キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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12:虚ろな二人

「ごめんね……心配かけさせちゃって……」

 

 

 スーパーマーケット前で詩乃に出会えた明日奈は、SAO生還者達の暮らすマンションに赴き、詩乃の部屋に入り込んだ。スーパーマーケットからここに来るまでそれなりに距離があったから、詩乃と一緒にここまで歩いて来たのだが、詩乃があまりの雰囲気を漂わせているためか、明日奈は全くと言っていいほど口を開く事が出来ず、結局双方共に一切喋ることなく進んで、マンションに来たのだった。

 

 防音設備がされているためなのか、全く生活音が聞こえてこないマンションの、詩乃の住んでいる部屋の前。そこに差し掛かった時、もしかしたら荒れ放題になっているのではないかと明日奈は思ったけれど、詩乃の部屋のドアを開けた先に広がっていたのは、この前来た時と全く同じ、あまり物が置かれていたり、散乱していたりしない、整頓された内装だった。

 

 

 住んでいる詩乃自身に問題が起きていても、詩乃の部屋は綺麗なままだった。その光景に思わず呆然としていると、詩乃が「上がって」と言い、それを聞いて明日奈はようやく詩乃の部屋に上がり込んだのだった。

 

 部屋に入ってすぐに詩乃は力なくトートバッグを冷蔵庫の前に置くと、そのままよろよろとテーブルの方へ向かって行って、すぐ近くに座り、その目の前のところに明日奈は座った。

 

 その時に目の前の詩乃に視線を向けたが、詩乃は相変わらず俯いたままで、顔を上げようとはしなかった。そんな詩乃の髪の毛はかなりぼさぼさとしていて、いつものような艶はなく、髪の毛の手入れをやめてしまっているのが、目に見えていた。

 

 

「あの、シノのん」

 

「……ぅん」

 

「大丈夫? 目の下の隈、すごいよ。それに、ここまで来る時、結構ふらふらしてたし……」

 

「……大丈夫。三日間ずっと、少ししか寝てないだけだから」

 

「ちょっ、それ全然大丈夫じゃないよ! なんでそんな事してるの。学校にだって来てないし……」

 

 

 そこで詩乃は窓の方へ顔を動かした。目は窓の外を映してるけれど、きっと詩乃の視線の中に窓の外の光景は広がっていないと言うのが、明日奈は無意識で理解できた。

 

 

「……何もする気が起きないの。学校も、勉強も、ゲームも、何もしたいって思えない。ご飯だって全然食べる気ない。食欲が出てこないの」

 

「じゃあ、なんで寝てないの。寝る事なら、出来るんじゃないの」

 

「寝れない……寝ると嫌な夢ばっかり見るから。だからもう、寝るのも嫌なの」

 

「そんな……」

 

 

 不健康な生活どころではない。ろくすっぽに物も食べないで、尚且つあまり動かないで、そこに不眠までプラスするのだから、詩乃の身体は普通に考えて衰弱する一方だ。このままこの生活を続けるならば、詩乃の身体は急速に弱っていくだろう。今までの詩乃からすれば考えられないような事を、詩乃は今、繰り返してしまっている。

 

 

「なんで……なんでそんな調子なの。シノのん、このままじゃ死んじゃうよ!」

 

「……だって、何もする気が起きないのだもの。診てくれる人も、もういないし」

 

 

 これまでは、詩乃に何か異変があっても大丈夫だったと言えた。何故ならば、詩乃には愛莉という優秀な専属精神科医が就いていたからだ。彼女の元へ詩乃を行かせれば、詩乃の異変などすぐに直してしまえたものだけれど、今愛莉は精神科医をやめてしまって、どこか知らないところへ行ってしまっている。

 

 普通ならそうであっても電話などをして相談する事が出来るが、愛莉は多忙であるのか、全くと言っていいほど電話には出ない。この前だって、和人が詩乃に別れ話をされたショックで立ち直れなくなった時に、愛莉に電話をしようとしたけれど、愛莉は全く出なかったと直葉から聞いた。もう、愛莉は当てにならないと言っても過言ではない。

 

 だが、もし愛莉が今の詩乃を診たならば、きっとすぐさま原因を当てる事が出来るだろうし、明日奈もまた、詩乃がこうなった理由がわかっているような気がしていた。

 

 

「シノのん……和人君の事でしょう。和人君と何かあったから、そんなふうになったんでしょう」

 

 

 その時に、詩乃の身体がぴくりと反応を示した。図星だ――そう思って、光を掴んだような気になった明日奈は、更に詩乃に言葉を紡ぎ続ける。

 

 

「わたし、言ったよね。シノのんと話したい事があるって。ここなら誰も聞いてないから、話すね。

 シノのん。どうして、和人君と別れるなんて事をしたの。和人君はシノのんの事、誰よりも理解してる人なんだよ。なのに、なんで――」

 

「その名前出さないでッ!!!」

 

 

 それまで寡黙を貫いていた詩乃が突然怒鳴り出すものだから、明日奈は身体をびくりと言わせて、口を閉じる。直後、詩乃は少し震えながら、その口を再度開いた。

 

 

「……私が馬鹿だったのよ。あんな奴を好きになって……あんな奴と一緒に居て……全部間違いだったのよ。馬鹿みたいに女の子を近くに居させて、好きになれそうな人なんか沢山いるくせに私の事しか見てなくて、頼んでもないような事ばっかりしてきて、挙句、頼んでもないのに、私の記憶を勝手に頭の中に入れて、私の事を見透かしてきて……気持ち悪いのよッ!!」

 

 

 同じ詩乃とは思えないくらいの早口で和人の事を悪罵する詩乃に、明日奈は思わず釘付けになる。そんな明日奈が近くにいる事を忘れているかのように、詩乃は更に口を動かし続けた。

 

 

「そのうえ、私にいくつも隠し事してて、私の事なんか全然信じてなくて、私に黙って沢山の事をしてて……もううんざりしたのよ。うんざりしたから、思い切り振ってやった。すっごくスッキリしたわよ、そりゃもう」

 

 

 そこで詩乃は軽く顔を上げる。口角が若干上がっており、少し歪な笑みが浮かべられていたが、すぐさま元に戻り、光無い瞳はゆっくりと明日奈の栗色の瞳に向けられた。

 

 

「……それで、あいつは今何やってるのよ。学校、来てるの」

 

「ううん。ずっと来てない。シノのんと、同じ状態だよ」

 

「そう。そりゃよかったわ。様ないわ……」

 

 

 そこで明日奈は軽く喉を鳴らす。先程からの詩乃の言葉は和人の悪罵でいっぱいだが、いつものような感じが一切ない。真実だけを話している時の感じが、全然感じられなく、まるで嘘を言い続けているのを聞いているかのような気分だった。……詩乃は今、本当の事を話しているのだろうか。もしかしたら詩乃は――。

 

 そう思って、言葉を発そうとしたその時、詩乃は突然腕を上にあげて、伸びをした。

 

 

「んんー。久々にあんたと話したら、何だか気分がよくなって来たわ。やっぱり愚痴とかは他人に聞いてもらうのが一番なのね」

 

「……」

 

「そろそろ学校に戻ろうかしら。あいつももういないわけだし。あ、でも、その前にこの隈とかなんとかしないとね。でも、これどれくらいで治せるかなぁ」

 

「…………」

 

 

 急に雰囲気が明るくなった詩乃。その様子は、溜まっていたものを吐き出したかのような感じによく似ているが、その言葉はどれもからっぽで、真実味を帯びてなどいない。先程からそんな気がしているが、この場に居る他の誰かに言っているように見せかけて、自分に言い聞かせているかのようだ。

 

 

「ところでリズとかシリカ……里香と珪子も、いつもどおり学校来てるんだよね」

 

「う、うん。二人とも、シノのんのこと心配してるよ。だから、出来れば学校にも顔を出してほしいんだけれど……」

 

「そっか。二人に悪い事をしちゃったわね。早く学校にいかなきゃ、ね。いつまでも先生に嘘吐いてられないしね」

 

「……」

 

 

 その時、詩乃は突然大きな欠伸をした。あまりにいきなりな事に明日奈が驚くと、詩乃は目元を擦りながら小さく言った。

 

 

「ごめん明日奈。なんだか眠くなってきちゃった」

 

「休む? シノのん」

 

「うん。ちょっと休みたいから……追い出すようで悪いんだけど……」

 

「わかったよ。シノのん、しっかり食べて寝てね。それで、早く学校に来てね」

 

「えぇ、わかったわ……」

 

 

 そう言ったところで、明日奈は立ち上がり、詩乃と別れの挨拶をしてから玄関へ向かい、少し重いドアを開き、詩乃の部屋を出たのだった。バッグからスマートフォンを取り出して時刻を確認してみれば、午後二時二十分と示されている。詩乃の部屋に入り込んだのは確か午後二時ぐらいだったので、あまり長い事、詩乃の部屋にいる事も、詩乃と話をする事も出来なかったらしい。

 

 

「シノのん……」

 

 

 立ち尽くし、明日奈は下を向く。先程の詩乃の様子だが、明らかに正常とは言い難いし、不健康な生活を送っているとも言っていた。これが本当でないならば、あれだけふらふらする事なんてないし、あんなにひどい隈を作る事だってないはずだ。

 

 それだけじゃない。ずっと見ていて思ったけれど、詩乃の心には今、多大なストレスがかかり続けていて、かなり擦り減っていっている。ただでさえ脆くて儚い詩乃の心が、そんな状況に晒され続ければ、遠くない内に詩乃の精神は完全に崩壊する。そして詩乃の身体も、三日であんなに弱ってしまっているから、二週間程度で衰弱死するだろう。

 

 この状況が続くのであれば、詩乃の心も身体も、死んでしまう。

 早く、なんとかしなければならない。

 

 

「……ッ」

 

 

 出来る事ならば、先程も考えた愛莉に対策を相談したい。だが、愛莉は今のところ音信不通で、ALOにログインする事だって少ないから、相談しようにもどうにもならない。ならばその娘であるリランに相談しようとも思ったが、リラン自体、この状況をお手上げだと思っているみたいで、学校に居た時にも困っているようだった。相談してもいい答えは出さないだろう。

 

 

「なら……」

 

 

 明日奈はスマートフォンを操作し、電話帳を起動すると、歩きながら更に操作を加えて、ある名前を表示させた。SAOの時に出会い、そのまま自分の愛する息子になってくれた、リランと同じ存在である、ユピテル。

 

 ユピテルはリランよりかは幼いが、ユイやストレアが該当するメンタルヘルスカウンセリングプログラムの上位型だから、人の精神を癒す力を持っているし、彼女らと同じでカウンセリング機能も持ち合わせている。そしてユピテルはリランのように今の状況にどん詰まってなどいない。

 

 きっとユピテルならば、何かしらの対策をくれるはず。リランと同じプログラムでも、何もリランと同じ思考回路を持っているわけではないのだから。

 

 そう思いながら、明日奈は通話開始ボタンをクリックし、スマートフォンを耳元にあてる。通信音が一回鳴った直後に、声が届けられてきた。

 

 

《もしもし、かあさん》

 

「ユピテル、うん、かあさんだよ」

 

《かあさん、どうしたの》

 

「ユピテル、今話せるかな。わたし、ユピテルに相談したい事があるの」

 

《相談したい事? 何かあったの》

 

「うん……実はね」

 

 

 明日奈はマンションの中を歩き、階段を下りながら、詩乃の状態がどんなふうになっているのかを、スマートフォンの向こうの愛する息子に話した。そしてそれが終わった頃には、明日奈はマンションの玄関口から外に出ていた。

 

 

《そんな、シノン姉ちゃん、そんなふうになってるの》

 

「うん。さっき見て来たんだけれど……そんなふうなのよ」

 

《そんなの駄目だよ! シノン姉ちゃん、そのままじゃ死んじゃうよ! ぼく、そんなの、やだよ……!》

 

 

 最初は死の概念すら知らなかったユピテルだが、今となっては様々な概念を理解している。だから、誰かが死ぬかもしれないと聞いた時、ユピテルは人間のそれとほとんど同じ反応を示せるようになっている。リランより遅く生まれたものだが、もはや今となってはリランと同じくらいの、コンピュータの世界で生まれた《ヒト》だ、ユピテルは。

 

 

「わたしもそう思ってる。だけど、わたしでもどうしたらいいのかわからないの。どうにかして、シノのんの事を、元に戻してあげたいんだけど……」

 

《シノン姉ちゃんは、キリト兄ちゃんとすごく仲良かったよね。なのに、なんでキリト兄ちゃんと……》

 

「それはね……」

 

 

 そこで明日奈は、ユピテルに全てを話す。リランが言っていた、今現在和人の身に起きている事を、和人がどのような状態になってしまっているかを、全て、残さずに。それをユピテルは黙って聞き続け、明日奈の話が終わった頃に、ようやく言葉を発し始める。

 

 

《そう、だったんだね。今、キリト兄ちゃんは……》

 

「うん。それで、シノのんは和人君の話を振られるのを何よりも嫌がってるみたいなの。それで、わたしが和人君の話を始めると、和人君の悪口を沢山言い始めて……」

 

《……》

 

「でもね、なんだか変なのよ」

 

《変って?》

 

「なんて言えばいいのかな。その、悪口に心が籠ってないっていうか……本当のことを言ってないような感じがあるっていうのかな。まるで、わたしに言ってたんじゃなくて、自分にそう言い聞かせてたような感じがあるっていうか……」

 

《自分に、言い聞かせてた……?》

 

「うん。ああいや、あくまでかあさんがそう思ったって事なんだけれど……」

 

 

 そこで、ユピテルの言葉は急に止まる。いつもならばすぐさま言葉を返して、会話を続けると言うのに、突然ユピテルは何も言わなくなってしまった。もしかして、ユピテルの身に何かあったのだろうか。心配になって、明日奈は少し慌てつつスマートフォンに話しかける。

 

 

「……ユピテル? どうしたの」

 

《……かあさん。ぼく、本当の事、わかったかも》

 

「えっ……何がわかったの」

 

《今から話すよ。それで、これをキリト兄ちゃんに伝えてほしいんだ》

 

「和人君に? それで……?」

 

《シノン姉ちゃんは――》

 

 

 

             □□□

 

 

 

 その日の夜八時。

 

 最愛の人である詩乃を失ってからというもの、キリト/和人は全てを喪失したかのような(もぬけ)の殻のようになってしまっていた。それは、直葉や母の(みどり)が作ってくれる食事さえ碌に喉を通す事が出来ず、風呂も入らず、学校にも行かず、ゲームもせず、パソコンもネットもせず、ただベッドで項垂れているだけという、散々な有様だ。傍からは廃人にしか見えないような状態に、和人はなってしまっていたのだった。

 

 しかし、そこで直葉と翠が献身的な施しをして、支えたおかげで、なんとか食事と風呂と睡眠はするようになったが、それでもパソコンとネットは勿論の事、アミュスフィアを起動する事もなかった。食事する気、風呂に入る気、睡眠をする気を取り戻しても、いつものように皆と遊ぶ事気を起こす事は出来なかったのだ。

 

 今VR世界に行けば、確かに皆に会う事は出来るし、これまでと同じようにクエストをしたり、モンスターの討伐をしたりして遊ぶ事は出来るが、その皆の中にシノン/詩乃の姿は存在しないからだ。あれだけ自分の事を嫌いになったのだ、シノンが自分のいるVR世界に現れる事など、二度とないに違いない。

 

 

 シノンのいないVR世界なんて、どうでもいい――これまでの和人ならば決して思い付かないような、そんな思いに囚われて、VR世界への入り口を開ける事も出来なければ、行くための行動を起こす事さえ出来ないでいた。

 

 だが、そんな今日の夜、明日奈からメールが来た。内容は極めて簡単で、「ALOの宿屋で待っている」というものだった。その文面を理解した当初は、どうせ元気にしているかどうかを見たいとか、そんなくだらない理由だろうから無視しようと思ったものだが、ひょっとしたら何かしらの話があるのかもしれないとも思った。

 

 そしてその後者の思いは数分で大きくなり、やがて気になって仕方がなくなった。これを知るためだけに、久々にダイブしてもいいかもしれない――元より知りたがりだった和人は、その思いに突き動かされるように重い腰を上げて、全く手を付けていなかったアミュスフィアを頭に付け、VR世界、妖精の世界へとダイブした。

 

 

 そうして、和人は三日ぶりにスプリガン族キリトとなり、空都ラインに赴いた。まだ三日ほどしか経っていないと言うのに、キリトは目の前に広がる空都ラインの光景を久しぶりに見たような気に襲われて、しばらく動く事が出来なかった。だが、それからすぐにここに来た理由を思い出して、キリトは明日奈/アスナとの約束の場所である宿屋へ足を進めた。

 

 アスナが話があるなんて、一体何なのだろう――そんな事を考えながら歩いていると、すぐに宿屋に辿り着き、中に入ってみると、かなり沢山のプレイヤー達が宿屋のエントランスホールに集まっていたが、その中にキリトは水色の長髪と白と青色を基調とした衣装を身に纏った少女と、銀色の長髪と白色のパーカーが特徴的な少年を見つけた。自分にメールを送ってきた張本人であるアスナと、その息子であるユピテルだった。

 

 てっきりアスナだけが待っているはずだと勝手に思っていたから、キリトはユピテルが居た事に少し驚いたものの、二人の元へ向かった。そうして二人に出会うと、アスナが早速会えた事を嬉しいとまず言って来て、部屋に来てほしいと言った。

 

 アスナから話を聞くのがここに来た理由だったから、キリトは頷く事も無ければ首を横に振る事もなく、ただわかったと言ってその言葉に従い、アスナとユピテルと一緒に、宿屋の一室に入り込んだのだった。

 

 

「……それでアスナ、俺に話ってなんだよ」

 

「キリト君……その、リランから色々聞いたよ。今、キリト君の身に何が起きているのかとか、それを話したらシノのんがどうしたとか」

 

「……知ったんだ、全部」

 

「……うん。その、酷い事に、なっちゃったね」

 

 

 そこでキリトはハッと言ってから、もう一度口を開いた。アスナがこの経緯を知っているならば、話が早い。何が原因で、どうしてこうなったのか、全部話せるのだから。

 

 

「これは全部俺のせいだ。俺がずっとこの事を隠してきたのを知ったせいで、詩乃は俺にがっかりしたんだ。俺が詩乃の記憶を受け止められるような奴じゃなかったから、詩乃を幻滅させてしまったんだ。俺は詩乃を裏切って、詩乃は俺に裏切られた」

 

「そ、そんなわけじゃ……」

 

「だから、詩乃が俺から離れていったのは、関係を絶ったのは当たり前の事なんだよ。俺の事を嫌いになって、当然なんだよ。詩乃を守らなきゃいけないはずの、傷を癒さなきゃいけないはずの俺が、詩乃の心に傷をつけたから、こうなったんだ」

 

 

 そうだ、こうなったのは全て自分のせいだ。自分が不甲斐なかったから、自分が詩乃を傷付けるような事をしたから、こうなったのだ。詩乃を傷付けたから、詩乃に嫌われて、拒否されて、当然なのだ。自分には詩乃の近くにいる資格など、最初からなかったのだ――。

 

 途中のアスナの言葉さえ無視して、身体の中にたまった不純物や毒物を全て吐き散らかすように、キリトは言った。それをアスナとユピテルは何も言わずにただ聞いていたが、キリトの言葉がようやく止まったところで、それまで口を一切開く事なかったユピテルがキリトに近付き、閉ざされていたその口を開いた。

 

 

「キリト兄ちゃんは、そう思ってるの」

 

「あぁ、そう思ってるよ。全部俺が悪いんだ。何もかも、俺が、悪いんだ。俺は詩乃を傷付けたんだ」

 

「それで、シノン姉ちゃんが、キリト兄ちゃんを嫌いになったって、思ってるの」

 

「……間違いだって言いたいのかユピテル」

 

「うん」

 

 

 純粋に頷くユピテル。MHCPの上位モデルであり、人の精神や心を癒す事を使命としているMHHPのユピテルのことだ、落ち込んでいる自分を少しでも元気づけようとしてくれていて、こんなふうに言ってくれているのだろう。だが、ユピテルが元気づけたとしても、この事実がひっくり返る事など無いのだ。

 

 

「慰めならやめてくれ。もう終わったんだよ。詩乃は俺との関係を切った。俺はやるべき事を失った。守るべきものも全部失った。もう、終わったんだ、何もかもッ」

 

「何も終わってなんかないよ、キリト兄ちゃん」

 

「なんでそう言えるんだよ! 詩乃が直接言ってたのに!!」

 

「聞いて、キリト君!!」

 

「……ッ!」

 

 

 小さな銀色の少年に怒鳴ったその時、その母親である水色の少女が、キリトの肩を勢いよく掴み、顔を近付けて怒鳴り返した。まさか怒鳴り返されるとは思っていなかったキリトは、思わず口を閉ざしてしまったが、それをチャンスと言わんばかりに、水色の少女であるアスナは言った。

 

 

「……今、シノのんがどうなってるのか、キリト君は知ってるの」

 

「……知らない」

 

「……シノのんは今、ぼろぼろなの。ご飯もろくに食べないで、寝ないで、やつれてる」

 

 

 その時に、キリトは思わず目を見開く。どういう事だ。詩乃は自分と別れてスッキリして、嫌な事もなくなったから、これまで以上に健康的になってるんじゃないのか。自分と別れたことで逆にやつれるなんて、どうなっているんだ――それを口にしようとしたその時に、アスナの口の方が先に動く。

 

 

「キリト君は、シノのんがキリト君の事を嫌いになったって思ってるみたいだけど、シノのんはね……キリト君を嫌いになってなんかいないのよ。それは、キリト君の思い込みよ」

 

「は」

 

「シノのんは、自分にも周りにも、必死になって嘘を吐いてる。キリト君が嫌いだ、キリト君なんか最低だって言って、自分にそう言い聞かせてるの。本当はそんなこと思っちゃいないのに、必死にそう思いこもうとしてるの。……キリト君と、同じなんだよ」

 

「俺と、同じ……」

 

 

 そこでアスナは一旦下を向いた。急に言葉を詰まらせてしまった目の前の少女にキリトが唖然としていると、その横にいる銀色の少年が、続けて口を開いた。

 

 

「リラン姉ちゃんが言ってた。キリト兄ちゃんの中にあるシノン姉ちゃんの記憶が、キリト兄ちゃんの事を蝕んでるって。キリト兄ちゃん、間違いないんだよね、それ」

 

「あ、あぁ」

 

「シノン姉ちゃんはね……それを自分のせいだって思い込んでるんだ」

 

「えっ……」

 

 

 シノンは今、キリトがこうなってるのを、自分のせいだって思い込んでいる。そして、現在も進んでいるキリトの中の詩乃の記憶の侵喰を少しでも遅らせるために、キリトと接触しないようにして、尚且つ悪罵を言い続けて、必死になってキリトの事を嫌いになろうとしている。そんな事は、最初から出来やしないと言うのに――そう、ユピテルは言った。

 

 なんだよそれ――ユピテルの言葉にキリトがそう言うと、それまで休息に入っているようだったアスナが、俯いたまま再度その口を開いた。

 

 

「シノのんは、自分からキリト君から離れることで、キリト君を守ろうとしてるの。自分が近くに居なければ、キリト君の心が壊されるを防げるって思って……全部、キリト君を思っての事なんだよ。

 キリト君を思っているから、キリト君を守ろうとして、無理矢理キリト君の事を嫌いになろうとして、キリト君から嫌われようとして……出来もしない事を無理矢理やろうとしてるのよ」

 

 

 アスナはそこで顔を上げる。髪の毛のそれと似たような美しい水色の瞳、その目じりには大粒の涙が浮かんでいた。

 

 

「でも、そんな無理をしてるせいで、シノのんの心は、身体は、キリト君よりも先にぼろぼろになっていってる。このままじゃシノのん、死んじゃう……守ろうとしてるキリト君よりも先に死んじゃうよ……!!」

 

 

 詩乃があんな事をしてきたのは、自分に嫌われようとしているため。自分の精神への負担を減らして、死から遠ざけるために、詩乃は自分から離れようと必死になっている。だけど、その結果として、詩乃は死のうとしている。自分を殺す事で、和人と言う存在を守ろうとしている――その事実を知って、キリト/和人は完全に硬直する。

 

 

「詩乃が……詩乃が、死ぬ……?」

 

「そうだよ……今のシノのんはぼろぼろなの……放っておけば死んじゃうの……でも、シノのんは誰からも放っておかれようとしてるの……このままじゃ本当に、シノのん死んじゃう……」

 

 

 嗚咽を混ぜながら必死に訴えてくるアスナに釘付けになって、キリトは口を閉ざした。詩乃が死のうとしている、詩乃が衰弱死しそうになっている――その言葉を聞いた途端に頭の中が痺れたようになってしまって、耳から届いて来る言葉を聞くだけしか出来ない。そんなキリトに、アスナは涙でぐちゃぐちゃになった顔を向ける。

 

 

「キリト君、ううん、和人君……和人君は、シノのんの事を、どう思ってる……シノのんの事、嫌いなの、まだ、好きなの……」

 

 

 確かに詩乃からあんな事を言われたおかげで、何もする気が起きなくなったり、食欲がわかなくなったりして、沈んでいた。だけど、そんな事になったとしても、和人の中から朝田詩乃と言う人物が、その人への思いの(ともしび)が消えた事など無いし、詩乃が嫌いだなんていう感情が沸き上がって来た事だって一度もない。朝田詩乃が好きか嫌いか――そんな問いかけは滑稽だ。

 

 

「……決まってるだろ」

 

「え……?」

 

「好きに決まってるだろ。俺は、一度も詩乃の事を嫌いになった事なんてないし、そんな事を思った事だってないよ。確かにあの時詩乃に嫌いだって、もう別れようって言われたけれど……詩乃が好きだって思い、変わらないよ……!」

 

 

 キリトのはっきりとした証言を聞いて、目を丸くするアスナ。直後に、その隣にいたユピテルが軽く一歩踏み出して、キリトに向けて口を開いた。

 

 

「キリト兄ちゃん。シノン姉ちゃんはすごい無理してるんだ。それも、全然必要のない無理。……そんな無理してるならやめさせなきゃいけないよ。シノン姉ちゃんはあんな事を言ってるけれど、本当は、シノン姉ちゃんはキリト兄ちゃんの事を必要だって思ってるんだ。だからキリト兄ちゃん……」

 

 

 いつもは明るくてやわらかい表情が浮かんでいる、青色の瞳の少年の顔に、いつもの少年と同じ人物とは思えないような凛とした表情が浮かび上がる。

 

 

「キリト兄ちゃん、シノン姉ちゃんと、もう一回お話しして。キリト兄ちゃんが、シノン姉ちゃんの無理を、やめさせてあげて」

 

 

 ユピテルもアスナも嘘を吐く事はないから、今詩乃が死に急いでいる状態であるというのは真実だろう。詩乃がそんな事になっているならば、今すぐにでも詩乃のところへ行って、支えてやって、全ての無理をやめさせてやらなければならない。自分を死から守ろうと思った、詩乃が逆に死んでしまうなんていうのは本末転倒も甚だしいし、絶対あってはならない出来事だ。詩乃の死など、現実にしてはならない。

 

 だが、果たして自分にそれは出来るのだろうか。元はと言えば、この状況を作り出したのは自分だし、死のうとしている詩乃は完全に自分と絶縁状態を作り出してしまっている。無理矢理会ったとしても、話に耳を傾けてくれるとは思えない。もはや、自分ではどうにもならないところまで行ってしまっているのではないのだろうか。第一、詩乃の心に傷をつけたのは自分ではないか。

 

 

「キリト兄ちゃん」

 

「えっ」

 

「ぼく、かあさんやユイからなんとなく聞いた程度だから、キリト兄ちゃんとシノン姉ちゃんがどんなふうに暮らしてきたとか、全然知らない。だけど、キリト兄ちゃんは、今までずっと、シノン姉ちゃんの心を支えて、その傷を癒してきたんでしょ。なら、今回だって、キリト兄ちゃんならなんとか出来るよ」

 

 

 青い目の少年に言われて、キリトは軽く喉を鳴らす。この少年ユピテルの生みの親であるイリスにも言われていたし、自覚していたけれど、確かに今まで自分はずっと、詩乃の心を支えて、その傷を癒す事を考えてきたし、出来る限り実行してきた。そして、それはちゃんと効果があったようで、詩乃の心は出会った当初よりも遥かに豊かになったし、傷付いている感じもなくなった。

 

 だが、それはあくまで詩乃がこれまで負ってきた傷で、自分が付けたものではない。ずっと前から気になっているけれど、自分でつけた詩乃の心の傷を、自分で癒す事など、出来るものなのか。

 

 

「俺に出来るのか……今更、そんな事が……」

 

「出来るよ、キリト君なら」

 

 

 そこで、アスナがもう一度顔を上げた。先程は涙でぐしゃぐしゃになっていたものだが、今はきりっとしたものになっている。

 

 

「だって、シノのんはあんな事言ってキリト君の事を話そうとするくらい、キリト君を守ろうとするくらいに、キリト君の事が好きなんだよ? そんなキリト君の言葉を、シノのんが聞かないわけないよ。それにここまで来たなら、もう何とか出来るのはキリト君だけだよ。だからキリト君……もう一度……、

 もう一度、シノのんに、思いを伝えて。それをシノのんは、待ってるんだよ」

 

 

 その言葉を最後に、アスナは黙ったが、キリトはその瞳から目を離そうとはしなかった。詩乃が傷付いたのは自分のせいだ。そしてもし、そのまま詩乃が死ぬならば、それも自分のせいと言えるだろう。今、最愛の人である朝田詩乃は、自分のせいで死に急ごうとしている。自分のせいで詩乃が死ぬなど、一番恐れていた事だ。

 

 そんなの、絶対に許されない。このまま詩乃が死にそうならば、もはや不安になっている時間もないし、そんな事をしている時間があるならば、今すぐにでも詩乃の元へ行かなければならないはずだ。

 

 

 もう一度、詩乃に会おう。

 そして、そこでもう一度全てを打ち明ける。

 

 それで駄目だったならば、もう本当に御仕舞にする。

 

 だが、詩乃の命だけは、絶対に助ける。

 詩乃の命を、心を、一生守る。

 

 それが自分の使命なのだから。

 

 

「……アスナ、ユピテル、ありがとう。おかげで目が覚めた」

 

「……!」

 

「キリト兄ちゃん……!」

 

 

 笑顔になった二人に顔を向け、キリトは深く頷いた。

 

 

「俺、詩乃に会うよ。それで全部、詩乃にぶつける。

 詩乃は、俺が死なせない」

 

 

 




初めてよく喋ったユピテル君。

そして次回は……もうおわかりですよね。

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