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「あぐッ!」
突然吹っ飛ばされて、シノンは壁に身体を強く打ちつけた。全身に走った鈍い痛みに似た感覚を受けながら、そのままずり落ちる形で壁を背に地面に落ちてから、シノンは呻く。
アスナとリーファと一緒に路地裏を歩いていたというのに、突然横方向に身体を引っ張られて、強い力で後ろ方向に引っ張られ続け、もっと薄暗い路地裏に来たところで引っ張る力が強くなり、今に至る。
「一体、何が……」
一体何が起きたのか――頭の中で唱えつつ、現状を把握しようと目を開けたその時に、シノンは思わず驚いた。薄暗くて湿っぽい空気の立ち込める建物と建物の間、少し開けたところがここであり、目の前には奇妙な人物がいる。
黒いフード付きのポンチョを纏い、ベルトがやたらと巻かれている灰色のズボンを履いている、詳細が読めない人物。フードを深く被っているおかげで顔をよく見る事の出来ないが、肩幅がかなり広い事と、口元だけが確認できることから、少なくとも性別が男性である事はわかった。
あんたは一体誰だ――そう声をかけようとシノンが口を開くよりも先に、黒いポンチョの男が口を開いた。
「よぉ、やっと見つけたし、会えたぜ。やっぱりこの世界に来てたんだな」
「……!!?」
何かを知っているかのような男の口ぶりにシノンが驚いた直後に、男は一気にシノンとの間合いを詰めて、座り込むシノンの首根っこを右手で掴んで無理矢理立ち上がらせた。首を軽く絞められて息が詰まるような感覚に襲われて、シノンは目を強く開いて
「あ゛、あぐっ、かっはっ……」
「おぅおぅ、いい反応じゃねえか。流石は一級品のGilr、反応も最高Levelだぜ。だけど、探すのには結構苦労したんだぜ。あの頃は簡単に見つける事が出来たっていうのになぁ」
所謂カタカナ語を流暢な英語として発音する男の言葉。それだけで、この男が普通のプレイヤーではない事をシノンは把握したが、首を絞められているせいで、上手く思考を回す事が出来なかった。
「あ、あん、たあ゛、いっ、い゛っ、だい゛っ……」
「俺が誰かってぇ? おいおい、そりゃねぇぜ。俺はお
そこで、男は何かに気付いたような口元を見せつけて、やがてそれを意外そうなものに変えた。
「あ? あぁそうか。お前らの中じゃ、あの時で俺は死んだ事になってたんだったなぁ。俺もうっかりしちまってたぜ」
「し、ん゛だ……!?」
「けれど、俺はあれ以降のお前らをよく知ってるぜ。あの《黒の剣士》様……いや、《黒の竜剣士》様は血盟騎士団の
そこでシノンはもう一度かっと目を開き、一瞬息苦しさを忘れた。
《黒の竜剣士》とはキリトの事だ。
だけど、それらの情報は全て、あの世界に居て、尚且つ話をよく聞いていないとわからないようなものばかりだ。あの世界の情報を知っているということは、こう呼ばれる存在であることの証だ。
SAO
「なんでっ……なん゛でッ……」
「何で知ってるかって? おいおい、そりゃ俺の事を思い出せれば一発でわかるだろうが。ほら、思い出してくれよ。……それとも、首をへし折られなきゃ、思い出せねぇってか?」
そこで、男の腕先の力が強くなる。ぎちぎちと言う音ともにシノンの苦しさは一気に強さを増して、首が押し潰されるような錯覚に襲われる。
「あっ、ああ゛っ、あがあ゛、かっは、ぁ゛っ」
「ん? あ、いっけねぇ。あんま首絞めるとかえって頭の動き、悪くなるんだったな。余計に思い出せなくなっちまうか」
何かに気付いたように男が手を離すと、それまで首を掴まれていたシノンはその場に崩れ落ちた。肺に一気に空気が吸い込まれてきて循環し、詰まっていた空気が一気に口元に登って来て、激しい咳となって吐き出される。
「どうだ、思い出してくれたか」
激しく咳き込む中で男の声を聞き、シノンは咄嗟に頭の中を回して、記憶の中を探る。
ポンチョを纏って尚且つフードで顔を隠し、尚且つ日本語と英語を混ぜたような喋り方をして、尚且つ英語の方は流暢に喋る事の出来るマルチリンガルな長身の男……そんな特徴を持った男の話を思い出した瞬間、シノンは背中に強い悪寒が走ったのを感じた。
そんな特徴を持っている男は、あの世界に確かにいた。しかもそいつはキリト同様に魔剣のような強い剣を持ち、更にある軍団を率いて、自分達攻略組を、アインクラッドに住まう全ての人間達を震え上がらせる存在だった。
だけど、そいつはある時を境に狂い、ある存在に利用され、最終的には現実世界に帰る事なくアインクラッドで果てたのだ。だから、現実世界にも、ましてやALOにもいないはず。
「まさ、か……あんた、は――」
次の瞬間、シノンは腹部に重いものが衝突したような衝撃を受けた。その正体が男の蹴りだと気付いた時に、シノンは壁にぶつかって跳ね返り、地面に転がった。腹部全体に強くて鈍い痛みが走り、咳と一緒に強い吐き気が突き上げてきて、吐く物がないのに吐きそうになり、シノンは腹を抑えたままその場に
「え゛っ……ぅえ゛ッ……う゛え゛っ……」
「おぉ悪い。あんまりにも思い出すのが遅かったもんだから、つい足が出ちまったよ。
っていうか、恋敵だから蹴りたくなって当たり前か」
突き上げて来る鈍痛と吐き気に悶えながら、シノンは頭の片隅で思考を回す。さっきからなんでこんなに痛くて苦しいのだろうか。このゲームは痛覚遮断機能があるはずなのに、この男の暴行はそれらを突き抜けてリアルな痛みや苦しみを与えてくる。一体、この男は何をしているのか。
そんな事を考えていると、男の声が耳元に届いてきた。
「しかしすげぇ威力だな、BOSSの教えてくれたスキルは。
男はにやりと口角を上げるとしゃがみ込み、シノンの毛に包まれた片耳を勢いよく掴んでそのまま立ち上がった。強引に持ち上げられ、苦痛に歪んでいるシノンの表情を見ながら、男はその口を開いた。
「お前もひでぇ事をしてくれるもんだぜ。あいつに先に惚れたのは俺だってのに、途中から入ってきて、あいつを横取りしてくれるんだからなぁ」
「あ、あん、た、なん、で、なんで、あの、とき……」
「それについては口外無用だって言われてんだけど……そうだなぁ、同じあいつを愛する奴として、特別に教えてやるよ」
男は強引にシノンの耳を引っ張り、シノンが悲鳴を上げているにもかかわらず口元まで持っていく。そしてシノンの耳を口元から多少近いところで止めると、囁くように言った。
「俺はあの時《BOSS》に助けられたのさ。そして、あのパーティーを一人だけ生き残ったんだよ。まさかあんな事になるとは俺も予想してなかったぜ。《BOSS》が立案してくれたやり方をやってなきゃ、マジで
「やっぱり、あ、んた、は……」
「あぁそうさ。俺はお前と同じさ。お前と同じで、あいつに生きる希望と喜びをもらった者……あいつを心の底から愛してる奴さ。だから、お前には心底ムカついてるぜ。俺達が居なくなった後のあの世界で、思いっきりあいつとラブラブしやがってよ。
だけど、あんなにラブラブしてるお前らを見てると、純粋に思うんだよなぁ……」
男はシノンの耳を更に高く持ち上げて、顔の高さを同じにすると、苦痛で歪むシノンの表情に満悦しながら口を開いた。
「目の前で、白馬の
「……!!」
耳を潰されるような痛みに襲われながら、シノンはかっと目を見開く。
この男は、あいつだ。そしてあいつが一番得意としていた事と言えば、一つしかない。
そしてこいつは、きっとそれを実行できる事に自信を持っているし、本当に出来るのかもしれない。
もし、こいつのやろうとしている事が現実になろうものならば……!
「……あ、あ゛っ……」
「おいおい、もしかして想像しちまったか? そうだよなぁ、怖いよなぁ。あいつがいなくなるの、怖いよなぁ。だってお前、あいつの事愛してるし、大好きだもんなぁ。
そして何より、依存してるもんなぁ。依存させてくれるアレが居なくなった時の事、考えるだけで怖すぎて死にそうだよなぁ」
途中で男は、シノンの耳を掴んだまま、路地裏の隙間に広がる空を眺めた。いつもならば攻撃する隙を見つけたと思ったところだが、全身に走る鈍痛と吐き気、耳の千切れそうな痛みのせいで、まともに動く事さえ考えられなかった。
「俺も怖いぜ、あいつが居なくなるの。あいつが居なくなっちまったら、俺が生きる意味とか全部消えちまいそうだからな。だから、その点はお前と同じだ。そうだ、お前と俺は同じだ。俺はお前と同じあいつを想う者、あいつに特別な感情を抱く者、そして……」
男はシノンの耳に唇が接するか接しないかくらいの距離まで近づくと、口角を上げて、口づけをするように言った。
「お前と同じ、
次の瞬間に、シノンは完全に硬直した。全身の血の気が抜けて、猛毒がどこからともなく沸き上がって来て、血管の中を流れ始めたような麻痺を感じた。
かつてハンドガンで強盗を射殺した少女、朝田詩乃。それが自分の本当の名前であり、かつて犯した罪。――何故、その事をこの男は知っているのだ。この情報はネットの非常に深いところまで行かなければわからないよう話だし、そんなに簡単に手に入るわけがない。
「ん? なんだ、俺がその事を知ってるのがよっぽど意外だったみてぇだな。苦労したんだぜ、あんな
それにそもそもここはALOという仮想現実世界で、自分はシノンという現実世界のそれとは全く異なった姿のアバターになっているから、朝田詩乃だとは分からないはずだ。アバターの見た目や名前から、中身を当てる方法なんて、存在しない。
なのにこの男は、自分がかつて人を殺してしまった事を、知っている。そして、それがシノンというアバターの中身である事を、知っている。――それがわかった途端、身体が強く震え始め、ぼろぼろと涙が零れ出して、心の中が恐怖の黒一色に染め上げられていく。
「い……や……いや、いやぁ、いやああ゛……!!」
「おいおい、その反応はねえだろ。人殺しのくせに人殺しって言われるの、そんなに嫌なのかよ。なぁ、人殺しのお姫様よぉ」
歯を食い縛ってがちがちと音を鳴らし、シノンは首を横に振ろうとするが、耳の捻れる痛みで首を止める。しかし、その時また男は何かに気付いたような声を出した。
「あ? あぁ、そうか。だからこそ《BOSS》はお前を気に入ってるのか。ったく、お前が《BOSS》のお気に入りじゃなきゃ、さっさと殺すのによぉ。運がいいぜ全く」
「ぼ、す……」
「なんだ、知りたいか? 残念だが、お前はまだ知らなくていいんだよ」
力強く言うと、男はシノンの身体を思いきり壁に投げ付けた。ごっという鈍い音と共にシノンは壁に頭を打ち付け、悲鳴を上げた後に力なく地面へ落ちる。
「い゛ッ……う゛ぅ……」
「安心しておけ。俺がこの神ゲーに来るのはこれっきりだ。もう現れねぇ。だけど、お前の大事な
そう言ってから男は振り返り、そのまま歩みを進めて路地裏の暗がりの中に溶け込むように消え始める。そして男が完全に闇の中に消えた頃に、シノンは声無く闇へと叫んだ。
(キリト…………キリト――――――ッ!)
□□□
「シノのん、どこいったの、シノのん――!」
「シノンさーん、どこですかー!」
アスナとリーファは目的地をそっちのけで、路地裏の中を歩き回っていた。空都ラインはスヴァルト・アールヴヘイム最大の都市であるためなのか、路地と同じくらいに広大だった。しかも様々な形の建物があるものだから、まるで入り組んだ迷路のようだ。そんなところを歩くアスナの気分は、SAOに居た時に迷宮区に潜っていた時のそれに似ていた。
「だいぶ歩いてるのに、全然見つからないね」
「空都ラインの路地裏って、こんなに入り組んでたんですね。目的地なしで行くと、どこまでも迷っちゃいそうです」
「だけど、早くシノのんの事見つけないと。多分シノのん、何かに捕まったのかも」
「確かに、シノンさん、ちゃんとあたし達に付いて来てたから、いきなりいなくなるのは変です。街中だからトラップとかがあるとも思えませんし……」
もしかしたら何かの事件に巻き込まれたのかもしれない。早くシノンを見つけてやらないと――そう思って横方向に広がる建物の隙間に目を向けたその時に、リーファは立ち止まった。ただでさえ薄暗い路地裏の中に一段と暗くなっているところがあって、そこの地面に何かがある。物でもオブジェクトでもない、何かが落ちている。
だんだんと暗さに目が慣れてくると、地面に落ちているモノは倒れている人であり、白水色の髪の毛で、緑色を基調とした服装で、猫の耳、尻尾が生えているプレイヤーである事がわかり、リーファは背筋が凍ったような錯覚を覚えた。
暗がりの中に倒れているのは、シノンのそれに似た特徴を持つ人。
「シノンさん!!!」
「ええっ!!?」
それまで進んでいたコースを外れて、リーファは暗がりの中に飛び込んで、倒れている人の元に辿り着いたところで屈み込む。白水色の髪の毛と猫の耳と尻尾、そして緑色を基調とした衣装の少女。間違いなく、シノンだ。
しかし、リーファが寄ってきて声をかけたと言うのに、シノンは一切反応を返さないまま、うつ伏せになって蹲ったままだった。そのうち、慌ててアスナが駆け付けてきて、リーファの隣に来たところで驚きの声を上げた。
「しっ、シノのん!!?」
アスナは焦燥しながらシノンの身体を抱きかかえて、仰向けの状態にする。シノンの顔には激しい痛みに襲われたかのような、苦痛に苛まれている表情が浮かんでおり、息も絶え絶えになっていた。それだけで、アスナはシノンの身に良からぬ事が起きた事を把握し、声をかける。
「シノのん、どうしたの、シノのん!?」
「ぁ……あ゛……」
シノンは喉から小さな声を漏らすだけで、全くと言って良い程言葉を返してくれない。まるで強い痛みに襲われたかのように思えるが、このゲームには痛覚遮断機能があるために、そこまで大きな痛みに襲われるような事はないはずだ。
なのに、何故こんなにシノンは痛がっているのだろうか。そんな事を頭の片隅で考えていると、リーファが戸惑いの声をアスナへ上げた。
「アスナさん、ど、どうしよう!」
「と、とにかく宿屋に連れていきましょう。それに、キリト君にもこの事を知らせないと!」
「そ、そうですね! あたし、おにいちゃんに知らせてきます!」
「リーファちゃん、お願い!」
リーファは立ち上がると、そのまま一気に路地裏の中へと走っていった。足取りが見えなくなるまでそこを見ていたその時に、シノンの口元から声が聞こえてきて、アスナは向き直った。薄らと、シノンの瞼が開いていた。僅かに開かれた瞳の中に、自分の姿が映り込んでいる。
「シノのん!」
「……ア……スナ……」
ちゃんと答えが返ってきた事に思わず泣きそうになったが、アスナは何とかその気持ちを抑え込んで、シノンに問いかけた。
「シノのん、どうしたの。何があったか、話せる?」
「……ッ!!!」
次の瞬間、シノンは突然かっと目を開き、起き上がろうとしたが、すぐさま顔を顰めてアスナの腕に倒れた。まるで強い痛みを感じているようなその様子に、アスナは驚きつつも戸惑う。
「ど、どうしたのシノのん。なんでそんなに痛がってるの。そんなに痛くなるような事、あったの」
「アスナ、キリト、キリトどこ」
「えっ、キリト君? キリト君がどうしたの」
「キリト、どこにいるの」
キリトの居場所ならば、連絡先ウインドウを展開すればわかるが、今はシノンの身体を支えるために両手がふさがっており、それは出来ない。だけど、キリトならばリーファが呼びに行っているため、場合によってはここに来るはずだ。
「キリト君なら、今リーファちゃんが呼びに行っているけれど……」
「早く、早く行かなきゃ……キリトが、キリトがっ……!」
「わわっ、落ち着いてよシノのん! キリト君が何なの!?」
シノンは今にも泣き出してしまいそうな顔をしながら、アスナに叫んだ。
「キリトが、殺されちゃう!!」
「……えっ?」