キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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13:医師の問

「こんな時間に呼び出してしまってごめんよ、キリト君。眠いだろう」

 

 シノンがユイと一緒に寝付いた後、俺はイリスに呼び出されて、その部屋にやって来ていた。

 

 古めかしい家具達に見つめられているかのような錯覚を覚えてしまうようなイリスの部屋は、もはや自宅の部屋に居るのと同じような感じを得られるようになってしまって居た。それくらいにまで、俺はこの部屋にやたら入ったような気がする。

 

 というのも、イリスが散々呼び出したり、イリスに話をする時は決まってこの部屋を使っているのが大体の原因だったりするのだが。

 

 そんな部屋の中央にあるテーブルに向けられているソファに座ると、大体対岸にイリスが座り、テーブルに紅茶を出したりする。けれど、今回イリスがカップの中に注いだのは意外にもホットミルクだった。多分俺が眠れなくなる事を防ぐためなのだろう。

 

 ホットミルクの存在を意外に思っている俺の目の前にイリスはおり、眠る時のような極限の薄着ではなく、いつもの服装をしていた。

 

「さてさてさーて。君には色々話す事があるんだけど……君も私に話さなければならない事が沢山あるみたいだね」

 

「えぇ。山のようにあります。よくわかりましたね」

 

「くふふ。私とて伊達に君を見ていないわけじゃないからね。それに君との付き合いも詩乃程じゃないけれど、長いからさ。色んな事が仕草や表情からわかったりするもんさ」

 

 イリスは俺の事を見ながら小さく笑う。

 

 確かにユイと出会った次の日にイリスに出会った。それからイリスがアーガスのスタッフで、ユイやストレア、ユピテルやマーテルの作者だってわかって、そこから実に様々な事を報告してきた。今考えてみれば、イリスと過ごした時間はユイとほとんど同じくらいだ。

 

「まずは私から話させてもらおう。というか、君に尋ねたい事があるんだけど」

 

「なんですか」

 

「シノン……詩乃の事だ。君は今まで、詩乃が本格的な発作を起こしたところを見た事が無かったはずだ」

 

 俺は今までシノンと過ごしてきたし、シノンの過去だって知っている。しかしシノンがそれによる発作を起こしたところは、イリスの言うように一度も見た事が無かった。

 

 シノンが記憶を取り戻した際には、夢の中でパニックしているところを見た。けれど、まともな意識を持っている中で、シノンが発作を起こしたところを見たのは《ムネーモシュネー》の本拠地に行った時が初めてだ。

 

「はい。《ムネーモシュネー》の本拠地に行って、《壊り逃げ男》に襲われた時に……詩乃の発作は初めて見ました」

 

 シノンが復帰しようとしている今でも、あの時のシノンの様子は頭から離れていかない。銃を突きつけられて、俺達からは見えないものが見えてしまい、怯え、叫び、泣き喚いてしまうシノンの姿。

 

 シノンの事はすべてしっかりと受け入れたつもりなのに、あの時のシノンを思い出すと心の中に強い不安が起きて、身体が無意識に震えてしまう。

 

「……幻滅したかい」

 

「そんな事はないです」

 

「そうか。だけどねキリト君。君はシノンと一緒にこのままアインクラッドをクリアして、現実世界に帰っても一緒に居るって言ってるけれど……シノンの治療はまだ完了したわけじゃないし、あぁいうふうに突発的に発作を起こす危険性だって残っているんだ。

 君からすれば何の変哲もない拳銃も、シノンからすれば鬼が見えるような恐ろしいものに変わるんだ。その時のシノンを一般大衆から見れば、悍ましきもの、気持ちの悪い物として映るんだよ。当然近くにいる君も同じような扱いを受ける羽目になるだろう」

 

 確かに、シノンと出会うまでというか、この世界に来るまで、俺も一般大衆と同じような事を考えていた。精神に異常をきたした人間を気持ち悪いだとか、気色悪いだとか感じていたし、その近くにいる人間や介護している人間も大変だなとか、そういうふうに思っていた。

 

「確かに、俺もそんなふうに思ってたかもしれません」

 

「そうだろう。君はシノンを受け入れて、結婚までした子だからもう何とも思わないと思うけれど、一般大衆の目はそんなんじゃないんだ。私は現実に戻っても彼女のケアを続けるけれど、彼女がひとたび発作を起こせば、周囲は冷ややかな目で彼女を睨みつけるだろう。その時君が近くにいるならば、君もターゲットになる」

 

 イリスは険しい表情を浮かべて、俺の目を見つめた。

 

「……問おう、キリト君。君はそれでも彼女と共にあろうとするか。彼女の全てを受け入れて、彼女と共に生きていくか。彼女の傍から一切逃げ出さず、立ち向かい続けるか。そんな事が、君に出来るのか」

 

 俺はじっと下を向いて考えを回す。

 

 確かに、詩乃が大衆の前で発作を起こせば、詩乃はたちまち異常者扱いされるようになり、近くにいる俺だって同じような扱いをされる可能性だってある。普通の人間なら――いや、この世界に来る前の俺だったなら、さっさと詩乃の前から姿を消していただろう。

 

 だけど今は違う。詩乃は俺に全てを話してくれたし、人殺しである俺を受け入れて、好きだって言ってくれた。俺と一緒に居る事が楽しいって、幸せだって、心の底から言ってくれた。

 

 

 発作を起こしたあの時は、少し恐ろしいって思ったけれど、今は寧ろ彼女をそう言う事の全てから守ってやりたいって思ってるし、彼女に対する恐怖だって全て消え果ている。

 

 発作を起こす前よりも、俺は彼女を守りたい、一緒に居て愛し続けたい、実行し続けたいという思いが強くなり、俺の心の中で脈打っていた。

 

 その彼女に対する脈打つ思いを、俺は顔を上げてイリスに言った。

 

「俺はずっと、彼女の事をすべて受け入れて、彼女の思い、痛み、怖さのすべて理解したつもりでいました。でも、今回の詩乃を見て、理解していたつもりでしかなくて、実際は何も理解できてなかった事を痛感しました」

 

「そうかい。それで?」

 

「……今回ではっきりしました。

 俺は詩乃を守ってやりたい。一生詩乃の近くにいて、一生詩乃を慈しみ、愛していきたい、詩乃と一緒に歳を取っていきたいって思ってます。そして、詩乃の心がもし癒せるものなのだとすれば、俺は詩乃の心を癒していきたい」

 

「君が差別的な目で見られるようなったとしても、かい」

 

「構いません。俺は詩乃に誓ったんです。一生詩乃の居場所になるって。詩乃を守り続けるって」

 

 俺が全てをイリスに打ち明けると、イリスはじっと黙って俺の瞳を覗き込み続けた。まるで恐るべき怪獣のそれのような瞳の鋭さに身体中が震えて、気圧されそうになる。けれど、俺はじっと耐えてイリスの赤茶色の瞳を見つめ続けた。

 

 が、それから10秒もしないうちに、イリスはフッと笑った。

 

「くふ、くはっ、あっははははははははははは」

 

 あんな鋭い目をしていたイリスが目元を覆いながら急に笑い出した事が完全に想定外で、俺は驚きのあまり言葉を失う。

 

 一体どうしたんだ。俺の顔がそんなに可笑しいものだったのだろうか――そう思うとイリスは笑うのをやめて、俺に顔を戻す。

 

「……やっぱり詩乃はいい人に出会ったよ。私も完全に想定外だった」

 

「え」

 

 イリスは微笑みながら、俺の頬に手を当てた。まるでかあさんのそれのような、不思議で心地よい暖かさが顔中にじんわりと広がった。

 

「君はすごいな、キリト君。あんな女の子を見たなら、普通の人はすぐさま逃げ出したり、遠ざかろうとしたりするのに、寧ろ決心を固めてしまうなんて。やはり君は私の想定をいくつも超えてくれる、すんごい子だね」

 

 俺はまだきょとんとする。わかる事を言われているはずなのに、何故か頭の中ではそれを理解する事が出来ない。そんな俺を察したのか、イリスは俺の頬を軽く撫でた。

 

「昔の人はいい事言ったよ。目は口ほどに物を言うって。決心が浅い人間、この場を凌ごうとしているだけの人間は大体目が震えていたり、泳いだりするもんさ。

 だけどキリト君は、私の目をじっと見つめ続けていたし、瞳には真実の色が浮かんでいた。君の思いは間違いなく本物だ。それが見たかったんだよ」

 

「あぁ、そういう事だったんですか」

 

 ようやく事が理解できたように、俺の中に安堵が満ちる。イリスの気でも狂ったのか、それとも俺の顔がそんなに可笑しいものだったのかという疑問は、全部的外れなものだった。

 

「だがキリト君。精神科医でもない君が彼女の元に居続け、彼女のケアを一人で続けるというのはかなりの無理があると言ってもいい。彼女だってもしかしたら、君を拒絶するようになってしまうかもしれない」

 

 そう言われた俺はハッとする。確かに俺自身は詩乃の傍に居続けると誓ったけれど、彼女もそうであるとは限らない。発作に苛まれる自分に嫌気が差してからに籠り、俺を拒絶したっておかしくはない。

 

 そうなった時には、俺は……。

 

「そうだった。その時は、どうすれば……」

 

「簡単だ。私を頼れ」

 

「えっ」

 

 イリスの素直な言葉にきょとんとする。目の前の精神科医は更に続けた。

 

「一応だけど、彼女の事は君よりも良くわかってるし、女の身体、気持ちと付き合いが長いのは私の方だ。だから、彼女の事で何かわからなかったり、戸惑ったりした時は私に頼りたまえ。色んな事を教える」

 

 そう言ってもらえるのは素直に嬉しく感じる。しかしよくよく考えて見れば、俺は詩乃とイリスが東京都のどこにいるのか、どこの病院でメディキュボイドを使い、ここまでやってきているのかわからない。そもそも、そういう事を教えるのはマナー違反であるため、聞き出す事も少し難しい。

 

「そう言ってくれるのはいいんですけれど、イリスさん達ってどこにいるんです」

 

「どこって、君の目の前だが?」

 

「そうじゃなくて、現実世界での、ですよ。俺はイリスさんや詩乃が利用している病院についての知識は皆無なんです」

 

 イリスはどこか納得したような顔をする。

 

「あぁーそうだったね。君とはSAO(ここ)で出会ったから、現実世界で出会っているわけではなかったね。そういう事なら……」

 

「そういう事なら?」

 

「このゲームがクリアされる寸前になったら、教えよう。その時は君のフルネームも教えてもらおうじゃないか」

 

「ふ、フルネームもですか」

 

 その言葉に俺は少し驚くが、イリスは構わずに続けた。

 

「問題だキリト君。君の妻の本名は? 私の本名は? 答えてみなさい」

 

 突然問を吹っ掛けられて、俺の中には戸惑いが起こる。しかし、この二人からフルネームを聞いた時は結構な衝撃を受けたためか、沢山の名前を見てきてこんがらがりそうになっているにもかかわらず、頭の中に二人の名前がしっかりと残っていた

 

「えと……シノンの本名は、朝田詩乃。あんたは確か、芹澤愛莉」

 

 正解、と言わんばかりにイリスはにっと笑った。

 

「そうだ。君はそうやって私達の本名を知っている。だけど肝心な君の名前を、私達は知らないんだ。ので、このゲームが終わる寸前には君の名前を教えてもらおう。代わりに私は私達の居場所を君に教える。ゲームが終わってしまえば、このゲーム上でのマナーなんてものは消えてしまうんだから、いいだろう」

 

「確かにそうですけれど……」

 

「それじゃあ決まりだな。だが、そのためには、全員が生きて帰る事が最大の条件になっている」

 

 イリスはもう一度、俺の目をじっと見つめた。その瞳は、再び鋭いものに変わっていた。

 

「……もうすぐ100層だけれど、最後まで何が起こるかわからないのがこの世界。決して気を似抜いてはいけないわ、キリト君。

 あなたはこの世界に生きる全てのプレイヤーの、そしてあの娘の最後の希望なの。何としてでも生きて帰って頂戴。そして詩乃の元へ、会いに来て」

 

 イリスの瞳は鏡のようになっており、俺の顔が映っている。

 

 俺はこれまで、全てのプレイヤーを生かして帰らせたい、そして俺自身も生きて現実に帰りたいと考えて、この城を登り続け、何万ものモンスターを打ち倒してきた。そんな事を続けて、ここまで登り詰めてきた今、その考えと願いは現実になろうとしている。

 

 それに、俺には現実世界に帰っても詩乃の傍に居たいという思い、詩乃の居場所となり、一生詩乃を守り続けるという役割がある。それを始めるためには、生きてこの世界から脱しなければならないのだ。

 

 最後の希望になったつもりはないけれど、俺は絶対にこの城を登り切り、詩乃と、皆と共に生きて帰る。この城が始まった時からずっと心の中で思っていた事が今、さらに強固なものに変わった。

 

「当たり前です。俺は……この城の攻略を諦めるつもりも、そしてやられるつもりも一切ありません。最後まで戦い続けて、この城そのものに勝ちます」

 

 心の決心を口で紡ぎ、それをイリスの耳に吸い込ませる。

 イリスは何も言わずにただ、俺の瞳を覗き込んでいたが、やがてすん、と微笑んだ。

 

「……頼んだぞ。私も彼女を、詩乃を現実世界に帰らせ、そして君の元へ届けたいんだ。

 死ぬ事は、許さないぞ」

 

「……はい」

 

 小さく頷くと、イリスは俺の頬から手を離して、ソファの背もたれに寄りかかった。

 

「と言っても、君からシノンは離れたくないみたいだし、シノンが治らない限りは君が戦場に行く事は難しいだろう」

 

「あっ……」

 

 必ず生きて帰ると誓ったけれど、シノンが治らなければ、俺は戦場に行く事が出来ないんだった。何故か知らないけれど、完全に忘れてしまっていた。

 

「……まぁ、彼女自身この世界に来る時よりも、精神的に強くなっているし、今まで作る事が難しかった友達も出来た。彼女は今療養中というわけだけど、私だけじゃなく、君やアスナ達がケアしてくれれば、すぐさま攻略戦線に戻る事も出来るだろう。私も、シノンには本調子に戻って――」

 

「イリスさん」

 

 声をかけられたイリスは俺に向き直る。

 

「俺はさっき、発作を起こすシノンの前では無力だったって言いましたよね」

 

「言ったね。それがどうかしたのかい」

 

 先程まで決心をするために考えないようにしていたけれど、俺はずっと心の中で思っていた事がある。

 

 あの時の、発作を起こしたシノンに何も出来なかったのは、俺自身がシノンについて、何でも知ってるようで何も知らなかった事が原因だ。そして今、だいぶ良くはなったけれど、シノンの中はいつ発作が起こるかわからない状態になっている。

 

 もし、俺がシノンの事をもっと深く知る事が出来れば、シノンの事をもっとよくしてやって、シノンの苦しみをもっと和らげてやれて、シノンをもっとよく治してやれ――。

 

「まさか君は、シノンの記憶を追体験したい、とか言うんじゃないだろうね?」

 

 俺は考え事の世界から戻ってきて、目の前の専属医師に顔を向ける。医師の顔は先程の穏やかな物でも、鋭い物でもない、呆れに満ちた表情が浮かんでいた。だけど俺は、思っていただけでまだ何も言っていない。

 

「えっ……いいえ、俺は……!」

 

「そう言いたそうな顔をしてた。君はポーカーフェイスが一番苦手で、思っている事がすぐに顔に出るタイプだろう」

 

 確かに俺は、シノンやユイにも、俺の考えを知りたい時は顔をよく見ればわかると言われた事もあるし、一緒に戦っているアスナ達からも、戦ってる時の俺はものすごい顔をする時があると既に言われた事がある。

 

「そ、そう言われます……」

 

「やれやれ、君という人は困った子だ。確かにシノンの事をわかろうとしてくれるのは、専属医師である私からしてもすごく嬉しい事だよ。だけどねキリト君、シノンの記憶を追体験してみたいっていうのは、残念だが見上げた愛情って奴だよ」

 

「…………」

 

「君はそこまでする必要はないし、そこまでシノンの事を知ろうとしなくても、シノンの事は十分に君は愛せてる。今のままで十分だから、余計な事を考えないでいなさい」

 

「見上げた愛情、でしたか……?」

 

 イリスは深々と頷いたが、やがて俺の顔をじっとのぞき込んだ。今度は何かと思った矢先に、イリスは口を開いた。

 

「今の今まで君と接し、言動を観察してきたわけだけど、もしかして君って、他人との距離感の作り方みたいなのがわからないんじゃないのか。私と初めて出会った時は、私の事をかなり警戒してたし、今はシノンの記憶の追体験までしたいなんて言ってのめり込んでる」

 

 イリスは俺の図星をものの見事に突いて来た。そうだ、俺は何というか、他人との距離の詰め方というか、作り方が全くと言っていいほどわからない。

 

 そもそも俺の両親は、本当の両親じゃないし、本当は直葉とも兄妹じゃなくて従妹の関係なのだ。本当の俺の両親は俺が物心つく前に死んでいて、俺は妹夫婦だったかあさん達に引き取られ、そこで実の子当然に育てられる運びになった。

 

 その事実を知ったのは、確か十歳の頃、住基ネットにアクセスして、様々な情報をかき集めていた時。それからというものの、俺は他人との距離感の作り方というのが全くわからなくなってしまった。

 

 いや、元から俺はあまり友達を作ったりしようと思わなかったし、何より完全なインドア派だった。そう言う事があって、友達は少ない方だった。その中で、最も仲が良くて、ゲームも一緒に楽しんでいたのが、ユウキの事を救い、この世界にも来るはずだったカイムだったわけだ。

 

「……やっぱり、わかっちゃいますか」

 

「わかっちゃうね。君の様子は普通の人と比べて、結構危なっかしい部分も、脆い部分もあまりに多い。きっと君は、本当に人を信じたり、信じられる人に出会ったりしてこなかったのだろう。それこそ、妹のリーファでさえも、その中には入ってないんだろう」

 

「いいえ、リーファの事は信じてます。信頼してますし、可愛い妹だって思ってます」

 

「でも、リーファとシノンでは、あまりに対応に差があるよね、君は」

 

「そ、そりゃ、リーファとはあくまで兄妹関係ですし……」

 

「でも君は家族ではないシノンを信じて、家族であるリーファの事は信頼してない」

 

 また図星を突かれて、ぎくりと言ってしまう。イリスは軽く溜息を吐きながら、胸の前で手を組む。

 

「……いや、だからこそ彼女は君に惹かれ、君は彼女に惹かれたのだろうね」

 

「えっ」

 

「彼女はあんな経験をしてから、人を信じたりする事が出来なかったし、守ろうとしていた実の親さえも信じる事が出来なくなっていた。そして君もまた、人との距離感を作るのが苦手で、実の親を信じたり、家族を信じたり出来ない人間だった。君達は元から似た者同士だから、こうやって付き合い、結婚までして、互いを求め合ってるんだろうね」

 

 確かに俺とシノンは、似た者同士なのかもしれない。ある時を境に――親を含めた――人を信じられなくなったけれど、人の温もりに飢えており、誰かを愛したいという気持ちをちゃんと持っているけれど、そう思える相手を見つける事が出来ない。そして、普通に考えれば罪に値する事を、してしまっている。

 

「俺とシノンって、そんなに似てますかね」

 

「正直、滅茶苦茶似てるよ。けれど君は、他人との距離の取り方、詰め方がよくわかっていないから、彼女の中に、より深く入り込もうと考えたりする。ちょっと度を過ぎようとしてるね」

 

 イリスに言われて、俺の中に雷が鳴ったような衝撃が起こる。俺はただ、詩乃の事をもっと知る事が出来れば、詩乃の事を癒してやったり、もっと深く愛する事が出来るかもしれないって思っていたのに、そう言う事を考えるのは、俺が他人との距離感を掴むのが不得意だからだとは思ってもみなかった。

 

「って事は俺……」

 

「……でも、私は君のそういうところ、好きだな」

 

「えっ」

 

 イリスは軽く腕組みをする。

 

「まぁ確かに、君は深く入り込もうとしてしまうところがあるけれど、同時にそれくらいにまで相手の事をわかろうとする事が出来るってわけ。普通の人じゃ出来ない事を、君は出来るんだ。……度が過ぎればただの変態行為だが、程々にやれば、これ以上ないくらいに良いよ。だから、あまり悲観的にならなくたって大丈夫だ」

 

 イリスは苦笑いしながら、更に言う。

 

「それに、君はシノンに制裁されてない。彼女は本気でキレた相手には老若男女問わず制裁をかますからね。それをされてないって事は、彼女は君を無理なく受け入れてるって事。

 彼女が君を愛する理由も、君がそういう奴だから、なのだろう」

 

 イリスはきょとんとする俺の頬に、もう一度手を添えてきた。

 

「君がシノンを愛する気持ちは今回でよくわかった。君が居れば、きっとシノンも早く治る。だから、頼むぞキリト君。他人との距離の取り方とか、シノンの事とか、わからない事があったなら、その時は私のところへ来なさい。手取り足取り教えるよ」

 

 まるで鏡のように対象の顔を映し出していたり、まるで魔物のような恐ろしさを感じさせる時もあるイリスの赤茶色の瞳。そこには今、そのようなものはなく、非常に穏やかで、優しい光が瞬いている。

 

 俺も今回で、自分の事がよくわかった気がするし、これからシノンとどう接して行けばいいのかも、わかったような気がする。色々腑に落ちないところもあるし、掴みどころがなく思える人だけれど、やはりイリスは信頼できる人だ。

 

「……俺も芹澤先生(イリスさん)の受診者って事ですか」

 

「そういう事だね。まぁ、私は精神科医であると同時にカウンセラーだからね。人の悩みを聞いて、それの解決策を出すのは得意さ。本当に診なきゃいけない時以外は金はとらないから、ガンガン相談してくれたまえよ。さぁ、今日はもう休みなさい」

 

「そうさせてもらいます。今日はありがとうございました」

 

 俺はそっとソファから立ち上がると、「おやすみなさい」と一言言って頭を下げ、そのまま薄暗い廊下へ、そしてシノンとユイの寝る部屋へ戻った。その足取りは、来る時よりも遥かに軽く感じられた。

 

 

 

 

             □□□

 

 

 キリトが去った後、イリスは一息吐きながらソファの背もたれに寄りかかった。目の前には、いつも見ている――というか、見飽きつつある、複雑な模様の組まれていない天井が広がっている。

 

「やれやれ。まさか二人揃って同じような相談をしてくるなんて」

 

 シノンが発作を起こしてここに入院する事になる前、シノンはイリスに相談を持ちかけてきていた。その時の内容は、「彼と一緒に居ると甘えたくなるし、彼の事をもっと知りたくなる。このままでは彼に嫌われないか」という、キリトと全く同じだった。

 

「……歪なる者同士、惹かれ合い、身を寄せ合い、そして依存し合う……か」

 

 イリスは目元を掌で覆った。そしてそのまま、口元に笑みを浮かべる。

 

 

「キリト……あなたは彼女の心を、そして()()()()()()()の心を、どう変化させて見せるのかしらね?」

 

 

 




次回は大進展回。ある意味大進展のキリシノ回。

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