロックの情報を横流ししていたという、傍から見れば誉められるような事ではない事をしていて、尚且つ元はシャムロックに居た事を隠していた。
つまり、俺達の事をずっと騙していたという事なのだが、それを知っても尚、俺はレインを責めるような気にはならなかった。確かにレインのやっていた事は、攻略を進める上ではありなのかもしれないけれど、いい気を感じない、寧ろ悪行にも感じられる行動だ。だが、レインがそこまでするというのは、余程の事情があったからであるとしか思えない。
きっとレインには、何か大きな事情があるんだ――その事を、俺は皆を集めて話した。席に座っていたり、壁の付近に居たり、立ち上がったままになったりしている皆は、俺の話を聞き終えるなり、小さく喉を鳴らしたような音を出したり、沈黙を貫いているだけだった。
まさかレインにここまで騙されているとは、俺も思ってもみなかったし、そもそもレインが攻略のライバルであるシャムロックだったというのも、全然予想できていなかった。そういう事もあったものだから、皆もレインの事を責めるなという俺の言葉を呑み込むのは、簡単ではないのだろう。
その時、最初からレインを疑ってかかっていたカイムが席から立ち上がり、レインに歩み寄った。同刻ユウキが小さくカイムの名を呼んだが、本人には聞こえていないようだった。
「ぼくは反対だよ。納得できない」
「カイム……」
「いくら相手が許したとしても、そこまでの事をする事情を、ぼく達は知る必要があるはず。まず、それを話してよ、レイン」
問い詰められてレインは戸惑うが、カイムはじっと鋭い瞳でレインの事を睨みつけながら、その距離を詰めていく。いつもならばここでユウキがカイムの顔に掴みかかるところだが、ユウキもまた疑問を抱いているかのような目で、レインを見ているだけだった。……ユウキもこうしてレインにずっと騙されていたわけだから、レインを疑わないわけにはいかないのだろう。
「待ってくれカイム。そんなに詰め寄るな」
「……ようやくキリトも皆もSAOから抜け出して、今度こそみんなで仲良く、楽しくゲームで遊べるって思ってたのに、これ? 冗談じゃないよ。こんなんじゃ、全然楽しくゲームなんか出来ないじゃないか」
「カイム……!!」
直後、カイムは俺の方に目を向けてきた。一緒にゲームしている時なんかには全く見せる事のない、強い怒りが込められた目だった。
「それに、ちょっと甘いよキリト。キリト達は今、凶悪な連中に狙われてるんでしょ。
この前だってハルピュイアとかいうのに襲われたし、シノンさんだってすごく凶悪な奴に襲われて、酷い思いしてる。もしかしたらレインだって、そいつらの仲間かもしれないじゃない」
そう言われて俺は言葉を詰まらせそうになる。確かに俺達にはハンニバルという明確な敵がおり、それにつけ狙われている。そしてPoHがそうだったように、誰かがハンニバルの指示の下に動いているのか、ハンニバルの仲間であるのかさえ、わからない。だが、少なくともレインがハンニバルの指示の下に動いているとは思えないし、そのような関係がありそうにもない。
「いくらなんでもそれはない。レインは、そう言った奴らとは無縁だ」
「なんでそう言い切れるの。そうだって証拠があるっていうの」
「証拠はないけれど、それはだけはないってわかるんだ」
「だから、なんでそう言い切れるんだってば」
レインの事を強く警戒しているためなのか、カイムは中々引き下がらない。このまま続けたら、恐らくカイムと口論になるだろうと思ったその時に、レインが突然大声を出した。
「ごめんなさい! わたしが、わたしが悪かったの。わたしがシャムロックの情報を皆に横流ししたり、嘘吐いてたりしたのが、全部いけないから……。
もうわたし、皆の周りをうろちょろしたりしないから、だから、これ以上お友達同士で喧嘩をするのはやめてほしいです……だから、もう、やめて……」
カイムと二人でレインに向き直る。このような事になるのは思っていなかったのか、レインの目元に光る物があった。――お願いだから喧嘩しないでという、レインの訴えがそこに浮かび上がっていた。
「本当に、本当にごめん、わたし、わたしは……」
「レイン、ちょっと席を外してくれないか。もうちょっと俺達の方で冷静になってみるから」
そう言ってやると、レインは少し驚いたような顔をした後に俯き、静かに頷いて、喫茶店の外へと歩いていった。ドアが開いて閉じた音が、重い沈黙が包み込む喫茶店の中に響いた直後に、俺は皆の方に声をかけた。
「皆、気を悪くさせちゃったな。俺からも謝るよ。だけど、今言った通りだよ。俺はレインを信じる。あの娘にはきっと何か、大きな事情があるんだ」
そこで立ちながら話を聞いていたクラインが、まるで挙手をするかのように、俺に言葉をかけてきた。その表情はクラインにしては珍しい、気難しさを感じさせるものだった。
「別にカイムに賛同するわけじゃねえけれどよ、どんな事情があったとしても、ギルドの内部情報を使ったりするのは、モラルに欠けるってもんじゃねえのか。お前だって、血盟騎士団の団長やってた頃は、そういう事に気を付けるように言ってただろ」
例えゲームの中の話であったとしても、ギルドの内部情報は、ギルドにとっては最重要機密と言ってしまってもいい。それを外部に漏らすような事は絶対にするべきではない、防ぐべきだと、血盟騎士団の団長だった頃は、皆にそう言ったものだ。
「確かにな。それに、レインが嘘を吐いてシャムロックに入っていたのは、スメラギが言っていた通り、事実だろう。だけど、俺は彼女が当時のギルド登録データを使って内部情報を入手していたっていうのは、何かの勘違いであって、真実は異なってるんじゃないかって思うんだ」
「どういう事?」
カイムが腕組みをしながら聞いて来ると、俺ではなくユイがその質問に答えた。ほぼ全員の注目がユイに集まる。その時のユイの姿は、いつもの小妖精の姿ではなく、SAOにいた時と同じ少女の姿だ。
「わたしもそう思います。ギルド脱退後はすぐさま登録情報も強制的に削除されて、内部情報を知る事は出来なくなります。スメラギさんはああ言ってましたが、タイムラグなんて存在しませんから、レインさんがシャムロックの動向を知る事は、不可能です」
スメラギの言葉を聞いた直後だから、皆の方で驚きの声が上がる。この驚きの中には、スメラギの言葉が真実ではなかった事と、レインがその方法を使ってシャムロックの情報を手に入れていたわけではないという事の二つが含まれているのがよくわかった。そこで俺は、近くの者達に聞こえるように言う。
「……だというのに、レインはそれを否定しなかった。という事は、汚名を被ってでも何かを隠し通したかったに違いないんだ」
「じゃあ、どうやってレインはシャムロックの情報を? いやそもそも、レインが隠してる事ってなんなの。キリト、わかるの」
カイムからの問いかけに、俺は首を横に振る。流石に俺も、これだけはレインの目的などを把握する事など出来ないし、レインの隠し事もわからない。だが、レインの事は信用できて、尚且つレインが邪な事を考えているわけではないというのはわかる。
「それはわからない。けど、あの娘にとってはすごく大切な何かであるっていうのはわかるんだよ。これだけは、わかるんだ」
そこでカイムが顰め面をした時に、喫茶店の中にぱんぱんという手を叩いた時に出るような、乾いた音が響き渡った。音の発生源に目を向けてみれば、如何にも手を叩いた後のような姿勢をしているアスナの姿が、そこにあった。
アスナは皆の注目を浴びるなり、血盟騎士団の副団長をやっていた時のような、少しだけ険しさを感じさせる表情を浮かべて、その唇を開いた。
「皆、冷静になりましょう。わたし達はSAO事件を乗り越えてきて、あの《壊り逃げ男》さえ乗り越えたのよ。それに比べれば、レインちゃんのこんな事なんて、どうって事ない問題でしょう」
「アスナの言う通りだ。確かにレインを怪しむ気持ちはわかるが、レインはそこまで凶悪な奴でも何でもない。それこそ、PoHや《壊り逃げ男》とは、全くの別物だ」
アスナに引き続きリランが言うと、皆が軽く下を向く。一時的に音が止まり、喫茶店の中を沈黙が覆ってきたが、その沈黙はディアベルによって破られた。
「そのとおりだな。もうちょっと冷静になろう。俺達は確かに凶悪な連中に狙われている可能性を持っているし、SAOに閉じ込められていたけれど、このALOでは純粋にゲームをしているだけだ。何もそこまで神経質になる必要なんかない。もう、
SAOでは聖竜連合という大ギルドのボスを務めていたディアベルの言葉が広がるなり、皆の方から「そうだな」「そうだよね」「そうよね」という声が上がり始める。もし、まだSAOという名のデスゲームの中にいて、この問題に当たったならば、神経質になる必要もあっただろう。
だが、前から何度も皆で言っているように、既にデスゲームは終わり、純粋なゲームの中に俺達はいる。レインの思惑はわからないけれど、そんなSAOの時に存在していた邪悪な存在達のように注意を払う必要など、無いのだ。
その事を皆が再確認したその時に、俺はカイムに声をかける。
「カイム。警戒する気持ちはわかるけれど、レインはそこまでしなきゃいけないような相手じゃない。わかってくれないか」
「そ、そんな顔しないでよキリト。ぼくは、皆で楽しく遊べるこの環境を壊されてしまうんじゃないかって、レインがキリト達を狙う集団の一員なんじゃないかって、ちょっと不安に思っただけだよ……だから、レインがそうじゃないっていうなら、もう警戒するのもやめるよ」
昔からそうだが、意外と疑り深い部分のあるカイム。だからこそ、今回のレインの事も疑ってかかったわけだが、そのカイムがようやく納得したのが確認されると、俺はもう一度皆に聞こえるように言った。
「皆、ひとまずレインの事を必要以上に警戒するのはやめて、スヴァルトエリアの攻略を再開しよう。レインには何か目的があるんだ。それを、静かに見ていく事にしよう」
俺の言葉が喫茶店の中全体に行きわたると、皆安心したような表情を浮かべて、頷いてくれた。ひとまず、レインの事を警戒するのは、やめてくれたようであり、その様子を見て俺も安堵したが、すぐさまアスナが俺の元へとやってきた。
「それはそうとキリト君、このクエストの後はどうなってるんだっけ。わたし達、さっきまでレインの受けてたクエストをこなしてたわけなんだけど」
「あっ、そうだな。ここから先は、酒場でクエストを調べてみないとわからなそうだ。皆、ひとまずレインを必要過多に警戒するのはやめて、酒場に行こう」
もう一度号令すると、皆それに頷いてくれて、壁に寄りかかっていた者は壁から離れて、席に座っていた者は立ち上がった。先程レインの協力のおかげで、俺達はシャムロックの先を行く事が出来たが、同時に俺達がシャムロックにとっての脅威であると認識されたはずだ。
シャムロックは今まで以上に高速攻略に躍起になっているに違いないから、俺達も急がなければ――そう思いながら、俺は皆と共に酒場に向かうべく、入口に行ったが、そこで全員立ち止まる事になった。
俺とカイムの口論の後に、喫茶店を出ていったレインが、そこでずっと待っていたのだ。そのレインに、勿論の皆で注目したが、レインは俺達の事を見つめるなり、とても申し訳なさそうな顔をした。
「キリト君……それに、皆……」
レインはいつも、不思議なくらいに自信と余裕に満ち溢れている顔をしている娘であり、攻略の時も、皆と話している時も基本的にもれなくそういう顔をしている。しかし、今のレインの顔には、いつも自信や余裕を感じられない。――本気で、俺達に申し訳ない事をしてしまったという反省の顔だ。
そんなレインとは思えないような顔を目にするなり、皆も言葉を詰まらせた。俺もその中の一人となってしまい、中々レインに言葉を駆ける事が出来なかったが、その気持ちを呑み込んで口を開こうとしたその時に、俺よりも先に、カイムがレインに近付いた。
先程あのような事を言われたものだから、またあんな事を言われるのではないか、言葉の槍を刺されるのではないかと思ったのか、レインはびくりと反応を示したが、次の瞬間にカイムは軽く頭を下げた。
「レイン、さっきはごめん。疑って悪かったよ」
「え……」
「ぼく、レインが悪い連中なんじゃないかって、勝手に思ってた。だけど、よくよく考えてみれば君はそんな感じの人じゃないし、ぼく達に危害を加えるような事は何もしてきてない。……だから、さっきは疑ってごめんなさい」
まさか謝られるとは思っていなかったのだろう、レインは完全にきょとんとした顔をしていた。そこで俺が、先程皆と一緒に出した結論を、レインに話した。
「レイン。君にどういった意図があったのかは、君が話したくなった時に話してくれればいい。ひとまず俺達は、君の事を信じる」
「キリト君……」
「これからの攻略には、君の力が必要なんだ。だから、俺達と仲直りしてくれ。俺達の仲間に、もう一度なってくれ、レイン」
俺の言葉が終わると、レインは皆の方をきょろきょろと見回したが、その最中、今にも泣きそうな顔になって俯き、ぎゅっとスカートの裾を握り締めた。レインの動作に皆と一緒になって軽く驚いた直後に、レインはくっと顔を上げた。
とても嬉しい事に出くわしたような笑顔が、そこに浮かべられていた。
「ありがとう、キリト君。皆……もう一度、よろしくね!」
レインの言葉に、皆一斉に頷いた。そうして、レインと仲直りする事に成功した俺達は、レインに事情を話して、グランドクエストもサブクエストも、全て受ける事の出来るクエストボードが存在している空都ライン一巨大な酒場へと、急いだのだ。
その時の足取りは、先程レインと共にフィールドから帰って来た時のそれによりも、何倍も軽やかだった。
◇◇◇
「それで、話ってなんだ、シノン」
空都ライン一巨大な酒場《エインヘリアル》に辿り着いた俺達は、早速クエストボードを確認した。レインが協力してくれたおかげで、俺達がずっと進め続けているグランドクエストは進行しており、次でフロスヒルデ全体の高度制限を解除できると思われる場面に直面する事が、判明したのだ。
全く飛ぶ事の出来なかったフロスヒルデの空を、ようやく飛ぶ事が出来るようになるという事がわかるなり、皆は一斉に歓喜したものの、同時にフロスヒルデの空にはもっと強いモンスター達が飛行している事がわかったため、すぐさま次のグランドクエストの準備をするべきだという結論を出し、一時解散する事になったのだった。
俺が解散の号令をかけるなり、皆多くのプレイヤーの集まっている酒場から出ていって、大体鍛冶屋と道具屋のある商店街に向かって行ったが、その中で俺はシノンに声をかけられて、ちょっと来てほしいと頼まれた。
戦闘準備や道具の準備が既に万端だった俺には、それを断る理由など――そもそもシノンの頼み事を断る必要など――ないため、シノンの頼み事を承諾し、シノンと共に酒場に出た。休日であるためか、大勢のプレイヤーで溢れている街中をシノンの誘導に任せて歩き続けて辿り着いたところは、広場だった。
「それで、話って何なんだ、シノン」
「あのねキリト……明日、ちょっと攻略を休んで街に出ないかしら」
「街? 街って、ここか?」
「そうじゃないの。ALOじゃなくて、現実世界の方。私達、最近攻略ばっかりで、全然二人の時間を設けたりとか、してなかったじゃない」
シノンの言う通り、確かに俺達は最近シャムロックに対抗するべく、攻略を進める事ばかりで、恋人同士がやるデートだとか、そういう事をする事もなければ、二人の時間を過ごす事も少なかった。
平日は毎日学校で出会っているし、一緒に話をしているけれど、シノンが学校でいちゃつくような事をしたくないと思っているのはよくわかっているから、恋人同士らしい事なんか何もしていないに等しいし、話をする時もアスナやリズベットやシリカがいる事がほとんどだ。
「そう言われてみれば、そうだな。最近全然、デートとかしてないな」
「そうでしょう。それに、今ならキリトも、思いっきりそういうのを楽しめるんじゃないかって、思うんだけど……どうかしら」
そこでシノンの目線が俺の右手に向けられて、俺もまた自分の右手を顔に前に持ってきて、同じように目を向ける。
アルヴヘイムの世界の言葉が彫り込まれている、白金色の腕輪が、右手首の下にしっかりとはまっており、仮想世界の青い空に浮かび、スヴァルトアールヴヘイムは勿論の事、このALOの世界そのものを照らす太陽の光を浴びて、美しく煌めいていた。
以前デートをした時などには、俺の発作が出てきて、十分に楽しむ事が出来ないなんて事が多々あった。だが、シノンが現実で俺の発作の対策をしてくれて、尚且つそれを抑えるお守りをくれた時から、その発作が起こる事はなくなった。
今ならば、思い切り心の底から、シノンとのデートを楽しめるだろう。それに、SAOの時だってノー攻略デーとか設けていたから、そろそろそういうのが必要だとも思う。シノンは随分といいタイミングで、提案してくれたものだ。
しかしそこで、シノンは何かを思い出したように俺に言って来た。
「あぁでも、無理なら別にいいのよ。今だって、シャムロックとの競争を頑張ってるわけだし」
「いや、そんな事ないよ。よし、明日は攻略を休んで街に出かけよう」
「本当に? 本当に出かけられる?」
「あぁ。君と君のお守りのおかげで、随分楽になったからな。今なら俺も心の底から君との時間を楽しめるんじゃないかって思ってたところなんだよ。それに、シャムロックとの競争だって、そこまで重要な事じゃないわけだからさ。明日は他の人達に任せて、俺達は俺達で楽しもう」
「……ありがとう、キリト。明日は思い切り楽しみましょう」
目の前の山猫耳と白水色の少女が笑みを浮かべると、俺も同じように笑む。これまではあの発作が来ないかと不安があったものだが、もうそれを気にする必要など無くなっている。明日のデートは間違いなく、これまでやってきたどのデートよりも、楽しめる時間となるだろう――そう考えると胸の中に楽しみが溢れてきたが、ところでシノンはどこに行こうと思っているのだろうか。
「それでシノン、どこに出かけるんだ。目的とかあるのか」
「えっ?」
「ほら、この前だって出かけたのはいいけれど、いくところを決めてなかったから、迷う事になった事があっただろ。今回は、ちゃんと目的地を決めてるのか」
「んーと……買い物に出かけましょう。服とか、帽子とか、気に入りそうなものがあったら買いたいの」
答えを出す前に、明らかに考えるような仕草をしたシノン。恐らく今回も、俺と出かけたいと思ってそう言ったけれど、目的や目的地の事を直前まで何も考えていなかったのだろう。たまにあるシノンの可愛い点だ。
しかし、俺の使っているデスクトップパソコンのキーボードがイカれてきてしまっていて、街中に買いに出かけたかったところだから、買い物は丁度いい。
「買い物か。それなら俺も買いたいものがあるんだ」
「もしかして、パソコンのパーツとか?」
「そうそう。キーボードがイカれて来てさ……って、よくわかったな」
「あなたが自作パソコン使ってるっていうの、あなたのおかあさんから聞いたから」
「そうだったのか。という事でシノンさん、明日は俺の用事もお願いしたいのですが、よろしいですか」
「えぇ、いいわよ。パソコンの周辺パーツとなると、秋葉原辺りになるかしらね。
……あっ、でもキリト、大丈夫なの。あなた、私のが
確かに俺はこの前まで、人混みに苦手意識を感じるようになり、出来る事ならば人混みのあるところには行きたくないと思うようになっていた。しかし、シノンがお守りをくれて、尚且つ発作対策をしてくれてから、人混みへの苦手意識も感じなくなり、これまでどおり平然と人の多いところに行く事が出来るようになった。
だから、俺は心配ないのだが、問題はシノンだ。俺の人混み苦手意識は元々シノン/詩乃が持っているものであり、俺は大丈夫になっても詩乃の人混みへの苦手意識は消えていない。
「俺は君がお守りをくれたから、もう大丈夫だ。それより君は大丈夫なのか。君、人混み苦手だろう。なんなら秋葉原に行くのは、やめても大丈夫だぜ」
「大丈夫よ。あなたと一緒に居るから、平気なの。だから、心配しないでも、大丈夫」
シノンの告白とも言えるような言葉を耳に、笑顔を目にした事で、胸の中に愛おしさが突き上げてきて、全身が熱くなってきたような気がしたが、それをほんの少しだけ表に出すように、俺はもう一度笑んだ。
「……わかった。明日がすごく楽しみだ」
「私もよ、キリト」
そう言って二人で笑み合う。きっとこの世界の誰もが経験した事がないような事になって、一時はどうなるかと不安になった事もあったが、今はそのような事は何もない。不安も心配もすべて捨てて、詩乃との楽しくて暖かい時間を過ごす事が出来る――俺がそれが嬉しくてたまらなかった。
どんな感じになるかは、その時になるまでわからないけれど、きっととても幸せな時間となるだろう。そう思った、その時だった。
「皆――! ちょっと遅れてごめんね――! 今日も頑張ろうね――!!」
ひどく聞き覚えのある声色による大声が聞こえたかと思いきや、それよりも大きな声が聞こえてきた。広場全体を揺らして空の果てまで届いていきそうな音量、まるで超大型スピーカーから発せられているかのような声は、無数の男女が上げる歓声に近しいものであり、それを耳にするなり、シノンが咄嗟に頭にある大きな耳をぺたんと閉じた。
「な、何よ今の声!?」
「これは……あぁ、やっぱりそうだ」
俺は最初に聞こえた声も、歓声も、全て聞き覚えがあった。今回も恐らくそれだろうと思いながら、そこに向き直れば、そこで繰り広げられていた光景がはっきりした。
広場にいつの間にか出現している、銀色の長髪で背の低い、赤紫色の瞳の少女プレイヤーの周りを、このALOに存在するすべての種族の、容姿がバラバラの男女プレイヤーが無数に集まって囲んでいるという光景。
そう、この前見た時の光景と、全く同じ。シャムロックのボスであり、アイドルである銀髪少女セブンがALOにログインしてきたところに群がり、熱狂的な歓声を上げる無数の彼女のファンという構図だ。
「セブンちゃん今日も来てくれてありがとう――――ッ!」
「全然遅れてなんかないよ! あたしだってめっちゃ遅刻したから――――ッ!」
「今日も攻略頑張ろうね――――ッ!」
「俺ボスモンスター沢山倒したよ! だからシャムロックに入れてくれ――――ッ!!」
「だから、お前じゃ無理だっての!」
世界が、日本が絶賛する可憐なセブンの姿を目にするなり、周りを囲んでいるファン達であるプレイヤー達は一斉に声を上げる。そのファン達の姿を見て、大音量の声援を聞いたセブンはとびっきりの笑顔を見せつけて、更にファン達を熱狂させる。完全に、あの時の光景と同じだった。
ただ、あの時と違うのは、あの時は午前九時半近くだったが、今日はもう午後二時に差し掛かっているというところだった。今日はセブンにしては、随分と遅くALOにログインしている。――ログイン自体はしていたけれど、この時間になるまで喫茶店などに寄っていた可能性もないわけではないが。
そんなセブンを眺めつつ、シノンは耳から手を離す。その顔は、酷く驚いているかのようなものだ。
「あ、相変わらずすごいわね、セブンの人気ぶり」
「ほんとだよ。だけどあれでも、滅茶苦茶苦労してるんだぜ、彼女は。ただ神輿に担がれている事を面白がってるわけじゃないし、アイドルとしての自分に浮かれてもいないんだ」
「でしょうね。本当に大したものだわ、あの歳で科学者とアイドルなんて。私には到底真似出来そうもないし、アイドルなんてのも出来そうもないわ」
そこで一瞬、シノンがアイドルになった瞬間が頭の中に想像された。
セブンは無数のファンに囲まれて、声援を受けながら歌を歌ったりしている。そのセブンをシノンに置き換えて、所謂アイドル衣装と言われそうな、ひらひらとした装飾や愛らしい色合いの服を着せても、なんだかしっくりこない。
アイドル衣装に身を包んだイメージ上のシノンは、確かに可愛いのだが、やはりしっくりこないのだ。そしてそのまま歌を歌っても、ダンスしても、やはり似合わない。
……シノンはそのままが一番だという、証拠だった。
「そうだな。君はそのままが一番だ。アイドルとかそう言うのは、そう言うのが出来そうな人や、やりたい人にやらせておけばいい。俺達は俺達でやりたい事をやって、出来る事をすればいいだけなのだから」
「……そうね」
少し嬉しそうにしているシノンを横目に見ながら、俺はこれからの攻略の事や明日の事を考えつつも、熱狂するファンに囲まれているセブンを眺めていた。
原作との相違点
・キリトの女性への二人称がリラン、ユイ、ストレアを除いて、『君』。
原作ではキリトの女性への二人称も、基本的には『お前』。
シノンは勿論の事、アスナだろうとリズベットだろうと、レインだろうとシリカだろうと『君』。
イリスのみが、二人称が『あんた』。