IS~インフィニット・ストラトス~ ―I AM…ALL OF ME…― 作:ヱ子駈 ヒウ
一人で居ることは、こんなにも苦痛だっただろうか。
数か月前は、むしろ一人じゃない時間のほうが少なかったはずなのに。
誰も居ない休憩室の窓際に腰掛け、差し込む茜色の空を眺め、そう一夏は思った。
あの騒動から一時間。細かい状況説明は後日に頼むと千冬に言われ、今はゆっくりと身体を休めろと解放されても、部屋でジッとしている気分には到底なれなかった。
休憩室の扉の向こう。すぐ近くで、赤く点灯する『治療中』の看板。
セシリア、鈴、そして姫燐は今、医務室で治療を受けている。
セシリアと鈴は、目立った外傷もないため念の為といった側面が強いが、一人だけ未だ意識を取り戻さない姫燐の方はそうもいかない。大事には至らないとは言っていたが――それでも、自分だけが無傷であったというこの現実は、織斑一夏にとって受け入れ難い事実。
「また……俺はみんなに護られたんだな……」
鈴に護られ、セシリアに助けられ、姫燐に救ってもらい――そして、確かに負ったはずの傷さえ、今はもう跡形もなく消えている。
人間の治癒能力を遥かに越えたこの力は……おそらく、この腕にはめられた白い愛機からだろう。それ以外に考え付かないし、心当たりもない。
ISにそんな力があるとは教本にも書いていなかったが、今は嬉しく思い、それ以上に、悔しい。
独りで行くと決めた筈なのに、誰かに頼らなければ生きていけない弱い自分が、悔しい。
「……こんなところで何をしている、バカ者」
「ひゃおぃ!?」
頭を冷やせと言わんばかりに、背後から首筋に缶コーヒーを当てられ、変な声が一夏の喉から沸く。そんな弟の姿に溜め息を漏らしながら、織斑千冬はいつもと変わらぬ鋭い視線を一夏に向けた。
「私は、今日はもう休め、と言った筈だがな」
「……ごめん、千冬姉」
織斑先生と呼べ。と、いつもなら返ってくる戒めの言葉は無く、一夏の隣に自分も腰掛けると、手に持っていた缶コーヒーの一つを彼に渡し、彼女ももう一つ買って来ていた別の缶コーヒーのプルを引き、一口あおる。
「……余り、気に病むな」
「………………」
姉の口から紡がれる、そんな余りにも、余りにも自分に相応しくない優しい言葉。
「鈴音に、未知の無人機と、新手の専用機2機を続けて相手し、死者を一人も出さなかったのだ……充分に、誇るべき戦果だ」
「でもっ! でも、それは……」
千冬にも分かっていた。客観的に見てどれほどの健闘だったとしても、弟は自らが望む結果を残せなかったことに思い悩み、苦しんでいる事は。
それでも、たった一人の家族にこんなにも辛そうな顔をされて気が気で居られるほど、織斑千冬という人間は冷徹ではなかった。
「俺は……強くなりたいよ、千冬姉みたいに、誰にも頼らなくても……誰にも負けないぐらいに」
一夏の顔が俯き、強く握られた缶コーヒーが音を立ててへこむ。
行くアテがない慟哭と、憤りと、無力感が、涙となってこぼれ落ちていく。
「ふっ……そうか」
逆に千冬は、空を仰いでまた、コーヒーを一口飲む。
軽く口元を釣り上げて、その味の余韻を心から堪能し尽くしたような溜め息をつき、
「我が弟ながら恥ずかしいぞ。やはり、お前はどうしようもない唐変木だな、一夏」
「えっ?」
心底意外そうな弟の声が、余計に千冬には可笑しくて堪らない。
随分長いこと共に暮らして来たが、実の弟はこんな事にすら気付いて無かったのかと。そして私は、こんな事すら気付かせてやれなかったのかと、織斑千冬は自著する。
「『支えてくれる人が居てこそ、人は本当に強くなれる』……」
「それって……!」
「ふふっ……『知人』からの受け売りだがな、切実な言葉だ」
織斑一夏が見た、彼女の笑顔が初めて陰ったあの時に呟かれた言葉。
その言葉の意味を、ずっと支えられていた姉の口から今、織斑一夏は知ろうとしていた。
「実はな、私は昨日、ビールを5缶も開けてしまった」
「なっ!?」
「更にそこから、チューハイを2つ、梅酒を3つ、芋1つも空けて、あとは確か……」
「ち……ち……ちーふーゆー姉ッッ!!」
指を折りながら、常人なら急性アルコール中毒になって急速に天に旅立ってもおかしくない昨日の飲酒量を数える姉に、完全に頭が主夫モードに切り替わった一夏の、実戦よりも遥かに強い気迫が乗った剣幕が飛ぶ。
「俺と約束したじゃないか!? お酒は一日一缶! 明日が休みの日でも三缶までって!」
「ちゃんと守っていたぞ。だが、昨日はつい」
「つい、で済む問題じゃない! もし千冬姉が倒れでもしたら、みんなどれだけ心配すると……!」
「ああっ、本当にな」
弟から本気で怒られているというのに、千冬は愉快さに身を委ねた態度を崩さない。
普段の鉄面皮しか知らない人間が見たらあまりの衝撃に泡を吹いて卒倒しかねないほど、今の織斑千冬の表情は幸福に満ち溢れていた。
「だから料理も洗濯も掃除もできない千冬姉が一人暮らしだなんて俺は反対だったんだ! ここで立派に教師やってる姿見て、少しはシャンとした生活を送ってるのかと思ったらコレだよ!」
「ふふっ、一夏の言う通りだ。私は……本当に弱い姉だよ」
「全くだ! 本当によわ……い……ぇ?」
まだまだ言わなくてはいけないことが沢山あるはずなのに、その言葉が全て喉に詰まる。
人類最強の女が、憧れ続けてきた姉が、追い求め続けてきたはずの強さが吐露した――自分が嫌悪する意味を持った言葉にせき止められて。
「千冬姉、もしかして、まだ酔ってんの……?」
「バカを言うな。どれだけ酒を飲もうが生まれてこの方、私が無遅刻無欠勤を欠かした事など一度もない」
「で、でも、嘘だよな……? 千冬姉が……俺をずっと護ってくれた自慢の姉さんが、弱い訳ないじゃないか!?」
「いいや、弱いよ。私は」
「嘘だっ!」
認めたくない。認められる訳が無い。
護りたい人を護れる。誰だって護ることができる。織斑一夏は、そう信じ続けてきたのだ。
最強で、タフで、無敵の姉へ、一歩ずつでも近付いていけば、いつかは自分だってそんな存在になれると夢見てきたのだ。
だが、そんな少年の無垢な夢は今……他ならぬ夢そのものによって打ち砕かれようとしている。
「だって……だって、千冬姉はモンド・グロッソで優勝したじゃないか! 一度だって負けた事なかったじゃないか!! 俺をいつでも護ってくれたじゃないか!!?」
「だが、そんな織斑千冬も、一〇五円のビール缶には勝てなかった」
「そんなのっ! そんな事がどうしたんだって言うんだよ!」
缶コーヒーを投げ捨て、一夏の両手が千冬の肩を掴む。
強く、彼がどんなに力を込めても眉一つ動かさない、小さいけれど大きな肩。
ずっと自分を背負い続けてくれた大きな肩を掴んで、微笑む姉の優しく真っ直ぐな瞳を見て――嘘偽りが一切ない残酷なまでの美しさを見て、一夏の頬から涙がこぼれ落ちた。
「ぞんなごと……言わないでくれよ……千冬姉……」
「だがな一夏、織斑千冬は確かに敗北したんだ」
そのまま、少しだけ背を抜かされてしまった弟の背中に両手を回し、抱きしめて、
「実は昨日な……私は今日のお前の試合がどうなるか、心配で、心配で、心配で堪らなくて……まったく、寝付けなかったんだよ」
「えっ……?」
今まで誰にも見せなかった、ちっぽけな弱さを、最強はさらけ出した。
「明日、お前がしっかりやれるだろうか。お前が大怪我をしないだろうか。お前は笑顔で居られるだろうか。そんな事ばかり考えてたら、眼も頭も冴えてしまって……ビールを空けても、全く眠くならなくてな」
ビールを呑んでも、チューハイを呑んでも、梅酒を呑んでも、余計に強い不安だけが彼女を満たしていき、
「気が付けば、潰れるまで飲んでいたよ……お前とした約束まで破ってな」
「千冬……姉……?」
名前を呼んでくれる誰よりも大切な弟を、もっと強く、強く抱きしめて、
「私は……織斑千冬は、お前が居ないとこんなにも弱いんだ……誰よりも私を支えてくれる、お前が居ないと……私は……だから」
顔は、見えなかった。
それでも一夏の制服に、熱い液体が沁み込んだのは、確かに感じた。
「よく……無事で居てくれた……よく……」
一夏は、どうすればいいのか分からなかった。
あの姉を泣かせてしまったのなんて初めてだったし、ずっと追いかけ続けていた夢も、こうしてありのままの現実に触れてしまえば、それは存在しない幻想で、だから織斑一夏は、なにも分からなかった。
これからどうすればいいのか?
これからどこへ向かえばいいのか?
これからなにをすればいいのか?
なにも、分からなかった。
けれど――
「ん……?」
何かが、外で起こっていることは分かった。
消えている治療室の赤い光。慌ただしく外を駆け回る複数の足音。
そして、力強く明け開かれる休憩室の扉。
「織斑先生ッ! と、織斑くん、ここに居たんですか!?」
「なにかあったんですか、山田先生?」
真耶が入って来る一瞬の間に人類最強のスピードで、一夏を投げ捨て、スーツの乱れを直し、目元を拭き、ちゃんと缶コーヒーまで回収して、いつもの鉄面皮を再び張りつけ、まるで何事も無かったように凛と佇む千冬が尋ねる。
「ああ、あの子がっ、ききっ、き、消えて」
「落ち着いて、ゆっくり、一言ずつ話して下さい」
「ははっ、はいぃぃ!」
大きく只でさえ大きい胸を張り上げて、深呼吸を繰り返し、山田真耶は報告する。
「緊急事態です、治療室から、朴月さんが、消えてしまったんですッ!!!」
「なっ……!?」
「キリ……が……ッ!?」
彼女が、消えた。
それだけで、真っ白だった一夏の心に、真っ黒な焦燥がぶちまけられた。
「どう言うですかッ!!!」
「ひゃいいい!?」
気が付けば、一夏は真耶の両肩に掴みかかっていた。
「いつッ! どこへッ! どうしてッ!?」
「ひゃ、おおっ、織斑くん!?」
「どこへ行ったんですか、アイツはッ! キリはッ!?」
涙目になって動転する真耶のことなど知った事かと、鬼気迫る形相で一夏は彼女へ更に詰め寄ろうとして、
「落ち着け、バカ者ッ!」
「がほっ!?」
千冬に引き剥がされ、その頬を思いっきり殴り飛ばされた。
「きゃぁぁぁぁ、お、織斑くん!?」
「あのバカの事は構いません、それよりも山田先生ッ!」
「は、はいっ!」
千冬が皆まで言わずとも、詳しい状況を真耶は説明し始めた。
「医療スタッフが彼女が居ない事に気付いたのは、ほんの数分ほど前です。腕の大怪我のオペも無事に終わって、あとは彼女の目が覚めるのを待つだけだったんですが……」
「想像を超えた速さで意識を取り戻したんですね……皆が、オペの片づけをしている間に」
「はい……」
驚異的な体力である。手術を受けた以上、麻酔も必ず打ち込まれていたはずなのに、ほんの数分で復帰して歩き回るなど予想できるはずもない。医療スタッフの落ち度と呼ぶには酷であった。
「目撃者は!」
「居ません……セシリアさんも凰さんも、既に部屋に戻ってましたから……」
「監視カメラ!」
「あのクラッキングの影響で、ダウンしたままです……第三アリーナのシステム復旧を最優先にしていましたから……」
「くっ!」
全ての偶然が折り重なって生まれた、完璧なノーヒント。
だが、あれ程の負傷に加え、ISもエネルギー切れ、麻酔まで入っているなら、どれほど時間が経とうともそう遠くへ行ける筈は無い。
そう判断を下し、千冬は真耶に命令を飛ばす。
「まだ遠くへは行っていない筈です! いま動ける職員は皆、朴月を探すよう連絡を! 更識にも同様に!」
最後に、この部屋を今すぐにでも飛び出してしまいそうな弟の方を一瞬だけ見て、
「確実に、朴月姫燐を捕らえるように! 最悪の場合は……生死も、問いません!」
「なッ!?」
「ッ! はっ……はい! 分かりました!」
千冬の非情とも言える命令を受けながらも、僅かに戸惑っただけで何も言わず休憩室から飛び出して行く真耶の背中に、一夏の叫びが突き刺さる。
「山田先生ッ! おい、なんだよそれ! 待て、待ってくれ!」
彼の呼び掛けに一瞬だけ、足音が止まるが……また、すぐに鳴り出して、あっという間に聞こえなくなっていった。
「なんだよ……なんだよ、これ……」
「………………一夏」
「どういうことだよ……これは!?」
立ち上がり、痛む頬すら押さえずに一夏が千冬の前に立ち塞がる。
先程までとは違う、優しさから来る暖かな怒りではない、失望と裏切りからくる冷たい怒りを宿した激情が、千冬を貫く。
「なぁ、千冬姉! なんで、キリが追われなくちゃならないんだ!? それに生死も問わないって……ふざけんなっ! どういうことなんだよ!?」
愛する弟に詰問されようとも、千冬は無表情を一切崩さず、冷たく『あの名前』を言い放つ。
「キルスティン」
「そ、それは……!」
「まさか、お前は朴月と今回の侵入者が無関係だ……などと、言うつもりはないだろうな?」
キルスティン。侵入者が彼女に向けて言い放った、朴月姫燐とは違う、知らない名前。
そしてその名前に、異常なまでの錯乱を見せた彼女の姿を一番間近で見たのは、他の誰でも無い自分達だ。
「アイツが今回の主犯組織と繋がっている可能性がある以上、今この学園から逃がす訳にはいかん。たとえ、物言わぬ身体にしてでも、だ」
「な、何だよそれッ! 千冬姉は、キリがスパイだって」
「織斑先生だッ!」
それは、果たして誰に言い聞かせた言葉だったのであろうか。
強く、そう断言したIS学園の教師――織斑千冬は、これ以上の反論を封殺するように、ナイフよりも鋭利な眼光を瞬かせ、一夏を睨みつける。
「私には全世界の保護者から預かった、全校生徒の安全を護る義務がある。そして、その安全を脅かす者には……必ず、然るべき報いを受けさせなくてはならない。それが、私の受け持つクラスの者であるならば尚更だ!」
「そん……な……ッ!」
すぐさま外へ走り出そうとした一夏の肩を、千冬がすかさず掴み取る。
「どこへ行くつもりだ」
「離せよっ、俺は行くんだ! キリの所へ!」
「では、行ってどうするつもりだ、貴様は?」
「決まってるだろ! 連れ戻すんだ!」
「ダメだ、お前はここを動くな。私と共にいろ」
無理やり腕を振り解こうと一夏はもがくが、その程度のささやかな抵抗では、織斑千冬はビクともしない。どの口で自分は弱いなどとのたまうのか、余りにも圧倒的すぎる力の差。
「離せ、離してくれ千冬姉ッ!」
「一部始終なら私も観ていた! 明らかに今の朴月はマトモな精神状態ではない、お前が行って何になる!?」
「手を引っ張って、連れ戻せるッ!」
「このっ……頭を、冷やせバカ者がぁッ!」
この水掛け論を強制的に終わらせるため、千冬の鉄拳が再び一夏の横頬を殴りつける。
最強の一撃が頬にめり込む。骨と骨がぶつかり合う。その衝撃で頭に火花が散る。
だが、歯を食いしばり、足を踏ん張り、眼に折れぬ意志を宿して、
「……なっ」
「ぐ、ぎ、ぎッ!」
一夏は、倒れなかった。
憧れに、痛みに、現実に、青い少年が全霊を賭して踏みとどまった。
「俺は……これでも、少しは、強くなれたんだ……」
「いち……か?」
全力では無かったが、本気で殴り飛ばすつもりで放った一撃を、誰よりも見知っているはずの弟に止められ、茫然とする千冬の腕を一夏は握り、僅かだが押し返す。
拳は本当に僅かしか動かなかったが、この場の均衡は今、確かに大きく揺れ始めていた。
「アイツのお陰で……強くなれたんだッ……!」
殴られ切れた口元から血を滲ませながらも、意気地を固めた男の瞳が真っ直ぐ千冬を貫く。
その奥底に、たった1人の少女の笑顔を映しながら。
「アイツは……アイツはいつだって俺を助けてくれたんだ。初めて会った時から、セシリアと戦う時も、白式と出会った時も、俺が酷い事して、アイツから逃げて……勝手に独りでやるって言った時だって、アイツは……」
「キリはッ! あんな風になってまで、俺をまた助けてくれたんだッ!!!」
ゆえに、織斑一夏はこんな所で止まっていてはいけない。
止まる事を、姉でも、他の誰でも無い彼自身が許さない。
「だから、今度は俺の番だ」
一歩、また一歩、押し戻す。最強に押し付けられた壁を、押し戻す。
怒濤と化した勢いは止まらず、胸の奥からも言葉が止まらず、全てが一夏を奔らせる。
「今度は、俺が助けるんだ。今、キリに味方が居ないなら……誰もキリを助けないのなら……誰かにキリが傷付けられるっていうのなら……俺が、キリを護るんだッ!!!」
燃え滾るようなこの想いを、真っ直ぐに千冬へ叩きつけた。
「だから、そこを退いてくれ。立ち塞がるなら、たとえ千冬姉だって!」
「…………私でも、どうするつもりだ」
「俺は、越えてわあぁ!?」
突然、千冬が身体を半歩後ろに開いて力を抜いた。前へ進む事に全精力を込めていた一夏の身体は勢い余り、前のめりに倒れ込んでしまう。
「まったく、どうせ今のように後先すら考えていないのだろう?」
「で、でも俺はッ!」
「ふっ、落とし物だ」
「アイツの元に……えっ?」
擦った鼻を押さえながらも立ち上がろうとした一夏に、唐突にネックレスが投げ渡された。
蒼い水晶で出来た、翼を模したネックレス。
決勝が始まる寸前に、姫燐へと突き返してしまったはずの物が、なぜか千冬のポケットから現れ、一夏はネックレスと千冬を交互に見返す。
「第三アリーナに落ちていたそうだ。本来ならば証拠品として押収せねばならない代物なのだが――私の権限で、回収しておいた」
恐らく、セシリアが服を破った時に彼女のポケットも同時に破れ、フィールドに落ちたのだろう。あの場面は、一夏も色々と直視するに堪えない光景だったので見落としていたのだ。
これを今、手渡すという行為の意味。自分に背を向ける千冬の意思。
その意図が分からない程、一夏は鈍感では無い。
「千冬姉……その、俺……」
「はぁぁぁぁ……不出来な生徒を持つと、本当に苦労が絶えんな。二度と無くすなよ……そして覚悟しておけ」
大切な人へ叩きつけてしまった暴言を悔やむように顔を沈めた一夏に背を向け、やれやれと片手で頭を抱えて千冬は溜め息をつき、
「戻ってきたら説教だ。当然、二人共な」
「……ああッ!」
廊下へ向かって走り出した弟を、見逃した。
背後に響く足音が、眼を閉じた千冬の記憶を走馬灯のように掘り起こしていく。
両親が居なくなったあの日、泣きじゃくっていた弟。
誘拐されたあの日、抱きしめたこの胸の内で延々と嗚咽を繰り返した弟。
そして今日、姉の本当の姿を認められず、涙をこぼした弟。
こうして思い返せば、いつも泣いてばかりで、なのに他の人にはそれを見せようとしないで、振り向けばいつだって自分の後ろに付いて来ていた弟の姿が――今は雄々しく、力強い足取りで、遠く、別の場所へ向かって走っていく。
「ようやく姉離れ、か……」
「ブリュンヒルデでも、やはり寂しいものですか? 最愛の弟が、他の女性に取られてしまうのは」
背後から音も立てず不意に現れた影が、頬を愉快そうに釣り上げ千冬に声をかけた。
だが、千冬も気付いていたのか、はたまた慣れたモノなのか、そんな不意打ちにも特に意に関せず吐き捨てる。
「少なくとも、常に妹に距離を取られている貴様には、分からん感覚だったよ」
「……流石ブリュンヒルデ。痛い所を突いて来ますね」
影は扇子を開いて、歪みかけた口元を隠す。
開かれた扇子には『痛打』と、達筆な文字で画かれていた。
「それで、構わないのですか織斑先生殿? これはれっきとした公私混合では?」
先程のやり取りをすべて見ていたような口ぶりで問われても、やはり千冬はいつもの慄然とした態度と鉄仮面を一切崩さず答えを返す。
「違うな。生徒の安全を護るだけでなく、生徒の成長を促すのも、また教師の役目だ」
「なるほど……今回の采配は、あくまで『教師』としてのモノ、だと?」
「ああ、だから万一に備えているのさ。貴様ら『更識』を使ってな」
更識。そう呼ばれた影は、陽の当たる場所へとゆっくり姿を現す。
夕焼けとは対照的な水色をしたショートヘアの向こうにある、人を食い物にするような赤い瞳が恭悦を宿した。
「光栄の極みです。世界最強、天下無双、常勝無敗なブリュンヒルデの弟様を、おはようからお休みまでお任せさせて頂けるとは」
「今だけだ、特に貴様には絶対に一夏はやらん」
「では、あの子には?」
「…………それは、アイツが決める事だ。私には関係ない」
露骨に不機嫌を顔に出す、どうにも器用さと柔軟さに欠ける教師に、更識は一腹抱えたような笑みを更に深くして本題を報告する。
「あの子は既に補足していますよ。指示さえあれば……いつでも」
「ご苦労。だが、頼んでおいて悪いが、貴様らの出番は無さそうだ」
「ほほう……できれば、根拠の程を」
「なに、実に簡単なことさ」
わざわざ言わせるなと言わんばかりに、千冬は夕闇に包まれた出口へと向かいながら、背後の更識へと僅かに見やり、
「アイツは最高の女タラシで、この私の弟だぞ? 上手くやるさ、きっとな」
微笑みかけながら、休憩室を後にした。
暗い廊下を歩く彼女の背中から、扇子が床にこぼれ落ちる音が聞こえたが――既に自室に戻ってビールを空ける事しか考えてない千冬には、どうでもいいことだった。
○●○
無人だった1年1組の扉を力任せに閉め、一夏はまた廊下を駆け抜けた。
これで一階は全て調べた事になるが、消えた彼女の足取りは一向に掴めない。
「ハァ……はぁ……ハァ……」
休憩室を出てから全力疾走を続けた結果、ここ一ヶ月で確かに付いたと思っていた体力にも、底が見え始める。
だが、ここで足を止める訳にはいかない。止めれば止めているだけ、彼女は遠退き、もっと、もっと遠い場所へと行ってしまう気がした。
「くっ……そぉ!」
がむしゃらに、何も考えず、ただ彼女のことだけを思い描きながら、足を前に飛ばそうとして、
――どんな時でも冷静さを失うなかれ、だ。
「っ」
他ならぬ、彼女の言葉が一夏の足を止めた。
「そうだ……頭を冷やせ……考えるんだ、織斑一夏……ッ」
思考停止こそ、戦いにおいて最も避けなくてはならない状態だ。急ブレーキをかけられ、身体中に渦巻く熱にやられた脳へ、思考を言霊にすることで無理やり指示を送っていく。
「情報は……戦いに置いて……重要な剣と盾……」
相手の情報から、次の行動を予測し、常に一歩先を行き完封する。
自分も鈴相手に模範し、見事勝利を収めた彼女の必勝法であり、常套手段。
鈴の時は2組の人達に大いに世話になったが、今回はその必要はない。山田先生から、全ての手札は回収済みだ。
「キリは重傷で、麻酔も打ち込まれている……ISも使えない」
こうやって纏めてみると、動けているほうが奇跡に近い状態だ。
故に、遠くへは絶対に行けない。この校舎の外など論外だろう。
「そもそも、キリは今、何を考えている……?」
もし万が一、彼女がスパイだったとしよう。
だとしたら、明らかにこの行動は悪手だ。決して軽くない負傷を抱え、麻酔まで身体に回り、切り札のISまで封じられた状態で逃げ出しても結果は見えている。現にいま、彼女が捕まるのは時間の問題だ。
逆にスパイでなかったとしても、この行動はおかしい。
大人しく治療を受けて、身体が万全な状態になってから、いくらでも弁明すれば良いだけだ。逃げ出す意味がないし、逃げればそれだけ容疑が深まってしまうだけなのに。
なのになぜ、彼女はこんな無謀極まりない逃走劇を始めたのか。
あんな状態ではどう考えても、ここから逃げ出せる訳が無いというのに……考える?
「そうか……キリはきっと考えてなんかいない、何も考えてないんだ」
アリーナで見せた錯乱具合に加え、麻酔まで加わった彼女の思考力は恐らく、先程までの自分以下まで落ち込んでいるはずだ。
つまり今、彼女はマトモな思考が出来ていない状態に追いやられている。
「なら……目的は、何を目的に動く?」
どれだけマラソンで息を切らせて思考が覚束なくとも、ゴールを目指すという一念さえあれば足を目的地に動かせるのと同じように、彼女をここまで突き動かすゴールが何処かに存在するはずだ。
彼女は何を今、願っている? あの時、アリーナで何を言っていた?
思いだす。あの時、朴月姫燐はキルスティンでは無いと叫んでいた。突き付けられたもう一つの名前をしきりに否定していた。そう、否定だけをしきりに――
「……ッッ!!?」
最悪の可能性が、一夏の背筋を冷たく走り抜けた。
自己否定。それを成すために最も簡単で確実な方法に、一夏は心当たりがあった。
見開かれた眼が――真上の天井を――その上にある屋上を捉え――
「ダメだ……ダメだキリ……ダメだっ!!!」
今度こそ、一夏は何も考えず、がむしゃらに走りだした。
身体が震える。焦燥に駆られて足がもつれる。締め上げられた内蔵から吐き気が込み上げる。
階段を何段も飛ばし、まだ痛む身体を押し飛ばし、そして屋上へと続く扉を蹴り飛ばして――居た。
「はぁ……はぁ……見つけた……キリ……」
夕焼けに赤く染まった屋上。自分達が約束を交わし合ったあの場所に、赤い髪に包帯を巻きながら、腕にギプスを巻きながら、スカイブルーの病衣を纏って、彼女は、居た。
朴月姫燐は、ここに居た。
「ヒぃっ!」
蹴破られたドアの向こうに居た人影を目にした瞬間、彼女は短い悲鳴をあげながら尻餅をつくように後ずさり、フェンスへと投げ出すように背を預けた。
「キ……リ……?」
「ハァーッ……ひぐっ……ハァーッ……」
肩で息を吐きながら、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど身体を震わせ、表情を恐怖で強張らせた姿には、動揺、狼狽、恐慌――そんな、彼女には余りにも似合わなかったはずの言葉で埋め尽くされていた。
「ひっ、くひ、ヒヒヒッヒ……なんだ、お前かよ……一夏……」
屋上に現れた人影が一夏だと判断できた瞬間、彼女の口元が三日月に歪んだ。恐怖に縛られた表情から、まるで口元だけが別の生物であるかのように喜悦を示す。
「はっ、ひはっ、クククけ……一人? お前一人か? 追手にしちゃ、随分と歯応えがねえなぁ」
「キリ……」
誰の眼から見ても分かる虚勢を、必死に張り続ける道化の姿が、一夏の胸を締め付ける。
「俺と一緒に戻ろう……みんな心配して」
「こっちに来るんじゃねえッ!!!」
近寄ろうとした一夏を、彼女の悲痛な一喝が制した。
身体を震えさせ動きを止めた一夏を見て、俯きながら彼女は笑った。
「きっひ、ききき、ハーァ、はひっひひひひぐっ……」
嗚咽を漏らしながら、息を切らしながら、涙をこぼす代わりに必死に笑った。
まるで右と左に同時に進むように命令された機械のように、徹底して矛盾した自己を奮い立たせるように、彼女はあの言葉を呟く。
「I am……」
「え……?」
「I am……All of me……」
「キリ……その言葉は」
「『オレが、オレの全て』、って意味で……俺の信条みたいなもんさ……きヒヒ」
あの時も唱えていた、この言葉。
その意味が今、彼女の口から語られようとしていた。
「昔さ……オレ、お前と模擬戦したよな?」
「あ、ああ……白式を受け取った時の……」
彼女に違和感を感じ取った、もう大分昔のことのように思える模擬戦。
今にしてみれば一夏にも理解できた。彼女はあの時、確かに自分にぶつけようとしていたのだ。
「ヒヒッ、傑作だぜ……? オレさ、あの時マジで殺すつもりだったんだよ、お前をさ」
「………………」
紛れもない本物の殺意を、この身に。
「他にも箒や、鈴も殺りかけたな……どうしても、なんか一線を超えちまうとこうだ。頭から血が引いて、スッーとクリアになるんだよ……敵を潰せって事以外、どうでもよくなって考えられなくなっちまう……。
ひひッ……鈴にもズバっと言われちまったよ……『お前は狂ってるんじゃないか?』ってな」
まぁ、大正解なんだがな。と、お腹を押さえて笑うフリを少女はする。
「でもな、それがオレという人間なんだ。気張って抱えて、よろしくやっていくしかないって、どんなにイカれていようと、どんなに狂っていようと、それがオレだ、朴月姫燐って人間の全てなんだって……」
一夏に語るというより、自分へと言い聞かせていたような語る口調が、
「そうだよ……その筈なんだよ……」
ありえてはならない筈の現実に、歪む。
「キリ……お前」
「この言葉な……本当はただの言い訳なんだよ。こんな狂ったオレを無理やり納得させるために、ずっと、ずっとオレ自身に言い聞かせてきた言い訳なんだ……何があっても、どれだけ狂っても『それもオレなんだ』って、そうやって、納得してきたんだよ……なのに……なのにッ!」
フェンスに拳を叩き付けて、少女は喚き散らす。
「なのにアイツ等、オレを『キルスティン隊長』って呼びやがった! オレの事を朴月姫燐じゃないって! 誰だよキルスティンって!? オレは……オレは朴月姫燐じゃねぇってのかよ!?
わっけ分かんねぇ! オレはずっと親父とお袋と暮らして、小学校通って、中学行って、飯食って寝て、ダチと一緒に遊んで、トレーニングもして、朴月姫燐として普通に暮らして来たんだぞ!? それ全否定かよふざけやがって……ふざけやがってふざけやがってふざけやがってッ!!!」
自分の記憶が『キルスティン』を否定するのに、他人の認識が『朴月姫燐』を否定する。
そしてこの記憶にも認識にも、全てに同意できてしまう自分が確かに存在し……ジレンマが、彼女の心を壊していく。
「オレは誰なんだよ……? 朴月姫燐か? キルスティンって奴か? ハッ、誰にも分かる訳ねぇよなぁ!? 本人が一番わかってねぇ事なんてよぉ!? ハッハ、ヒャハ、キヒャハハハハッ!」
少女は笑う。理解不能の現実に心折られ、絶望に全てを委ねて全てを笑い飛ばす。
そんな道化の姿は、泣き笑いの差異あれど、何も出来ずたった独りで泣き散らす赤ん坊となんら変わりないように、一夏には思えた。
なにか、言わないといけないのに、彼女がずっと抱えていた闇は余りにも彼の想像を絶していて、何も言えなかった。自分如きが何かを言っていいのかと、一夏は立ち止まってしまった。
動きを止めた一夏を余所に、ひとしきり狂い笑った少女は、お腹を押さえて俯きながら小声で呟く。
「早く、呼べよ……」
「えっ……?」
「早く呼べって言ってんだよ! 織斑先生でも、セシリアでも、鈴でも、オレをシトめられる奴を呼んで来いよホラよぉ!?」
「キリ……」
「ぎひっ、ヒヒヒヒヒヒ……安心しな、どうせこんな傷じゃ遠くには逃げられねぇし……それに急がねぇと『誰かさん』がお前を殺しちまうかもしれねぇぞ?」
「………………」
嘘だと、一夏は確信した。
「ひっひ、さっきから……身体が震えて仕方ねえんだ……」
嘘だと、一夏には分かっていた。
「お前を殺せって、今すぐ消しちまえって、うるせぇんだよ……だから……」
だって、その仮面は、もう、
「お願いだから消えてくれよッ、オレなんかの前から早くッ!!!」
その瞳からとめどなく溢れだす涙を、隠し切れていないのだから――一夏は己がやらないといけない事が、今ハッキリと見えていた。
一歩、一夏は前へ進む。彼女の動揺が伝わる。
「……は? お前、バカかよ? 話聞いてたか、なんでこっち来るんだよ?」
もう一歩、進む。彼女の声が裏返り、悲壮が宿る。
「や、止めろ、バカ、こっち来んな、来んなよ……オレは、お前を、殺したくっ、止まれ、止まれッてんだろ……来るな……来るな……」
一歩、一歩、一歩、彼女へ近付く。首を振りながら、それ以上進まないフェンスへと尻餅をついてへたり込み、一夏が立ち塞がるように目の前まで迫り、
「来るなァァ!!!」
頭を抱えて縮こまった、彼女の身体を――一夏は、屈んで抱きしめた。
「ァ……ァァ……?」
両腕で、決して離さないように強く、それでいて傷を包むように柔らかく。織斑一夏の胸へ、少女は抱かれた。笑うことも忘れてしまうほどの強い熱が、密着した一夏の全身から彼女へ伝わって、笑いすぎた喉が酷く痛んだ。
「俺は、自分が本当に自分なのかだなんて――そんな難しい事は分からないよ……俺、バカだからさ」
「いち、か」
「でも、これだけは、分かる」
一夏は少しだけ身体を離して、ポケットからネックレスを取りだした。
「それ、は」
彼女から貰った、青い翼のネックレスを見せ、一夏は目をつぶって語る。
今度は強がりも夢も全部かなぐり捨てた、ありのままの弱い自分自身を。
「これを俺にくれたのはキリだ。いつだって訓練に付き合ってくれたのもキリだし、俺に協力を持ちかけてくれたのもキリだ。セシリアを倒すために作戦を考えてくれたのもキリで、俺が、その、押し倒して怒らせちゃったのも、全部全部キリだ」
そして、幼い子供のような瞳で見上げる彼女の涙を、指で拭って、
「それで今、ここで泣いているキリは、朴月姫燐だろうとキルスティンだろうと、俺にとっては間違いなくキリなんだ。だから」
今度は強く、ひたすらに強く彼女の身体を抱いて、
「これから先に何があっても、朴月姫燐でも、キルスティンでも、キリが誰だったとしても、俺は呼び続けるから……キリを呼び続けるから……だから」
「どこにも行かないでくれ……俺の隣に居てくれよ、キリ……」
気が付けば、一夏も涙を流していた。
カッコ悪いとか、情けないとか、そんなちっぽけなプライドでは押さえきれないほどの激情が涙になって、ポロポロと一夏の目蓋から溢れていた。
……いったい、なんでこんな事になったのか。普通、こんな状況ならヒーローの胸で泣くのはヒロインの役目な筈なのに、なぜお前が泣いてしまうのかと、普通は逆だろうと、胸でごちゃごちゃしていた陰鬱も含めて全てが馬鹿らしく思えてきて、
「……ばーか」
キリの口から、こんな台詞が自然と漏れてしまった。
「おまえ、おれをなぐさめるのか、なくのか、どっちなんだよ」
「っ、ごめ、辛いのは、キリのはずなのにな」
「ほんとに、ばか」
途方もない脱力感がキリを襲う。人がマジで悩んでんのに、そこで自分の欲望押し付けるか普通と、呆れて、呆れて――気が付けば涙も引っ込んでしまっていて、
「……なぁ、いちか」
「え? あっ」
今度は、一夏の涙をキリが拭う。
「おれは、キリ、か」
自分で呟いても、やはりこの心にこびり付いた不安は晴れないが、
「ああ、俺にとって、お前はキリだ」
一夏にそう呼ばれるだけで、北風に吹かれたようにあっという間に拭い去られてしまった。
「……なんだよそれ、つごうよすぎだろ」
「ごめん、俺はバカだから。他の言い方は分からないや」
全身の力が抜けて、無理やり動かしていた身体が急速に言うことを聞かなくなっていく。
それでもこれだけは言わないといけなくて、一夏の身体からそっと離れると、真っ直ぐに彼の顔を見つめながら、
「さんきゅ、な、ばか」
キリは太陽のような微笑みを浮かべて、一夏の胸に倒れ込んだ。
限界まで酷使されていた肉体は、コテンと倒れ込むと同時に安らかな寝息を立てて休息を始める。その強がり屋さんの頭を、一夏はそっと撫でた。
無人のIS,新しい敵、そして――キルスティン。
まだまだ問題は山積みであったが、激動の一日は、ようやく一件落着を迎えようとしていた。
軽く溜め息をつくと、一夏の極限まで張り詰めていた緊張の糸が解れ、
「……~~~~~~ッッッ!」
彼女の柔らかな身体を抱き寄せているという現状に、また別種の緊張が押し寄せてきた。
もしかしなくても、セクハラまがいの事ばかりをした覚えしか無い一夏の心臓が、激しい警鐘を鳴らす。
顔から噴火しそうなほどの熱が昇り、抱きとめた手が汗ばむ。辛うじて変な場所には触れていないが、それでもやはり抱いているのには変わりなくて、胸と胸が密着した状態が青少年のメンタルを激しく削る。
(でも……本当に、小さいな……)
こうやって始めて、ありのまま抱きしめた彼女の身体は、一夏が思ったよりもずっと小さくて、か弱くて、今にも壊れてしまいそうで……だから護りたいと、思えた。
誰かでは無い。こうやって、不安に震える小さな彼女を、この手で護りたい。
たった一人ですらこの手は掴めるのか、護り通せるのか、まだ分からないけど――掴まねば、護り切らなくては、自分がやらなくては。
決意と覚悟を込めて、もう一度キリを抱きしめて、織斑一夏は口にする。
「キリ……俺が護るよ。俺が、お前を絶対に護る」
風向きが変わる。
青空は暮れ、夕闇の空に一つ、新しい夢が芽吹いた瞬間だった。
~あとがき~
でもキリはレズです。