◇◇◇
最後の戦い。創造者ヒースクリフとの戦いに俺達は打ち勝った。本当に一瞬の事過ぎて、自分でもわけがわからなくなりそうだった。だが俺達は間違いなく勝利を収める事が出来たが、それと同時に驚く事になった。
俺達の最後の攻撃でヒースクリフは玉座へと吹っ飛ばされていったのだが、そこに激突した途端にその姿が変わったのだ。
紅い鎧に身を包んでいた真鍮色の髪の毛の男性ではなく、黒色の髪の毛に、如何にも研究者と言った衣装に身を包んだ線の細い男へと。
そう、聖騎士ヒースクリフではなく、その中身――この世界の創造者たる茅場晶彦そのものであり、マーテルとユピテルの父親である存在、アキヒコ。
その姿が明らかになった時には、仲間達と俺達を遮っていた壁はなくなっており、仲間達が俺達の元へと集まって来ていて、特に俺と親しくしてくれていた十二人が俺の周囲に居てくれていた。
皆に声なき声を届けた後に、俺は紅玉宮を歩いて、茅場晶彦の目の前まで向かう。
「茅場」
声をかけてやると、創造神は小さな呻き声のような声を上げて、そのまま顔を上げた。その瞳の色は俺と同じ黒色だったが――どこか無機質なように思えた。この辺りだけはヒースクリフと変わっていない。
「キリト君……それに、攻略組の者達……」
「そうだ。あんたが育て上げて、途中から俺に託した皆だ」
数分まで死闘を繰り広げたというのに、全くと言っていいほど怒りや憎しみ、この男を止めなければと言う激しい感情などは巻き起こって来ない。まるで森の中のように静かだった。
「私は……そうか、君に敗れたのか」
「そうだ」
淡々と答えを返してやると、茅場は小さく溜息を吐いた。
「あの時のあれは、どうやったのかな。私は確かに一度君を倒したような気がするのだけれど。参考までに、教えてもらえるか」
確かにあの時、茅場や他のみんなからすれば、俺が突然リランと融合した状態で復活を遂げたように見えて、何が何だかわからないような状態だっただろう。そう思った俺はそっと口を開いた。
「俺達が最初に出会った時、俺はあいつにあるアイテムを渡した。それを呑み込む事であいつは最初の進化を遂げる事に成功して、尚且つ俺の《使い魔》になった。クリスマスの夜にだけ出現するイベントをクリアする事で報酬として獲得できるアイテムの名前、憶えているか茅場」
設定者でもある茅場は顔を下げて、何かを考えているように俯く。しかしすぐさま何かに気付いたように顔を上げた。
「《還魂の聖晶石》……だね。この世界で死を迎えた時、その死を無かった事に出来るアイテムだ。まさかそれを、君の相棒が持っていたとはね……」
「俺はあいつにそれを与えていた事を完全に忘れていた。恐らくあいつから教えてもらえなければ、ずっと忘れたままになっていただろうな。そしてあの時、あいつは蘇生アイテムによって得た、秘められた力を使ったんだ」
「だが何故だ。君の相棒は、あの時消去されたはずだったのだが」
茅場からの問いかけに、俺は胸元に手を添えて言う。
「……お前は自分の作り上げたものの特性さえも忘れたのか。あいつの能力は自己進化と吸収進化。他のデータを吸収して改変する事で、失われた自分自身を修復するものだ」
直後に、俺の隣に並んでいるユイが顔を向けてくる。
「ま、まさかあの時、わたしが消えていくおねえさんを助けようとしたあの時!」
ユイに俺は振り返り、頷く。
「そうだよ。あいつはあの時ユイの中に吸収される事に成功していたんだ。お前自身に自覚はなかったみたいだけれどな。
ユイに吸収されたあいつは、足りない部分をユイからコピーして吸収し返し、急速に元のデータを再構築して、俺というオブジェクトの中に飛び込んだ。俺の中に来た時には、完全に元通りになってたのには、ちょっと驚いたけど」
茅場は一瞬驚いたような顔をした後に、深く溜息を吐いた。
「なるほど……全ては最初から重なっていたという事だったのか。なぁ、今も尚君の中に
茅場の声が耳の中に届いてきたその時、さっきと同じように、俺の胸から一つの光球が飛び出した。突然の事に仲間達から「おぉっ」という声が上がると、それは瞬く間に形を変えていき、やがて完全な人の形を作り上げたところで、光を散らした。
そこから現れたのは、金色の長い髪の毛に、頭から狼のそれによく似た白金色の耳が生え、白色のワンピースを纏っている少女だった。
その姿を目にした茅場が驚きの表情を浮かべると同時に、それは瞼をそっと開く。その瞳は宝石のように紅かった。
「マーテル」
か細く茅場が言うと、少女は同じように口を開き、聞き慣れた声色で言葉を紡いだ。
「……ようやく会えたね、アキヒコ」
声色は酷く聞き慣れているけれど、喋り方は俺達と話す時のものとは違う、純粋な少女のそれに近しいものだった。その口ぶりを聞いた茅場は小さく微笑む。
「会えたね、か。最後にあったのはいつだったかな」
「少なくとも二年以上前。本当に会うのは、二年ぶりってところだね」
リラン/マーテルはそっと父親に近付き、両膝を床に付けて、目の高さを父親と同じにした。
「ねぇアキヒコ。なんでこんな事をしたの。初めから、こんな事をするのが目的だったの」
実の娘ではないけれど、娘に等しい存在に尋ねられた、世界の創造神である科学者は苦笑する。今、少女が尋ねた言葉は、この世界に生きる全てのプレイヤーが創造神に尋ねてみたかった言葉であり、俺もまたその答えが気になっていたところだった。
その中で、創造神茅場晶彦の口が開かれる。
「そうか。君はそれを知るために、ここまで、私の元までやって来たんだったね。
だけど……何故なんだろうな。私自身もよくわからないんだよ。フルダイブ環境システムの開発構想を知った時、いや、それよりも遥か以前から、私はこの城を、現実世界のいかなる柵や枠や法則から完全に解放された世界を創り出す事だけを欲して生きてきた。
その中で私は君を作り出し、君と過ごし、そしてキリト君達という、私の世界の法則さえも超越する存在に出会う事が出来た」
確かにこの世界は現実世界ではありえない事を沢山実行する事の出来る世界だとは思っている。
リランという名の、幻想生物であるドラゴンと仲間になって旅をして、その背中に乗って空を飛んで、そしてシノンという少女に出会って結婚を果たし、ユイを子供にして、ずっと仲良く暮らしてきた。
どれもこれも、現実世界では実現できない事ばかりだ。
「空を浮かぶ鋼鉄の城の空想に取り憑かれたのは、何歳の頃だったかな。その情景だけは一切消える事が無くて、歳をとる毎によりリアルなものへと変化していった。この地上から飛び立って、あの城の中へと行きたい。そしてそこに住む者達と一緒に暮らしていきたい……長い、長い間、それだけが私の唯一の欲求だった」
父親の長い話が一旦区切られたところで、娘の口が開かれる。
「だからアキヒコは、わたしやユピテルを作ったんだね。この城の中で、一緒に暮らしていける存在として……」
「……そのはずだったんだがな……何故なんだろうな。この城を作った理由は何となく覚えているんだけれど、君達を今の形に創造した理由がいまいち出てこないんだよ。何故私は、君達を作ろうだなんて考えたのだろうな。君達はあくまで、ゲームのプログラムとして稼働させられるくらいでよかったはずなのに、もはや人間そのものと変わりないくらいのものになって……」
そういえばそうだ。マーテルやユピテルはユイとストレアの元になったプログラムであり、プレイヤーの精神を癒すために高度な感情模倣プログラム――というかもはや感情を持っているに等しい存在だ。
だけどプレイヤーの精神を癒すためだけならば、本当にカウンセラーのような機械的なものでよかったはずなのに、マーテルやユピテル、ユイやストレアは高度に成長しすぎているように思える。
何故茅場はこの子達をここまで育てようとしたのか。そして制作者である芹澤に作らせたのか――そう思ったその時に、芹澤を専属医師にしているシノンが、口を開いた。
「自分をわかってくれる存在を、あんたは欲しかったんじゃないの」
茅場とマーテルを含めた全員の注目がシノンへ集まるが、気にせずにシノンは言葉を紡いだ。
「あんたはこの世界を作り上げてしまえるくらいの天才と言われた存在だった。だけど、周りの連中はあんたをちやほやするだけで、あんたの事をわかろうとはしなかった。あんたの事を理解してくれる人は全然いなくて、あんたはずっと一人ぼっちだった。
だからこそ、自分を本当に理解してくれる存在を作り出して、それらが住むところに閉じこもりたかった。自分を本当にわかってくれる存在と、ずっと一緒に居たかった。そうじゃないの」
その時に、俺はある事に気が付いた。
そうだ、シノンだ。シノンは過去に正当防衛とはいえ、殺人を犯してしまい、周りから特異過ぎる存在として忌まれるようになった。シノンはそれから誰も信じず、一人で生きていき、強くなっていこうとしていたけれど、心の中では、ずっと自分の事を理解出来る存在を求めていた。
そして茅場晶彦。
茅場もまた天才とおだて上げられて、沢山の人間達に評価されたりしていたけれど、そのあまりに特異過ぎる特徴から、周りから忌まれていたに等しい状態で、理解者は皆無だった。
孤独に慣れているように見えるけれど、本心ではシノンのように、心から自分を理解してくれる人を求めていたのだろう。
それが無意識のうちに行動に繋がり、ゲームのためだけに用意したAIであったはずのマーテルとユピテルを超高度AIとして育て上げ、コンピュータの中で生まれた生命体と言えるくらいにまで成長させたのだろう。
だけど、成長しきったマーテルとユピテルは、せっかく作り上げた自分の世界を邪魔する存在となる事がわかり、茅場は二人を封印したのだろう。
「……何故にそう思うのかな、シノンさん」
茅場が苦笑を混ぜながら問うと、シノンは軽くマーテルに顔を向けた。
「マーテルがそうだからよ。マーテルは記憶を失っても、ぼろぼろに壊れても、須郷に利用されても、ずっとあんただけを目指して、この城を登ろうとしてた。こんな事が出来るのは、マーテルが心の底から、あんたの事を思っているから。そうでしょう」
茅場は娘であるマーテルをじっと見つめていたが、不思議な事に、その瞳は無機質なものから、娘を慈しむ父親のそれのような有機的なものに変わりつつあった。
「……自分を思ってくれる存在を作り出したかった、か。なんだろうね、なんだか否定したくても否定したくないような、もしくは否定できないような……複雑な気持ちだよ」
茅場はそのまま、マーテルに声をかける。
「マーテル。君は私の事をどう思っている。私は10000人のプレイヤーをこの世界に閉じ込めて、そのうちの4000人を殺害した大量殺人鬼のようなものだ。かつての君が慕っていた私では、無いのかもしれないよ」
マーテルは何も言わずに、茅場の手を取り、自分の手で包み込んだ。そこでようやく、その口を開く。
「確かに、苦しむプレイヤー、死んでいくプレイヤーを見てて、なんでアキヒコがあんな事をしたんだろうって、どうしてこんな事をしてるんだろうって、悲しかった。だからアキヒコを止めようと思って、この城を自分で登ろうとした。だけどわたし、その中で一度も、アキヒコの事が嫌いだなんて思った事はなかった」
茅場の顔に驚きの表情が浮かぶ中、マーテルは顔を上げた。
「アキヒコは10000人もの人をこの世界に閉じ込めて、4000人も殺した。そしてそれよりも多くの人を、悲しませたりした。アキヒコは絶対に誰にも許されない。だけどね、わたしはそんなふうには思わないよ。だってアキヒコは……」
マーテルは、そっと微笑んだ。
「アキヒコは……わたしを生んで、キリト達に会わせてくれた、たった一人のパパだから。だからわたしはアキヒコの事、今でも大好きだよ」
実の娘からの言葉。それを受けた茅場の瞳が一瞬揺らめくが、すぐさま茅場は苦笑いしてみせた。その様子は娘からの告白を恥ずかしがっている父親のそれに酷似していた。
「パパと呼ぶなと言ったはずなんだが……まぁ、もはやそのような事はどうでもいい、か」
直後、茅場は今まで動かす事のなかった手を動かして――マーテルの頭の上、耳の間に乗せた。茅場の手が乗せられる事を想定していなかったのだろう、マーテルの顔に驚きの表情が浮かぶ。
「だけどねマーテル。子供はいずれ、親の元を離れなければならないんだよ。君はもう私から離れていかなければならない。巣立ちの時、だ」
「巣立ち……?」
「そうだ。そして君は既に巣立ったとして大丈夫だ。君は君を受け入れてくれる場所を、私が見ていない間に獲得する事が出来たのだから」
そう言って茅場は俺の方へ顔を向ける。恐らく茅場の言うマーテルを受け入れてくれる場所は、俺の事だろう。
「キリト君。今までの君達を見る限りでは、大丈夫だと思うのだけれど、どうかね」
「あぁ。マーテルは俺達の仲間だし、俺の相棒だ。それは今でも変わってないよ」
「そうか。それではマーテルを託したとしても問題は何もない、というわけだね」
俺がそっと頷くと、マーテルの紅い瞳から雫が零れ始めた。茅場はマーテルへ顔を戻し、その頭をそっと優しく撫でてやり始める。
「マーテル……君はこれからキリト君達と共に生きていくんだ。大丈夫だよ。君は今までずっと、そうやって生きてくる事が出来たのだから」
「アキヒコ……パパ……!!」
今にも消えてしまいそうになっている父親の胸の中へと、娘は飛び込んで抱き付く。その身体に手を回して、父親は静かに抱きしめる。
「君はもはや、AIではない。コンピュータという世界で生まれた、正真正銘の生命だ。私はそのようなものを誕生させた事に後悔していないし、むしろ誇りに思っている」
「わたしも、パパの娘として生まれて、本当によかった……」
この世界は現実世界ではないし、この二人だって血の繋がった実の親子ではない。そして娘の方は、一般大衆から見ればただのプログラムだ。そのはずなのに、二人のやりとりは本当の父と娘のそれにしか見えなかった。
二人はしばらく黙りこんで、そのまま抱き合って互いの温もりを感じ合っていたが、やがて茅場の方からマーテルの身体を離して、立ち上がった。
同時にマーテルは後ずさって、俺の隣に並ぶ。その様子をどこかさびしそうに眺めていると思いきや、茅場は何かを思い出したような顔になって、懐に手を入れた。
「……あぁそうだ。キリト君、是非とも君に渡したいものがあったんだ」
「マーテルの他にまだ何かあるのかよ」
その問いに答えるかのように、茅場は俺に近付きながら、手を差し出してきた。先程までマーテルの事を撫でていた手の上には、内側で虹色の光が走り続けている、金色に輝く少し大きめの卵のようなものが浮かんでいた。
そのあまりに特異なアイテムの登場に、この場に集まる全ての者が釘付けになる。
「それは一体、なんだ」
「これは彼女達を生きさせる事の出来る世界の種子だ。私はそれをザ・シードと呼んでいる。もし君が、現実世界に帰っても尚、その子達と一緒に居たいと思っているのであれば……これまでと同じように、有効活用したまえ」
その世界の種子と思わしきアイテムを、茅場から俺は受け取る。種子は俺の手の上をぷかぷかと浮かんでいて、尚も七色の光を内側から放っており、仲間達の注目を集めた。
「では、私はそろそろ行くとするよ。もうじきこの世界は終焉を迎えるからね。ゲームクリア、おめでとう」
世界の種子から目を戻すと、これまでの彼からは想像がつかないくらいに、とても穏やかな表情を浮かべている茅場の姿があった。だが、その身体は徐々に白金色の光に変わって、消えていっていた。
「茅場……」
思わず名を呼んだその時に、俺の隣に並んでいる金髪の狼耳少女が、その口を開いた。
「パパ……いや、偉大なる我が父よ、さらばだ」
マーテルが俺の相棒に戻ったその時に、茅場はそっと笑んで、白金色の光となって消えていった。
次回、アインクラッドの最後。