IS~インフィニット・ストラトス~ ―I AM…ALL OF ME…― 作:ヱ子駈 ヒウ
幼い頃、母さんから貰った目覚まし時計が、目覚めの時間を告げて僕の耳を叩いた。
朝は弱い方ではないが、やっぱり快眠を邪魔されるのは少しだけムッと来て、思いっきり時計の頭を叩き――そうになった所で、やんわりと時計の頭を押した。
祖国から持ってこれた、数少ない私物だ。昔から、今まで、僕とずっと一緒の朝を迎えてきた思い出の詰まった品の寿命を、一時の機嫌で縮めたくない。
新品のシーツを退け身体を起こして、詰まった胸から空気を吐き出し、あくびと一緒に肺と脳に澄んだ空気を吸い込んでいく。
「ふぁーー……ぁぅぅ」
まだお日様は昇り切っておらず、カーテン越しの景色は夜の青さをまだ残している。
前までの生活ではまだ寝ていた時間だからか、身体も思う様に動かない。
そもそも、なんでこんな早起きしたんだっけ僕……は……っ――
「ぅむっ!?」
い、急いで口は塞いだけど、み、見られてないよね……?
何を寝ぼけているんだ。昨日から僕は、彼と同室になったんじゃないか。こんな姿を見せないために、わざわざ慣れない時間に早起きしたのに……お、起きてないよ……ね?
そっと、そーっと、さり気なーく、自然に視線を右に横にずらしてー……え?
「あれっ?」
そこには昨日、僕が部屋に入って来た時と同じようにシワ一つ無くセッティングされたベッドだけがあって――あの男の子はどこへ?
確か昨日、模擬戦が終わった後は、みんなに揉みくちゃにされたけど何とか部屋まで戻ってこれて、荷物運びしてる最中に彼も戻って来て、軽く自己紹介した後に、少しだけ手伝って貰って、一緒のタイミングで寝た……はずなのに、どうして?
考えたくないけど……まさか、感づかれて既に別の部屋に――
「ん、起きたのか」
「っ!?」
だ、誰っ!? って考えるまでもないけど、ま、まさかもう起きてたなんて!?
「お、おはよう一夏。あ、朝、早いんだね?」
「そうでもないさ、昨日考え事してたから、今日は少し寝坊した」
ね、寝坊!? まだ太陽も昇り切ってない時間なのに寝坊!?
白の布地に青いラインが入ったジャージ姿の彼は、眉間にしわを寄せながら、グリーンティーが入ったコップをおどろく僕の目の前に置いて、
「ほら、お前の分」
「あ……ありがとう」
置いてくれたグリーンティーを手にとって、少しだけ息を吹きかけて覚ましながら……
「そ、その……ねぇ?」
「どうした、飲まないのか?」
うん、分かってる。きっと天然でやってるんだよね?
軽く小首を傾げる仕草から、そう察することは出来るんだけど――
「な、なんで僕がお茶飲む所を、そんなじっと見てるのかなーって……?」
「ん……あ、悪い」
や、やっぱり天然なんだよね? 視線が本気だったのも、やたら顔が近かったのも、僕から離れる瞬間ちいさく舌打ちしたのも全部天然なんだよね!?
う、うん、僕の考え過ぎだよ、きっとそうだよ。久しぶりに男の子同士で会話が出来て浮かれて、いや、浮かれてるなら何で眉間にシワ寄せて……うん、いただきます!
人肌に近い温度になったグリーンティーは、寝起きの乾いた喉を潤してくれ、紅茶には無い独特の甘みは真っ白になりかけた僕の頭を優しく労わってくれるようで、初めて飲んだけど、とても美味しいと思えた。
それを率直に彼へと伝えようとして、
「味」
「え?」
先手を取られて、思わず言葉が詰まってしまう。
「どうだ?」
「あ……うん、すごく美味しかったよ!」
「どこら辺が?」
な、なんでそこまで聞いて来るんだろう……相変わらず怒ったようにムッとしたままだし……。
それでも、詳しく言わないといつまでも離してくれなさそうだし、僕は思ったまの感想を口にした。
「え、えっとね、いつもは僕、紅茶を飲んでるんだけど、それには無い甘みがあって……」
「甘い物が好きなのか?」
「う、うん……」
バッサリと斬られる会話が、緑茶が入った僕の胃に響く。
だけど、僕の答えに満足してくれたのか、彼はようやく何かを達成したような顔つきになって一息つき、
「分かった、ありがとな」
「えっ、あっ! 何処に行くの!?」
もう用はないと言わんばかりに、くるっとターンして出口の方へ急ぐ彼の背中を呼びとめる。
「トレーニング」
「あ、じゃあ僕も着替えるから一緒に」
「悪い」
急いで着替えようとした僕にギロリ、と首だけ向けて、あのブリュンヒルデ譲りな刃の眼光で僕を射抜いて、
「俺は、急いでるんだ、シャルル」
「う……うん……引きとめてごめんね、一夏……」
バタンと、乱暴に扉が閉められ、速足で足音が遠ざかっていく様子を、僕は中腰のまま見送るしかなくて……完全に聞こえなくなってから、ベッドへと身体を投げ出した。
「あ、あんな露骨に拒絶しなくっても……」
思わず滲みかけた涙を、寝巻にしているジャージの裾で拭う。
「織斑……一夏……なんで?」
分からない、なんで僕がこんなに彼から嫌われるのか――いや、そもそも嫌われているなら何でモーニングティーを淹れてくれたり、僕の好みとかを聞いて来るのか――やっぱり、分からない。
僕が二人目の男性操縦者だから?
自分だけの特権だと思ってたから?
女の子だらけのハーレムを壊されたから?
でも、転校してからたった二日なのにもう一人、イギリスの代表候補生さんからまで並々ならぬ殺気を放たれているのは、やっぱり性別とか立場とかより僕自身に問題があるとしか思えなくて――
「……お母さん」
弱気な呟きが、朝日と一緒に溶けていく。
ああ、お母さん。天国にいるお母さん。
さっそく二人の人に目の敵にされてしまった僕は、果たしてこのIS学園で上手くやっていけるのでしょうか……?
第22話「IS学園に転校してきたけれど、僕はもう限界かもしれない」
「はぁ……」
食堂の適当な一席に腰を下ろしながら、シャルルは憂鬱気に溜め息をついた。
朝食を食べないのは健康に悪いので、フレンチトーストと紅茶のセットを頼んで持って来たのはいいが、どうにも胃が締め付けられたような気分が晴れず、食欲が湧かない。
当然ではあったが、自分に向けられる好奇の視線や噂話、黄色い嬌声は今朝どころか、この学校に来てから一向に止まず、ルームサービスって無いのかなぁ……と、顎に手をやってシャルルは真剣に考え込む。
そんな仕草すら、『フランスの代表候補生』『第二のIS男性操縦者』『悩める貴公子』というフィルター越しに彼を見る彼女達にとっては非凡に映ってしまうのか、ヒソヒソ声のボリュームが一様にアップする。
(これは……思ってたよりも、辛い)
二人目の自分ですらごらんの有様なのだ。きっと、一人目だった一夏の時は、居る場所全てがライブ会場もかくやというお祭り騒ぎだったのだろう。
そう考えると、今までの彼の行動は、溜まりに溜まったストレスが自分に矛先を向けているだけじゃないのかという希望的観測が生まれ、同情と共に少しだけ食欲が戻って来る。
(うん……そうだよ。きっと、彼も少し虫の居所が悪かったんだ)
鬱々と考え込む前に、とりあえず食事だけは済ませようとシャルルは顔を上げ、
「よぅ、朝から不景気な顔してるねぇ」
いつの間にか、目の前で真っ赤なリンゴを丸ごとかじる、真っ赤な髪をした少女が前の席で足を組んでいることに気付いた。
「うわぁ!?」
「あー、朴月ちゃんズルいよー!」
「抜け駆けはダメだよー?」
「なっはっは、悪りぃ悪りぃ」
と、口では彼女の先行を非難しつつも、口元は須らく先陣を切った功績を「よくやった」と称え緩んだ一年一組の女子達が、一瞬でシャルルの周りを包囲していく。
「わぁ、シャルルくんも小食なんだね」
「織斑くんは朝けっこうガッツリ食べるから、わたし男の子ってみんなそうなんだと思ってたよー」
「ま、そっちの方が健康にはイイらしいけどな。もう食ったけど、オレも朝はしっかり食う派だし」
「なるほど……だからそんなに胸が成長」
「胸は関係ねぇ! つかコラッ、触ろうとすんな油断も隙もねぇ!」
わいのわいの朝から女性の胸について騒ぐ一年一組特有のノリについて行けず、戸惑いっぱなしなシャルルに、不届き者の胸を押し払ってから、リンゴをテーブルに置いて手を拭いてから、姫燐がスッと手を差し出した。
「えっ……」
「オレ、朴月姫燐ってんだ。同じクラスだけど、こうしてマトモに挨拶したことなかったろ?」
「あっ……うっ、うん! よっ、よろしくね、朴月さん」
おずおずとシャルルはテーブル越しに伸ばされた彼女の手を握り返し、
「……よかった、画鋲とか仕込んでなかった」
「へっ?」
「う、ううん! なんでもないよ!」
ようやく普通のコミュニケーションにあり付けたことにグランドフィナーレな感動を覚えながら、サライと共にゴールしかけた精神を再び走らせてシャルルは姫燐の顔を改めて見返す。
男の子のような喋り方や服装と反する、モデルでもやっていけそうなプロポーションを誇るボディに、屈託のない爽やかな笑顔。クラスのリーダー的立ち位置に居る少女なのだろうか、周りに居るクラスメイト達とも良好な関係を築いているように見える。
そして初対面で男である自分にも、臆面も気兼ねも無く話しかけてくれる自信に満ち溢れた姐御肌な性格は、独り不安に震えていたシャルルの心へ暖かい春風のように吹きぬけていく。
(素敵な人だなぁ……)
今までが関わった人間が人間なのもあったが、それでも風を肩で切るような威風堂々とした朴月姫燐というこの女性の出で立ちは、シャルルにはとても格好よく見え、思わず見惚れてしまい、
「わーぉ、さっそくオトしにかかってるねぇ朴月ちゃん」
「流石、1か月で著名人を二人も撃墜したスコアは伊達じゃない」
「おいコラ野暮な話は、ん……著名人を二人……?」
でも、同時にかなり天然モノなタラシさんだとシャルルは判断した。
言われている本人に全く心当たりがない辺りが、特に。
(あれ……著名人を……二人?)
と、ここでちょうど自分に露骨な敵意を向ける二人も、世界的に著名な人物であることにシャルルは奇妙な符合を覚えかけたが、
「でさ、さっそくだけどシャルルに聴きたいことがあるんだ」
「えっ、聴きたい事?」
姫燐からの質問に答える為にシャルルの頭が切り替わったため、うやむやのまま忘れてしまう。
「昨日の模擬戦で使ってたシャルルのISってさ、第三世代じゃないんだな。ありゃ見た所、お宅のデュノア社が作った第二世代『ラファール・リヴァイブ』のカスタム機と見たが」
「うん、そうだよ」
ここへ来るまでに叩き込まれた自らのISのスペックを、一度目を閉じて脳裏にフィールドバック。
そして、眼を開くと同時にシャルルは自らの愛機について語り始めた。
「確かに僕のIS『ラファール・リヴァイブ・カスタムⅡ』、形式番号『RR―08/s2』は、我が社が開発した傑作機『ラファール・リヴァイブ』のカスタム機だよ。元々最大の特徴であった武装搭載量を、プリセットをいくつかオミットすることで更に増加、拡張領域を倍近くまで増やすことに成功したんだ。機動力では特化した機体や第三世代には劣るけど、先述した豊富な武装と兵装の全てを実弾武器にすることで継戦能力と状況対応能力にかけてはどの国の機体にも劣らない。装甲は特殊軽量化した衝撃吸収性サード・グリッド装甲を使用、さらに大出力マルチウィングスラスターと2基の小型推進翼で、鈍重さをいくらか誤魔化してはいるんだけどね。でも、やっぱり昨日みたいな弾幕を張って来る相手の攻撃を全てかわしきるだけの速度は得られなかったから、代わりに…………」
ここまで喋り倒してからシャルルはようやく、自分がどれだけマシンガンのように喋り倒していたのか、そしてあれだけ騒がしかった外野の視線が点になって無言と化していることに気付き、
「ごっ、ごめん! こんなの、いきなり訳が分からないよねっ! ぼ、僕ったらつい、熱くなっちゃって」
「い……いや、大丈夫だ、問題ない」
「本当にごめん! も、もっと普通の話もできるんだけどねっ? あっ、ほ、朴月さん達の質問が普通じゃないって訳じゃなくて」
「あー、いや、落ち着けって。素直に感心してただけさ、みんなも」
「へっ?」
しどろもどろになりながら、自身のKYっぷりに謝罪を繰り返していたシャルに、素直な敬意を込めて褒め、姫燐が周囲に確認する。
「いや、前例のバカが専用機のせすら知らないレベルで、超酷かったからなぁ……」
同意するように、うんうんと首を縦に振る一同。
言うまでも無く、織斑一夏のことである。
「そ、そこまで……?」
「ああ、オマケにこの前までIS学園最強な生徒会長の存在すら知らなかったレベルでサッパリだったな。オレ達だからある程度ついていけてるけど、アイツに今の話したら多分今ごろ頭ショートさせて顔面脂汗だらけだろうな」
やはりうんうんと一様に同意する外野に、そこまでボロクソに言われるもう一人の男子の扱いに一筋の汗がシャルルから流れ落ちた。
「それに比べて、シャルルがあんまりにもISに詳しかったからさ。今まで本気で学んで来たオレ達でも舌巻くレベルだ。フランスの代表候補生だとか、デュノア社の御曹司だからってだけじゃなくて、普通にすげぇよシャルルはさ」
「そ、そうかな……えへへっ」
他人に褒められたのなんて本当に久しぶりで、思わずシャルルの頬も朱に染まり、今まで緊張に縛られていた表情も自然とほぐれて――
「ぐふっ!」
姫燐のハートに、特に理由もないキュン死が襲いかかった。
「ああっ、朴月ちゃんがやられた!」
「この人でなしッ!」
「えっ、僕人でなしっ!!?」
「ああ……大丈夫だ……大丈夫……」
断末魔と共に机に倒れ込んだ姫燐だったが、すぐさまプルプルと鼻を押さえながら身体をゆっくりと起こし復活する。
「ふぅ……次はもうちょっと破壊力が低い質問をしようか……オレの命が萌え尽きる前に……」
「う、うん」
さっきの質問のどこに命を燃やす要素があったのか分からないが、気にしてはいけないことだと空気を読んだシャルルに、姫燐から次の質問が浴びせられる。
「じゃあさ、シャルルのご両親って、どんな人なんだ?」
「えっ……」
冷たく、自分の首を締め付ける、鎖のことについて。
「いやー、いずれはさ、やっぱり挨拶に行くかもしんねぇじゃん? あ、深い意味は無いんだが、やっぱり大企業のセレブな方々ってどんな人なのか気になるし、だから……シャルル?」
「う……うん……ご、めん、ね……」
「お、おい、大丈夫か?」
急に血の気が引いた表情になったシャルルに、姫燐が何事かと腰を浮かせる。
だが、それを手を突き出して制し、シャルルは悲しげに、一言だけ、
「もう、居ないんだ」
「あっ……」
「母さんは、2年前に病気で亡くなって……」
「す、すまんっ! 無神経なこと聴いちまった!」
またこのパターンかよっ!? と、一人目の男子と全く同じ地雷を踏み抜いてしまった迂闊さに頭を抱える姫燐に、シャルルは冷めた紅茶の入ったティーカップを手に――そこへ熱を帯びた心を落としこむように、一呼吸だけ置いてから、微笑みかける。
「ううん、気にしてないよ。それに朴月さんに悼んでもらえて、きっと母も喜んでると思うから」
「シャルル……」
熟れ過ぎている。
どういう環境で育って来たのかは知らないが、顔に出るほどの深い悲しみを、一瞬で心の内側へ飲み込めてしまうシャルルの振る舞い。それが姫燐には、人として歪な動きだろうと仕組まれた糸のままにこなすマリオネットのように思えて……心の面舵が、下心から、お節介に切り替わった。
「なぁ、本音。今日は昼までだったよな、授業」
「……うん、そうだよー?」
「うっし」
お菓子を三時に食べれるねー♪ とのほほんとしたコメントを残す幼馴染を放置して姫燐は立ち上がると、座ったまま疑問符を頭に浮かべるシャルルの隣に立ち、
「そーう暗い顔すんなって、な!?」
「わぶっ!?」
その背中を、平手で思いっきり叩いた。
シャルルが手にしていた紅茶の中身が、テーブルに少し零れる。
「い、痛いよ朴月さんっ!」
「なははっ、悪い悪い」
むくれるシャルに、姫燐はニッと満面の笑みを浮かべながら、
「じゃ、お詫びに今日の放課後、この学校を案内するよ。構わねぇか?」
「えっ……? あ、そんな悪いよっ」
「気にすんな。言ったろ、詫びだって」
くるっと振り向いて、クラスメイト達にもするまでもない一応の確認を声高にとる。
「お前らも、言うまでも無く気にしないよな?」
「とーぜん! ナイス朴月ちゃん!」
「ここで引いたら女がすたるよ!」
「でもっ……」
ノリと勢いの結晶体であるクラスメイト達に、まだ何か言いたげに言葉を濁すシャルルの頬が、つり上げられた。
「……ふぁい?」
それが自身の交感神経がもたらした笑顔では無いことに、とつぜん頬にあてがわれた少女の指が作った笑顔だということに、あまりにも突然だった事態に、シャルルは何も言えず見つめ返す。
まっすぐに、自分だけを見つめてくれる、黄金の眼差しを。
「笑おうぜ、シャルル」
パッと指を離してシャルルに合わせていた腰を上げ、姫燐は少しだけ考え込むように間を空けてから、
「オレは笑ってるシャルルの方が好きだし、それに……」
小恥ずかしい気持ちを誤魔化すように、指を離して頭を掻きながら、姫燐は手探りに言葉に変えていく。久しぶりに会った姉の姿を見て想った、この気持ちを。
「あんま上手く言えないんだけど、オレも最近、久しぶりに姉さんと会ってさ……その人、すッげぇ性格もタチも悪いけど……それでも、やっぱり嬉しいモンなんだよ。どれだけ遠く離れてても、家族が元気に笑って暮らせてるってのは、さ」
まぁ本人には、死んでも言うつもりはないけどな。と、苦笑いしながら、照れ隠しに背中を向けて――だから、彼女にも笑って欲しいと姫燐は願うのだ。
「きっと二度と会えないくらいに離れちまっても、そいつは絶対に変わらないって思うから……な?」
「……そう、だね」
信じられない事は、この世界に多すぎる。
母を亡くした自分が引き取られたデュノア社という鳥籠は、シャルルから、生活と引き換えに年頃の若者が持つ『青さ』を奪った。身も心も、会社を、経済を、世界を動かす、灰色の公式で塗り潰していった。
宝石のように輝きを放っていた綺麗な言葉すら、今のシャルルにはもう、全て自分を陥れるための甘言にしか聞こえない。
シャルルが無心に信頼できる人間は、子を置き去りに独り逝った。だから、いくら人懐っこく裏表を感じられない彼女であろうと、その好意を真正面から受け止めることは――薄情だと思いつつも、出来ない。
それでも、そんなシャルルにも、信じたい事はあった。
――母さん。
貴方は私を、今でも見ていてくれていますか?
天国でも、あの時と変わらず、私だけを見ていてくれていますか?
心でそう尋ねても、母は何も返してくれないが、代わりに自分の心は答えてくれる。
――笑って欲しい。母さんに、笑顔でいて欲しい。
ふと、頭にこびり付いた灰色のロジックが嘲笑う。
感傷は弱さだ。天国など有りはしない。死んだ人間は、何も見ない。
でも、信じたい。塗り潰された灰色の下で、懐かしい青色がささやきかける。
誰のためでも無い、自分が喜ぶから、母さんに笑って欲しいんだ。
「うん……分かったよ、私」
シャルルは、呟きを呑みこむように紅茶の中身を一気に飲み干して立ち上がる。
そして、背中を向ける姫燐の肩を二回、軽く指で叩き、
「ん、なんだシャ」
「えいっ♪」
振り向いた姫燐の柔らかなほっぺを両手で掴み、左右に引き伸ばした。
それはもう、ご無体に、もちもちと。
「にゅ……にゅ……?」
「ルル」と言おうとして言えない姫燐も、クラスメイト達も凍りつく中でたった一人、悪戯に引っかかったことを喜ぶ子供のような無邪気さで、
「仕返しだよっ、朴月さん」
シャルルは、花咲くような笑みを浮かべていた。
「僕が言う事じゃないと思うけど、異性の頬には気軽に触れないほうが良いよ? 勘違い、されちゃうかもしれないしね」
茫然とする彼女の柔らかい頬から手を離して、その隣を悠々とシャルルが通り抜けてから数秒。ハッと我に返った姫燐が、真っ赤になって猛抗議を飛ばす。
「か……勘違いって……ちがっ!? お、オレは、そんなつもりじゃなくて、ただお前が暗い顔してっから!」
「だったら、その無防備っぷりを直したら? 知らないよ、いつか押し倒されちゃっても」
「お、おしぃっ!!?」
「あははっ、冗談だよ。じゃあ、また放課後にねっ」
あ、ダメだこれ楽しい。
さっそく背後で「その発想は無かった!」、「意外っ、それはほっぺたッ!」、「目の付けどころがデュノアでしょ!?」と、クラスメイトにリンゴ色の両頬を狙われ悲鳴を上げる天然ジゴロ娘の災難に、少しやりすぎたかなと思いつつも、今度は自然な笑顔が出来上がる。
自分の明日は、未だ一寸先すら分からない。けれど、下は向かない。
代わりにきっと母が居ると信じる、上を、空を、天をシャルルは仰いだ。
――うん、大丈夫だよ、母さん。
私はまだ、やっていけるよ。
だから、心配しないで笑っていてね?
後ろで短く束ねた金髪を、機嫌よく揺らしながら去っていく背中を追い掛け、別テーブルで朝食を取っていた鈴は、呆れたようにテーブルに肘を突きながら他の二人へと同意を求めた。
「誘うなら二人っきりにすりゃいいのに……なんだかんだ言って、超が付くほどのお人好しなのよねぇ、姫燐の奴って」
「うむ、掛け値なしに良い奴だ」
「…………」
いつもの和食に舌包みを打ちながら、友人の善良な性根を心から誇る箒とは対照的に、彼女と同じ和食を頼みながらも一切箸をつけず、身体中から不機嫌のオーラを発しながら、
「ごちそうさまでしたッ」
「あっ、おい一夏?」
一夏は手を合わせて、箒を一瞥もせず、席を立ち速足で食堂を後にした。
当然が崩れるのは、誰にとっても恐るる事である。
それは今までどんなに自分が邪険に扱っても笑いながら相手をしてくれた幼馴染に、初めて無視されてしまった箒にとっても同じことであった。
「わ……私、わたしは……なにかっ、一夏に嫌われっ」
「あーもう、安心なさい。原因は絶対にアンタじゃないから」
鈴の慰めに思わず零れかけた涙を引っ込ませ――いや、引っ込む方が問題な気もするが――箒は、では一体どう言う事なのろうと腑に落ちず、腕を組む。
「では、なぜ一夏の奴はあんなに不機嫌なのだ?」
「分かんない? アンタのお家芸よ」
「………………?」
心底分かりません。
キョトンとするボンクラーズの片割れに、鈴は落胆を長―い溜め息に込めて吐き出した。
ストライダー飛竜の新作? HAHAHA、そんな餌に釣られ……え? 釣りじゃない?
心底ドマイナーだと思ってた元ネタその2のまさかの新作と、気温の急激な変化に震えが止まりません。