IS~インフィニット・ストラトス~ ―I AM…ALL OF ME…―   作:ヱ子駈 ヒウ

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第20話「Lazy Mind ~これまでと、これからと~」

 私の幼馴染が、こんなに逞しくなったのは何時からだろうか。

 ジャージを着こみ、私の隣で日課の朝一ランニングを共にこなす一夏の横顔を僅かに覗く。

 この前までは、私が叩き起こさねばベッドから出ようともしなかったのに、ここ最近は言われるまでもなく起きる所か、私が目覚めるよりも早く、全ての準備を整えていることすらある。

 姫燐に頼まれてアイツとトレーニングを始めた頃は、私の後ろ情けなく息を切らせ、歩くのとそう変わらないスピードでついて来て来るのがやっとだったはずなのに。

 今では、一夏は私のペースについて来れるまでに成長していた。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 白いジャージを着こんで、短く切り揃えた黒髪から汗の粒を飛ばしながらも、真っ直ぐに前を見て走る凛々しい幼馴染。

 まだ少し無理をしているのか少々息は荒いが、それでも成長期の男の肉体なら、あと一ヶ月もしない内に並ばれてしまうかもしれない。

 その成長を心から嬉しく思いつつも、同時に、

 

「ラストスパートだ、少し飛ばすぞ!」

「なっ、こなくそっ!」

 

 負けてられないという心地よい対抗心が湧いて、私は少しだけペースを速めた。

 一夏もそれに合わせて足を速め、気が付けば互いに全力疾走でゴールである女子寮の入口を目指していた。

 確かに体力は付いてきているが、少し前まで帰宅部だった奴に負けるような、柔な鍛え方はしていない。流れで始まった勝負は、余力の差がハッキリと出る結果に終わった。

 

「はぁ……はぁ……あーっ、くっそ!」

 

 息を切らしながら、私よりも少し遅れて玄関に到着した一夏が、もつれ込むようにコンクリートの床に寝転がる。

 

「ふっ、まだまだ弛んでるぞ、一夏」

「くっそー……ようやく箒に並べるくらいに体力ついたと思ってたんだがなぁ……」

 

 とはいえ、こちらも本気で走らされたという点では、目覚ましいほどの成長だ。

 玄関の影に置いていた二人分のタオルとスポーツドリンクを、一夏にも渡す。

 

「ふん、この程度で慢心するな。私に追いつくには程遠いぞ、ほれ」

「猛省しますっと、サンキュー箒」

 

 もう息が整ってきているのか、軽々と身体を起こし、受け取ったタオルで汗を拭き、ペットボトルに口を付ける。

 私が昨日床に付く前にこっそり自作したスポーツドリンクが、一夏の濡れた唇から喉を通り過ぎて行き、失った水分の代わりに一夏と一つになって――

 

「ぷはぁ。やっぱり美味いなー、運動した後の水分補給は」

「っ! そうか、そうだなっ!」

 

 よ、よし好感触だ。明日からも、この配合で大丈夫だろう。もう少し多い目に作って、学食の時にも飲んでもらうのも良いかもしれない。い、いっそドリンクを作ってることを打ち明けて、毎晩遅くまで一夏と一緒に語らって、これからも毎日ずっとお前のドリンクを作ってあげると――

 

「って、できるかぁ!?」

「おわっ!?」

 

 はっ、しまった。

 つい、タオルを床に叩きつけてしまった。

 

「あっ、な、なんでもない、なんでもないぞ一夏!?」

「お、おぅ」

 

 じゃ、若干引かれてしまっただろうか。

 きょとんとする一夏を余所に、誤魔化しの言葉が矢次に流れ出てしまう。

 

「そ、そんなことより、最近のお前は見違えるように逞しくなったな!」

「えっ、そうかな」

「ああ、感心感心! な、なにか心境の変化でもあったか?」

「心境の……変化、か」

 

 また、一夏の表情が引き締まった。

 そう、この顔だ。昔、私をいじめる男子から護ってくれた時と同じ顔。私が――その、大好きな一夏の表情を、襲撃者が襲って来たあの日から一夏はよくするようになった。

 

「ああ、そうだな。俺はもっと、もっと強くならないといけない。もう立ち止まってなんか、居られないからな」

 

 一夏は自分の掌を眺めて、握り締める。

 その仕草からは、一夏が抱いた決意の固くなさが見て取れるようで――少し、彼が遠くに感じてしまう。

 その向こう側に、私の姿があるのかどうか、分からなくて。

 

「さ、部屋に戻ろうぜ。シャワー早く浴びないと、食堂が混んじまう」

「……そう、だな。戻るとしようか」

 

 私は一夏に手を差し伸ばす。

 昔より随分と大きくなったまだ熱っぽい手は、しっかりと私の手を握り返す。

 

「……ん? どうした、箒」

 

 一夏が私を見上げる。

 視線は確かに私に向けられているはずなのに、彼の少しだけ大人っぽくなった真っ直ぐな眼差しは、私を超えた更にその奥を覗いている気がして、胸の奥に痛みが走り――

 

「いや、なんでもない、一夏」

 

 彼の名前を呼んで、私はその気持ちを誤魔化した。

 一夏を引き起こして、私達は寮へ入り、自室へと肩を並べて歩く。

 

「あ、おはよー織斑くん、篠ノ之さん。今日も早いね―」

「うぅん……まだ眠いよぉ……」

「ほら、シャンとしなさいって」

 

 既に身支度を整え終え、食堂へ向かうのだろうクラスメイト達と軽い会釈を交わしながら、一夏が感慨深そうに呟いた。

 

「んー、何かすっかり早起きが習慣になったな。昔ならまだ布団の中だったぞ、この時間」

「早起きは三文の得だ。それに、私からしてみれば何故そんなに眠れるのか分からん。人間三時間も寝れば充分だろうに」

「いや、それは箒やナポレオンみたいな特殊な人間だけだと……」

「一夏?」

 

 一夏の足が不意に止まり、私も彼の横顔から、正面へと視線を向ける。

 のっそりと、自分の部屋から出てきた影と、視線が合う。

 一本だけアンテナが立った短い赤髪。私から見ても充分に女性らしさに溢れた身体。右腕にはギプスをはめて釣り下げて、今日はいつものズボンではなく何故か私と同じ標準デザインであるスカートの制服を纏いながら、

 

「おはよう、キリ」

「……おっす」

 

 いつもより何処かしんなりとした、私と一夏の友人が居た。

 

 

第20話「Lazy Mind ~これまでと、これからと~」

 

 

「久しぶりだな姫燐、謹慎は終わったのか?」

「ああ……今日からいつも通りだ。心配かけた」

「そ、そうか」

 

 四日ぶりに会えたと思ったら、どこか素っ気ない返しに、余計に箒の心配が募る。

 あの騒動で一夏達を助けるためとはいえ、第三アリーナの床に勝手に大穴を空けた責を問われ、傷の手当ても含めて反省房へ三日間居ることを命じられたと聞いていた箒には、千冬辺りの説教がよほど堪えてしまったのかと思えた。

 

「……その、大丈夫だったか、色々と」

「まぁな、色々と聞かれたが、とりあえずは帰してくれたよ」

 

 同じ様に一夏も、心配の色を隠さず姫燐に尋ねる。

 箒とは似て非なる、憂いを抱きながら。

 姫燐は鞄を肩に担いで、横から何も付けていない喉を突きながら続けた。

 

「ただ、専用機はしばらく没収だとよ。ま、当然の処置だし、どうせ修理するために親父の所へ送る必要があったから一緒だけどな」

「そうじゃなくて、その、何か、されたりとかしなかったか?」

 

 普段の彼女なら「んだよ、オレが薄暗い地下室でムサい男共にナニカサレタのを期待してんのかい、ムッツリチェリー?」と笑いながら返すようなイントネーションを孕んだ言葉にも、やはりどこか暗い顔をしながら、

 

「別に……状況が状況だったからな。お前を助けたこともあって、そこまでガミガミ言われはしなかったよ」

 

 そう、冷たく返すだけだった。

 

「じゃあ」

「悪い、オレもう行くわ」

「あっ、おい姫燐!」

 

 まだなにかを言おうとしている一夏達の横を、姫燐が速足で通り過ぎる。

 

「いま、あんま誰かとお喋りする気分じゃねーんだ。すまん」

 

 鞄を担いだ指だけをヒラヒラさせながら、振り向きもせずに食堂へと向かう姫燐の、どこか小さく見える背中。二人はそんな弱々しい後ろ姿を見つめながら、互いにアイコンタクトを交わし、

 

「ごめん、今日は俺、少し汗臭いかも」

「気にするな、どうせ私もだ」

 

 ニッと、笑顔で意思疎通しながら駆け足で自室へと向かい、超特急で準備を整え始めた。

 

 

              ○●○

 

 

「……はえぇよ、ったく」

「そうか? 男の支度はそんなにかからないからな」

「女の支度もだ」

 

 じゃあオレは何だ。と言いたげな顔でゲンナリと歩く姫燐の両隣に、IS学園の制服を着込み、鞄を持った一夏と箒がシレっとした顔で並んでいた。

 

「ほらキリ、鞄持つよ」

「……ウザいお節介ならいらねーぞ」

「別にお節介ではない。今日は無性にお腹が空いていたんだ。なぁ、一夏」

「そうだぜ、箒のトレーニングはハードだからな。お腹が無性に空いて、すぐにでも食堂に行きたくなるんだ」

 

 溜め息をつく姫燐から半ば強引に鞄をひったくり、逃げ出すという選択肢を先んじて潰した一夏が、会話を続けようと話題を振っていく。

 

「そういえば、今日はスカートなんだな。やっぱり、前の制服は……」

「ああ、前の制服は血まみれだったし、何でかスタボロになってたからな。こいつはレンタルの奴で……って」

 

 口に出した事で思い出したように、力が抜けていた姫燐の眼に鋭さが宿り、

 

「お前……見てねぇよな?」

「………………」

「ほーぅ、これはぜひ感想を聞いておきたい話題だなぁ一夏? んんっ?」

 

 全力で墓穴を掘る所か発破した男に、二人の若干殺意を孕んだ言葉の集中砲火が浴びせられる。

 主犯は俺じゃないのに。実行犯は別に居るのに。見たくて見た訳じゃないのに。でも、すごく素敵だったです。と、浮かぶ言い訳は全てデッドエンドへの直行便であり、ランニングの時よりも遥かに多量の脂汗を流しながらソッポを向くしか一夏には出来ない。

 このまま箒(死神)の目の前で、命がけの会話の綱渡りを強要されることを覚悟するが、

 

「……ま、いいけどよ」

「え?」

「減るもんじゃねえし、どうせ応急処置のために破いたんだろ。まーた長々と拗ねても仕方ねぇしな」

 

 一方的に打ち切って、また姫燐はボンヤリと前を向いた。

やはり、どうにも調子が狂ってしまう。箒も一夏も同じように、どうしていいか分からないといった複雑な表情を浮かべるしか無かった。

 

「んなことより、腹減ってんだろ? さっさと食券買いに……ん、なんだありゃ?」

 

 食堂についた三人の前に、その一角に発生している人だかりが見えた。わいのわいのと騒ぐ一団は、パッと見ただけでも、一年生だけではなく、間違いなく上級生も複数居ると断言できる大人数だ。

 この時間帯であの規模の人だかりが、食券売り場以外に出来る理由が思い当たらず、三人の足が思わず止まる。

 

「一夏は……ここに居るしな」

「ああ……」

 

 一夏が食堂に居る時は、割と日常茶飯事の光景だが、肝心の客寄せパンダはここに居る。

 ならば、一体なにがあれ程の客を寄せているのかと、三人は人だかりに近付いていくと、

 

「その時、あの黒い不届き者に姫燐さんは言いましたの……『貴様の血は何色だ!』と!」

 

 無性に聞き覚えがある気品に満ちた声が、まったく聞き覚えのない台詞を吐いていた。

 

「あっさりとやられた織斑一夏と丸腰の鈴さんを護りながら、敵のビーム光線を軽々と避け、敵を圧倒していく姫燐さんの美しくもありながら、グルービーな勇姿……はぁぁ、今も片時すら忘れられませんわぁ」

「おい、あっさりやられたのか一夏?」

 

 思わず聞き返す箒と、だいぶ脚色が施された説話と現実との差異に固まったままの当事者たちを置き去りにして、演劇のヒロインが如く大げさな手振り身振りがセットされた彼女の話はまだまだ続く。

 

「ですが、ここから悲劇が二人に襲いかかりますの……姫燐さんに敵わないと悟った侵入者は卑怯にも、お二人の救助に動いていたわたくしを狙い……そして、そしてっ、敵のビームからわたくしを庇って腕を……っ!」

「そうだったのか、姫燐?」

 

 悲劇から眼を覆うように両手を顔に被せる彼女。

どうしてそうなったと無言で片手を顔に被せる姫燐と一夏。

 

「傷つき倒れる姫燐さん……絶体絶命のわたくしたち……敵機がその卑劣な牙でわたくし達を引き裂かんとした、まさにその時! ボロボロになった腕を抱えながらも再び立ち上がった姫燐さんは、侵入者をしかと睨みつけ『私のセシリアに手を出すなッ!』と」

「あ、きりりーにおりむーにほっきー、おはよー」

 

 のほほんとしたその一声に、集まっていた人間全ての視線がクイックターンし、その全てが姫燐達に注がれる。

 

「え……あ……?」

 

 饒舌に語っていた上品な声も、それを囲っていたガヤも、一瞬にして鎮静化し、代わりに不気味までの静寂が食堂を支配して、

 

「き、き、き」

「き……?」

「姫燐さぁぁぁぁぁぁぁん!!!」

 

 セシリアの叫びと共に、わぁぁぁぁぁ、と、大爆音の歓声が食堂に鳴り響いて、人の雪崩が姫燐達を呑みこんだ。

 

「セシリアさんから聞いたわよ、朴月さん! 大立ち回りだったんだってね!?」

「流石、専用機持ちは違うわねぇ!」

「二人の国家を超えた愛がもたらした勝利……確かに私たちが聞いたからね!」

「あ、そっちもだけど、私はセシリアさんと二人っきりで過ごしたっていう、蜜月の夜の方に興味がッ!」

「うんうん、織斑くんと二股っ!? 修羅場っ!? そこんとこ詳しく!」

「織斑くん、彼女を寝取られた感想を一言っ! なにとぞ一言っ!」

「まっ!? それ以前に、織斑一夏と姫燐さんは付き合ってはいませんわ!」

 

 最後以外すべてが眉つばな情報への質問攻めと、大量の女体にぎゅうぎゅう詰めにされ、ただでさえ精神的にも肉体的にも摩耗していた姫燐は、

 

「うぇ、うぇへへっ……おっぱいがーいっぱいだー…………」

「キリぃぃぃぃぃぃぃぃ!!?」

 

 考えるのを止めて、百合の花咲く脳内空間へとメイド・イン・ヘブン(現実逃避)していた。

 結局、この百合ハーレムは、始業時間を告げに来た世界最強が素手でコンクリの壁に穴を空ける轟音をとどろかせるまで続いたという。

 

 

                 ○●○

 

 

「えっ!? じゃあ朴月さんって本当に、セシリアさん所か、織斑くんとも付き合ってなかったの!?」

「だーかーら……最初からずっと言ってるじゃねえか……」

 

放課後になった一年一組の教室。食堂よりは大分マシとはいえ、それでもクラスのほぼ全員に囲まれながら、机に突っ伏し憔悴しきった声で姫燐は、休み時間の度に続けてきた説得がやっと通じたことに安堵する。

一夏や箒、そしてセシリアは放課後になった瞬間、鮮やかな戦術的撤退を決めこみ、必然的に殿を務めることになった姫燐がその全てを相手することになってしまったのだ。

 

「オーレーは、アイツがIS乗りこなせるようちょいとお節介焼いてただけで、AもBもCも何もしてねーよ。神にもブッダにも織斑先生にも誓っていいぜ……」

「う、ううん……いま明かされる衝撃の事実って奴ね」

 

 逆に衝撃となるほど浸透していた事に衝撃を覚えながら、今度は姫燐が聞き返す。

 

「じゃあ、初日に言ってた恋愛に協力してくれーって言うのは?」

「……あー」

 

 そういえば、そんな理由で協力関係を結んでいたことを思い出す。ふと考えてみれば、協力関係を結んで早一ヶ月と少し経つのに、アイツから何かしてもらった覚えが姫燐には一切ない。契約不履行でどこかへ訴えられないだろうか。

 

「うん、まぁ、あいつイケメンだから、知り合いに良いの居たら紹介してくれーって、な」

「あぁー、確かに織斑くんの知り合いならイケメンとか沢山いそうだしね!」

 

 重要かつ肝心(ただし女に限る)な所を端折ったが嘘は言っていない。

ちなみに姫燐はイケメン系より、可愛い系が好きだ。

 

「ていうか、そんなに気になってたなら直で聞きに来ればよかったじゃねぇか……」

「あー、その、確かにそれが一番手っ取り早いんだけど……ねぇ?」

「うん……えっとね……」

 

 急に歯切れが悪くなったクラスメイト達に、姫燐が顔を横に向けて訝しむ。

 

「どした……お姉さん怒らないから言ってみろ」

「いやぁ、その、ねぇ」

「みんなきりりーが、すごく男前すぎて声がかけ辛かったんだよー」

「あっ、こら本音!?」

「…………はぁ?」

 

 男前? 女の自分には余りにも相応しくない単語に、どういうことだと、姫燐の身体が起き上がって、そう自分を称したのほほんとしたクラスメイトの方へ向き直る。

 

「そのねー、きりりーって、最近いっつも男の子みたいな喋り方とか服装してるでしょー?」

「あ、ああ……そうだな」

「それに、すっごく元気いっぱいだから、みんなどうやってお付き合いするべきなのかなーって、ほんの少し気後れしちゃってたんだよねぇー?」

 

 おっとりと同意を求める声に、次々とクラスメイト達が本音を吐露していく。

 

「い、いやぁ、朴月さんが悪い子じゃないのはみんな分かってたんだけどね? 男の子みたいだし、彼氏持ちだと思ってたし、専用機まで持ってるし……」

「その、あのテンションに私達も合わせないといけないのかなーって思ったら、ついつい……」

「う、うん、カッコいいんだけど、織斑くんといっつも一緒に居るから、私たちが居るとお邪魔かな―って思えて」

「一緒じゃない時は、大体ヘッドフォン付けてて、喋りかけ難くて……今まで朴月さんみたいな子とは会ったこと無かったから、なにを話せばいいのかなーと……」

「そうよ、全ては朴月さんがイケメンすぎるのが悪いのよっ!」

 

 それだっ! と、天啓を発した発言者を一様に指刺し同意する級友たちを余所に、日頃から気にしていた問題の、あんまりにあんまりな答えに姫燐は乾いた笑いを喉奥から漏らして沈みこんでいった。

 

「はっ……ハハハ……イケメンって……オレから喋りかける事あっても、本音以外が喋りかけてくれないのって、そんな……そんな理由で……ちくしょう……ちくしょう……」

 

 常に沈みがちだった今日でも間違いなく一番の轟沈っぷりを見せ、机と一体化しそうなほどに再度沈みこんだ姫燐に、クラスメイト達が全力でフォローを入れていく。

 

「そ、そうよ! イケメンなのよ朴月さんは!」

「イケメン過ぎて困る事なんて、何も無いじゃない!」

「オレは……イケメンなんかじゃねぇよ……」

 

 本格的に陰鬱な空気を発しながら、姫燐は弱々しく呟く。

 

「ちょいと高校デビューに張りきってただけさ……あと、一夏の野郎を勝たせることに躍起になってただけで……ヘッドフォン付けてたのも、そっちの方が作戦考えるのに集中できるからだし……ここ最近はずっと落ち込みっぱなしだし……」

 

 ぐすっ、と僅かに鼻をすすりながら、僅かに覗く目尻にうっすら涙を浮かべ、震え上ずった声でボソッと一言だけ、

 

「……けっこう、寂しかったんだぞ……ちくしょぅ……」

 

 ――キュン

 なにか、どこかで、そんなキューピッドのクリティカルヒット音が大量に鳴った――気がした。

 

「か……か……」

「……は?」

「可愛いぃわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ朴月さぁぁぁぁん!!!」

 

 本日、もう何度目か分からない程の大絶叫が一年一組に響き渡った。

 

「はぁぁっ、なにこの可愛い生き物!? 保護よ保護っ! 今すぐ保護観察処分よっ!」

「強くてイケメンで可愛いって反則じゃない!? チートよチート! でもそこがいいッ!」

「なでなでしていい? もふもふしていい? ペロペロしていい?」

「ヘィ! 今晩私達の部屋にお持ち帰りするわよ本音! 朝まで存分に可愛がってあげましょ!」

「あいあいさー♪」

「は……え……えぇっ?」

 

 凄まじい早さで二転三転する事態に完全に取り残され、もう何が何だか分からず混乱する姫燐の背後から、ワキワキと指を稼働させた一人が両手を腋に滑り込ませ、

 

「えーい隙アリっ♪」

「ひゃいぃ!!?」

 

 思いっきりその豊満なバストを揉みしだいた。

 

「おお……前々から思ってたけど、やっぱり凄いボリューム感……こりゃマジ勃起もんよ……」

「あっ、ずるーい! 私が先に狙ってたのにー!」

「ざーんねーんでしたー! 早さは文化よっ、時代に取り残された奴が敗者なのよっ!」

「あ……あぁっ……おま、おまえらぁ……」

「じゃあ私はレアなモッチり生足―♪」

「ふひぃい!?」

 

 真っ赤になってプルプルと小動物のように震えながらも、何分自分から言いだした事のようなモノなので抵抗できず、弄られるがままに甘い声を出すしかない姫燐の姿は、今までのイメージとのギャップも相まって皆の可虐心を更に煽りたてて行き、

 

「ほうほう、朴月ちゃんは胸が弱いのかなぁ……?」

「ちっ、ちがっ、はにぃっ!!?」

「ふっふっふー、身体は正直だよぉ……?」

 

 いつの間にかちゃん付け呼ばわりしながら、全方向から手を伸ばし、その大人びたボディを玩具のように弄り倒していくクラスメイト達。女だからこそ、女体に触れることに一切の抵抗がなく、そのパワハラには容赦の欠片もない。

 

「なっ!? てめらっ、どこまで触ってツィぃ!?」

「んー? ど、こ、だ、か、ちゃんと口で言ってくれないと分かんないよ―朴月ちゃん?」

「ちょ、いくらなんでもやりすぎじゃ……」

 

 良識ある眼鏡をかけた一人が、一応怪我人である姫燐への蛮行を止めようと何か言いたげに手を伸ばすが、

 

「おねがっ、もう、だめっ、誰かひぐっ、た、たすけてぇ……」

 

 襲いかかるセクハラを精一杯堪えながら、普段は大人っぽくてスタイリッシュだというのに、まるで幼子のように助けを求める姫燐の姿を見て、

 

「たまには、やりすぎも良いよね」

「よくねぇーっ!」

 

 眼鏡を外して鼻血を流しながらキリッと言い切った。重傷である。

 

「えーっ? だって私達に構って欲しかったんでしょ朴月ちゃんは?」

「そ、そうだけどぉ……」

「うんうん、ごめんねぇ気付いてあげれなくて。これからは目一杯、可愛がってあげるからねぇ」

 

 総受けキャラとして。と、獣の眼光を瞬かせた狩人に耳元でささやかれ、姫燐のただでさえ削れ気味だったメンタルは更にゴリゴリと削岩機に掛けられたように削れていき、

 

「お、おれヴぁ……う……ウゥウ……うわぁぁぁぁぁ! ばーかばーかばーか!!!」

「あ、逃げたっ!」

 

 半ば幼児退行しながら、クラスメイトもキャラもプライドも全てを振り切って朴月姫燐は攻めしか居ない魔境から逃げ出した。

 

 

                ○●○

 

 

 何故だろうか、気分が落ち込んだ時にここへ来たくなるのは。

 あれから執拗な追手を撒き、さらにセシリアの話で自分に興味を持った上級生にまで追いかけられながらも、何とか姫燐は一人、屋上へと逃れることができた。

 四日前に一夏に醜態を晒した時と同じ、夕焼けに染まった屋上には、まだ少しだけ冷たい五月の風が吹き、姫燐の火照った身体を冷ましていく。

 

「はぁ……はぁ……なんなんだよ……ここ最近は……厄日ってレベルじゃねーぞ……」

 

 少しだけ弱音を吐いたら、クラスメイトが暴徒になって襲って来た。

 何を言ってるのか分からないが、姫燐が一番よく分かってない事実にどうにかなりそうな頭を、新鮮な空気を吸って落ち着かせる。

 もう一生、アイツらに弱味は見せないと心に硬く誓いながら、疲れ切った声で姫燐は悪態をついた。

 

「大体……オレが可愛い訳ないだろ……常識的に考えろよ……」

「あら……わたくしはそうは思いませんけれども?」

「ひっ!?」

 

 無人だと思っていた屋上で突然あびせられた言葉に若干、対人恐怖症を発症しかけている姫燐の口から軽い悲鳴が上がる。

 ツカツカと屋上のコンクリートを叩くヒールに、風にふわりと揺れるロングドレス風の制服。そしてロールされた金色の髪を掻き揚げながら、先客――セシリア・オルコットは西洋人形のような気品に溢れた柔和な表情を姫燐に向ける。

 

「姫燐さんは、とても魅力的な女性だとわたくしは思いますわ。そのスカートも、とてもよくお似合いですし」

「んだよ……セシリアか……」

 

 パワハラ魔共の内の誰かではないのかと懸念していた姫燐にとっては、無関係な彼女は清涼剤のような人間であり――よくよく考えれば、すべての発端であることを思い出して急にむかっ腹が立って来た。

 

「おい、セシリア。なんだありゃ? マジどういうつもりだ?」

「えっ、どういうつもり、とは?」

「ある事ない事、適当に皆に吹き込みやがって! お陰でひでえ目にあったんだぞ!?」

「え゙っ!? そ、それは本当……ですの?」

「マジのマジで大マジだ! ほ、本気で怖かったんだぞ……」

 

 どんな目に会ったのかは口にもしたくなかったが、思いだすだけで震える身体が充分な証拠になっているようで、セシリアも慌てふためいて弁明を始める。

 

「わっ、わたくしは……そのっ、姫燐さんのご活躍を、皆さまにもよく知ってもらいたくて……」

「あーあー、そうかいそういうことかい! 前々から嫌われてるとは思ってたが、いくらなんでもやり方が陰湿すぎるんじゃねーか? ええ?」

 

 半分ぐらいは自業自得でもあるし、少し考えるだけで姫燐を貶めるならもっと良い手段がいくらでもあるのだが、今の余裕が一切ない姫燐には誰でも構わないと思えるほどに、この苛立ちを誤魔化す相手が欲しかったのだ。

それが今、ちょうど目の前に居て、しかも全ての元凶だったのなら、姫燐の自棄で攻撃的な態度もいた仕方ない所は有ると言える。

 

「き、嫌っ……!? そ、そんなあり得ませんわ! 大体わたくしが、姫燐さんのことを嫌いになるだなんて……そんなこと……」

「じゃ、どういうこった?」 

「そ……それは……あぅ!」

 

 言葉に詰まったセシリアの腕を、姫燐は強引に掴み取り、壁に押し付け鼻先が当たりそうなほどに顔を近付け睨みつける。

 

「ここらで、いい加減白黒ハッキリさせようじゃねぇか……なぁ」

「きっ、姫燐さんっ、お顔が、近っ」

 

 セシリアの碧眼を覗き込みながら、吐く息がかかるほどの距離で、姫燐の八つ当たり染みた質問は続く。

 

「ハッ、原因は大方、前のあの騒ぎか。まぁ……無理もねぇか。オレを疑うのも」

「ち、違いますわ! わたくしは姫燐さんのことを信じています!」

「信じる……か。オレからしたら、あれを見てまだオレを信じられる奴の方がバカげてると思うがな」

「そんな、悲しいことを言わないでくださいまし……」

「別に悲観主義じゃねぇ、オレは現実見てるだけだ」

 

 そう、一般生徒には伏せられているとはいえ、姫燐のスパイ容疑は未だ晴れておらず、特に事情を全て把握している教師生徒の中には、姫燐を退学処分にするべしという声が決して少なくないことを彼女は三日間の軟禁と尋問で嫌というほど分かって来たし、本人も当然だと考えていた。

 爆発物かどうか分からぬ物を近くに置いて眠れるほど、人間の胆は据わっていない。

 

「オレだって……覚悟ならしていたさ。クラスの奴らにも、白い目で見られるぐらいは構わねえし、一夏達に迷惑かけるなら、これからは適当に距離でも置いていればいいさって思ってたさ……だけどな……だけどな……」

 

 肩をワナワナと震わせ、まだ胸に残る違和感に身の毛をよだせながら、

 

「クラスメイトからピンク色の目で見られるなんてどうやったら想定できるんだよ……明日からどういう顔して教室行けばいいんだよ……総受けキャラとか何だよ……何なんだよ……」

「そ、それは、その……クラスの皆さまから大変おモテになったと好意的に解釈すれば」

「オレは純愛主義なの! 身体だけの関係とか死んでもゴメンだっつーの! ま、まぁフィクションなら多少特殊でもイケるが……」

 

 なんでオレはセシリアに性癖まで暴露してるんだ。と、口走るごとに気恥かしさでボリュームが下がっていく。

 

「……ほんと、ダッセぇよ……オレ……」

 

 同時にテンションも下がり、頭も大分スッキリしてきたことで、また誰かに八つ当たりしてしまった事実に、ふつふつと罪悪感と嫌悪感が渦巻いていく。

 強く掴んでいたセシリアの腕が、力無く離され、姫燐は彼女に背を向けて夕空を仰ぐ。

 

「ヒヒッ……またなーにやってんだか……サイテー野郎じゃねぇかこれじゃあ……嫌われても仕方ねぇか……」

 

 自嘲するように、姫燐の喉が鳴る。

 自分ですら分からない狂暴で冷徹な自分が居て、それがいつ牙を剥くか分からないから、怖くて、怯えて、誤魔化すために誰これ構わず八つ当たりするような奴なのに、みんなバカで、能天気で、こんな、こんな狂った自分にだって優しすぎて――だから、絶対に傷付けたくないのに、心配させたくないのに、今は平時の自分すら律せない。

 だから、嫌いになる。虚勢すら満足に張れないこんなにも弱い朴月姫燐が、大嫌いになっていく。

 

「スマン、悪かったセシリア。でもさ、頼むからああいうのはこれっきりにしてくれよ……オレはさ、お前が思ってるほど強く……つよ、く……ひ、ひひひっ……」

 

 姫燐の口元がまた歪んで、引きつったような笑い声を出す。

 泣きそうなのに、叫んでしまいそうなのに、今にも弱い自分を全て吐き出してしまいそうなのに、笑って大丈夫だって強がろうとして、でも、上手く出来なくて。

 

「キっ、はは……もう、ダメ、だな……カッコつけも、ヒッぐ、すっかり下手糞だ……」

 

 弱った心は、少し前までの自分すら思い出せないほどにグシャグシャで、背筋も曲がって、下しか見れなくなって、それでも泣いてしまうことだけはしたくなくて。

 

「ゴメン……一人に……してくれ……もう……オレは……おれは、もう……」

 

オレになれないんだ。

そう言ってしまいそうだった姫燐の口が、不意に止まった。

 背中から伝わる熱に鼓動、両肩に乗せられた白くて細く、綺麗な手。

ボロボロの傷口を癒すように柔らかく、凍える身体にマフラーを巻いてあげるように暖かく、真っ直ぐに相手を思いやるように優しく、

 

「………………」

「セシ……リア……?」

 

 セシリアが、姫燐の背中に、そっと寄り添った。

 

「は……ははっ……なんだよ、同情なんか……いらねーぞ……?」

「いいえ、同情なんてしませんわ」

 

 姫燐の憎まれ口を、凛とした声が阻む。

 分かっているから。そんな物は、屈辱にしかならないと。

 かつて、両親が残した遺産を護るため自分の全てを偽って、出来ない事まで出来ると強がり続けていたセシリアには、姫燐が抱える痛みが全て分かっていた。

 そして、これから彼女に、なにを言ってやればいいのかも。

 

「姫燐さんは……とても、素敵な方ですわね」

「どこ、がっ……だよ……こんなんだぞ、オレ……」

「いいえ、だって姫燐さんは誰かを傷付けてしまったことを、後悔できるではありませんか」

「そんなの、誰だって」

「わたくしは、出来ませんでしたわ」

 

 かつて、人を虐げることでしか、弱さを克服できなかった少女が語る。

 

「昔のわたくしは、誰かを見下して、蹴落として、高笑いしなくては、一歩も前に進めないような女でしたもの」

 

 貴族の肩書に縋りついて、相手を見下すことでしか、傷付けることでしか己を保てなかったセシリアには、自身を磨き続けることで自己を確立し続けてきた姫燐の方が、自分よりもよほど気高く高潔な貴族と呼ぶに相応しい存在に思えていた。

 

「それに謝るならわたくしこそですわ……言っても仕方ないことですけれど、わたくしは、ただ姫燐さんのお力になりたくて……」

「オレの……力に?」

「はい……」

 

 申し訳なさそうに、セシリアは姫燐に教える。

デマゴーグの中に隠された、本当の意図を。

 

「噂を、聞きましたの。とても、残酷な噂を」

 

 何か、とは、聞かずとも姫燐も察しがついた。

 噂は隙間風と同じだ。どれほど必死に塞いでも、必ずどこかからすり抜けて、人の心に確証のない仮説を植え付けて行く。

 

「我慢、できませんでしたのっ……貴女は、わたくし達を命を賭して救ってくださったのに……それを、それを『敵と結託した茶番劇』だなんてっ!」

 

 強く握られたセシリアの手がら、狂おしいまでの無念が姫燐にも伝わってくる。

 

「……そう思われても、仕方ねーよアレは」

「ですが、違いますわよね? 姫燐さんは、敵なんかでは」

 

 姫燐だけなら意味を持たなかった言葉が、彼女の真摯な言葉で意味を得て、彼女の口から紡がれた。

 

「……ああ……お前が、正しいよ。オレは、お前達の味方だ。オレはキルスティンなんかじゃ……敵なんかじゃ、絶対にない」

「ええ、当然ですわ。わたくしの姫燐さんが、そんな下衆な輩な訳ありませんもの」

 

 どれだけ本気で訴えても信じて貰えなかった言葉を、『当然』と言い切ってくれることは、疑念に晒され続けてきた姫燐の胸を強く揺さぶり……残念ながら『わたくしの』の部分は気付かずスルーされてしまう。

 

「だからわたくしは今朝、皆に真実をお伝えしましたの。事の当事者が、下らない噂が全て吹っ飛んでしまうような、ありのままを」

 

 そう、噂はしょせん噂なのだ。事の全てを見た当事者の発言と比べれば、誰が発言したのか分からない、どこから出たのかも分からない風の噂など、文字通りの意味で重みが違う。

 目には目を、歯には歯を、そして言葉にはより重い言葉をぶつけることで、目論見通り信憑性のない噂は、セシリアの流した『真実』に吹き飛ばされていった。

 

「ありのまま……?」

「ええ、より話題になるよう、多少脚色はいたしましたが……」

「多少……?」

「まさか、それが姫燐さんを傷付ける結果になってしまうなんて……本当に、なんとお詫びすればいいか……」

「…………ま、別にいいさ……ありがと、セシリア」

 

 背中に当たったセシリアの心臓が、ひと際大きく跳ねた――気がした。

 いくつかの疑問符は取れないが、それでも彼女が自分の事を真剣に心配し、行動に移してくれた事だけは確かで――余計に姫燐は、あの人との約束に背き続ける自分が情けなく思えてくる。

 

「……少しさ、昔のオレの話、聞いて欲しい」

「昔の、姫燐さんの?」

「そう。昔さ……憧れてた人がいるんだ」

「憧れの、人ですか?」

「あぁ……親父によく連れられて行った家の娘さんで……一人っ子なオレにとって……憧れの姉さんみたいな人だった」

 

 そんな人が居るだなんて初耳だったと驚くセシリアの様子を、誰かに言うのは始めてなんだから同然だろうと姫燐は眺める。

 

「もう4年も前かな……昔のオレはすっげぇ弱くて、泣き虫で、いっつもその人に護ってもらってたんだ……」

「姫燐さんが護っていた、のではなく?」

「んだよ、そう言ってるだろ……? なにかある度に、その人に泣きついてたよ。ガキのオレはな」

 

 可憐で苛烈な今の彼女からは、想像も出来ない様な過去があったことに、セシリアは驚愕を隠せない。

 

「向こうもオレを可愛がってくれたけど、1年ぐらいだったかな……? 親父の用事が終わって、その家もガキが一人で行くには遠すぎて、別れないといけなくなっちまって……散々泣いた、ここの家の子になるって」

 

 今でもハッキリと思いだせる。

 慌てて自分の手を引く父。困り顔の向こうの親御さん。そして別れの日にだって、タンポポのように強く優しい笑顔を欠かさずに、指で自身の頬を釣り上げながら姉が教えてくれた――強くなるための秘訣。

 

「そんなオレに言ってくれたんだよ、別れの日にその人がさ『本当にいい女は、みんな素敵に笑うのよ』って、『だから私が居なくても、素敵に笑える女になりなさい』って……でも」

 

 その日から朴月姫燐は、どうすれば素敵になれるかという肝心な所がボカされた姉の言葉の意味を、一心不乱に追い求めた。

 弱いままじゃ笑えないと思ったから、父からISの知識を、母から戦いの知識を学び、身体も鍛えた。

 泣き虫のままじゃ笑えないと思ったから、自分なりのカッコいいを追い求め続けて、振る舞って来た。

 ようやく笑えるようになってきたから、今度は愛されるのではなく、誰かを愛してみたいとも思っていた。

 それでも、やっぱり、心までは強くなれなくて。

 笑顔は、ちょっとしたことで、簡単に曇ってしまって。

 あの後ろ姿を、もう、追いかけれそうになくて。

 

「もう、ダメだよ……ダメなんだよ……オレひっぐ……もう分かんねぇんだよ……もうっ、どうすりゃっ、素敵になんてっ……笑えねぇよぉ……」

 

 曇った顔が必死に漏らすまいとしても零れる小雨は、まるで少女の傷だらけの心から流れる血汐のようだった。

 そんな弱さを露呈する少女の姿を見て、強さにこそ存在意義を見出していたセシリア・オルコットはふと、思い返す。

昔とは比べ物にならないほど、丸くなった自分を。

 愛する人に、抱きしめられる喜びを。

 いつだって、知らない世界を切り開いてくれる彼女の姿を。

 そして――セシリア・オルコットは、今回も彼女に教えられた。

 

「大丈夫ですわ、姫燐さん」

 

 こんなにも、心から抱きしめたいと思える弱さがあるのだと。

 微笑みながら、本心で弱さを肯定できるのだと、またセシリアは教えられたのだ。

 

「わたくしは何度も素敵だって言ってますのに……わたくしの言葉は、そんなに信じられませんか……?」

「だって……だって……」

 

 もっと深く、少し背伸びをして、手を首に回し、耳元に顔を近付けてセシリアは桃色の唇から優しく語りかける。

 

「ふふっ、少しイジワルな事を言ってしまいましたわ。分かっています、姫燐さんはわたくしが信じられないのではなく、自分が許せないだけなんですわよね?」

「……ひぐっ」

 

 僅かに、姫燐の首が縦に振られる。

 

「確かに、完全な形で理想を叶えられる人間なんてごく僅かでしょう……お金があっても、力があっても、ISがあっても、美しい理想は、本当にふとした拍子に現実で歪んでしまいます」

 

 例えば、かつては誇り高き名門貴族だったはずの、オルコットように……。

 

「でも、歪んでしまったのなら、正せばいいだけですわ。生きている限り、明日がある限り……いつだって遅いなんてことは無いんだって」

 

 そう、彼女に教えたのは他ならぬ、この腕に抱かれた――

 

「姫燐さんではありませんか、わたくしにそれを気付かせてくださったのは」

「オレ……が……」

 

 あの日、織斑一夏に敗北した自分を、慰め、教え、抱きしめてくれた時に感じた、あの胸の高鳴りを、一時一秒たりともセシリアは忘れたことがない。

 この高鳴りは、彼女に会う度、触れあう度に、より強く激しく暖かく鼓動を育んでいき、ついには一線を超える愛情へと華を咲かせた。

 正され、愛が生まれた世界は、孤独に震えたセシリアがかつて求め続けた理想の世界そのままで――だからこそ、他ならぬ今の生身を剥き出した貴女にこそ、思い出して欲しい。

 

「だから、今日が辛いなら明日から、明日が苦しいなら明後日からまた……理想を追えるなら、もう一度、笑うことができるなら、抱え込まずに吐き出してもよろしいではありませんか……そして」

 

「またお顔を上げれるその日まで、わたくしは貴女を見護っていますわ……ずっと」

 

 それだけ言って、セシリアはそっと姫燐から離れて、屋上の出口へ向かった。

 意地っ張りな彼女は、きっと一人じゃないと泣きたくても泣けないだろうから。

温もりを惜しみながらも、冷たい扉に手をかけたセシリアの背中を――姫燐が、抱きとめる。

 

「姫燐さん?」

「オレっ、ひっぐ……おれは……えぐっ、おれはぁ……」

「……ええ、今までよく頑張りましたわね、姫燐さん。貴女はたくさんたくさん頑張ったのですから――少しぐらい、バチなんて当たりませんわ」

 

 セシリアがそう言って、ふわりと赤い髪を後ろ手に撫で――姫燐は、泣いた。

 

「うぁぁぁぁぁぁん!! ぜじりあぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!」

 

今まで耐えてきた傷を、嘆きを、痛みを、悲しみを、絶望を、心に溜まったドロドロを全て涙に乗せて、セシリアにぶつけるように泣き喚いた。

 月が出始めた宵闇の下、セシリアはただ微笑んで、そんなありのままの慟哭を愛おしそうに受け止め続けていた。

 

      

              ●○●

 

 

 月光と外灯が照らす寮までの道のりを、セシリアと姫燐は歩いていた。

 時間もあってか他に人影はなく、二人っきりの時間がふんわりと流れて行く。

 セシリアはあいも変わらず微笑みを絶やさず凛然とした足取りで、姫燐は俯きながら、それでも少しだけ憑き物が落ちたような表情でセシリアの後についていく。

 思う存分、背中を借りて泣くだけ泣いて屋上を出てから、彼女は終始言葉を発せず、それはまだ複雑な心境の姫燐にはありがたい事ではあったが……いつまでも甘えるのは、気が引けた。

 前を歩くセシリアの制服の端を少しだけ摘んで、姫燐は呟いた。

 

「……ごめん」

「どうして謝られるのですか? わたくしは貴女に非礼など一切受けた覚えがありませんのに」

 

 身長は姫燐の方が高いのに、彼女の背筋が曲がっていることと、妙に子供っぽい仕草から、傍から見ればしっかり者の姉が泣き虫な妹をあやしているような光景に見える。

 

「……その、ごめん」

「うぅん……」

 

 どうにもやり辛い。今までの自由奔放なイメージが先行しがちだが、性根はこれ以上にないほど純情で誠実な彼女からしてみれば、セシリアに迷惑をかけてしまったと思っていることが非常に尾を引いているのだろう。

 どうしたものかと、セシリアは思考をめぐらせて、

 

「そうですわ! でしたら、こういうのはいかかですこと?」

「……えっ?」

 

 とても良いアイデアを、思いついた。

 

「姫燐さんがご迷惑をかけたと思ってらっしゃるのなら、一つだけ、わたくしのお願いを叶えて貰ってもよろしくて?」

「……わかった。オレに出来ることなら、なんでも」

 

 なんでも。と言った姫燐の言葉に、セシリアの微笑みが意味有り気に更なる深みを増した。

 

「本当に、なんでも、よろしくて?」

「ああ……なんでもいい」

 

 自分の発言の無防備さにまったく気付かぬまま、大口を空けたライオンへとスキップしていくような軽やかさで口を滑らせていく姫燐に、セシリアは足を止めて振り返り、姫燐と向かい合って後ろ手を組んだ。

 

「では、これからはわたくしも、貴女の事を『キリさん』と呼ばせてもらえませんか?」

「へっ?」

 

 そんなことで良いのか? 思わず顔を上げ、素っ頓狂な声を出す姫燐の表情からは、そんな感情がありありと見てとれた。

 

「ええ、それがいいんです。これでようやく、あの男とイーブンですもの」

 

 あの男――つまり一夏と何がイーブンなのか分からず、嫌われてこそいないが、やはりどこかよく分からない奴だという評価に姫燐の中で落ち着いてしまう。

 

「わたくしは正々堂々とあの男に勝利するつもりですし……それに、その……」

 

 セシリアは顔をほんのり赤くしながら、ロールした揉み上げを指で弄って気恥かしそうに白状する。

 

「実はわたくし……その、恥ずかしながら生まれてこの方、誰かをあだ名でお呼びしたことが無くて……憧れ、てたのですわ、お二人のような関係に……ダメ、ですか?」

 

 上目づかいでそう告白するセシリアの姿は、月光と外灯のスポットライトを独り占めにして、煌びやかに輝くお姫さまのように見えて――ずっと暗闇に沈んでいた姫燐の胸を、トクン、と動かした。

 なにやってんだかと、あんな顔をされたのに暗々沈んでいては、彼女の魅力までくすんでしまう。

 だからもう一度、この暗闇から抜け出して、歩き出そう。

 背筋を伸ばして、前を向いて、精一杯の笑顔を手向けに――

 

「まさか、なんでも聞くって言ったろ?」

 

 彼女の居る、眩いまでの光の下へと。

 

「で、では……コホン! こ、これからも、末永くず、ずっと……わたくしと……よろしくお願いいたしますわっ、キリさん!」

「……うん、こちらこそ、こんな奴だが末永くよろしく頼むよ、セシリア」

 

 二輪の微笑みが、月下に咲き誇った。

 

「……じゃ、オレは一足先に寮に帰るわ!」

「あっ……姫燐さん! お待ちになってくださいまし!」

「今日は本当に色々とサンキュな、セシリア!」

 

 ポン、とセシリアの頭に手を置いて、そのまま姫燐は速足で通り過ぎて行く。

 

――やっべぇ、なんだアレ可愛い過ぎんだろっ……!

 

 真っ赤になった顔を、必死に悟られない様に闇夜に隠しながら。

 

「お夕食がまだでしょうし、折角ですから何か作ってご馳走いたしますわ!」

 

 急転直下で真っ青になった顔を、全力で悟られない様に足を速めながら。

 

「い、いや、いい。いらない、マジいらない、これ以上迷惑かけれんから、ホント」

「まぁ! まだお気になさっていますの!? 遠慮なんていりませんわ、わたくしが好きでやっていることですもの!」

「ゴメンナサイ、頼むから気にしてください。オレまだ逝きたくないんです、おいしいおやつと暖かいご飯が待ってるんです」

「お菓子……そうですわ、そういうのもありますわよね! 分かりましたわ、今度作って持って来ますわね!」

「あ……あババ……!」

 

 ダメだ。逃げられない。

 病み上がりのため物理的にも口調的にも、セシリアから逃げられない。

 一週間寝込んだトラウマと、どう話を転がしてもそこからロードローラーにでもかけたかのように踏み抜かれていくセシリアのやる気スイッチが、姫燐を本日最高レベルの絶望へと叩きこんでいく。

 

「はっ、ハはひっ、無理っ、やっぱオレもう笑えなくなるかもひっぐ姉……」

「それはきっとお腹が空いているからですわ! わたくしの料理をお食べになれば、きっと暗い気分なんて一瞬で吹き飛びますとも!」

 

 よく知っている。気分どころか、意識まで一瞬で三途まで吹き飛ばされることを本能にまで叩きこまれたから、姫燐はよく知っている。

 もう今日何度目か分からない追いかけっこに、姫燐は決して自分が一人になれない事を悟って――それが、同時にとても嬉しく思えて――だが、捕まる訳にはいかなかった。絶対に。

 だから、ようやく見えてきた女子寮の入り口に佇んでいた彼女の姿に、姫燐は心の底からの安堵を浮かべて飛び付いた。

 

「箒ィィィ! 助けてくれぇぇぇ!」

「なっ、姫燐!?」

 

 走って来たと思ったら、いきなり飛びついて来た友人を困惑顔のまま箒は受け止める。

 

「お前っ、今まで何処へ」

「オレは、オレはまだ死にたくないんだぁぁぁ……」

「はぁ?」

「あら、箒さん?」

 

 あの姫燐をここまで追い詰めるとは何奴かと注視した先には、よく見知った顔のクラスメイトの姿だけであり、箒の頭に疑問符が浮かび上がり続ける。

 

「な、なにがあったのだオルコット?」

「さ、さぁ……わたくしにもサッパリ」

 

 どの口でほざくか。と、思いながらも、箒に気を取られている隙に逃げ出すべく、抜き足刺し足で部屋へ全力疾走を決めこもうとした姫燐の肩を、

 

「まて、何処へ行くつもりだ姫燐」

「そうですわ、キリさん」

 

 空間認識能力が非常に高い二人がむんずと、掴み止める。

 どう足掻いても逃げられない事を悟ったその時……姫燐の精神内に潜む爆発力が、とんでもない暴挙を産んだ!

 

「お、オーケーじゃあこうしようか! まず、一夏を唸らせる一品を作って見せてくれよ! なっ!」

「織斑一夏を……ですか?」

「そうそう! オレは美味いもんなら大抵何でも好きだからさ、アイツすっげぇ料理が上手いらしいし、アイツが認めたモノなら大抵オレも好きだと思うから……」

 

 我ながら色々とヒドい言い逃れだと思いながらも、セシリアは顎に手を当てて真剣な面持ちで思案し、

 

「そう……ですの……なるほど! 織斑一夏を唸らせればいいのですね!」

「あぁ、そうだ! まずは一夏に喰わせてやってくれるか! これからは、なに作っても!」

「ええ、分かりましたわ! 織斑一夏……やはり貴方はわたくしの前に立ち塞がり続けるのですわね……」

 

 微妙に不満そうな表情を浮かべながらも納得してくれたセシリアを見て、心の中で姫燐は左手で一夏に敬礼する。

 お前は何も悪くない。君のお父上とかも特に悪くは無いが、スマンがオレのために死んでくれ。というか、一回くらい貸し返せ。と、心中で想いを馳せながら。

 

「……なんだ、もうすっかり元通りではないか」

「んぁ? ……ああ、いや、まぁ……そうか?」

「うむ、いつも通りの朴月姫燐だ」

 

 腕を組みながら、呆れたような、それでいて嬉しそうな、手のかかる気紛れな子供を見る様に頬を釣り上げて一安心といった風に笑った。

 

「まったく、私がお前を探している間に、なにか良い事でもあったのか?」

「え、探してたって、オレを?」

「ああ、正確には私以外も、だがな。さ、行くぞ」

「は、どこに? って、おい!」

 

 イマイチ要領が掴めない姫燐の腕を掴んで、引っぱっていこうとする箒の前にセシリアが立ち塞がり、

 

「まっ! キリさんをどちらへ連れて行くおつもりで」

「丁度いい、お前も探していた所だオルコット」

「って、ええ!? あ、ちょ、箒さん!?」

 

二人の手を取って、体格が殆ど同じ様に見える同性二人を軽々と引きずりながら、箒は上機嫌で自分の部屋へ向かっていった。

 

 

            ●○●

 

 

「一夏、しょうゆ」

「はいよ、鈴」

 

 エプロン姿の男女の間で、会話と醤油が行き来する。

 

「鈴、そろそろ」

「ん、ありがと」

 

 部屋に備え付けられたキッチンに並んで向かう二人の間に、今度はスーパーの袋から取り出された砂糖が行き来する。

 トントントン、と、ジュウジュウジュウ。

 包丁がまな板を叩く音と、鍋で牛肉を焼く音だけが二人っきりの部屋に鳴り渡る。

 放課後になってすぐ足りない材料を一夏と箒と共に買いに出かけ、そして帰って来てからは大好きな人と二人きりで料理しているというのに、鈴の気持ちは浮かばない。

 どうしても、今から来る予定の人物のことが頭から離れない。

 

「……ねぇ、一夏」

「んー、なんだよ鈴」

 

 久しぶりの誰かとの料理に嬉しそうな、それでいて一切の妥協を許さない真剣一色な表情で取り組む一夏に、鈴が尋ねる。

 

「アンタはさ、疑って無いの……? アイツのこと」

「………………」

 

 誰か、なんて聞き返すまでもない。

 あの戦場に居た、全員が各々に胸に想い秘めた疑念。

 その答えの一つを、鈴は知りたかった。

 

「鈴は、どうなんだ?」

 

 質問に質問で返す非礼も、鈴は気にしない。

 ただ語りあいたかったからだ。一人の人間に映る二つ目の影をどう思い、これからどう付き合っていくつもりなのかを。

 

「あたしは……ハッキリ言って、アイツのことを信じられない」

「…………」

 

 野菜を斬る手を止めて、一夏は鈴の言葉を静聴する。

 

「ただ単に付き合いが短いからとか、気にいらないとかじゃなくて、普通に考えてありえないでしょ。たとえ専用機持ちだとしても、そんじゃそこらの人間が、あたしたち代表候補生よりも強いだなんて」

 

 鈴も代表候補生になるために、もう一度一夏に会うために、血のにじむような努力をしてきた。

 才能に助けられた部分は多々あったが、才能だけで成れてしまうほど、将来はその国の文字通り全てを背負って立つかもしれない存在という肩書は軽くない。

 学力、戦闘力、そしてIS適正。これらの分野で常に他者と競い合い、蹴落としてきた鈴だからこそ――己の実力は一般人が軽々と超えてしまえるモノでは無いことを誇る事ができる。

だからこそ、あの事実を受け入れることができない。

 

「因果は常に応報よ。経過をすっ飛ばせる都合のいい神様なんてこの世には居ない。積み重ねた過程があるからこそ、結果が生まれるの」

 

 鈴が信じるこの理屈を、朴月姫燐と言う人間に当てはめて見れば、その結果は納得には程遠く、あまりにも歪。

 

「あたしからすれば、あんなデタラメな強さをしてる奴が、数か月前までただの中学生やってましたって言われるよりも、あのヤバい連中の隊長やってましたって方がずっと納得できるし、辻褄が合うわ」

 

 専用機を纏って現れた、二人の侵入者。

 自分のように男のために、スポーツとしてISを極めようとした人間とはまったく違う、任務のために人を傷付け、奪い、殺すためにISを使う人間。

 もし彼女が、本当にそんな奴らのトップに立つ隊長と呼べる立場にあったのだとしたら――代表候補生など、モデルガンを貰っていい気になっている子供とさして変わらなく見えるだろう。

 鈴の力強い言葉を、一夏は否定することが出来なかったし、

 

「……俺も、そう思うよ」

 

 むしろ、強い同意すら覚えていた。

 強くなるということが、一朝一夕で出来るほど容易くないことを、一夏は誰よりも理解している。

 

「なら、話は速いわ。悪いこと言わないから今後、アイツとつるむのは止めなさい。いつか、本気で取り返しのつかない事になりかねないわよ」

 

 嫉妬や、損得や、悪意からではない。純粋な警告として、そんな事を言えば一夏に嫌われるだろうことを理解し、覚悟してまで、鈴は冷たく彼に決別を薦める。

 だが、一夏は再び野菜を刻む手を動かしながら、こう答えた。

 

「嫌だ、俺はキリと一緒にいる」

「どうしてっ!」

 

 物分かりが良いのか悪いのか。先程と言っている事が矛盾している一夏に、鈴が喰いかかる。

 

「アンタ分かってたんじゃないの!? 姫燐は絶対にマトモな奴じゃないって」

「そうだな、キリはマトモじゃないよ」

 

 そんなことは今更言われなくても、彼女と多くの時間を共有してきた一夏が一番よく知っている。

 

「でも、俺はキリに返しきれないほどの貸しがある。それを返すまで、俺はキリの傍を離れない」

「……そのためなら、どんな危険な目にあっても構わないっていうの?」

 

 だとしたら、どれほどお前が向う見ずで無鉄砲で唐変木なのか、徹底的に罵ってやろうかと考えていた鈴の目論見は――綺麗に外れることになる。

 

「んー、それは困るな。だって俺、愛されてるし」

「………………は?」

 

この男から縁だらけだというのに、呪われたように無縁だった『愛される』と言う言葉を、他でも無い本人の口から叩きつけられて、鈴は一瞬、今この瞬間に心臓麻痺あたりで死ぬんじゃないかという、錯覚を本気で覚えた。

 

「えっ、ちょま、愛され? 愛されてるってアン、ああああ、あんた?」

「いや、自分で言うのも少し恥ずかしいんだけどさ……この前、千冬姉に似たような事を言われて」

「千冬さんからッ!!?」

 

 鈴の脳内で、背徳的な回想が急速に組み立てられて行く。

 確かに前々から姉弟にしては異常に仲良かったし、中学時代も千冬さんが居るから部活に所属していなかったようなもんだし、昔学校でグラフのようなモノを作ってた時になにしてるのか聞いたら「千冬姉の日々の飲酒量をグラフにしてんだけど」とか言い切りやがった事もあったけれども、まさかとうとう一線を超えるとは。

 いや、むしろあんだけベタ惚れだったのだから遅かった方なのかもしれない。というか、こんな異性だらけの学校で一夏が未だに男のリピドー関連の問題を起こさないのは、千冬が日頃から管理しているからでそうすれば理解も納得もしたくないけど出来て……。

 

「……鈴?」

「ハッ! ダメよ一夏! そういう事は、せめて幼馴染で我慢しなさいッ!」

「ゴメン、ちょっとなに言ってるか分かんない」

 

 まぁ、いつもの千冬姉を知ってるなら混乱しても仕方ないかと、気にせず一夏は続けた。

 

「いやさ、俺って、俺が思ってた以上に千冬姉から愛されてたみたいでさ。だから、あんまり心配させたくないし、危険な目には出来れば会いたくないかなーって」

「じゃあ、どうするのよ? 間違いなくトラブルしか起きないわよ、アイツの傍は」

 

 それも、分かっている。

 きっと彼女と歩む道の先には、この前の襲撃者が、それ以上の存在が、下手をすれば彼女自身が立ち塞がるのかもしれない。

 だからこそ明確に、これから先なにをすればいいのか、どう生きて行けばいいのかが、既に一夏には見えていた。

 

「強くなる」

「えっ?」

「俺は強くなるよ、鈴。何が襲いかかって来ても危険じゃなくなるぐらい、キリの傍でも笑ってへっちゃらだって言えるくらい強くなってやる」

 

 彼女を護り抜くことを、この腕で抱きとめることを、あの笑顔を曇らせないことを、織斑一夏は夢見たのだから、もう迷わない。見失わない。躊躇わない。

 

「今はまだ、全然だけど……それじゃ、ダメかな?」

 

 そう言って真っ直ぐにこちらを射抜く瞳は、既に鈴が知るあどけない少年の眼ではなく、確かな覚悟を宿した男の眼差しをしていて、

 

「……バカじゃないの?」

「ははっ、最近よく言われるよ」

 

 それを阻める女なんてこの世に居ない事を知り――

 

「……ま、いいんじゃないそれで。アンタはアンタらしいバカさを貫けば」

「ああ、バカは頑張るよ」

 

鈴も、少しだけ自分が大人に近付いた気がした。

 アツアツに焼けた牛肉から立ち上っては、消えて行く煙を見上げながら、ボソッと呟く。

 

「……遅すぎた、かなぁ」

「あぁぁ! 遅いぞ鈴っ! 肉が、折角の良い肉がっ!」

「えっ……あ、ヤバッ!?」

 

 焦げ目が付き過ぎた焼き肉を即刻退避させ、斬り終わった野菜と調味料を加えながら、コゲ肉のコゲを誤魔化す方法を必死に考えている内に、

 

「一夏、二人を連れてきたぞっ!」

 

 同居人が、本日の主賓を連れて帰って来た。

 

「おかえり、箒。それといらっしゃい、キリ、セシリア」

「お、おう、どうも」

「お、お邪魔しますわ」

 

 濡れた手をエプロンで拭きながら、そそくさと三人分のスリッパを取り出し、鞄を受け取って、満面の笑みで二人を室内へと案内する。

 

「もう出来上がるから、ちょっとそこで座っててくれ」

「あ、私も手伝おう、一夏」

 

 そして、リビングに置かれたコンロが乗った丸テーブルへと二人を招待すると、またそそくさとキッチンへと戻っていった。

 

「……主婦かよアイツは」

「まぁ、これは何ですの? キリさん」

 

 言われるがままに既に箸や小皿が人数分揃ったテーブルへと着きながら、堂に入ったオカンっぷりに白い眼をする姫燐と、生まれて初めて見るコンロに興味深々のセシリア。

 

「ああ、コイツはコンロって言ってな。この上に」

「はいはい、熱いよ熱いよっ! どいたどいた!」

「まぁ!」

「おぉ……」

 

 姫燐の説明途中だが実物を見せた方が早いと言わんばかりに、鈴が湯気が立ち上る大きな鍋をコンロの上に乗せ、着火した。

 中には野菜やお肉、しらたきや焼き豆腐が所せましと詰め込まれており、それらをコトコトと煮た際に溢れた濃厚な煮汁から醸し出す香りが、丁度空腹だったセシリアと姫燐の鼻孔をくすぐる。

 

「まぁまぁまぁ! これはなんと言う食べ物ですのっ?」

 

 空腹時には何でもごちそうに見えると言うが、それを差し引いても故郷のイギリスでは存在すらしなかった器具で作られた未知の料理に、セシリアがうっとりと瞳を輝かせた。

 

「ふふん、それこそが料理大国日本が誇る伝統的鍋料理……すき焼きよっ!」

「これが……スキヤキ……」

「ふっふっふ……まだまだ、これで完成じゃないのよ」

 

 不敵な笑みを浮かべながら、鈴は懐から生卵を取り出して、片手で器用にそれを割り、小皿に入れる。

 

「こうやって、生卵を溶かして、っと」

「それで、どうするんですのっ」

 

 割り箸を小皿の中に入れ、箸で容器の底につけて一気にかき混ぜて行く。

 綺麗な溶き卵になった容器の中に、鍋からすくった良い感じに煮だった肉を入れ――ようとした所で、幼児向け工作番組のマスコットのように感嘆しながら見守っていただけだったセシリアが異を唱えた。

 

「お待ちくださいまし! どうして生卵をお肉につけるのです!?」

 

 実は生卵をそのまま料理に使うという文化は、実は日本以外には存在しない概念であり、外国人には非常に奇怪に映るという。セシリアもその例に漏れず、自分の一般常識では考えられない暴挙に目を丸くして戸惑う。

 

「どうしてって、その方が美味しいからに決まってるじゃない」

「なんですって!? そんなことをしたらお肉が汚染されて」

「あーもう! グダグダ言う前に、一回食べてみなさいって!」

「しもごっ!」

 

 ぺちゃくちゃ小うるさいセシリアの口に、鈴の肉を摘んだ箸が突っ込まれる。

 

「むぅーっ!? むっ……むむむ?」

 

 始めは何てモノを口に入れてくれたのだとか、初あーんを姫燐以外の人間に捧げてしまっただとかで憤慨していたセシリアだったが、口に入ったお肉を一噛み、二噛みとしていくうちに、生卵特有の甘みと、煮汁がよく沁み込んだ肉が絡み合ったハーモニーが広がっていき……

 

「すごく……美味しいですわっ!」

「当然よ、アタシと一夏が作ったんだもの」

「鈴さんと……織斑一夏が?」

「あっ、お前らもう食ってんのかよ」

 

 噂をすれば影と、一夏と箒も人数分の湯のみと、お茶が入ったペットボトルを手にリビングにやって来る。

 

「む、不作法だぞ。鈴、オルコット」

「あはは、ゴメンゴメン。セシリアがあんまりにも目を輝かせてたからつい」

「わ、わたくしは淑女ですわよ。そ、そんな、未知の料理一つで子供のように」

「ちなみに、生卵をつけないでっていうのも、これがまた美味しくて」

「本当ですのっ!?」

 

 ちょろい。皆の脳内でそんな単語が浮かび上がった。

 

「ま、箒もそうやっかむなよ。少しくらいなら良いだろ?」

「む……だが、今日は姫燐のための」

「分かってるよ」

 

 お茶を湯呑に注いで、一夏はさっきから黙りっぱなしな姫燐の前に置き、自分も隣に座った。

 

「はい、キリ」

「……なんでまた、すき焼き?」

 

 いきなり連れて来られたと思ったら、唐突に始まったすき焼きパーティについて姫燐が尋ねる。

 

「このまえ賭けたじゃないか、お前に負けたら飯おごるって」

「あ……あー、そういえばしてたな、そんな賭け」

 

 白式を一夏が初めて起動させた時に行った模擬戦で、確かにそんな賭けをしていたことを姫燐は思い出した。

 賭けを持ちだしたのは他ならぬ彼女なのだが、それから様々なイベントが立て続けに置き過ぎて完璧に失念していたし、何よりも学食で軽くおごってもらうつもりで言った賭けだったため、ここまで本格的に豪勢な物を振る舞われるとは想像もしていなかったのだ。

 

「それに、キリにはずっと世話になりっぱなしだからさ。俺も何かお返しがしたくて」

「そ、そうか……」

 

 その場で思いついた賭けと、自分がしてきたお節介の見返りとしては、余りに分不相応に思えた御馳走に戸惑いを隠せない姫燐を余所に、一夏は右腕が不自由な彼女に代わって小皿にすき焼きの中身を掬い取り、

 

「はい、どうぞ」

「お、おうサンキュ」

 

 お箸と一緒に、姫燐の前に置いてあげた。

 

「さ、みんな揃ったし食べようか」

「さんせーい! アタシもお腹ぺこぺこ」

「では、頂くとしようか」

「では、天にましま」

「いただきまーす!」

「あ、ちょ、貴方達!」

 

 天に祈るという習慣がサッパリなセシリア以外が、いただきますの一声だけ発し一斉に鍋に箸を伸ばし始めた。

 

「へへーん、お肉いただきっ」

「おい、鈴。ちゃんと野菜も食えよー」

「まったくだ。ほら、先に野菜から取ったらどうだ?」

「俺は知ってるからな、箒も大概肉しか食わないの」

「う、うるさいっ! それは昔の話だっ!」

「あ、あらっ? このお箸とやら、どうやって使えば」

「ん、悪いセシリアはスプーンかフォーク用意したほうが……?」

 

 皆が思い思いに鍋を楽しんでいるのに、箸を持ったまま一言も喋らない姫燐の姿が一夏の目に止まった。

 目前に置かれたすき焼きの小皿にお箸を伸ばしてはいるのだが、プルプルと箸先が震え、思う様に白菜を摘めないで悪戦苦闘を繰り返しており、

 

「……もしかして、キリって右利き?」

「っ!?」

 

 突然かけられた言葉に、勢い良くバッと顔を上げる姫燐。

 反応から察するに、図星のようだった。

 

「悪い、気が利かなくて」

「べ、別に、箸使えなくったって食う方法なんざいくらでもあるっての」

「犬食いはダメだぞ、ほら口開けて」

「む……あむっ」

 

 見栄こそ張ったが食べづらかったのは確かなので、ここは素直に彼の好意に甘えることにし、少しだけ躊躇いがちに姫燐は口を開き、一夏が小皿から取って来てくれた白菜を食べさせてもらう。

 小皿に取り分けられたおかげで丁度いい温度になった白菜は、硬すぎず柔らかすぎず、それでいて瑞々しく、文句のつけようのない味が噛めば噛むほど口の中を満たして行き、

 

「……美味い」

「そうかっ! じゃあ、肉も食うか?」

「……あぁ」

 

 今度は少しだけ奮発して買ってきた、高めの牛肉を姫燐の口へ運ぶ。

 二度目とあって、今度はすんなり抵抗もなく口を開いて、牛肉を食べさせてもらう姫燐。

 無言で肉を咀嚼していくが、その表情に浮かぶ満たされる者特有の幸福感は、料理人の笑顔を最も飾り付ける最高のスパイスで、

 

「……おぃ、一夏?」

「ん? どうしたほ……ぅ……」

 

 同時に、全開の殺気を宿した鬼の双眸は、別に料理人でなくとも、氷水の泉に叩き落とされたような感覚を背筋に走らせた。

 

「貴様は一体……当然のように何をしている……」

「え、何をって俺はキリに…………あっ」

 

 ここでようやく、自分達が友人達の目の前で、どれほどの行為を見せつけていたのかを一夏は悟った。

 一夏の顔が、羞恥と恐怖で一人紅白まんじゅうのようになる。

 

「あっ、いや、これはその……仕方ないよなっ、鈴っ、セシリアっ!」

 

 自分の無実と正当性を、他の友人二人に訴えようと声をかけるが、

 

「それにしても、すき焼きは美味しいですわねー」

「ソウヨネー、スゴクオイシイワネー」

「でも、もう二度とこの味が食べれなくなるのは少し残念ですわね―」

「ソウヨネー、スゴクザンネンネー」

 

 まな板に乗った魚のような目をしながら、固有結界を形成して二人だけの鍋パーティを楽しんでいた。一夏がどれだけ必死に声をかけてもオールスルーである。

 

「さて、一夏よ……実は最近、私も料理に凝っていてな……お前に一度裁き方を見て貰いたかったのだ……」

「とりあえず、木刀は絶対に料理には使わないから仕舞えッ!」

 

 ゆらりゆらりと、陽炎のように身体を揺らしロッカーから木刀を取り出した箒を止める為には、姫燐本人を味方につけ、共に弁明するしかないと一夏は即断する。

 

「姫燐からも何か言って……く……え?」

「ふぇ?」

 

 その場に居た全員の視線が一身に集まって、肉を呑みこんだばかりな姫燐の喉から変な声が漏れた。

 少し考え事をしていたため話は聞いていなかったが、いったい何で一夏も、箒も、セシリアも、鈴も、みんなオレの方を向いて泡食ったような顔してんだと、姫燐は小首を傾げ――一筋の雫がスカートにこぼれ落ちる。

 

「あれ……?」

 

 一つ落ちた雫は二つに、二つ落ちた雫はもっと多くの涙になって。

 姫燐の目蓋から、ポロポロと流れ落ちていた。

 

「あっ……アンタっ!? アンタがそんな鬼みたいな顔するから……!」

「わ、私のせいなのかっ!? いや、それ以前に姫燐はこの程度で泣くタマでは」

「キリさんは貴方が思ってるよりも、ずっと繊細な方なのですわっ! ここは日本伝統の詫び方であるドゲザとやらで誠意をですね……」

「ごめっ! キリ、なにか変な物でも入ってたか!?」

 

 あまりに突然かつ異常な事態に、先程までの殺伐な空気は一瞬で薄れ、加害者も被害者も、傍観者までもが皆一丸となってオロオロと右往左往する。

 

「いや、ちげぇよっ、おかしいなっ……辛くも、寂しくも、悲しくもないのにっ、涙が、止まんなくて、あれっ?」

 

 なにバカやってんだと袖で目尻を擦っても、次から次へ落涙は一向に収まらない。

 

「オイオイっ、なんでだよ? なんでっ、泣いてんだよオレはっ」

 

 少し考えていただけなのに。

 同性愛者で、嘘つきで、狂っていて、裏切り者かもしれないような奴なんかのために、こんなにも暖かい居場所をくれるコイツ等は、本物のバカだって考えていただけなのに。

 美味しいなって、楽しいなって、嬉しいなって、そんな当たり前の感情が心に滲んだだけなのに。

 それが――すごく大切で、幸せな事に思えただけなのに。

 

「す、すまなかった姫燐っ! いつもの悪い癖が、また出てしまった」

 

 木刀を捨て、箒がワナワナと震える姫燐に駆け寄って屈みこむ。

 

「ははっ、おまえも、それいい加減なおせよっ。そうしねぇと……」

「そ、そうしないと?」

「そうしねぇと……」

 

 にぃ、と頬に流れる涙も払わず、姫燐は頬を釣り上げながら、

 

「オレが頂いちまうぞっ!」

「えっ、わひゃあ!?」

 

 その豊満なバストに飛びこむようにして、箒を押し倒した。

 

「なななっ、何をする姫燐っひゃあ!?」

「うっせぇうっせぇ! こんな殺人的なバストしてるってのに、いつまでもチンタラチンタラ……折角の大火力を活かせよバカっ!」

「い、活かすとはってかっかかか顔を、擦りつけるなっ! コラっ!」

「そそそっ、そうですわ箒さんっ! いつまでキリさんを抱いているおつもりですか!?」

「どうみても姫燐が抱きついているだろうこれはヒっ!? 何処を触っている姫燐!?」

「うぇへっ……うぇへへっ……へへへっ……!」

 

 涙と笑い一緒に渦巻いて、止まらない。

 だがそれは、矛盾に溢れた強がりの仮面なんかではなく、心からの幸せを感受する一人の少女の、素晴らしい笑顔だった。

 

「あーあ……何やってんだか」

 

 ゴロゴロとじゃれ合う三人がテーブルを蹴り飛ばさないように見張りながら、一歩引いた目線で鈴が呟く。

 

「はははっ、でも、ようやくキリらしくなってきたよ」

「ふぅん、あれが姫燐らしいの?」

「ああ、俺が大好きな、いつものキリの笑顔だ」

 

 その一言は、愛する男が何気なく言った、別の女に向けた『大好き』という言葉は――思ったほど、鈴の胸を揺さぶらなかった。例えばそれは、

 

「……確かに、いい顔してるわアイツ。今までみた、どの笑顔よりも」

「だろ?」

 

 強く咲き誇る花を「美しい」と評することに、誰も憤慨を抱かないのと同じように。

 一夏と鈴は、彼女達を見護りながら確かめ合う。

 

「……あたしさ、やっぱり姫燐のことが信用できないってのは変わらないし、変えられないけど……こうも、思ってるのよ」

「うん」

「いつまでもこんな風に、みんなと居られたらいいな……って」

「……ああ、俺もだよ。鈴」

 

 夜はゆっくりと更けていく。

 多くの疑念と、確信と、笑顔を積み重ねながら――また、明日の朝を迎える為に。

 

 

                ●○●

 

 

 まだ焼けつく様な痛みがする胃を抱えながら自室を出た一夏は、すき焼きパーティをした次の日から数えて『一週間ぶり』の外の空気を紫煙のように大きく吸って堪能する。

 ああ、生きてるって素晴らしい。死地から生還した彼を、柔らかな朝日が、小鳥たちのさえずりが、まだ動いている心臓の鼓動が、すべて自分のために壮大なパレードを開いているようにすら思えた。

 箒は自分の看病を終えて、一人トレーニングへと向かっている。いつまでも自分の看病なんかに時間を取らせるのは心苦しかったので、身体が動くようになったからもう大丈夫だと少し強引に送りだしたのだ。

 食堂に向けて、異様に軽い足取りで一夏は歩み始める。

 

「さて、なにを食べようかなっ」

 

 流動食以外なんて久しぶりで、一夏の目頭に思わず熱いモノが込み上げる。

 あまり消化の悪い物はまだ食べれそうにないので、うどんかソバ辺りがベターだろうか。

 まぁ、なんでも構わないか。胃壁がパージするような激痛に苛まれないモノ以外なら何でも、と歌でも一つ歌いたいようなイイ気分で歩く一夏の前に、ひょっこりと扉を空けて部屋から出てきた影と、視線が合う。

 

「んぁ?」

 

 一本だけアンテナが立った短い赤髪。一夏から見ても充分に女性らしさに溢れた身体。右腕にはギプスをはめて釣り下げて、いつものズボンの制服を纏い上着をジャケットのように着込みながら、

 

「おはよう、キリ」

「オッス、一夏!」

 

 織斑一夏の協力者は、前よりも更に素敵になった太陽のような笑みを浮かべた。

 

 

              ●○●

 

 

「ったく、腹痛で倒れたって織斑先生から聞いた時はマジみんな心配してたんだぜ?」

「ははっ、悪い悪い。やっぱり、いつの間にか冷蔵庫にあったクッキーなんて食べるもんじゃないな」

 

 HRが始まる前の一年一組の教室で、一夏は自分が居なかった一週間の話題を傾聴していた。

 

「まー、オレも一週間ぐらい腹痛こじらせた事あるからよく分かるけど、確かにアレはヤバかったなぁ」

「そういえば、キリも一週間ぐらい寝込んでたことあったっけか?」

「ああ、一週間、胃がバラバラに引き裂かれるような痛みがずっと引かなくてな……」

「そうか……一週間も……ん?」

 

 奇妙な符合に何かが繋がりそうな一夏を余所に、姫燐は軽い溜め息を一つ吐き――サッと素早く背後を振り返ると、

 

「そこだぁっ!」

「きゃあぁぁ!?」

 

 すぐ後ろに居た、クラスメイトの乳を思いっきり揉みしだいた。

 

「え……なぁっ!!?」

 

 特に脈略もないセクハラが女子生徒を襲い、一夏の脳内で同級生への性的嫌がらせで退学処分に追い込まれたIS学園の女生徒の新聞記事が一面で出来上がる。

 どのようにして姫燐の無罪を勝ち取るか、即座に閃きアナグラムしようと目を瞑った一夏であったが、

 

「もーっ、織斑くんと喋ってる時なら絶対いけると思ったのにー!」

「はーっはっは、残念無念。普段のオレに、そんなチャチな不意打ちは通用しないぜぇ?」

「くぅぅぅ……次は絶対に揉んでやるんだからねっ、朴月ちゃん!」

「おうっ! オレはいつ何時、誰の挑戦でも常時受付中だ!」

 

 そう捨てゼリフを残してスゴスゴと退散したクラスメイトは、教室の隅に出来た生徒の一団へと戻っていった。

 織斑くんとのお話中も無理だったわね。食事中はどうかしら? いっそトイレに突撃してみる? と、真剣に不味い気がする話し合いを、真剣な顔をしながら決めこむ彼女達の姿を指さし、眼を丸くして一夏は尋ねる。

 

「えっと……その……なに、あれ?」

「ふっ、オレは受けた屈辱は必ず返す主義でね……。なぁに、ちょいと色々あって揉むか揉まれるかの戦いに発展しただけさ」

 

 ニヒルにカッコつけて笑う姫燐に、固まって姫燐へ熱い視線を送るほぼ全てのクラスメイトに、一夏はどうしようもないまでの距離感を感じた。

 

「まったく……またやっているのか、お前らは」

「よくもまあ、諦めませんわねぇクラスの皆さまも」

「あ、おっはよー、箒、セシリア!」

 

 少し遅れて、箒とセシリアが呆れ顔で教室へ入ってくる。

 

「……なぁ、箒。あれ」

「言うな……最近、私まで狙われてるような気がするのだ……あまり考えさせないでくれないか……?」

 

 確かに箒が教室へ入って来た瞬間、一団の視線の一部が箒の――正確には、箒の胸に集中砲火されていたような気がした。

 

「まったく、デリカシーに欠ける方ばかりですわ……こういうのは、ちゃんとムードを作ってから……」

 

 一人だけブツブツと小声で呟くセシリアが何を言っているのかは分からなかったが、もうここは自分が知っているお淑やかな女生徒が通っていた一年一組ではないことを、少年は薄々悟り始めていた。

 

「まぁ、それも恐らくは今日までだろう」

「ええ、そうですわね」

「えっ……? 今日、なにかあるのか?」

 

 疑問符を浮かべた一夏に、箒とセシリアも一瞬だけ彼が何を言っているのか思案して、

 

「箒さん、織斑一夏に伝えて無かったのですか?」

「そういえば、言ってなかったか。今日、フランスの代表候補生がこのクラスに転校してくるそうだ」

「はぁっ!?」

 

 自分の知らない内に改革が進み過ぎている一年一組に、たった一週間でジェネレーションギャップを一夏は感じてしまう。

 

「なんで教えてくれなかったんだよ箒!?」

「いや……教えても、マトモに聞けたか? あの時のお前が」

「……ごめん」

「しかも、それだけではありませんことよ織斑一夏っ!」

 

 自分のことではないのに、妙に誇らしく胸を張りながら、背の高い一夏を精一杯見下すようにセシリアはスマートフォンを懐から取り出し、一夏に突き付けた。

 光る画面には、ちょうど一週間前の日付のニュースが表示されており……

 

「なになに……『フランスで第二の男性適合者発見。急遽、IS学園へ編入決定』……って、えええッ!?」

 

 男性適合者――つまり、男が、自分以外にもこの学園へやって来る。

 もう何度目か分からない驚愕に、まだ全快していない喉が痛みを発し始めていた。

 

「な、なんで、男でIS動かせるのって、俺だけなんじゃ……?」

「おほーっほっほっほ! 古い、古さが爆発しすぎていますわ織斑一夏ッ! 貴方の時代、既に終りが近付いていますことよ!」

「にわかには信じ難い事だが、どうやら本当の事らしい」

 

 信じられない。様々な感情が渦巻くが、ひときわ頭の中にリフレインするのはこの単語だった。

 自分の時だって、ごく平凡な生活が一瞬にしてお祭り騒ぎのように豹変するほどの大事件が、もう一度、それも海を超えた向こう側で発生し、さらに今日、この学園にやってくるというのだ。

 名前は『シャルル・デュノア』。デュノア社という所の御曹司らしいが、非公開にでもしているのか顔写真まではついていなかった。

 あまりにも多くの衝撃を一気に詰め込まれ、クラクラしてきた頭を抱えながら一夏は、行儀悪く机に座る姫燐に小声で尋ねる。

 

「な、なぁ……マジなのか? もう一人、男の操縦者が見つかったって」

「ふぁぁ……んー、そうらしいなぁ」

 

 深刻そうな一夏とは対照的に、心の底からどうでもよさそうな態度で姫燐はあくびをかみ殺す。

 

「な、なんか、凄くどうでも良さそうだな……?」

「え、だって、男だろ? ソイツ」

「ああ、そう……」

 

 世間一般の認識ではともかく、彼女の価値観に当てはめれば、この無関心さ加減も非常にすんなり納得できた。

 

「どーせ、筋肉モリモリマッチョマンの紳士か、ボンジュールってバラ持って女漁るような奴だろ、フランスだし」

「お前フランスから殴られるぞ……」

「べっつに、どうでもいいさ。オレはよく分からん男なんざよりも……」

 

 自分の背後から、ゆっくりと手を伸ばそうとしている気配を察知して、

 

「そのオッパイに用があるッ!!!」

 

 振り返ると同時に、姫燐はその両手を豊満な双丘へと伸ばし、『黒い女性用スーツ』の生地越しに触れよ――

 

「ふんっ!」

「ごべふっ」

 

 うとして、世界最速の出席簿スイングで横っ面を叩かれ、まるでカンフー映画のような見事な四回転半転倒を決めた。

 

「キリぃぃぃぃぃ!?」

「HRの時間だ! 貴様ら、いつまで遊んでいる! 席につかんかっ!」

 

 白眼を向く姫燐の襟首を掴みながら発せられる千冬の恫喝に、浮足立っていた生徒達が蜘蛛の子を散らしたように自分の席へと帰っていく。

 それを見届けたあと、姫燐を彼女の席へと投げ捨て教卓へ戻り、いつも通り千冬と共に教室へ来ていた真耶と共に出席確認を開始する。

 気絶した姫燐以外の出席を確認すると、いつも以上に厳格な雰囲気を纏いながら千冬は、あの話題についての話をはじめた。

 

「さて、貴様らも既に知っていると思うが、今日うちのクラスに転校生が来る」

 

 ざわつき出した生徒達を、出席簿を教卓に叩きつけて一喝し――真耶の肩も跳ね上がったが――千冬が続ける。

 

「どこかの不良のように、手も頭も思考も軽くない貴様らなら一々口で言わなくとも分かるとは思うが、これから来るのはフランスの代表候補生であり……織斑と同じ、男性操縦者だ」

 

 ワッ、と沸き上がりかけたクラスを、千冬は己の眼光で制し、

 

「無理に仲良くしろ、とは言わんし、交流を深めるな、とも言わん。だが節度は護れ、以上だ……山田先生」

「は、はいっ!」

 

 千冬に言われ、真耶が開きっぱなしの扉の向こうに居る転校生に声をかける。

 

「では、入って来てください! デュノアくん!」

「はい」

 

 たった一言の返事で――教室の空気が変わった。

 セシリアとはまた、別種の気品を纏った澄んだ声と共に、デュノアと呼ばれた男は教室へと足を踏み入れる。

 一歩一歩、前をしっかりと見据えながら、教卓へと足を踏み出していく。

 そんな誰にでも出来る動作が、彼というモチーフを得るだけで、歴史ある演劇や絵画の世界のワンシーンにすら思えてしまう程の、エレガントさ。

 朝日を浴びて輝く金色の髪を流し、一夏と同じデザインだというのに礼服に思えてしまう純白の制服を纏い、男だというのにまるで天使のようなあどけない微笑みを口元に宿しながら、

 

「シャルル・デュノアです。フランスから来ました、よろしくお願いします」

 

 ……この時点で、起こり得るだろう災害の予想が付いた一夏は、口を僅かに開いて、耳を塞いだ。

 それからワンテンポ遅れて爆発する、黄色い大喝采。

 突然浴び去られた音の爆撃に、狼狽を隠せていないシャルルに同情しつつも、俺が色々と教えてやらないといけないな。という、この女だらけな学園生活の先輩としての使命感が湧きおこる一夏。

 そのためには、姫燐にも協力を頼んだほうが楽だろうと耳を開き、呆けたような顔してデュノアを見つめる彼女へと放課後に約束を取り付けようとして振り返り、

 

 

「…………かわいい」

 

 

 溜め息のように吐き出されたその言葉に、織斑一夏は間違いなく本日最大級の衝撃を受けた。




~あとがき~
タイトルの元ネタ兼、脳内EDテーマは森久保祥太郎さんの「Lazy Mind」。

織斑一夏&セシリア・オルコット最強のライバル出現の巻き。
それとこんなに時間と文字数がかさんだのは、すべてポケモンXってゲームのせいなんだ。

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