キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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15:不安と涙と暖かさ

 次に意識をはっきりさせた時、詩乃は真っ暗なところに居た。自分の部屋とは違う、何もないただ黒いだけの空間。まるでどこか別な世界に来てしまったかのような場所。――ここはどこだろうかと思って立ち上がるが、やはりどこも黒一色で、何も確認する事が出来ない。

 

 

「どこかしら、ここ……」

 

 

 全く見覚えのない、ただ黒だけの広がる場所。闇だけの空間。どこに出口があるというのか。いやそもそも、どうやって自分はここへやって来たというのか。ただ闇だけが広がっている空間の中を、詩乃はただ歩き続け、周囲を見回すが、やはり何も変わりはしない。一体どこまで続いているところなのかと考えながら、しばらく進んだところで、詩乃はハッとして立ち止まった。

 

 少し離れているけれど、人影がある。ようやく、この空間での初めての物を見つける事が出来た詩乃は心の中に喜びが沸き上がって来たのを感じて、走り出した。人影は近付く毎によりはっきりとしたものに変わっていき、やがてそれがこちらに背を向けている少し小さな男の子である事に気付いたが、詩乃は構わず走り続け、その男の子のすぐ後ろにまで来た。

 

 そこでようやく、詩乃はその口を開き、声をかけた。

 

 

「ねぇ君、ここがどこだか、わかる」

 

 

 男の子はずっと背を向けたまま答える気配を見せなかった。もしかして声が届いていないのだろうか――そう思って男の子の背に触れた瞬間、詩乃は男の子に差し出した手に強い痛みを感じた。驚いて男の子に目を向け直すと、男の子はこっちに振り向くなり、突然大きな声を上げた。

 

 

「触るな、人殺(ヒトゴロ)し!」

 

 

 突然男の子から飛んできた言葉に、詩乃は凍り付いて、言葉を発する事が出来なくなった。突然そんな事を言い出すなんてどういう事なのだろうか。いやそもそも、なぜこの子はその事を知っているというのだろう。

 

 この子は一体――そう思った瞬間、いつの間にか年齢と男女がバラバラな子供達が何人も姿を現して、周りを取り囲んでいる事に詩乃は気付いた。そして周りの子供達は一斉にその口を開き、言葉を走った。

 

 

「人殺し」

 

「人殺し」

 

「人殺し」

 

 

 周りの子供達から飛んでくる言葉を耳に入れた途端、詩乃は全身が凍り付き、熱が抜けて指先から冷えていく錯覚に襲われたが、次の瞬間に子供達の正体に気付いた。

 

 そうだ。この子供達は自分が小学校の頃の同級生達だ。――自分があの事件に巻き込まれるや否目の色を変えて、悪罵をぶつけてくるようになった、今となっては忌まわしい子供達。一番聞きたくない言葉を平然とぶつけてくる、悪魔のような者達。

 

 そんな悪魔達の言葉から背くべく、詩乃は咄嗟に耳を塞いだ。しかし、悪魔達の言葉は詩乃の両手をすり抜けて、詩乃の耳の中に、頭の中に容赦なく入り込んできた。

 

 

 人殺し、人殺し、人殺し、人殺し、人殺し!

 

 

「やめてっ……」

 

 

 人殺し、人殺し、人殺し、人殺し、人殺し、人殺し!

 

 

「やめて、やめて……っ」

 

 

 人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し!!

 

 

「やめてやめてやめてやめてやめて――――――――ッ!!!」

 

 

 たまらず叫んだ詩乃は咄嗟に後ろを振り向いて走った。耳を塞ぐ事も止めて、一心不乱になって走り続けたが、子供達の悪罵は続き、そればかりか、大人や少し成長した少年少女の声さえも混ざって聞こえてくるようになった。周囲に広がる黒い闇の空間は、いつの間にか沢山の人影で満たされており、その全てが詩乃の方を向いて悪罵をぶつけるようになっていた。

 

 その中を、詩乃は出口を探してただただ走り続けたが、出口のようなものはいくら走り続けても見えてこないし、人と悪罵はどんどん増えてくる。もはや耳を塞いだところで悪罵はそれら全てを通り抜けて飛んでくる。

 

 早く出口を見つけなくきゃ、早く出口を見つけなきゃ――そう思いながらただひたすらに走り続けたその時に、やがて一つの人影が目の前に現れた。黒色の髪の毛に、線の細い顔付き。自分がただ唯一愛している人である、和人だった。

 

 何故ここに和人がいるのか――そう考えるよりも先に、詩乃は一気に速度を上げて走った。和人が助けに来てくれた。和人のところへ行けば、子の悪罵もみんな止むし、みんな消える。

 

 

「和人、和人、和人ッ!!」

 

 

 叫びながら走り、やがてそのすぐ目の前まで来たところで、詩乃は手を伸ばした。――次の瞬間、詩乃は突然後ろ方向に突き飛ばされたようになって、地面に尻餅をついた。和人に手を伸ばしたはずだったのに、一瞬何が起きたのか、何故自分は後ろに倒れたのかわからなくなって、詩乃は目の前の和人に顔を向けたが、そこで和人は両手を前に突き出していた。そして、その手を下げるなり、和人は詩乃を見下ろした。その目は、まるで泥のように濁っていた。

 

 

「触るんじゃねえよ、人殺しが」

 

「……えっ」

 

「そんな手で触るんじゃねえよ。自分の手を見てみろよ」

 

 

 あの子供達や、駆けていた時に少年少女達がぶつけてきた悪罵と同じ言葉を発した和人。その光景に詩乃は頭の中が痺れたようになって、そっと自分の手に目をやった。いつの間にこんな事になったのか、両手には万遍(まんべん)なく粘り気のある血がべったりと付いていた。

 

 

「……ひっ!」

 

 

 これが自分の手なのか。いや、なんでこんな事になっている。血なんて触ってないのに、なんでこんな事になっているというのか。すぐさま頭を回そうとしたその時に、和人の声が耳元に届いて来た。

 

 

「そうだ、それがお前の手だ。お前の手は血で汚れているんだ。手が血で汚れた人殺しのお前が、普通の人間として生きちゃ駄目なんだよ。だからお前は……」

 

 

 その時に、詩乃は違和感を感じていた。和人の声が、和人の声ではなくなっていっている。より野太く、低い大人の男の声に変わっていっているのだ。一体和人の身に何が起きたというのだろう――確認しようと顔を上げた瞬間、詩乃は悲鳴を上げた。

 

 目の前にいたのは和人ではなく、黒いポンチョを着て、沢山のベルトが巻き付いている黒いズボンを履いている、顔がよく見えない男だった。そう、突然目の前に現れて襲い掛かってきた、SAOで死んだはずだった殺人鬼PoH。それに和人は姿を変えていたのだった。

 

 

「お前は、俺達と同類だ。だからお前は、俺達と一緒に来るしかないんだよ」

 

 

 そう言って、PoHはその手を詩乃へ伸ばしてきた。同じように、粘り気のある血に包み込まれ、それが滴っている大きな手が顔に伸びてきた途端、詩乃は震えあがり、咄嗟に逃げ出そうとしたが、すぐさま何かにぶつかって止まった。見上げてみれば、それはPoHと同じような格好をした男。――SAOで死んだはずの、《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》メンバーだった。

 

 気付けば、先程まで悪罵を履いていた人間達は全て《笑う棺桶》へ姿を変え、詩乃を取り囲み直しており、その手は自分と同じように血で真っ赤に染め上げられ、その顔には不気味な笑みが浮かんでいる。

 

 詩乃は何度も周囲を見回し直したが、《笑う棺桶》達はしっかりと逃げ道を塞いだ状態で、詩乃を取り囲んでいた。

 

 

「いやっ、いや、いや、いやぁ゛っ」

 

「おいおい、そんなに拒否するなよ。だってお前は俺達と同じ世界にしかいれないんだからよぉ。ほら、早く……」

 

「こっちに、来い」

 

 

 PoH達《笑う棺桶》はその顔にもう一度不気味な笑みを浮かべると、粘り気のある血で真っ赤に染まった手を、詩乃へと一斉に伸ばし始めた。血に染まった手が何本も一斉に迫り来て、更にその手と自分の手は同じ。自分の手は、《笑う棺桶》達と同じ――その事を頭の中でしっかりと把握した瞬間、詩乃はたまらず叫んだ。

 

 

「うわあああああ――――――――――――ッ!!!」

 

「詩乃ッ!!」

 

 

 次の瞬間に、詩乃はかっと目を開いて飛び起きた。いつの間にか、世界に色が戻り、黒は白に姿を変えていて、自分は白いベッドの上で寝ていた。一体何が起きたのかわからないまま、周囲を見回そうとしたその時に、声が聞こえてきた。

 

 

「詩乃」

 

 

 声に誘われるまま顔を向けてみると、そこにあったのは愛する人である和人。その顔には心配そうな表情が浮かべられており、和人の周囲にはいつも使っている自分の部屋が広がっていた。いつ頃なのか、自分の部屋に戻って来ていたらしい。

 

 

「かず……と……」

 

「そうだよ。大丈夫か詩乃。さっきまですごく(うな)されてたぞ」

 

「魘されてた……?」

 

「そう。あんまり顔真っ青にして魘されたから、思わず起こしたんだ」

 

 

 和人の言葉を頭を抱えながら聞いていると、詩乃は自分が眠っていた事を、そして先程までの出来事が全て夢の中の出来事であった事がわかってきた。自分は悪夢にうなされていただけだったのだ。そうだ、《笑う棺桶》に襲われたのだって……。

 

 

「!」

 

 

 僅かに夢の内容を思い出したその時に、頭の中いっぱいにあの光景が蘇ってきた。大量の《笑う棺桶》に取り囲まれて、無数の血に染まった腕が迫って来て、しかも自分の手間で同じような事になっているという光景。それを僅かに考えただけで全てが思い出されて、詩乃は身体の中の血液が抜けたような錯覚を覚えた。身体の中が一気に冷え固まり、内臓が締め付けられるような感覚に襲われた次の瞬間、胃が強く収縮し、強い吐き気が突き上げてきて、詩乃は溜まらず口を塞いだ。

 

 

「う、ぶう゛ッ」

 

「詩乃!?」

 

 

 驚く和人に構わず詩乃は立ち上がり、千鳥足を何とか動かしてユニットバスの前まで軽く走った。そしてその扉を勢いよく開けて便器に屈み込み、蓋を開けたその時に、胃の中の物が一気にせり上がって来て口元へ到達。直後にその全てを詩乃は激しく吐いた。

 

 

「う゛ぇッ、おえ゛っ、お゛ぇッ、げほっ、え゛ほっ……う゛え゛ぇッ」

 

 

 喉が焼けるような熱さと異臭が迸る中、詩乃は痙攣しながら激しく嘔吐して、やがて胃の中の物を全て吐き出した。そして便器の蓋を閉めてタンクの水洗ノブを押して、便器の中の嘔吐物を全て流したその時に、詩乃は背中に何かが当たっているような感覚がある事に気付いた。何事かと思って横方向に目を向けてみれば、同じように屈んで、その手を背中へ伸ばしてくれている和人の姿があった。

 

 吐く事に意識を取られて気付かなかったが、いつの間にか和人が来てくれて、背中を撫でていてくれたらしい。そんな和人へ声をかけようと口を開く前に、和人の方が早くその口を開いた。

 

 

「詩乃、めっちゃ吐いたけど、大丈夫か」

 

「……」

 

「大丈夫なわけ、ないか。とにかく、ベッドに戻ろう」

 

 

 和人に支えられて立ち上がり、詩乃はよろよろとした足取りで歩き、ユニットバスを出て居間へ戻り、やがてベッドの前まで来ると、そこへ深く座り込んだ。同時に和人が隣に座ってきたが、詩乃は目を向けずにただ床を眺めていた。

 

 熱が出ているせいなのか、それともあまりに激しく嘔吐した反動が出ているのか、視界が少しだけ歪んでおり、床に敷かれているカーペットの模様が何となく動いているような気がした。そんな光景をぼんやりと眺めていると、急に横から何かが飛び出してきて、詩乃は軽く驚いた。

 

 目を向けてみれば、それは蒼いラベルの張られた、柔らかい質感のペットボトルだった。持っているのは、和人だった。

 

 

「風邪ひいた時に飲むと良いっていうスポーツドリンクだよ。ほら、飲む点滴っていうあれだ。飲んだ方がいいよ、詩乃」

 

「……いつの間に……」

 

「詩乃が寝てる間に近くのコンビニから買って来たんだ。もしかして、いらなかった?」

 

 

 詩乃はふるふると首を横に振ると、和人からペットボトルを受け取り、キャップを外して飲み口に口を付けた。そしてそのまま傾けると、口の中に清涼感のある香りと味の飲料水が流れ込んできて、それが口の中に少し入って来ただけで美味しさを感じ、詩乃はごくごくと音を立ててスポーツドリンクを飲んでいった。

 

 一息吐いた頃には、満杯付近まで入っていたスポーツドリンクの量は半分以下になっており、それを見るなり和人は安心したような表情を浮かべた。

 

 

「よかった。もう吐き気はないみたいだな。一時はどうなるかと思ったよ」

 

「…………」

 

「……詩乃?」

 

 

 あまりに言葉を返そうとしない自分を不思議がったのだろう、和人が首を傾げたその時に、詩乃はようやくその口を開いたが、自分の症状の事などは一切話そうとは思わなかった。

 

 

「……皆が、私に言うの。お前は、人殺しだって……」

 

「えっ……」

 

「それで、そこにどんどん人が増えて行くの。そして、私に言うの。お前は、人殺しだって。普通じゃないって……」

 

「それって、さっきの夢の内容?」

 

 

 詩乃は頷いた後に、深く俯いた。

 

 

「……最後にそこに、あなたが加わるの。あなたまでもが、私に人殺しって言うの。それで次に……PoHが迎えに来た」

 

「……」

 

「それで、皆が《笑う棺桶》に変わるのよ。お前は俺達の同類だ、お前は人殺しだから仲間だって……そこで、目が醒めた……」

 

 

 和人は先程の詩乃のように、何も言わずにその話を聞き続けてくれた。そして話が終わったタイミングで、詩乃は和人に向き直った。

 

 

「ねぇ和人……私は……私は《笑う棺桶》と同じなの? 私の味方は、《笑う棺桶》なの? 私は、《笑う棺桶》と同じ人殺しでしかない……の?」

 

 

 詩乃は自分の身体が無意識のうちに震えているのがわかった。頭の中には血にまみれた手をして顔に不気味な笑みを浮かべた殺人者達の姿が浮かび上がっていて、尚且つそれらはこっちに来いと言わんばかりに手招きをしている。消そうと思っても、全くと言って良いほど消えてくれなかった。

 

 

「ねぇ、教えて、和人。私は……私はただの人殺しなの。《笑う棺桶》と、同じでしかないの……?」

 

 

 泣き出しそうになりながら、訴えかけるように言ったその次の瞬間、詩乃は突然何かに包み込まれたような感覚と暖かさを感じた。気付けば、いつの間にか和人に抱き締められて、その胸の中に居た。

 

 

「……そんなわけないだろ。君が《笑う棺桶》と同じなわけない。君は確かに、あの時あんな事になってしまったけれど、君は殺したくて殺したわけじゃない。あの時は、周りの人達を、何より君のかあさんを守るために、君は戦ったんだ。君はただの人殺しじゃない。いやそもそも、人殺しですら、無いんだ。あの時の君のおかげで、君のかあさんは助かったし、周りの銀行員の人達だって助かったんだ。だから君は、《笑う棺桶》と同じなわけがないんだ」

 

 

 詩乃はきょとんとしながら、和人の胸の中でその言葉を聞く。和人の言葉は、ほとんど絶え間なく続いた。

 

 

「それにな、詩乃。誰もが君を人殺しと罵ろうとも、俺は、絶対にそんな事はしない。俺は、何があったとしても、君の味方だ。俺だけじゃない、明日奈やリズ、皆だってそうさ」

 

「本当に……?」

 

「本当以外に何があるっていうんだよ。それに詩乃、例え皆が君を見捨てたとしても、俺だけは絶対に君を見捨てたりなんかしない。最後の瞬間まで、俺は君の味方だ。君は、あいつらとは違う。人殺しなんかじゃない。だから……大丈夫だ。

 だから……大丈夫、だよ」

 

 

 そう言ってから、和人は抱き締める力を強くしてきた。腕の当たっている部分が少し痛んでくるくらいの力だったが、詩乃はそれらに一切気を向ける事無く、心の中に響き渡る和人の声を聞いていた。

 

 君は人殺しなんかじゃない。

 君は守るために戦った。

 君は《笑う棺桶》と同じなんかじゃない。

 

 そして俺達は、俺だけは最後まで君の味方だ。

 

 さっき夢の中で聞いた言葉とは真反対の言葉。暖かくて優しくて、心の中を底から温めてくれる言葉達。それが頭の中、心の中に木霊させると、先程まであった恐怖や不安が全て消え去り、罵りの言葉も、PoH達の姿も全て消え去った。

 

 そして同時にとても大きな暖かさが心の底から湧き上がって来て、胸の中、首、喉元へと上がっていって、頭に到達したその時に、大粒の涙となって出来てきた。嗚咽が漏れそうになって、詩乃は拳を握って我慢しようとしたが、直後に後頭部に何かが当たって少し驚いた。それが暖かい和人の手だと気付くのに、時間は一切かからなかった。

 

 

「きつい事ばっかり続いたもんな。泣いていいよ、詩乃。大丈夫、だからな」

 

 

 届いて来た和人の優しげな声を耳の中に入れた次の瞬間、詩乃の中でぷつりと糸のようなものが切れたような感覚が走って、何とか押しとどめようとしていた大粒の涙がとめどなく溢れ出てきた。

 

 それまで我慢していた嗚咽も我慢できなくなったその時に、詩乃は和人の胸にむしゃぶりつきながら、大きな声を出して泣き出した。かつてSAOに居た時に和人に全てを話し、受け入れてもらった時よりも大きな声で、自分が熱を出している病人である事もすべて忘れて、詩乃は泣いた。その間、ずっと和人は背中と頭を撫でてくれていたから、余計に涙も声も止まらなかった。

 

 声は他のところには響いて行かず、二人だけの空間である部屋の中にただ木霊するだけだった。

 

 

 

 

 

 

           □□□

 

 

 

 

 一頻りに泣いて、泣き止むと、和人は詩乃を再びベッドへ寝かせた。掛布団を胸の付近まで掛けた後、和人は少し赤くなっている詩乃の顔に手を伸ばして、額に当てた。それからほんの少しした時に、和人は手を離して、静かに微笑んだ。

 

 

「よかった。熱が下がって来てる。食べた後に飲んだ薬が効いて来たのかな」

 

「違うわ。和人が看病してくれたから。私一人だったら、どうにもならなかったと思う。だけど、ごめんなさい和人。あんなに、泣き散らしちゃって……」

 

「別にいいよ。泣いたら、すっきりしただろ」

 

「……うん」

 

 

 頷くと、和人はもう一度微笑んで、手を額に乗せてきた。柔らかさと心地よい冷たさ、そして暖かさの混ざった不思議な感覚を受けて、詩乃は安堵感を覚える。

 

 

「だから、泣きたくなったら言ってくれよ。そしたら、俺が傍に居るから。いや、そうじゃなくても傍に居るけれどさ」

 

「そうさせてもらうわ……そんなに頻度は高くしないけれど」

 

「そうか? 別に頻度が高くてもいいんだけれどなぁ」

 

「いやよ」

 

「そっか」

 

 

 そんな他愛もない会話を続けた後に、詩乃は和人の瞳に目を向けた。暖かさと優しさを抱いた光が瞬いている、黒色の美しい瞳。それを見ながら、詩乃はその口を小さく開いた。

 

 

「ねぇ、和人」

 

「うん」

 

「私、あなたと出会えて本当によかったって、思う……ありがとう、和人。私と出会ってくれて」

 

 

 和人は一瞬驚いたような表情を浮かべて、その頬を赤色に染めたが、すぐさま色を桜色に変えて、もう一度暖かい微笑みをその顔に浮かべてみせた。

 

 

「……俺だって、君と出会えて本当によかったよ。こっちこそ、ありがとうな、詩乃」

 

 

 詩乃はすんと笑んだ後に、伸びている和人の手を両手で包み込み、胸の前に持ってきてから、もう一度和人に向き直って笑んだ。

 

 

「和人」

 

「ん」

 

「……大好きよ」

 

「……うん。俺も大好きだよ」

 

 

 互いにそう思い合っているけれど、なかなか言い出さない言葉。それを言い合った後に、互いに音を出さずに顔を近付けあったが、目を閉じようとした次の瞬間に詩乃はハッとして、和人の唇に指を当てて止めた。驚いた和人が目を開いた時に、詩乃は口を開ける。

 

 

「流石にそれは駄目よ。伝染(うつ)っちゃうから……」

 

「あ……あぁ……そうだな。ついやっちゃうところだった」

 

 

 苦笑いしながら和人はその顔を離していき、詩乃もまた枕に頭を乗せた。いつもどおりな事をやってしまえば、和人に風邪を伝染してしまう。せっかく看病してくれた和人に風邪を伝染すのは、流石にごめんだ。

 

 

「その代わりと言っちゃなんだけど……寝るまで手、握っててくれる」

 

「あぁ。そのくらいなら出来るな」

 

 

 手を伸ばすと、和人は一切拒否する事無くその手を包み込んでくれた。もう一度心地よい暖かさが手を伝ってきて、熱っぽい身体がじんわりと暖かくなった。直後に、眠気が来て、瞼が重くなってきたのを詩乃は感じ、今にも眠りそうになってきた。

 

 

「今はゆっくり休んでくれ、詩乃」

 

「えぇ……そうさせてもらうわ」

 

 

 そう言ってから、詩乃はその瞼をゆっくりと閉じた。それから心地のよい眠りの世界に行くまで、そこまで時間がかかる事はなかったが、その間はこれ以上ないくらいに暖かくて幸福感に満ちたものだった。

 


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