IS~インフィニット・ストラトス~ ―I AM…ALL OF ME…―   作:ヱ子駈 ヒウ

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第37話「光り待つ道へ」

 旧約聖書には、バベルと言われる塔が登場する。

 人々が己の英知によって天に届かせようと建てられ、最終的に神の怒りによって破壊されたそれは、神域を越えようとした高慢への断罪だったと言い伝えられている。

 神の存在が傀儡化して久しく――しかし、天空すら凌辱する超科学を手に、神が一人の女の姿を借りて再臨したこの現代で、創世記は再び繰り返されようとしていた。

 

――慈悲深き、我らが聖母マリアよ。

 

 アルベール・デュノアは、年季が入った聖母のメダイユを片手に祈りを捧げる。

 デュノア社の最上階に用意された絢爛な社長室には、彼の他には誰もおらず――それどころか、社には今、人間が誰一人として残っておらず、人が居住する空間にあるべき熱が絶無。

 アルベールはその静寂に、深い安堵を覚えた。

 今頃、中隔に関わっていた社員達は、国が手厚く保護してくれているはずだろう。

 多くの人間の願いを、時には命ごと踏みにじってきた男が、最後に人の善意を信じなくてはならないなど滑稽にも程があったが、それでも今まで、この愚物を信じてついてきてくれた者達の行く末を案ずる資格ぐらいはあるはずだ。

 

――私はあまりにも、あまりにも罪深き男です。

 

 一度手にした成功の残光を追い求め過ぎたあまりアルベールは、非道な研究も、実験も、検証も、利益のため社員のためにと許可を下してきた。

 形勢は不利であったが、恐れはなかった。

 世界情勢の一翼を担う自分ならば、どんな禁忌すら赦されると思い上がった。

 その救いようのない高慢が――致命的な過ちを、招いた。

 

――私は、間違いなく、地獄へ堕ちるべき悪魔です。

 

 ISを用いた、非武装の民間人への鎮圧を想定とした、データ収集。

 今まで誰もが触れ得なかった、触れることを考えようともしなかった禁忌を、前人未踏、希少価値、国家癒着などという文字の羅列だけで許可した罪が、デュノア社の総てを歪めていった。

 第三世代試作機と、付随していたISコアの、現地での紛失。

 それは、遅れていた他国との第三世代開発競争に、致命的な遅延をもたらす――だけでは済まなかったのだ。

 罪が、もっと罪深き者たちの寄せ餌となっていくかのように、

 

――アルベール・デュノアだな。

 

 奴らは始めに、少女の姿となって、この場所に現れた。

 

――私はあの村の生き残りだ。

――お前たちが行っていた検証の全容は掴んでいる。

――あのISは今、我々の手中にある。

 

 憎悪と、憤怒と、恩讐の炎で形を変えた試作機を、少女は見せつけるように展開し、

 

――こちら側の要求は、既に纏めてある。あとは、分かるな……アルベール……!

 

 デュノア社は、奴らの手に堕ちた。

 あとはもう、絡めとられ転がり落ちていった記憶しか、アルベールには無い。

奴らの提唱した、狂気の理論を実現するための道具と化したデュノア社は、表面上はアルベールの指示のもと、止めることなく業を積み上げていき――バベルの塔は、とうとう禁断の領域へと届いてしまった。

 いつしか、あの篠ノ之束から『世界を奪い返す』などという妄執が、おぞましいリアリティを伴う確信へと変化してしまうほどの……成層圏を突き抜けた、領域に。

 アルベールは、まさに自分の器というものをありありと思い知らされ、その恐怖に屈した。

 恐怖に膝を折られた人間の行動パターンなど万国共通で限られており……アルベールは降りることを選択した。

 当然、彼にそのような自由などある訳もなく、首輪を首ごと取り外す結末を予見できていたとしても、人類がこの盆暗の命一つ程度で踏み止まることができるというならば……。

 

――ああ、ですが、聖母よ。このような悪鬼にすら、等しく慈悲を授けてくださるのならば、

 

 ドアが、けたたましく打ち鳴らされる。最後のセキュリティが破られようとしている。

 今更、我が身など惜しくもないが――しかし、未だに願いだけはある。

 遠い遠い、面影の中で生きる、愛した妻の面影を強く残した――

 

――娘を、私の家族を、どうか――

 

 アルベールの祈りは、ドアを室内ごと破壊する爆音と共に、掻き消えていく。

 この世から、跡形も残らずに、永遠に。

 

                     ●●●

 

 なにが、起こってやがる。

 頭蓋を撃ち抜くような衝撃が、姫燐からぬいぐるみを抱きとめる力を奪っていく。

 自分の部屋に戻り、要件を終わらせ、そういえば箒たちの事を忘れていたと、一夏の部屋を覗いた先に待っていた――異常。

 デュノア社の崩壊を放送するニュース、倒れたまま動かない箒と鈴、そしてISだけを床に残して消えたシャルル。

 何もかもが、尊き平穏と日常の破壊者であり、眼前に広がる未知の恐怖。

 取り乱し、泣きわめき、途方に暮れて立ち尽くす――べきなのだろう。

 そんな他人事の感想だけを残して、

 

「……………」

 

 姫燐の頭は澄み渡る雪原のように数多の余白を作りながら、急加速的に冷え始めていた。

 書き込む、書き込む、書き込む。

 キャパシティに、現実と現状を書き込んでいく。

 そうして出来上がったプランニングを、姫燐は、

 

――往く、か。

 

ごく自然に、慣れ切ったもののように、心中へと呑み込んだ。

 まず、第一に――索敵。

 ボナンザを引っ掴み、躊躇いなく部屋に投げ込み……反応、なし。

 動体トラップの類は仕込まれていないと確認し、神経を尖らせながら、真っ先に箒と鈴に駆け寄る。

 

「……………生きてる、な」

 

 どうやら神経毒の類を盛られたようであり、浅い痙攣を繰り返してはいたが、回復に少し時間がかかる以外に、命に別条があるタイプではない――なぜ分かる?――と確認。

 本当に、良かった。掛値のない安心を……今は捨て去り、姫燐は自分の携帯端末を取り出す。

 連絡先は、当然一つ。

 

「………かた姉は出ない、か」

 

 先ほどまで、散々暇をしていた筈なのに不通であることを鑑みるに、既に更識として状況を把握し、問題解決に動いているとみて良いだろう。

 となれば、更識からの助力は得られないだろうし、事態を不用意に引っ掻き回すのは、姉達の足を引っ張るだけになる。

 しかし、箒達をこのままにもしておけないと、姫燐は瞬時に別のダイヤルを回した。

 コールが数回――相手は、歓迎と歓喜を隠そうともせずに、電話に出る。

 

《も、もしもしキリさん! やや、夜分いかがなさいまして?》

「セシリアか」

 

 更識の関係者を除いて、姫燐がこういった有事の際――偶に起こす暴走さえ除けば――特に信頼を置く友人であり、背中を預けるに足る存在は、愛しき人の聞き覚えがある声色から、何かを察して振っていた尻尾を収める。

 

《……何かありましたの?》

「すぐに医療スタッフを連れて、できるだけ騒ぎを大きくしないよう一夏達の部屋に来てくれ。箒と鈴を頼む」

《っ、分かりましたわ》

 

 特に驚きも聞き直しもせず、どちらかと言えば歯噛みするような、まるで予見していた事態を防げなかった事を悔いるような様子であったが、今は気に掛けることではない。

 電話を切った姫燐は、続いて床に落ちたペンダント――待機形態のラファール・リヴァイブ・カスタムⅡを拾い上げた。

 千切れた首紐以外に、目立った損傷はなく、部屋には抵抗したような痕跡もない。

 ナイフや銃など比べ物にもならない、比類なき武装であるこれが剥ぎ取られている以上、シャルルは今回の加害者ではなく、遺体も無いことから、誘拐された被害者と見るべきだ。

 箒や鈴にもそういった痕跡が無いことから、第三者が全員に毒を盛り、無抵抗のうちにISを剥ぎ取りシャルルを誘拐した……という線が固いはずだ。

 動機は、おそらく今、テレビがやかましい程に放送しているアレだ。

 

「デュノア社が爆破、アルベール・デュノア社長が行方不明、か」

 

 偶然な訳がないタイミング。

 敵は、国を跨いで同時に行動を起こせるだけの組織力を持つ相手であり、あちらは世間への陽動――もしくは何らかの口封じとみて間違いなく、本命はこちらのはずだと姫燐は推理する。

 目的は不明。だが、デュノア社が持つIS関連の利権や利益は、それらよりも何倍も希少なIS本体を捨てていった以上、犯人たちにとっては不要な物とみて良いはずだ。

 全世界が渇望するコアを不要と捨てられる組織が、なぜシャルルだけを連れ去るのか。

 そして、仕掛けてきたのは、やはり『アイツ等』なのか。

 

「可能性は、高い、な……」

 

 一度、世界有数の重要拠点であるIS学園への侵入を果たした、あの犯罪組織の存在。

 朴月姫燐を、キルスティンと呼び慕った、あの二人の存在が――

 

「ぎっ……ぃぃぃ……」

 

 激しい頭痛。脳髄の奥底を、力づくで引きずり出されるような不快感。

 緊急事態にも揺れ動かなかった己を、内側から全否定するような衝動。

 泣け、喚け、お前らしくみっともなく取り乱せ。

 それが朴月姫燐なんだと言い聞かせても、頭痛が余裕を取り除いていくごとに、削り取っていくごとに、顔を出すのは、

 

「甘ったれるな……敵が、居る……敵が居るんだぞ……!」

 

 倒れるのは己ではなく敵が先だと糾弾する、恐怖を燃やし尽くすような、闘志。

 戦意が心身に焼け付けば焼け付くほど、自分を覆っていた何かがボロボロと崩れ落ちていく錯覚が生じ――その内面が、空気の流れを、鋭敏に感じ取った。

 

――外。

 

 開けっ放しだったドア。

 その向こう側を、誰かが通り過ぎた気配。

 飛び掛かるように、姫燐は入り口を潜り、左右を確認して、

 

「――――ッ」

 

 格納庫の方角へ消えていった影を――残酷なまでに押し寄せる憧憬を押し殺しながら――くすんだ様な桃色の後ろ髪を追い掛け、床を蹴り飛ばした。

 

                   ●●●

 

 IS学園の格納庫は、本来出入りする際には、厳重なパスが必要になる。

 ISコアは無論、その気になれば、軽い戦争でも行えるほどの銃砲火器が大量に詰め込まれている一室のため、当然とも呼べる措置だ。

 身分証明書替わりになる生徒手帳は無論、入退室のたびに厳密な記録が付けられ、必ず部屋で待機している警備職員の認可も受けないといけない。

 

「………誘導された、か」

 

 が……その職務を一身上の都合で放棄させられたゲートを、姫燐は何事もなく潜り抜け、より一層の警戒を強めた。

 二十四時間動いているはずの機材さえ灯りがともされていない、誰一人として――警備職員の気配すらしない――暗がりの鉄床を歩く。

 行きすがりに、作業台に置いてあった大振りのレンチを掴む。

 じっくり眺め、軽く回す。護身用、または無力化用として、申し分ない強度と重量を手に感じながら、コツ、コツと金色の目に鋭さを宿して、歩んでいく。

 もし、敵の装備がこちらの想定通りならば、この程度の武装は何の意味すら持たないが――今はこれでいいと、迷いなく進んだ先に、

 

「光……」

 

 一区画だけ、何かが点灯している場所を見つけた。

 

「ふん」

 

 これよみがしに、誘導を目的とした罠であったが、臆せず、意にも関せず、姫燐は歩を進める。

 IS相手には途方もなく無力で無意味なレンチを持って、絶好の隙を作ってやっても仕掛けて来ない上、そもそも生身の一人を無力化したいならば腕部一つ展開してやって組み伏せてやれば、罠など使わなくとも一瞬でケリは付けられる。

 それらを考慮し、殺すわけでもなく、捕らえるためでもなく、アイツはコレを見せたいがために、オレをここに誘導したのだと推測を立て――行動。

鬼が出ても蛇が出ても、自分の冷徹さは揺るがないと、どこかで確固たる自信が訴える。

 淀みなく、しかし警戒を怠らない歩調で、詳細が分かる距離まで……到着する。

 目に飛び込んできたのは、ディスプレイを空間に表示する、ボタンほどの大きさの空間映像媒体だった。

 別段、技術が進んだ今なら珍しくもなんともないそれは、一枚の写真を写しているだけのそれは、戻ることのない過去の一ページを切り取ったそれは……調子が良さそうな背丈の高い女と、不健康そうだが僅かに微笑む小柄の女と、そして、

 

「……お前が……キルスティン、なのか……?」

 

 朴月姫燐と全く同じ顔をした人間を、映していた。

 ボサボサ気味でセミロングの、燃え上がるような赤髪。

 不機嫌と退廃を滲ませながらも、荒ぶる獅子のように鋭く力を宿した黄金の目。

 キルスティン。そうだ、コイツがキルスティンだ。

 間違いない。そして朴月姫燐には、このような写真など取った覚えがない。

 確信する――確信しろ――コイツと、オレはこの瞬間、間違いなく別人である――本当に?――ことが、判明した。

 あとは、その事実を飲み込むだけだ。

 この、まるで、久しぶりに鏡を見ただけのような――暴力的な既視感ごと。

 

「ぐ……お……ぇ……ぁ……!」

 

 異常事態ですら不屈であった膝が、急速に力を失くし、重いボディブローを受けたかのような強烈な吐き気に見舞われ、女はその場に蹲る。

 なぜだ。なぜ、こんなものが存在するんだ。ここに写っているのは誰なんだ。

女は、産まれ落ちて初めて、自らの聡明さに苦悶する。

理路整然に、いや、そんなにも深く考えるまでもなく、誰がどう考えても、この身に相応しい名前は、平穏な世界で生きてきた朴月姫燐などではなく、

 

「キルスティン、隊長」

 

 いま、背後から投げかけられた、忌み名の方ではないか――と。

 

「先駆。謝罪を。他ならぬ貴女に、炎を向けてしまった愚行を」

 

 前回とは比べ物にならぬほど、そして無関心を常とする彼女とは思えないほど、意思の光と、溢れんばかりの禍福を声色に乗せながら、

 

「そして、あくなき感謝を。貴女がどんな形であれ生きていてくれた、この事実に」

 

 自らを産み落とした母を労わるように、姫燐の背に触れようとした無防備な足取りが――こめかみを砕きかけたレンチの一振りに、静止する。

 

「……おれに、触るな」

 

 内心の舌打ちを隠そうともしない血走った双眸で、姫燐は――いや、もはや写真の中と変わらぬ、幽鬼めいた形相の女は、薄桃色の少女をしかと捉えていた。

 鈴と似たり寄ったりな、しかし確固たる目的のために鍛え上げられた、貧清という表現がしっくり来る肢体。どこからか調達したのか身に纏ったIS学園の洒落た制服いがい飾り気など微塵も感じさせないが、だからこそ偽りようがない危うさを孕んだ立ち振る舞い。

 そして、ISで隠すことのない、初めて――初めて見るはずの、対敵の表情は、

 

「……感服。する他にありません、お見事です隊長」

 

 溢れ滲み出る、隠し切れないほどの光悦を、浮かべていた。

 

「一歩。踏み込みを違えていれば、私は確実にISを纏う間すらなく無力化されていました。窮地であっても機を掴み取ろうとする判断力、この拙い口では見事としか言い表せません」

 

 仮にも殺されかかったというのに、惜しみない賛辞を飛ばす姿は、結果的には外したこともあって嫌味とすら受け取られかねないほどに素っ頓狂であったが、別段、女は感慨も抱かない。

『こういう奴』なのだから、今更どうこう言うほどのことではないと優先順位をつけ、距離を取ってレンチを握りなおす。

 

「わざわざ口にするのも億劫だが、言っておく。勘違いは、迷惑だ」

「Ja。ご指摘通り、正しい認識に努めます、隊長」

 

 意のままに返事をしているというのに、ここまで人を不愉快にさせる稀有な才能に、今すぐレンチを叩きつけてやりたい衝動を抑え、女は続ける。

 

「シャルルを誘拐したのはお前らか」

「肯定。我々の現段階での、一応のリーダーが八分前に実行に移しました」

 

 多分の不承不承が含まれた表現を訝しむ間もなく、さらなる情報を引き出すため、女は口を動かしていく。

 

「どこだ」

「不明。後ほど、別働が指定したポイントで合流となっています」

「なら、お前は何が目的だ。撤収しない所を見るに、撹乱と足止めか」

「いえ……それは、アレらがやります」

 

 と、少女が首を向けた瞬間、沈黙していたディスプレイの一つがうたた寝から目覚めたように、IS学園の外の様子を映し出した。

 静かな……今はまだ、表面上は平穏を装う夜のしじまに、影が浮かんでいる。

 IS学園を絶えず照らす灯りも、雲に阻まれた月光も届かない暗がりに佇んでいた影は、歪ではあるが辛うじて人型を保っていながらも、ピクリともせず無機質なまでに不動の形相で――

 

「馬鹿な――」

 

 女が、それを正確に認識した瞬間、切り替わってから初めてと言っても過言ではない、血液が凍り付くほどの戦慄が走り抜けた。

 人と呼ぶにはあまりにも肥大化した両腕、まばらに付いた五つの眼光、そして草原を踏みしめず、僅かに浮遊し、万有引力に逆らい滞空を成し遂げている両足。

 その黒鉄の存在に、女は動揺を隠せないながらも、筋道は通っていると即座に納得できた。

 アイツらは確かに、あの時、自分が破壊した鉄屑を回収していたのだとーー!

 

「ゴーレム。組織内で、アレはそう呼ばれています。そして――」

 

 画面が、一定の間隔で次々と移り変わる。

 映像はそれぞれ別々の、学園内でも滅多に人が立ち入らないような場所ばかりを映し――しかし、そのどれにも巨腕のゴーレムは映りこんでいた。

 

「アレを、量産したのか――いや、出来たのか……!?」

 

 映像は八カ所。背景から推察するに、おそらくこのIS学園を取り囲むように。

 計八機の無人IS――ゴーレムは、今、誰にも知られることなくIS学園を包囲していた。

 

「いくらなんでも早すぎる。オマケに、ISコアを八個も用意しただと? こんな包囲も、事前に悟られずに出来るわけがない」

「受容。差し出がましいですが、眼前の事実は、早いうちに受け入れることを推奨します」

 

 どれほどまでに道理が狂っていても、眼前で無理が通ってしまっている以上は、そんなものは引っ込む以外にない。

 一度あの無人機と戦った記憶と経験が、万が一アレが八機同時に暴れ出した場合の最悪をシュミレートするのには、何の労も必要としなかった。

 

「安及。不用意な接近や、この学園からの逃走がなければ、ゴーレム共は何事もなく消えるよう命令されています」

「……ここまで大がかりな仕掛け。戦争でもする気か、お前ら」

「それを実行部隊の自分が答えたところで、隊長がご納得いただけるとは思えません」

 

 確かにそうだ。往々にして、実行部隊が下された命令の意図を伝えられないということは、あらゆる軍隊での日常茶飯事。尋問にもかけていない発言の信憑性は限りなく薄いだろう。

 頭の撓み指摘され、向けられる視線が更に殺意で鋭さを増そうとも、彼女にとってそれは、永遠に再開することは無いと嘯かれた存在を、再び全感覚で認知できる奇跡に他ならない。

 しかし、女にとってこの連中はこびりつくような悪夢でしかなく、

 

「分かった、もう一度――効果的に聞き直す」

 

 ため息と共にレンチを捨てると、制服のポケットへと手を入れ、

 

「お前は、何が目的だ」

 

 中に仕舞っていた、彼女が本当にアテにしていた凶器――待機状態のラファール・リヴァイヴ・カスタムⅡを見せつけるように取り出した。

 今度ばかりは感嘆を口にするよりも先に、少女の鍛え上げられた肉体と思考が条件反射的に自らのISをいつでも展開できるよう身構えさせる。

 

「なぜ速やかに撤収せず、おれに接触した。ゴーレムとの戦闘経験がある、おれの暗殺も任務の内か」

 

 手中のISは、無機物でありながら確かな脈動を感じ取れ、本来の主でなくとも力を発揮することを躊躇わないだろう。一夏の部屋でこのペンダントに触れた瞬間から、女はそれを察知し、自らのISが手元にない現状と合致したことから、切り札として確保していたのだ。

 

「身体に聞いてやろうか。おれはここで一戦交えようと、一向に構わんからな」

 

 一見は鉄火場へと誘う危険な挑発に思えても、確かな勝算と打算に裏打ちされた女の決定事項めいた恫喝は、一片の迷いもなく冷然。

 確かにあんなものを用意してきた作戦には驚かされたが、こいつ等はどういう意図にしろ、IS学園での騒ぎは出来る限り大きくしたくないのだと、当たりはつけていたからだ。

 デュノア社の爆破という大事件を隠れ蓑に動いたことや、逆にゴーレム共は誇示するわけでもなく、一般生徒ではまず目につかないような位置で秘密裏に配置していること。

 更に、言ってしまえば今回のデュノア社絡みの騒動では、完全に蚊帳の外であったはずの自分への接触が、女の中でおおよその見当を創り上げていた。

 

「……やはり、また命令無視か、お前」

「………ッ」

 

 ようやく、敵地にあって一言一言の交流に笑みを絶やさなかった少女の表情に、渋い図星が刻まれる。

 やはり、プラン外の行動。元からこの誘拐は、自分との戦闘など考慮しておらず、接触すらおそらくコイツの独断だったのだと確信する。

 女の理解の範疇を越えた愚行は、矢次に疑問を脳裏に浮かび上がらせ、

 

「分からんな。おれなんぞに、なぜそこまで執着する?」

 

敵は俯いたまま、答えない。

対敵の心中など、出し抜くための関心こそあれ興味など欠片も無いが、その愚行の中心として振り回されるフラストレーションだけは、いい加減に明確な暴力衝動となって外部へと溢れかけていた。

 

「やはり――手足の一つでも吹き飛ばしてやった方が喋りやすいか」

 

 冷たい格納庫に響く、なお冷血な決別。

 女は、たとえ一戦交えようと、コイツだけは逃がすつもりはなかった。

 あの日から、朴月姫燐を絶えず侵し続ける苦悩に、いい加減引導を叩きつけてやると――その果てが、尊き日常を根底から破壊するものだったとしても?――女は……姫燐は、それでも、引き金を引くと決意を宿す。

 悲壮な覚悟の殻を満たしていくのは、学校の、友達の、家族の、協力者の、顔、顔、顔。

 笑っていた。怒っていた。泣いていた。彼らの、何よりも暖かな、生きている証。

 奪わせない――こんな連中に、誰一人奪わせはしない。

 この力で護るのだと、敵を倒すのだと、親しき者たちのためなのだと、

 

「…………なぜ」

 

 ――決断を下す、その、寸前。敵の瞼からは――

 

「なぜ。命令してくださらないのですか……隊長」

「……え?」

 

 透明な血涙が、零れ落ちていた。

 あってはならない。絶対に。こいつは朴月姫燐にとって敵以外の何物でもない。

 斬って捨てなければならない存在のはずなのに、この敵が流す涙は、

 

――なんで……また、そんなこと言うの……? ひめりん――

 

 本音が流した涙と、被さって見えてしまって――女が、己の不覚を悟ったのは、敵に懐へと飛び込まれてからであった。

 身体と身体がぶつかる、密着状態のゼロ距離。

 これではISを展開することも間に合わず、ナイフでも使われていたのならば間違いなく致命傷を受けていたが――現実は、とことんまで女の浅はかな予想を裏切った。

 受けて然るべき痛みは、襲い掛かってこず。

 凶器を握っていなければならない敵の両手は、首に回され。

 互いに拒絶を紡ぐはずの口は――

 

「…………っ」

 

 愛する人へと送るような、柔らかな口づけで、塞がれていた。

 ファーストキス。姫燐にとっては間違いなく散らされたはずの純潔が、どこかで慣れを訴え、そんなことよりも、身長に差があるせいで背伸びをしなければ自分に届かない、目の前の少女が暴力的にまで愛おしく思え、仕方がない。

 更なる重なりを求めようと、少女は舌で、姫燐の口内へと踏み込もうとして――その当惑にうつろう瞳を見やり――悲しげに、唇が離された。

 

「隊長……やはり私たちのことを、何も、覚えていないのですね……」

 

 違う。人違いだ。

 初志貫徹しなくてはならない主張が、まだ濡れた唇の裏で、浸され、溶かされ、堅牢さを失っていく。

 

「口づけ……手解きを仕込んでくださったのも、貴女なのですよ……?」

 

 覚えがない。というか出来ない。

 などと、思っているのは朴月姫燐だけであり、貴女なら出来ると、少女はあやすように頬を撫でる。

 

「隊長のご命令ならば……今すぐにでも組織を裏切ることだろうと……貴女が望みさえしてくれるならば……私は、何もかもを捧げて、叶えてみせるのに……」

 

 無念。真に定めた主を失った飼い犬に価値はなく、無駄で無益で無様で、ひたすらに無念な生き様が耐えきれぬと、少女は涙する。

 朴月姫燐からしてみれば、酷く身勝手で勘違い甚だしい願い。

 しかし、裏を返してしまえば、彼女もまた大切な存在を、一心に想い続けているだけであり――それが、朴月姫燐が護ろうとしていた人たちが抱いているそれと、どれほど差異や貴俗があるというのだろうか。

 

「おれ……は……」

 

 懐の少女を見下ろす相貌が、欠け落ちたように色を失いながらも、胸に湧き上がる黒く澱んだ情のままに抱きしめようとした――

 

「そこまでだ」

 

 刹那、彼女を引き戻したのは、朴月姫燐にとって最も身近な男の声だった。

 

「恐縮だが、私の娘から離れて貰えないかね、バッドガール?」

 

 陶酔から一瞬で覚めた少女は飛び下がり、整備室の入り口で仁王立ちしていた壮年の博士へと、懐から取り出したサイレンサー付きの拳銃を向ける。

 

「おや……じ?」

「やぁ、娘に悪い虫が付くのが我慢ならない君のパパだよ、キリ」

 

 余裕綽々で能天気に煙草へと火をつける、ISも装備できない軟弱で脆弱な男の額に、9mmのパラベラム弾を叩きこむのはトーチにとって朝飯前の距離であったが、

 

「更に、君の王子さまもご一緒だ」

「キリ、大丈夫か!!?」

「チッ……!」

 

 続いて部屋に飛び込んできた、既に純白の機甲を腕部展開した例外中の例外だけは別だと、即座に銃を引っ込め、IS――『ハイロゥ・カゲロウ』を頭部バイザーと両碗に展開する。

 シルエットが一度、自分たちの命を狙った機影へと近づいたこともあって、もはや問答無用と飛び掛かろうとした一夏の足が、

 

――敵をよく観なさい、一夏くん。

「ッ!!!」

 

 師の教えを思い出し、急ブレーキで踏み止まる。

 

――しまった、こいつの武装は……!

 

 グレーに近い、くすんだ青の巨腕。

 そこから噴き出すのは、至極単純な弾丸やビームでは無いのだ。

 

――火炎放射器ッ!

 

 前回の戦いのときでも見せた、一瞬で全方位を囲んでいた鎮圧部隊を炙れるほどに高出力なそれを、万が一にでもこんな閉所で使われてしまったら、自分はともかく生身の二人は……?

 最悪のイメージを現実にせずに回避できた安堵と、敵の気まぐれ次第で未だに災厄はいつでも引き起こるという危機に、歯噛みして一夏はトーチを睨みつける。

 だが、安堵と危機を同時に味わわせられていたのは、なにも彼だけではなかった。

 

「……英断。よく踏み止まってくれた、私のISは非武装の人間への配慮が難しい」

 

 バイザーの奥に流れる冷や汗を気取られぬよう、トーチは淡々と賛辞を贈る。

 

「警告。私のハイロゥ・カゲロウは、ほぼ全ての戦闘行動に火炎を使う。この場で仕掛けてくるなら、相応の犠牲が必ず出ることを承服してもらいたい」

 

 彼女にとってもこの警告は強がりに等しく、同じISの攻撃を凌ぐのであれば相応に装備を使わねばならず、それが他ならぬ隊長を巻き込む危険性を孕むならば、甘んじてその刃を受けねばならなかった。

 どちらも迂闊に動けぬ、膠着した状況。

 火薬が大気中に満ちているような、危うい沈黙を打ち破ったのは――今もっとも非力な男であった。

 

「……分かった、行きたまえ」

「朴月博士っ!?」

「仕方あるまい、どちらにしても手詰まりだ。ならばせめて、この場の全員が無傷で済む方がいくばかマシだろう?」

「感謝。賢明な判断」

 

 最後にホログラムと、隊長を見比べて、

 

「再会。楽しみにしております、隊長」

 

 格納庫の奥に広がる闇へと、呑み込まれていく敵の背中へと、

 

――待て。

 

 反射的に飛び出しかけた言葉を、女は飲み込んだ。

 もし、その命令で、本当にアイツが立ち止まってしまったら、

 

「アイツ、まさか昼間の……!? 何もされてない、よな。キリ」

 

 姫燐の無事を心から喜んで破顔する協力者と、キルスティンの事を心の底から慕うアイツは、殺し合わなければならなくなって――あってはならないおぞましさが、急速に膝の力を奪い去っていく。

 

「おおっと。怖かったろう、キリ。もう大丈夫だ」

 

 崩れ落ちた身体を、永悟が――父が受け止め、背を優しく叩く。

 

「一夏くん、しばらくISは展開したままで頼む。また戻ってくる可能性も捨てきれないからね」

「わ、分かりました」

 

 格納庫の狭さでは万全に振り回せない雪片ではなく、両腕の装甲で徒手空拳を振るう構えのまま辺りを警戒しはじめた一夏を、憔悴しきった目で姫燐は追いかける。

 

「なんで、親父も一夏も」

「なに、今の緊急事態は我々も掴んでいてね。カメラも全て沈黙させられていて、ミス千冬の指示のもと、一夏くんを護衛に格納庫の様子を見に来たのだよ」

「他の生徒は、抜き打ちの避難訓練って形で、騒ぎにならずに避難してもらってる。なのに、キリだけ見つからなくて……ジッとしてられなくてさ」

 

 ここは数多くのコアが眠る、IS学園の中でもひと際重要な施設だ。

 誰かが様子を見てくる必要があったため、最近はそこを拠点に構えて居たため機器と地理に明るい永悟と、専用機という形でISを携帯していた一夏が選ばれたのだろう。

 

「しかし、やられたね。ここをクラッキングされた状態では、厳重に格納されている他のISは動かせないだろう。デュノアくんと鈴音くん以外の専用機持ちが無事だったのは不幸中の幸いだが」

 

 となると、現状でISを動かせるのは、かた姉と一夏とセシリアだけになるのかと、姫燐は納得する。縦横無尽なスペースが無いと本領発揮できないブルー・ティアーズで室内戦は非現実的なため、消去法で一夏が護衛に選ばれたのだろう。

 ただ、懸命に外の状況を把握しようと努めているのは、ぐじゅぐじゅに爛れきった内面から目をそらす現実逃避に他ならなかったが。

 

「シャルル……箒と鈴と、シャルルは」

「篠ノ之嬢と凰鈴音くんなら大事ないよ。しかし残念ながら、シャルルくんは安否不明だ。楯無くんが追っているはずだが、通信もどうやら強烈なジャミングをかけられているようでね」

 

 ならば――やることは一つだけだと、姫燐は父の手を払って、再び両足に力を込める。

 

「オレも……助けに行く」

「ダメだ」

 

 が、それよりも遥かに力が籠った、父の腕に抱き止められる。

 

「行かせろ、オレなら戦える」

「ダメだ。今の君は、絶対に戦わせられない」

 

 親としても当然、危険な場所へと娘を行かせることに反対し、そして同様に一人の大人としても、今の姫燐を戦場になど向かわせられる筈が無かった。

 

「君は今、シャルル君を助けたいのではなく、身体を動かしたいだけだ。煮詰まった課題を忘れるため、一時的なストレスの発散法として、ちょうど目の前にあった他人の課題に手を貸そうとしているに過ぎない。それは無茶や無謀より、更に質が悪い欺瞞にすぎないよ」

「……………」

 

 友の命を名目にしようとしていた醜悪さを一瞬で暴き立て、しかしなお娘を慈しむように、残酷なまでに的確な診断は続く。

 

「何もかもを忘れて、君は休みなさい。あとは、私たちが何とかしよう」

 

 永悟の白衣とスーツにしみ込んだ、懐かしい紫煙の臭いを吸い込むたびに、重しを詰め込まれたように姫燐の身体は、父の両腕に沈み込んでいく。

 男から注がれる無上の親愛は、この世でただ一人、娘である朴月姫燐だけが受け取る温もりだから――こそ、

 

「親父、ブリッツはどこだ。格納庫にはあるんだろ」

「……なるほど、では案内しよう」

「えっ、朴月博士?」

 

 その快諾に一番反応を示したのは、今までの会話から、絶対に引き留めると思っていた一夏だった。

 しかし、永悟は聞き分けのない子を納得させるためと、仕方なさそうに姫燐の身体から離れ、暗がりであろうと迷うことなく、円筒状の半透明なカプセルへと歩を進めた。

 

「ご覧の通りだよ、キリ。前回の模擬戦のデータも反映させ、より実践的にブラッシュアップされた私の『ブリッツ・ストライダーF(フォルテ)』は、この中だ」

 

 一夏も、永悟が快諾した理由を納得する。

 格納庫は今、外を映している一つのスクリーン以外の全機能を停止させられている。

 それは当然、このカプセルを開く手段も存在していないことを意味していたからだ。

 

「それに、私が君に渡したのはあくまで『ブリッツ・ストライダー』であって、『ブリッツ・ストライダーF』ではない。私の物は、今の君にはどうあっても託せないな」

 

 そう、意地が悪く御託を並べても、

 

「調整自体は終わってるんだな」

「……ああ、保証しよう」

「分かった」

 

 意にも関せず、姫燐は先ほど投げ捨てたレンチを拾いなおし、カプセルの前へと立ち直る。

 

「無意味だよ。人間の腕力で、その高性能プラスチック爆薬による発破すら想定しているカプセルは破壊できない」

 

 聞く気はないと渾身で打ち付け、当たり前のように、弾かれる。

 

「さ、その辺にしたまえ。手が痛む」

「…………」

 

 忠告を無視して、もう一度打ち込む。

 当たり前のように、弾かれる。

 

「もう一度、言った方がいいかね。君は、今シャルル君を助け出したいのではなく――」

「ああ、そうだよ! シャルルの事なんて今は考えられねぇさ!」

 

 何度も言われるまでもない。

 シャルルの安否など、この身が――彼の家族を殺した連中の一味かもしれないキルスティンが、案ずる資格なんてない。

 しかし、朴月姫燐だとしても、キルスティンなのだとしても、女には確かめなくてはならないことがあった。

 

「オレは……結局誰なんだよ……! なんであのチビの言うことが、こんなに心にクるんだよ!? 分からねぇ、分からねぇ分からねぇ分からねぇ!!!」

「キリ! 君は他でもない、この私の」

「理屈じゃねぇんだよ!!!」

 

 レンチを投げ捨て、女は慟哭する。

 

「他にもアイツ、仲間が居るって言ってた……だったら、アイツもそいつらもふん捕まえて知ってること全部全部全部吐かせてやるんだよ! オレが一体何なのか、いい加減にな!!!」

「君一人では無理だ! 聞き分けなさいッ!」

「るせぇ!!! アンタに『おれ』の何が分かるってんだ!」

 

 分かる訳がない。朴月姫燐の親である朴月永悟に、キルスティンの苦悩など分かる訳がない。

 どちらかが、では、もう女は止まれない。

 どちらもが、納得できなければ、もう女は安息を得られない。

 キルスティンには決して届かない言葉しか投げかけることができない永悟では、もはや彼女を救えない。

 朴月姫燐でもない、キルスティンでもない、ぐちゃぐちゃな女に、心を許していい存在など、誰一人としていなかった。

 だから――

 

「――一つだけ、確認させてくれ、キリ」

 

 男は、彼女だけの協力者になると、誓った。

 

「キリは、アイツ等を捕まえて確かめたいんだよな。自分の事を、ちゃんと」

 

 唐突に割って入った確認に、苛烈な言い争いをしていた女も永悟も押し黙る。

 

「ああ……そうだ」

「そのために、このISが必要なんだよな」

「……ああ」

「分かった――キリ」

 

 道は定まった。

 この力は彼女を護るためにあり、同時に――彼女を阻む壁を断つためにある。

 だから、一夏はカプセルに歩み寄る。

 白式を纏った右腕から、雪片を取り出す。

 そして、

 

 

「な……まさか、待ちたまえ!! 一夏くーー」

 

 

 両手で構え、袈裟懸けに振り下ろす。

 たったそれだけでプラスチック爆弾にすら耐える堅牢さを誇るカプセルは、まるで飴細工のように、あっさりと砕けて散った。

 中には無傷の専用機が、チョーカーの形をして、荘厳に佇んでいる。

 

「いち……か、お前」

「さあ、選んでくれ」

 

 岐路だった。

 何も知らずに今まで通り、これからもただ影におびえて生きていくか。

 下手をすれば二度と戻れないかもしれなくても、影を暴きに戦いへ赴くか。

 どちらも、痛みを伴う道だった。

 だけど――

 

「オレは、キリの選んだ方についていく」

 

 一夏は、優しい眼差しで、女を見ていた。

 朴月姫燐でもなく、キルスティンでもない、自分が契った協力者がどの道を選ぶのかと、どこへ往こうとも独りにはしないと、力と強さと信頼を、奥に秘めながら。

 

「どこまでも俺は、キリの協力者だから、な」

 

 呆気に取られていた女の――キリの中に、何かが流れ込んできた。

 空虚で、孤独で、荒れ狂う何かに引きずられるままだった心に、一つの標のように打ち込まれたそれは、ただ真っ直ぐだった。

 真っ直ぐ、そこから離れないと、君に寄り添い続けると、愚純なままに在り続けてくれた。

 そんな――真っ直ぐな光だった。

 

「オレは――行くよ、親父。確かめてくる」

 

 気が付けば、奈落へと突き落とされていくような焦燥感は消えていた。

 アイツがオレを繋ぎ止めてくれたから――カプセルの中のISを選んだ手に、力が湧き上がる。

 使命ではなく、命令でもなく、本能でもない。

 人の熱を伴った、無限の力が全身に満ち溢れていく。

 

「アンタのことも、もう一度、胸張って呼べるようになりたいから」

「キリ……」

「だから、待ってて――パパ」

 

 永悟の肩を通り抜けて、これよりキリは戦場に向かう。

 その隣を、何も言わず一夏が寄り添う。

 だが、その前に、立ち止まり、

 

「一夏、ちょっとこっち向け」

「どうしたんだ、キ――」

 

 強く結ばれた一夏の唇に、柔らかい感触が触れた。

 それ以外に一夏が認識できたのは、今まででもっとも近いキリの顔と、体温と、吐息だけで――

 

「……朴月姫燐なら『今のはノーカン! 雰囲気に流されて、なんかそれっぽくカッコつけただけだからな』って、お前に顔真っ赤にしながら言うんだろうな」

 

 なのに唇を離した彼女は、そんな風に他人事で、

 

「だから全部終わらせて、無事に帰って来て、ちゃんと言うからな――お前に、この学園で」

「……ああ!」

 

 だから、一夏も今は考えないことにした。

 それは皆が無事に帰ってきた後に、思いっきり慌てふためきながらやることだと思ったからだ。




 拙作に変な小説が一つ増えていますが、なに気にすることは無い。
 コウボウ・エラーズというではないか。

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