茅場晶彦の思いを聞いて、相棒が俺の元へと戻ってきた直後。
紅玉宮に完全なる静寂が取り戻された中、俺は戻ってきた相棒に声をかけられずにいた。相棒は確かに、父親にもう一度会って、父親を止めるという願いを叶える事が出来たが、その代わりと言わんばかりに、目の前で父親を失う事になってしまった。
相棒の願いが叶ったのか、叶わなかったのか、それとももっとひどい結果になってしまったのか。普段ならば何気なく話しかけられるというのに、俺は一向に相棒に声をかけられずにいた。
「……キリト」
その最中、相棒の方から声をかけてきて、俺はびくりとしてしまう。相棒の声は続く。
「礼を言うぞ。お前のおかげで、我はアキヒコを止める事が出来た。我の目的は、無事に果たされた」
そこでようやく、俺は閉ざしていた口を開く。
「よかったのか、これで」
「あぁ。間違いなくよかったと思える結果だ。そしてこんな結果を迎える事が出来たのは、間違いなく、お前のおかげだよ。お前と出会えたからこそ、お前の<使い魔>になれたからこそ、出来たに等しい」
「そう、なのか」
「あぁ。我一人ではどうしようもなかったに違いない。全て、お前のおかげだ」
先程まで泣いていたせいか、相棒の目元には泣いた跡がくっきりと残っており、瞳が少し腫れていた。だけど、この結果を迎えた事に対する後悔のようなものを感じる事は出来なかったし、寧ろとても満足しているように見えた。
「……マーテル」
ようやくその名を呼んだその時に、相棒は振り返って来て、首を横に振った。
「その名前は、我の傍にアキヒコがいた時のものだ。だけど、我はもうアキヒコから巣立った。今はもう、そのような名前にあらぬ」
そうだ、俺は茅場から離れてきたこの少女に、名前を与えたんだった。そして、茅場本人もこの少女に、俺の着けた名前で生きていくよう、最後の指示を下していた。
「そうだったな……《リラン》。俺もお前が相棒になってくれて、本当によかったって思ってるよ。ありがとうな」
その時、突然相棒に何かが飛び込んできて、俺は思わず驚いた。何事かと目を向け直してみれば、相棒の胸の中に、ユイが飛び込んで来ていたのがわかった。
「おねえさんッ!!」
「ゆ、ユイ!?」
ユイは泣きながら、姉であるリランの胸に顔を擦りつけていた。そんなユイを、リランはさぞかし驚きながら見つめていて……その時には既に、泣いた跡は消えていた。
「おねえさん、よかったです、やっと、やっとちゃんと会えました……!」
「あぁ、お前のおかげだぞ。お前があの時ぎりぎりで助けてくれたから、我は死なずに済んだ。お前は我の命の恩人だ」
直後、リランの身体の空いたスペースにまた何かが飛び込んで来て、今度はリランと一緒に驚いてしまった。もう一度同じように目を向けてみれば、そこにあったのはアスナの姿。
「リラン、リラン――!!」
「今度はアスナか……お前にも心配をかけさせてしまった……」
アスナは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、リランの身体を力いっぱい抱き締めていた。その様子から、ユピテルを失ってしまっても、リランを失わずに済んだ事をこれ以上ないくらいに喜んでいるのがわかった。
「だって、だって、ユピテルが死んじゃって、貴方まで死んじゃったって思ってたからぁあ……」
確かに俺も、あの時は本当にリランが消されてしまったとばかり思っていたから、アスナの気持ちがわからないでもない。というか、この場にいる誰もが、リランがあのような形で復活する事を予想してはいなかっただろう。
「まさか、MHHPが本能として持ってる機能に救われるなんてね……」
「あぁ。まさにコンピュータの中で生まれた生命体だからこそ出来る事、だな」
隣に並んでいるシノンもまた、同じように安堵している表情を浮かべつつ、微笑んでいた。リランはシノンの大切な友人でもあったから、それを失わずに済んだのが、シノンも嬉しくてたまらないのだろう。実際、俺もリランの事を抱き締めたいくらいだけれど、今はユイとアスナにそれを譲っておこう。
そう思いながら、ユイとアスナに抱かれているリランの姿を見ていたその時に、突如として、紅玉宮全体に声が鳴り響いてきた。同時に、足元が軽く揺れて、周囲にざわめきが巻き起こる。
「な、なんだ!?」
『ただいまより、プレイヤーの皆様に緊急のお知らせを行います』
聞こえてきたのは、リランやユピテルのそれみたいに生物的なものではなく、寧ろ機械的、人工的な合成音声だった。こんなふうにプレイヤー全員の耳に届くような《声》が送られてくるのは、始まりの日のあの時、《壊り逃げ男》の宣言の時以来だ。
その声を聞くや否、大声で泣いていたアスナとユイも黙り込んで、次の声を待ち始める。
『現在ゲームは強制管理モードで稼働しております。全てのモンスターとアイテムスパン、全てのNPCは撤去されます。全てのプレイヤーのHPは最大値のまま固定されます』
その声の真実性を探るようにしてステータス画面を開いてみると、減らされていたはずのHPがいつの間にか全回復しているのがわかった。周りのみんなの事も見回してみるけれど、やはりどの者のHPもすべて最大値まで回復されている。
『アインクラッド標準時 10月13日 午後4時55分 ゲームはクリアされました』
――システム音声はそう告げた。
ゲームがクリアされた。その言葉を聞いた途端に、俺もシノンも、ユイもアスナも、リランも含めた全ての者達が凍り付き、その意味を模索し始めるが、やがてもう一度耳の中にシステム音声が響いてきた。
『プレイヤーの皆様は順次、ゲームよりログアウトされます。その場でお待ちください。
繰り返します。アインクラッド標準時 10月13日 午後4時55分 ゲームはクリアされました――』
「や、や、や」
「やぁぁぁ……」
「やぁぁぁぁぁぁ……」
戦いに臨んでいるわけでもないと言うのに、周りの皆が力を溜め込んでいるような姿勢を取り、やがてシステム音声が一時的に停止した次の瞬間、それを爆発させた。
「やったああああああああああああああああああああああッ!!!」
ようやく待ちに待った瞬間、解放の時、帰還の時を迎える、老若男女問わない大歓声、歓喜の咆吼。地面が、床が、浮遊城アインクラッド全体が振動する。それはリランの咆哮も、如何に巨大なボスモンスターの咆哮すらも凌駕してしまうほどの大音量だった。
周りを見てみれば、これまでずっと戦い続けてきた攻略組の仲間達が喜びの涙を散らしながら、抱き合い、地面を転げまわり、両手を突き上げて大歓声を上げている。そりゃそうだ、彼らはこの瞬間だけを待ちわびて手を合わせ、ここまで戦い続けてきたのだから。そしてこの歓声はここだけではなく、この城全体で巻き起こっているに違いない!
「キリトさん―――――――――――ッ!!!」
「「「「キリト――――――――――――――ッ!!!」」」」
「おにいちゃ――――――――――――んッ!!!」
「おうぶぶぶぶっぶぶぶぶぶぶ!!!?」
次の瞬間に、俺は突然重いものにのしかかられて、そのまま轟音と共に床に倒れ込んでしまった。ふらふらする頭の中、一体何事かと思って目の前に視線を戻してみれば、ピンク色、茶色、オレンジ色、白紫色、黒紫色、金色の、女の子の頭の数々。もっとよく見てみれば、その身体も見えてきた。
……リズベット、シリカ、フィリア、ストレア、ユウキ、リーファの六人が一度に俺に抱き付こうとしてきていたのだった。
「ちょ、ちょ、ちょ、みんなしてやめろってぇ!」
俺に抱き付いてきている人達は、全員喜びのあまり我を忘れて、俺に飛びついてきたようで、俺の声なんかほとんど聞こえていないようだった。どんな男性も一度はやられてみたいような事なんだろうけれど、やはり大切な人と娘を持っている俺からすればそんな事はない!
「お、おい、離れてくれよ!」
その直後だった。突然、リズベット、シリカ、フィリア、ストレア、ユウキ、リーファの順に、まるで何かに掴まれたかのように俺の身体から引き離されていき、やがて俺の身体は自由を取り戻した。
慌てて上半身を起こしてみると、そこにあるのは俺から少し離れた位置で、何が起きたのかわからないような顔をしている先程の六人と、少し呆れたような顔をしている金髪赤目の白狼耳の少女だった。
「大丈夫か、
「お前が助けてくれたのか、リラン」
「あぁ。これでも女帝龍の時の力は残っているらしくてな。筋力はこの中で最も高いらしい。同性を別なところへ無理矢理に動かすのも、余裕だ」
てっきり一度消滅しかけた時に、女帝龍としての姿や力を失ってしまったのでは無いかと思ったけれど、どうやらそうでもなかったらしい。そして、その力を使って、リランは俺から興奮した六人を引き剥がしてくれたようだ。
「そうなのか……」
「あぁ。だが、女帝龍の力があったとしても、お前を守ると言う使命はこれで終わりだ。同時に、我の命も、な」
リランがそう言った瞬間に、リランと親しくしていた者達が一斉にハッとして向き直る。確かにこれでゲームクリアとなり、俺達は元居た世界へと戻る事になる。その時には、ユイは俺のナーヴギアのローカルメモリの中に本体を置いているから大丈夫だけれど、リランはそうではない。
「お、おいまさか……!」
「あぁそうだ。我はユイの一部をコピーして再生したとはいえ、本体は未だこの世界のままだ。この世界が崩壊する今、我もその一部となって消える運命にある」
せっかくここまで来たというのに、リランがせっかく再生されたというのに、結局リランはこの世界と一緒に消えなければならないというまさかの事実に、それまで紅玉宮を揺らしていた歓声が一気に止まる。
そして、先程まで喜びのあまり俺に飛びついて来ていた一人であり、俺と同じ<ビーストテイマー>であるシリカが驚きながら言う。
「そ、そんな! リランさんも、一緒に帰れるんじゃなかったんですか!?」
「無理だな。それを実現するには、我がこの世界から切り離されなければならないのだが、外部にそれをする事が出来たとしても、我自身はどうにも……」
「そんな、そんな!!」
せっかくまた会えたのに、また永久の別れをしなければならない――それを突きつけられたアスナが涙を零そうとした、その次の瞬間だった。
「おねえさん、もう離しません、一人になんかさせません、一緒に、一緒に現実世界に帰りましょう!!」
ユイが突然力強く叫んで周囲を驚かせるや否、ユイはリランへと飛び込んで、その身体を力強く抱き締めた。
「ゆ、ユイ!!?」
シノンと一緒に声を合わせてもう一度驚くと、突如としてリランの身体が見慣れた白金色の光に包み込まれて、そのまま光球へと変わってしまった。そしてその光球はユイの周囲を蛍のように一周飛翔すると、その胸の中へと飛び込んで消えた。
リランがユイに吸収されたようにも見える、その光景に驚いたシノンが、ユイに声掛けする。
「ゆ、ユイ、あなたは……!」
ユイはそっとシノンと俺に振り返る。その顔には、安堵しているような微笑みが浮かんでいた。
「パパ、ママ。おねえさんをオブジェクト化させて、わたしと同じ場所に本体を送信しました。おねえさんが、消えかかったわたしにやってくれた方法と、全く同じ方法です」
ユイの言葉に驚いてしまう。リランがユイと同じところにいると言う事は、それは……。
「って事は……リランは消えない!?」
「そうです! おねえさんも一緒に、現実世界へ帰れます!」
直後に、攻略組全体で再び歓声が上がり始めた。最後の最後で犠牲が出てしまうと言われたが、それが無かった事になり、思わず喜んでしまったのだろう。現に俺も、心の中から激しい喜びが突き上げてきて叫びたくなったが、どうにかそれを押さえてユイに言った。
「よかった……せっかく茅場からリランを託されたのに、いきなり失う事になったなんてなったら、俺は……」
「あ、おねえさんだけじゃありませんでした。危うく忘れるところでした!」
直後、ユイはまた何かに気付いたような顔になってとことこと走り出した。今度はどこへ行くのかと思って目で追ってみれば、ユイは自分と同じくMHCPであるストレアの目の前で止まっており、ストレアは不思議そうにユイを見ていた。
「ゆ、ユイ?」
「ストレアも一緒です。おねえさんとわたしとストレアで、パパのローカルメモリの中に行きましょう」
そう言ってユイがストレアの身体に抱き付き、ストレアがそれに驚いた次の瞬間、リランの時と同じように、その身体は白紫色の光に包み込まれ、やがて光球へと姿を変えた。そこにユイがそっと手を伸ばすと、その胸の中へと光球は吸い込まれるようにして消えていった。
同時に、一瞬身体がものすごく重くなったような感覚が走って消える。
「ユ、ユイ。まさかストレアも?」
「はい。ストレアも同じ方法でわたし達のあるべき姿に戻して、このゲームから切り離してパパのナーヴギアに送信しました。ですが、すみませんパパ。パパのナーヴギアのローカルメモリの容量が、あとほんの少しになってしまいました」
先程の重圧感はそれによるものだったとわかったが、それが同時に嬉しくなった。
もしユイがストレアにあれをやらなければ、ストレアもこの世界と一緒に消滅してしまうところだった。そのストレアの命も助かり、リランもユイも助かった。それに比べれば、ローカルメモリの容量など些細なものだ。
「お、おぉっ!?」
その直後に、周りから驚きの声が聞こえてきて、俺達は一斉にその方へ向き直った。最後の戦いを成し遂げるべく集まった総勢200人以上の攻略組。その一人一人が白色の光に包み込まれて、次々とこの紅玉宮から消えていっている。
――ついにプレイヤーのログアウトが、始まった。
「みんな消えていってる……」
「違うよ。ログアウトが始まったんだ。ついにな」
アスナの言葉に答えた直後に、200人も集まっていたはずのプレイヤー達は次々と現実世界へと転送されていき、その数は180、150、120、100、90と、あっという間に100を下回った。
その後はもっと早く転送されていって、声をかける間もなく50を下回り、40になり、30、20になり……ついには俺、シノン、ユイ、アスナ、リズベット、シリカ、リーファ、ユウキ、フィリア、クライン、エギル、ディアベルと言った、いつもの12人になってしまった。