IS~インフィニット・ストラトス~ ―I AM…ALL OF ME…― 作:ヱ子駈 ヒウ
日本に伝わる古事に、三本の教えというモノがある。
『矢は一本では簡単に折れてしまうが、三本では中々折れない。このように三人が結束し、力を合わせることが大切である』という、とある戦国武将が三人の息子達へ向けた教えだ。
数の利は、野生動物すら利用する単純かつ明快な力だ。数が多ければ出来る事は段違いに増え、思考も複数が絡むことで、独りでは思いもよらないような発想が出る事もある。
故に今回、一夏とセシリアという二本の矢が共闘戦線を張る選択をしたことは、実に合理的で的確な判断と言えた。
ただ――
「……織斑一夏」
「……あぁ」
「なにか、いい案は思いつきまして?」
「……セシリアは?」
「…………」
ゼロとゼロを束ねた所で、ゼロ以外に成りようが無いという現実を失念さえしていなければ……だったが。
資料室で机を挟み、互いに頭を抱える一夏とセシリア。頭の普段使わない部分を総動員しているためか、両方とも額にはビッシリと脂汗が浮かんでいる。
その姿は夏休みの宿題が最終日なのに終わっていない学生を彷彿とさせるが――実際、似たようなものであった。
「本当に、何も思いつかないんですの……?」
「仕方ないだろ……慣れてないんだよ、こういうの……」
そう、織斑一夏も、セシリア・オルコットも、こういった策謀を練る事が大の苦手だったのだ。
基本的に、一夏もセシリアも思い立ったら即行動に移る直情型で、一瞬の機微すらも読み合う腹の探り合いが得意なタチではない。クラス代表戦は相手が勝手知った鈴であることや、舞台が一対一の戦闘であったお陰で、一夏でも何とか策を完遂することができた。
だが今回の目的は、相手を殴り倒せばいいようなシンプルなモノでは無い。
シャルルの、しいてはデュノアの真意を探り、今後の対策を立てることであり……
「やはりここは……オルコット家に幽閉した後、地下で全て洗いざらい吐きたくなるまで」
「いや、イギリスは遠いだろ……」
「ならば貴方の家でッ!」
「冗談でもよしてくれ! 千冬姉に見つかったら殺されるじゃ済まない!」
場所以前に、閉じ込めて尋問するという発想そのものが完全アウトなのだが、もはやそんな常識すら危うくなるほどに二人の状況は切迫しつつあった。
そもそも相手は一企業、いや下手をすれば一国家だ。心理戦に疎い学生二人で、その野望を探るという魂胆からして無謀極まりない。
「やはり、キリさんにも相談した方が……」
「それだけは絶対にダメだ!」
椅子から立ち上がり、意見を言語道断と却下する一夏。
当然である。一夏にとって最大の目標は、シャルルの正体を彼女に悟らせないことなのだから。事の次第を相談すれば頭が切れ行動力溢れる彼女のことだろう、一瞬で確信に辿りついてしまう筈だ。
そんな事は……とにかくダメだ。理由を上手く言葉には出来なかったが。
「あ、貴方がそこまで仰るのなら分かりましたけれど……現実問題どうしますの? 時間は恐らく、そこまでありませんわよ」
「う……」
デュノアがいつ行動を起こすのかは分からない。
しかし、時が事態を好転させる事だけは絶対にありえない。
「他にアテは? 本当に、非常に、認め難いですけど、わたくし達だけで手に負える問題ではありませんわよ」
「……ダメだ、誰に話しても騒ぎになる」
一夏はこんな事を打ち明けられるほど、親しい人達の姿を脳裏に浮かべる。
箒は論外。彼女は一夏やセシリアに輪をかけて直情型だ。鈴は自分達に比べて頭は回るが、曲がった事が大嫌いな彼女は、事実に気付いた瞬間シャルルを激しく糾弾し、やはり騒ぎになるだろう。
千冬や楯無に相談するという手もあったが……こちらもやり方がスマートになっただけでやはり、シャルルはこの学園に居られなくなり、姫燐も事態を察する可能性は高い。
とにかく、シャルル・デュノアという存在は学園的にも世界的にも注目を浴び過ぎているのだ。とんでもない奴が学園の外からやってきてしまったモノのだと、普通の人間ならとっくに感じていた憂鬱を溜め息に乗せて……
「学園の、外……?」
「織斑一夏?」
「そうだ! その手があった!」
「へっ?」
視線でどういう事だと尋ねるセシリアを捨て置いて、突破口を見つけた興奮のまま一夏はポケットから携帯電話を取り出す。
完全に失念していた。自分の味方は、学園の外にも居てくれているのだという事を。
学園の外に居て、感情の機微に長け、決して口外しないと信頼できる人物。
電話帳を探すよりも、先程電話したばかりなので発信履歴から探った方が早い、親友の名前を。
「もしもし、弾か! いま少し時間いいか、相談したい事があるんだが!」
――そして夕方の自室、作戦は決行される。
友から授かった知恵と、必ず役立つと言われ渡された物品を手に、一夏は挑む。
「んじゃ、早速なんだけどシャルル。俺も結構、楽しみにしてたからさ」
腹の内を悟られないように、精一杯の作り笑いを浮かべて、
「せっかくだし、一緒にそれを、見ないか?」
今にも剥がれそうな仮面を必死に押さえつけた、一世一代の大芝居へと。
●○●
「へ……え……?」
どういうことだ、まるで意味が分からない。
そう言いたげに口をヒクヒクさせて、言葉を失うシャルルの様子から、一夏は弾が授けてくれた作戦の第一段階が成功したことを確信した。
事の次第を全て真摯に聞き留めてくれ、快く協力してくれた親友の言葉を、一夏は軽く目を閉じて思い起こす。
『どうせ単純なお前のことだから、あんまグダグダ詰め込んでも実践できないだろ? 三歩で忘れるお前にも分かりやすいように、要点も三つに絞って説明する』
ここはいい。大切なのは次からだ。
『まず一つ。心理戦においてもっとも重要なのは、相手の余裕を奪う事だ』
これは戦闘でも重要なことのため、一夏の頭にもすんなりと入って来た。
確かに、舌戦に置いてマトモな勝利を飾った覚えがない自分が、正攻法で挑んだところで勝ち目など万に一つもないだろう。自分の攻めは余りにも脆弱であり、鍛える時間もありはしない――ならば、
『一番最初に、シャルルから余計なことを考える余裕を奪っちまえ。相手を最初からパニくらせれば、お前のどうせダメダメな演技もいくらか誤魔化せるだろうし一石二鳥だ』
そんなに都合良くシャルルから余裕を奪える方法があるかどうか不安だったが、一夏が自分の『確信』を弾に伝えると、彼は「コイツをシャルルに渡せ」と一枚のDVDを譲ってくれた。
中身は「見たら絶対にお前も心理戦どころじゃなくなるから、事が終わるまで絶対に中身を見るなよ」と念を押されたので未確認だが、シャルルの血の気が一瞬にして引き蒼白となった事から、怖い系のDVDなのかと勝手に一夏は推察する。
「いいっ、一夏ッ!? こここ、これ、これぇ!?」
だが、次の瞬間には沸騰したように真っ赤になりアタフタするシャルルの様子から、微妙に自分のアテが外れているような気もしてくる。
「たたたっ、楽しみにしてたからって、いいい一夏って、こんな趣味が……?」
「え……あっ」
色々としこりは残っているが、ここまで来て後には引けない。
ハッタリを効かせるため一夏は堂々と胸を張り、よく通る大声で、
「ああっ、俺すっげー好きなんだよ! そういう作品がさ!」
「ひぃ!!?」
腕を抱きながら、シャルルが全力で距離を取るように一夏から飛び下がる。
「ぁ……ぁぁぁ……」
背中を壁にぶつけ、その場へ崩れ落ちるようにへたり込むシャルルの姿は、まるで肉食の獣に追い詰められた子羊を一夏に連想させた。
(確かに効果は抜群だけど……弾の奴、本当に何を寄こして来たんだ?)
使い終わっても、もう俺には必要ないから返さなくていい。と弾は言っていたが、人をここまで酷く狼狽させるDVDをアイツはどんな目的で使っていたのだろうか? まさか、一昔前に流行った見た者を呪うビデオのDVD版でも出たのだろうか?
一夏がそんなくだらない懸念をしている内に、シャルルは大きく呼吸を繰り返し、壁に背中を預けたままだったが何とか立ち上がり、
「へ……へぇぇ? や、やっぱり、一夏も男の子、なんだねぇ?」
「え、そりゃそうだけど……っと」
忘れない内に、一夏は要点の続きを思い起こす。
『次に、ソイツを再生するように頼め。この時、絶対にシャルルを逃がすなよ』
(分かってるぜ、弾っ!)
緩み掛けた気をもう一度張り直し、一夏はシャルルが持ったままであるDVDケースを指刺し、
「なぁなぁ、そんなことより早く見ようぜ? 絶対にお前も気に入ると思うからさ」
「え、えぇぇ!? そそそ、そうかなぁ? どっちかっていうと、僕はそっち系よりもうちょっとプラトニックというか、その、ロマンチックというか愛がある方が……って、なに言ってるんだよ僕はバカバカバカぁ!!!」
「お、おい何してんだ止めろシャルルッ!」
俯いてボソボソと呟いていたと思ったら、急に発狂して壁へ頭を打ち付け始めたシャルルを羽交い締めして止める。
まさかこれほどまでの危険物だったとは。弾の知り合いで丁度アイツの家に居たという二年生の先輩が、これを持って来てくれた時からは想像も出来なかった。
そういえば弾も、相談を打ち明けた当初は思い悩んでいたが「ちょうど、こういうのが得意そうな人が家に来ている」と大切な所は伏せて相談してくれ、彼女が教えてくれたコツをまた一夏に分かりやすく伝えているだけだと言っていた。
相手をここまで心理的に追い詰める方法をパッと思いつくIS学園の生徒は、やはりハイレベルであると一夏は確信する。
もしかしてDVDと一緒に「いつも妹達が世話になっています」と全く身に覚えの無いことを言って菓子折りをくれたのも、何かの自分には想像もつかないような高度な心理的テクニックなのかもしれないと一夏の背筋に冷たいモノが走った。
などと考えている間に、発狂寸前だったシャルルが強い疲労感を顔に滲ませてぐったりと彼の胸へもたれ掛り、その重みによって一夏の意識が現実へと回帰する。
「だ、大丈夫かシャルル?」
「う、うん……ごめんね」
胸から離れ、よろよろとベッドに腰掛けるシャルルの表情からは、もはやリビングデッドもかくやと言うほどに生気が失われており、心に軽い罪悪感を覚えてしまう一夏。
だが、これは戦闘におけるスタミナ切れと同様。即ち、絶好の攻め時だ。
良心の呵責を何とか振り切り、一夏は次のステップへと作戦を進める。
「んー、それにしても、ほんとシャルルって女の子みたいだよなぁ」
「…………ッ!」
誰にでも分かってしまうほど、シャルルの肩が跳ね上がる。そんな彼を見下ろし、裁判にかけられた被告人の罪状を一つ一つ読みあげるように、坦々と一夏は口を動かす。
「肌は白いし、身体は細いし、声も高いしさ……それに、女の子の顔に躊躇いもなく触れるんだからなぁ」
「えっ、えっとそれ……はっ……」
顔が上げられない、強張った視界が歪む、胃がひっくり返りそうな吐き気が襲う。
そんな青ざめるシャルルの様子を見ても、一夏は一切の慈悲なくあっけらかんと、
「俺も、昔よく言われたなぁ。女みたいだってさ」
「…………え?」
後頭部を掻きながら、思い出話に花を咲かせ始めた。
「今でこそ背も高くなったし声も低くなったけど、ガキの頃はマジで女の子と間違われた事が一回や二回じゃ済まなかったんだぜ? これでもさ」
「これでも……って、ぼ、僕は納得だけどなぁ。一夏ってカッコいいし」
シャルルの表情が、死地を脱した時のようにまだ青ざめ気味であるがふっと和らぐ。
一夏も、そんなシャルルと同調するように向かいのベッドに座り、
「でもさ、シャルルはこう思ったことってないか?」
「どんな?」
「俺達、もし男じゃなくて女に産まれてたら、どんな風に暮らしてたんだろうって」
「もし僕が……女の人に?」
二人共有の話題に則った、何気もないたとえ話。
だがこれこそが、弾(の知り合い)が教えてくれた、心理誘導の第二フェイズだった。
『どうやら人間ってのは、たとえ話をする時、自分の中で考えていることを思わず口にしちまうらしいんだと』
デュノアではなく、シャルル自身が何を考えているのか。
それを一夏は、『この様な事』をしなかったらどうしていたかを尋ねる事で、その本心を引き出そうと画策していた。
たとえ話とは、言ってしまえば自己との問答である。普段は胸の内に秘め、誰にも言わない本心だろうと、『これは空想である』という前置きをしてしまうだけで、その錠前は驚くほどに外れやすくなる。
無論、相手が警戒している場合は通じ辛い手段ではあるが、それも前述の精神的疲弊に加え、先ほど打っておいたフェイントで張り詰めた緊張が撓んだ直後だ。
ほぼ間違いなく、こちらが本命だとは悟られない。
「僕が、普通の女の子、だったら……か」
シャルルの瞳が、物寂しげに曇る。
ここじゃない、どこか遠くを慈しみ眺める。そんなノスタルジアを込めて、彼の口はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「僕が普通の女の子だったら、きっと普通の生活を送っていたかな」
「普通の生活、か?」
「うん、すごく普通な生活。普通の家族と一緒に暮らして、普通に学校へ行って、普通に畑仕事をして、普通の恋をして、普通の家族を作って……」
「それだけなのか?」
「逆だよ一夏、それだけで良いんだ」
所詮、これは妄想に過ぎない。妄想は現実ではなく、現実出ないからこそ全ての願いが叶う。だが、少女の全ては余りにも平凡で、ありふれていて、共感が出来て――
だから一夏には、ふと、確かに見えた気がしたのだ。
「それだけで……僕はきっと、すごく幸せだったと思うから」
彼の微笑みの裏で震える、何かに縛られ涙を流す少女の姿が。
決心、一つ。一夏は薄く閉じて、親友からの最後のアドバイスを思い出す。
『それでもし、シャルルが誰かの命令で、嫌々こんなことをやらされてるっぽいんだったら、あとは楽勝だ』
すっと浅く息を吸って、
『あとは余計なこと考えず、真正面からぶつかれ。お前なら、それでOKだ』
吐き出す息と共に、似合わない打算すべてを頭から叩き出した。
「なぁ、シャルル。なら、なんで男装なんかして、こんな事してるんだよ?」
「……なっ」
先程までの軽薄な言葉とは段違いに熱の篭った瞳と声、そして何よりも唐突に突き立てられた「男装」という言葉に、シャルルの心臓がドクンと激しく脈打った。
「だ、男装? なに言ってるのさ一夏、ぼ、僕は一夏と同じ男の人で」
「まず、男は自分のことを男の人とは言わない」
「ッ!?」
バッと、シャルルは己の失言に思わず両手で口を塞ぐが、既にどころか最初から手遅れである。
「誤魔化さなくていい、こっちはもう全部分かってるんだ」
「ごっ、誤魔化すって僕は男だよ! な、何に言ってるのさ!?」
あくまで白を切り通すシャルルに、一夏は一つ一つ、無駄な抵抗へ引導を渡していく。
「なら、なんでお前はこの学校に居るんだよ? 会社の経営は大丈夫なのか?」
「そ、そんなの一夏には関係」
「ない、と思うか」
一夏は身体を乗り出し、シャルルの顔を至近距離で真っ直ぐと睨みつける。
「それ、は……」
思わず、シャルルは顔を背けた。一夏に、息が掛かりそうなほどまでに顔を近付けられたから――では、ない。奥底まで透き通るような熱を秘めた彼の視線は、今のシャルルには余りにも眩し過ぎたのだ。
まるで暗夜で怯える罪人を暴き出す、無慈悲なサーチライトように。
「どう考えてもオカシイよな? デュノア社は第三世代の開発が遅れていて、今すぐにでも何らかの方法で成果を出さないといけないのに……格好の研究対象は、こんな所にいる」
「ッ……僕、は……」
研究対象。
その言葉に、終始一夏に圧倒されっぱなしだったシャルルの瞳に憤りの炎が灯る。
「僕は研究対象なんかじゃない! 僕と、僕と父さんは、そんな実験動物みたいな」
「あっ、ああ、そうだな。ごめん、言い過ぎた」
「なっ」
だがようやく口からでた確固たる言葉も、彼に素で謝られてしまい、その矛先をスカされてしまう。意地でも問い質す気勢を宿していた瞳にも背中を向けられ、拍子抜けしたように戸惑うシャルルに、
「でも、それならさ。尚更お前は『何』なんだ?」
再び、冷刃のような質問が投げかけられる。
「頼む、答えてくれよ……シャルル・デュノア」
当の一夏はまったく意識してはいなかったが、彼の一旦あやまるという行為はシャルルに溜まったフラストレーションを一瞬にしてガス抜きし、激昂に逃げるという道を塞ぐ心理戦術の一つであった。
「っ……はっ……それ……は……」
俯き、肩を抱きながら、唇を噛む。
心に受けた傷を庇うように、シャルルはうずくまり――そして、同じように、
(お願いだ……これでもう、諦めてくれよ……!)
一夏もまた、奥歯を噛んで必死に耐えていた。
人の心を、自分勝手でズタズタに傷付ける、最低最悪の感覚に。
分かっていたが、解ってはいなかった。
人を護るために、人に刃を向けるという、矛盾を孕んだ現実に。
この怖気すら伴う痛みを、仕方ないことだと、所詮は他人事だと無下に切り捨てられるほど、織斑一夏と言う少年は大人では無かった。
これはキリのため。彼女を、得体のしれないデュノアから護るため。
そう自分に必死に言い聞かせて、今にも崩れてしまいそうな無理を張り続けて――待つ。
だが、それが、ここに来て詰めを戸惑ってしまった一夏の甘さが、
「……証拠」
「…………え?」
致命的な反撃を許す糸口となってしまう。
「証拠、だよ。僕が……女だっていう証拠さ」
先程までの弱弱しさが嘘のように目を見開き、口元を加虐的に釣り上げ、強く糾弾するようにシャルルは続ける。
「そうだよ、今までのって全部一夏の『憶測』だよね? 僕が本当に女の子だって証拠……一夏、持ってるの?」
「なっ、そ、それは」
確たる証拠を出せ。
一夏は今更ながら、自分の確信を裏付ける「物」を何一つ持っていない事に気付いてしまった。
彼が実は女であるという証拠。そんなもの、全く考えもしなかった。
思い立ってから、細事に脇目も振らず突っ走って来てしまったツケが、ココに来て一気に一夏の勢いを削ぎ落す。
完全に追い詰めたと思っていたネズミに噛みつかれ、一瞬で優劣が入れ替わる。
「……やっぱり無いんだ、証拠」
「な、待てっ! そりゃ、証拠はないけど! お前は、普通の生活に憧れる」
「なに? まさか一夏、あんなたとえ話だけで、僕を女だって決めつけるの?」
露骨な溜め息と共に、シャルルはベッドから立ち上がり、一夏を見下す。
先程まで青ざめていた子羊の面影は消え、ただ堅く冷たい意志を持った絶対者の姿がそこにはあった。
「正直困るんだよ、そんな憶測だけで僕が? 女の子? だって、決めつけちゃさぁ」
「違う! お前は、お前は本当はっ」
「うるさい」
尚もしつこく喰い下がろうとする愚者を、蹴落とすような言葉が遮る。
「いい加減分かってよ。僕はシャルルだ……他の誰でも無いデュノア社の、いや、父さんの……一人息子なシャルル・デュノアなんだ」
ウンザリするように、嫌悪するように……縋るように、涙を堪えるように、
「僕をここに送った父さんの意思は良く分からないけど、きっと僕のデータ収集とか、学園で色んな事を学ばせたいだとか……そんな所なんじゃないかな?」
それでも、渦巻く全てを溜め息一つで覆い隠し、無難で適当すぎる答えだけを残して、シャルルは一夏に微笑みかける。
姫燐の朗らかな笑顔とは比べるまでもない、感情を凍りつかせた能面が浮かべる勝利宣言。
逃げられる。あと一歩、あと一歩なのに、その一歩を詰められない。
一夏が頭を擦り切れそうなほど回転させようが、0から0を生み出せない様に、考えてすらいなかった証拠を今すぐ作り出す方法など浮かびようが無かった。
――やっぱり、俺だけじゃ無理だったのか……?
遠のいていく背中に手を伸ばしても、ただ手に残るのはどうしようもないまでの無力感。
「……ごめん」
掠れそうな謝罪の言葉に、遠のくだけの背中が止まる。
ギュッと締め付けられる拳と唇の痛みよりも、ひび割れ疼く良心が鎖となってシャルルの足を縛りつける。
――一夏は何も悪くないのに。悪いのは、本当にごめんなさいって言わないといけないのは、私の方なのに。
このまま、何も言わずに去るべきだ。
それが正しい。デュノアとして、僕として、最もリスクのない選択。
けれど……本当にこのままだと、
――やっぱり、嬉しいもんなんだよ。
彼女の言葉が、
――どれだけ遠く離れていても、
もう追憶の彼方にしか無い母の面影が、
――家族が元気で笑って暮らせてるのってさ。
全て、曇りの中へ消えてしまいそうだったから……せめて、一言だけ、謝りたい。
「やっぱり、俺一人じゃ無理だったよ……」
その足は、再び彼と向い合って、喉奥から自分自身の声を絞り出して、
「そのっ、いち」
「ごめん……セシリア」
「か!」
…………………………待って。
不意打ちにスタンした心が辛うじて果たした機能は、そんな言葉を発する事と、彼が、織斑一夏が話しかけていたのは自分では無く、彼の腕に巻かれた――白いISにであるということを認識する程度であった。
「やはり、貴方一人では無理でしたのね」
次に認識出来たのは、ガチャリとドアが開く音と、背後から聞こえた気品に満ちた女性の声。
「まったく、良い方法を思いついたから、俺に任せてくれないか。なんて自信満々に仰るから、あえて部屋前での見張りだなんて、華やかさの欠片も無い雑務を引き受けました、の、に」
「う……面目ない……」
「まぁ、構いませんわ。手詰まりだと思ったら、イギリスの代表候補生にして名門貴族であるこのセシリア・オルコット! に、即頼ったその素直さに免じ、今回は特別に許して差し上げますことよ」
「お、おぅ」
いつもよりテンション二割ほど増しで、すがすがしい程のドヤ顔を披露するイギリスの代表候補生が、お邪魔しますわ、の一声を挟んで、礼儀正しくヒールを脱いで部屋に入る。
呼んだ本人であり、慣れたモンである一夏ですら若干置いてけぼりを喰らう颯爽登場に、初見であるシャルルがついて行ける筈も無く、ただ見つめる事でしか反応を返す事が出来ない。
「さて、と。お話はコレで大体聞いておりましたわ」
と、制服のポケットからガラスコップを取り出しながら、セシリアはシャルルの眼前に立ち塞がる。
「そんなんで聞こえるんだ……」
「貴方は、証拠が無いから、自分は女ではない。と主張しますのねシャルル・デュノア?」
一夏のツッコミを余所に、コップを手近な机に置いて淡々と尋ねるセシリア。
「そ……そうだけど……」
辛うじて自分に質問が飛んで来たことを理解したシャルルが、脊髄反射じみた答えを返したのと……彼女が行動を起こしたのは、ほぼ同時であった。
「あら、そうですの」
やはり淡々としながらも、同時に気品すら感じる柔和な笑顔を浮かべ、セシリア・オルコットが、突然
グワシっ
と、そんな擬音が浮かびそうなレベルで、シャルルの平らな胸を鷲掴みしたのは。
「………………」
ジャージの上からも確かな手応えを感じ、完全勝利に口元を釣り上げるセシリア。
「……………」
唐突な事案に、今度こそ完璧に声を失った一夏。
「……………」
そして、余りにも当然の権利のように胸を鷲掴みにされたシャルル。
三種三様の沈黙が、これから始まる『事』のインターバルであるかのように僅かな静寂をもたらし……そして、開幕を務めたのは、
「き……キャァァァァァァあああアアアアアアぁァァァァァ!!?!??」
当然のように、被害者であるシャルルの絹を裂くような悲鳴であった。
「あ、危なっ!?」
後ろによろめき、バランスを崩しかけたシャルルの背を、一夏が思わず抱きとめる。
それは図らずとも、開いていた両脇から腕を滑り込ませ、胸で受け止める形となり、
「ナイスですわっ! そのまま離してはなりませんわよ織斑一夏ッ!」
「えっ? あ、お、おぅ!?」
「ひっ!?」
丁度、両腕を拘束し、胸をさらけ出す姿勢でシャルルを拘束できてしまった。
「はっ、離して! 離して一夏ッ!」
「え、えっーと……その、なんかこれって、すごく不味い事してるような……?」
力任せにもがくシャルルであったが、技が伴わない力は、例え困惑の最中であろうと、鍛えた肉体を持つ一夏の拘束を振りほどくことは叶わない。
「……くっ!」
一瞬の迷い。それでも、今この拘束を抜けなければ、取り返しは不可能。
ならば、とシャルルは瞳を閉じて、首に下げた己のISに意識を集中しようとして、
「ふうっ……」
「ひゅにゃぁ!!?」
突然、耳元に走った生温かい風に、意識の全てを狩りとられた。
「ISは意識が集中できなければ展開できない……させませんわよ、シャルル・デュノア」
「あっ、えっ、今、耳にっ、ええっ……!?」
言ってることはカッコいいのに、やってることで台無しである。
胸中で一夏が白眼を剥いている間にも、オルコットのオンステージは終わらない。
シャルルの喉元、正確にはジャージのファスナーへ無造作に手をかけ、
「ま、待って待って待ってぇぇぇ!!?」
「あらぁ?」
思わず漏れたシャルルの静止に、待ってましたと言わんばかりに、眼を細めるセシリア。
「どうして、お止めになりますの?」
「だだだだって、そ、それは、その……」
「貴方は殿方ですのに、服を脱がされるのに戸惑いを覚えなさるので?」
いや、殿方でもそれは普通に戸惑う。
などと、冷静なツッコミが一夏の頭を掠めるが、いやそれ以前に、
「セシリアッ!? おっ、お前、まままさかっ!?」
「ほぉら、織斑一夏が期待しているような事態になるか否かは……これからの返答にかかっていますわよ、シャルル・デュノア?」
「いや、して無いからなッ!? そんな期待ッ!」
キッ、と言葉にしなくとも「最低」と語る真っ赤な横顔でシャルルに睨みつけられる一夏。理不尽である。
「だっ、大体お前こんな方法……よくないだろっ!」
「ええぃ、ガミガミうるさいですわねっ! 仕方ないじゃありませんの、他に思いつかなかったんですものっ!!!」
「えぇー……」
「わ、私だってこんな、こんなキリさんに顔向け出来ないような、下卑た男がやるような真似っ……う、ううううううっ!!!」
どうやら彼女的にも相当な無理をしているらしく、このフルスロットルなテンションも下手に賢者になってしまえば「最低ですわ……私」となってしまうのを避けるためのデッドヒートのようだった。
故に、熱暴走するセシリアの頭や舌は、普段以上に全力で空回り、
「そもそもっ、私がこんなことをしなくてはならなくなったのは、貴方があんな自信満々で出ていったのに失敗したのが原因ではありませんことっ!?」
「そ、そりゃ見栄切ったのにしくじったのは悪かったとは思ってるけど……」
「責任問題ですわっ! もし責任を一ミリでも感じてらっしゃるなら、今すぐキリさんの部屋分けをやり直すよう織斑先生に取り成してくださいましっ! なぜ私ではありませんのっ!?」
「えっ!? いや、そんなこと言われても、そもそも部屋分けって確か山田先生がやってたような……」
「一緒ですわッ! 織斑先生を攻略出来る貴方なら、山田先生なんてきっとチョロイものでしょうッ!?」
「それはいくら何でも酷くないかッ!?」
などと、シャルルを挟みながら暴走とマジレスの応酬を繰り返す二人。
そんな中で、わー完全に蚊帳の外だなぁと茫然自失していたシャルルだったが、
(……あれ、これ)
討論に夢中で、自分を抱く腕に力が入っていない事に気付き、
(……行ける?)
この程度なら、自分の力でも振りほどけると確信した。
未だにガヤガヤ日ごろの鬱屈を吐き出しているセシリアの向こう側……この部屋の出口を見据えて、呼吸を整える。
間違いない。この二人は自分の正体に気付いている。
このままでは確実に、口を割るまで自分を解放してくれないだろう。
逃げるなら今しかない。逃げて、とりあえず誰かの部屋に駆けこめば……
(けれど……)
なぜ、果たして、そこまでして、自分は逃げる必要があるのだろうか。
ここで逃げた所で、一夏かセシリアか、どちらにしても国すら無下に出来ない発言力がある二人が、しかるべき場所に口添えすれば、社が学園と取引することでパスした身体検査も受けざる得ないだろう。
頭を駆け巡る、このささやかな抵抗になんの意味があるのだろう……?
――笑え。
いっそ、このまま『私は』楽になってしまえば良いと諦めていた脳裏に瞬く、重くて、冷たくて、突き放すような父の言葉。
――笑え、シャルル・デュノア。
(ああ、そうだ)
私が、僕である限り。
父が、僕を見ている限り。
私は……例え一刻一秒でも、僕であり続けるしかないんだ。
だから――決断は頭から余計なことを弾きだし、決行へと着実に意識を高めていく。
確実に二人の虚を突けるタイミングを見計らっていく。
そして、
「大体、俺のせいだって言うけどセシリアも何にも思いつかなかったじゃないか!? もし俺が弾からなにも聞けなかったら、どうするつもりだったんだよ!?」
「そっ、それは……む、むむむぅ……」
二人の会話が詰った、僅かな静寂。
(今だっ!)
機が熟したことを確信したシャルルが、一夏の拘束を振りほどいたのと、
「ええい、こうするつもりでしたともッ!!!」
「うぉ!?」
「えっ?」
セシリアがちょうど振りほどいたシャルルの腕を力任せに引っ掴んで、強引にベッドに押し倒したのは、ほぼ同時のことであった。
ダイナミックに揺らぐ視界。背中に走る柔らかな衝撃。そして……
「……んっ? あれっ? えっ?」
オカシイ。これは、オカシイとシャルルは思った。
だって今、自分はこの部屋から逃げ出しそうとしていたのだ。
なのに、こうして目の前に広がるのは寮の廊下では無く……一人の少女。
美しいブロンドの長髪はまるでカーテンのように自分と彼女以外を遮り、握られた手首は痛みよりも、汗ばんだ彼女の手の、確かな熱をシャルルに強く伝えた。
柔らかなシーツの感触を背にした、お互いの息と息が触れ合うほどの、距離。
――ドクン――
これを、シャルル・デュノアの失態と呼ぶには酷であった。
ごく一般的な成長を遂げている思春期の若者が、このような状況に陥ったときに……胸がどうしようもないほどの動悸を訴えてしまうことを、誰が咎める事が出来ようか。
激しく打ち鳴らされる鼓動は本能的に呼吸を荒れさせ、過剰分泌されたエンドルフィンは現実感を打ち消していき、感情と生理現象の境目を狂わせていく。
――私は、なんで、これは、どうして、この人、私を――
飛び飛びに浮かぶワードはどれも要領を得ない。
故に、無意識の視線は答えを求め、眼前に浮かぶ彼女の顔へと吸い込まれていき、
「くふっ、くふふっ、くふふふふふふふふふふふふふふふぅっ」
あ、ダメな奴だこれ。と一発で現状を完璧に把握した。
「そうですわ……そうですとも……織斑一夏に任せずとも……あんなまどろっこしいことをしなくとも……最初から、もっと早く、こうしておけば良かったんですわよ……」
ギラギラと、正気と狂気の境目を反復横とびする眼。
三日月に歪んで、今にも歯の隙間から煙でも出そうな口元。
そして、
「貴方が……貴方がいけないんですわよ……貴方が来てからというもの……私とキリさんの甘い時間が……私だってあんなベッタリ……一分一秒一時キリさんと……貴方のせいで……貴方さえ居なければ……全部ッ……全部全部全部ッ……!」
自分に向けて吐き連ねられる、嫉妬に狂った呪詛じみた恨み辛み。
(あ、やっぱりセシリアさんって姫燐のこと……)
ここに来て姫燐の名前が出てきたことで、シャルルの頭でふわついていた『なぜ彼女が自分を目の敵とするのか』という疑問とピタリ合致しする。が、人それを現実逃避と言う。
そうしている間にも二重の意味で止まる訳が無い現実は容赦なく、ジャージのジッパーを荒っぽく掴まれ……
「ハッ! ま、待って待って待ってッ!」
「おだまりっ!!!」
「まもごぉッ!!?」
なんとか現実に帰還して、待ったを唱える為に開いたシャルルの口が、セシリアがポケットから取り出したハンカチで無慈悲に封殺される。
丸めたハンカチを無理やり口に詰め込まれ、痛みと息苦しさにシャルルの大きな目が滲み、もはや小難しいこと一切抜きの本格的な抵抗を試みるが、
「ぐふふふふ……無駄無駄無駄……ですわぁ」
「んむーっ! むぐーっ!!?」
腕を掴まれ組み伏せられるこの体制は、重力が味方をする上側が圧倒的に有利だ。
余程の体格差か、専門の返し技を心得ていなければ、独力での脱出は困難を極める。
ISを起動する。というジョーカーも、このようなのっぴきならない状況で意識を集中させられるほど胆が据わっている訳ではないシャルルには、只のブダ札だ。
しかし、それでも襲いかかる色んな事の危機に、ただ無抵抗で成すままであるほどシャルルもお淑やかな羊では無い。
「このっ! 暴れるなですわっ!」
「んむいーーーーッ!!!」
「ふぬぬぬぬぬぬッ!!!」
シャルルも最早手段を選んでられないと、セシリアがジッパーを下ろそうとするたびに、全身を動かして妨害したり、フリーになる手で胸倉を掴んだり、押し返そうとしたりと精一杯の反撃を試みる。
ここに来て、二人の争いは完全に膠着状態に陥った。
普段の二人のイメージとはかけ離れた、気品もクソもあったモンじゃない争い。
だが、それでも絶対に譲れない戦いが、そこにはあった。
「……これは……俺が……悪いのか……?」
一方、自分さえしくじらなければ、セシリアはこんな突発的な性犯罪に及ばなかったのではないか? と、この歳にして変な十字架を背負い掛けている少年は思考回路ショート寸前で黄昏ていたが、
(いや、それ以前に!)
とりあえず、このままでは良く無いのだけは分かる。
織斑一夏は「それはよくない」と言える男なのだ。それになんかもう、常識的に考えれば考えるほどドツボにしか入らない気がしてきた一夏は強硬手段に打って出る。
ベッドで馬乗りしているセシリアの右手を掴み、なんとか言葉でなだめようと試みる一夏。
「もうよせセシリアッ! 冷静になれってッ!」
「なっ! なぜデュノアに味方をしますの織斑一夏ッ!」
「味方とか敵とかそんなん以前に、もうなんか、見てらんないんだよ色々とッ!」
「見損ないましたわ! 貴方の覚悟はその程度でしたのッ!?」
「女の子ひんむく覚悟はした覚えないんだけどッ!?」
もはや常識などデッドヒートの彼方に置いてきたセシリアは、いがみ合いながらもジッパーから左手を離さないと、脱衣に鉄の意思と鋼の強さを見せていたが、
「ッぱぁ!」
「しまっ!?」
一夏の妨害は、ギリギリで膠着していた戦況を崩すには充分すぎる効果を果たした。
両手がフリーになったシャルルは、手始めに口に詰っていたハンカチを引き出し、ベッドの隅に投げ捨てる。
そして、ガラ空きになっていたセシリアの腰を掴み、華奢な彼女を抱きこむようにして、
「いい加減に……してッ!!!」
「きゃあっ!!?」
「おわっ!?」
思いっきり、セシリアを撒きこんで、ベッドの外へと身体を転落させた。
とっさにセシリアの手を離したため、一夏は巻き込まれずに済んだが、二人はスッポリとベッドとベッドの間へとなだれ込んでしまう。
「だ、大丈夫か二人ともッ!?」
ドスン、と決して軽くない音が室内に響き渡ったにも関わらず、今度は逆に押し倒される姿勢になった筈のセシリアはまだしも、押し倒し、いつでも逃げられる姿勢になっている筈のシャルルすら声も動きも無い。
この事実がもたらす可能性に――一夏の背筋が、ゾッと凍る。
「おっ、おい! 二人とも、どこか怪我し……て……」
……結論から言ってしまえば、セシリアもシャルルも、怪我はしていなかった。
学園寮のカーペットが衝撃を殺したことや、ISの操縦で普段から衝撃には慣れているのもあって意識もハッキリとしていたが――それは、主にセシリアにとって、決して幸運とは言い難かった。
抱きこまれ、転がり落ちる形でベッドから落ちたため、先程と上と下が逆になった二人の距離は非常に密接であったのだ。
そう、ピッタリと密接していたのだ。二人の肌も、二人の顔も、そして……
「んっ、むっ……」
「………………」
二人の――唇も。
……こうしてセシリアの暴走に始まった乱痴気騒ぎは、まるで鼓膜が割れてしまったのかと錯覚するほどに、静かすぎる幕引きを迎えた。
「……………」
シャルルの湿っていた唇が、ゆっくりと、透明な糸を引いてセシリアから離される。
一夏も、セシリアも、シャルルも、この場に居る誰もが「起こってしまったこと」を受け入れるには、少々の時間を要した。
僅かな間が空いて――いち早く正気を取り戻せたのは、意外にもシャルルであった。
「……ご、ごめん……」
まだ足腰が言う事を聞かないため、未だ至近距離から抜けだせないシャルルが、とっさに呟いた謝罪。
それは、瞳だけをパチクリさせながら、精巧な人形のように不動であったセシリアに「シャルルに謝られるようなこと」が起きてしまったのだと認識させるには充分すぎる一言で、
「…………ふぇ」
「ふぇ?」
「ふぇ、えっ、ぐずっ、ぶぇ」
喉からは嗚咽が漏れ、碧眼からは雫が溢れ、そして、
「びえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええええええん! わだぐじの、わだぐじのヴぁーずとギズがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
絶望は感情の大雪崩を引き起こした。
「うわぁ!!?」
耳元で突然、大声で泣き叫ばれたため、弾き飛ばされるようにシャルルが尻餅を突く形になるが、セシリアに彼女を気にかける余裕がある訳がなく、
「ごんな、ごんなのあんまりでずわぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!?」
「あ、あの、僕も一応ファーストキスなんだけど……」
「あのがたに、あのがたに捧げるわだぐじの純潔がぁぁぁぁぁぁ……ごんな、ごんなごとでぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
ベッドシーツに顔を埋めながら、泣き喚くセシリア。
あんまりなのは言うまでも無く、強姦まがいに押し倒されて服をひん剥かれそうになった挙句、ファーストキスまで奪われたシャルルであるのだが、ここまで年甲斐もなく大泣きされれば怒るより先に憐れみのほうが先行してくる。
一夏も駆け寄り、なんとか泣き止んでもらおうと慰めをかけていくが、
「えーっと、そうだセシリアッ! こう、外国ってよく挨拶でキスするんだろ!? それみたいなもんならノーカンだとおm」
「ふぅんッ!!!」
「もぐふっ!」
「今のは無いよ一夏ぁ……」
鼻柱に裏拳を喰らい悶えるデリカシーゼロには任せておけず、ほぼ100%自業自得だからと放っておくことも出来ず、シャルルは思いついた端からセシリアにフォローを入れていく。
「ほ、ほらっ、泣きやんでセシリアさんっ! 僕も今日の事は忘れるから!」
「で、できのなざげはうげまぜんこどよぉ!」
「いや、敵の情けとかじゃなくて。ほら、あんまりシーツで顔を擦るとお肌が痛んじゃうよ? 僕のハンカチで良ければ貸すから」
色々と理不尽なことをされたセシリア相手でも、献身的な態度を崩さないシャルルの姿にやっぱり悪い奴では無いんだよなぁと、鼻柱を押さえつつ一夏は再認識する。
「も、もヴ……ごんな、ごんなっ、淑女相手にごのようなプライドの欠片もないような行いっ……キリさんにがお向けっ……」
「だ、大丈夫だって、ぼ、僕は全然気にしてないからっ!」
一気にマイナスまで急転直下したテンションは、先程までの暴走に任せてやってしまったことまで纏めて尾を引き始めてしまい、悔恨の海を更に深めていく。
何とか泣きやんでもらおうと頭を回転させる最中、さきほど一夏が言っていた単語がふと、シャルルの口先に留まり、
「それにほら、一夏もさっき言ってたけど、こんなのノーカウントだよ!」
なぜならばシャルル・デュノアと、セシリア・オルコットのキスは、
「女の子同士のキスなんだから、誰も気にしないって! ねっ?」
「えっ」
「えっ」
「あれっ?」
突然声をシンクロさせたセシリアと一夏に、なにか相手の気に触るような失言をしてしまったのだろうかと、思案すること数秒。
――女の子同士のキスなんだから、誰も……
――女の子同士のキスなんだから……
――女の子『同士』の……
「……………………あっ」
やってしまった壮大な自爆に、シャルルの顔が瞬時に青ざめ、
「何をおっじゃりまずのッ!!? 女性同士だろうと同じでずわぁ!」
とりあえず一夏は、眼先でガタガタ震えるシャルルの事は一旦保留にし、
「セシリア、今日はもう休もう、な?」
優しくセシリアの肩を叩いた。
ところでベクター、一年以上作者が失踪したのはお前の仕業か?