『褒めてやる。お前はよく戦った』
何も無い暗闇の中で、私は彼と向き合っていた。
銀と黒の怪物――復讐鬼ベビー。
その時、私は彼と完全に同化したことによって私と彼の感情が一つに溶け合おうとしていたのだ。
『七年だ。七年もの間、ここまで非力な地球人でありながらこの俺を封じ込め続けてきたのだ。大したものだ。お前がツフル人であれば、俺の妻にでもしてやったところだ』
『……赤ん坊のくせに、女の子を口説くな』
ベビーの思考が、私の思考へと語り掛ける。
温かみの欠片も無い口調ではあったが、その言葉には確かに私のことを賞賛する感情が込められていた。
『勝負は、私の負けだね……』
ベビーの人格が表に出てしまった。
それは、肉体の主導権が私から彼へと移り変わったことを意味する。
最初から、土台無理な話だったのだろう。何の力も無い平凡な地球人である私が、ツフルが生み出した最強の生命体である彼をいつまでも封じ込めておくことなど出来る筈がなかった。
だからこそ私は、全てが手遅れになる前に私達の始末を孫悟飯に頼んだのだ。
……そのつもりだったんだけどね。
『私は、本当は死にたくなかったのかな?』
あまりにも遅くなってしまったが、私はこの時になって初めて自分の気持ちに気が付いた。
私が悟飯に自分を殺してくれと頼んだ本当の理由は、私が彼の手によって死にたかったからではない。
――私は、死にたくなかったのだ。
だから、彼に頼んだ。死を望んでいた一方で、優しくて誰よりも強い彼ならば私達が死ななくても済む方法を見つけてくれるかもしれないと、心のどこかではそう考えている自分が確かに存在していたのだ。
結局、それがネオンという人間の器なのだろう。
小さくて、どこまでも見苦しい。
『ふん、お前は自分が死にたくないと思うことを浅ましいと考えていたな』
『……うん』
『俺から言わせてもらえば、自ら死を望む生き物など欠陥も良いところだがな。……だが、お前はだからこそその身に宿る復讐心をただの一度も解放しなかった。今はこの地球の為に戦っているサイヤ人達よりも、この先地球の脅威になりかねない自分が居なくなった方が世界が平和になる。自分の心にそう言い聞かせることで、奴らに復讐することよりもこの俺を滅ぼすことを優先していたのだろう。馬鹿馬鹿しい自己犠牲精神だ』
本当は、死にたくなかった。
家族を失い、町を失い、挙句の果てにはベビーと同化して私ですらない存在へと成り果てた。
この世に居続けることに何の意味を感じることが出来ず、生きることが苦痛だった。
だけど、それでも私は生きていたかったのだろう。
苦しみ抜いた先の人生には希望が待っていると、健気にもそう信じていたのだ。
例えばそう、孫一家と関わった時間のような、小さくとも幸せな未来が。
『何故そうも復讐を望まないのか、俺には理解出来ない。この俺に勝るとも劣らぬ憎しみをサイヤ人に抱いているお前が、何故俺を受け入れない?』
『君と一緒に復讐なんかしてしまえば、それはもう本当に、幸せになれないと思ったんだ……』
『……馬鹿な奴だ』
どうしようもない人生だけれど、それだけの人生ではない筈だと信じていた。小さくとも一時の幸福がこの世にある限り、私は醜くも生にしがみついていたかった。
だから私は、自分も世界も一度に救ってくれることを悟飯に期待していたのだ。
そんな浅ましくくて、醜い感情を彼に押し付けていた。
『それにね、同族嫌悪って奴かな? 君を見ていると、何だか復讐に躍起になっていた自分が惨めになって』
『惨めだと?』
『私だって、サイヤ人は許せないさ。でもサイヤ人だからって、関係の無い人まで巻き込みたくなんてなかった。そんなことをしたら、私もあいつらと変わらないじゃないか……』
ベビーは私だ。
私はベビーだ。
ベビーは私の醜い部分その物と言って良いほどに私とよく似ていて、だからこそ悟飯に消してほしかった。
……その悟飯は、私達が殺した。
矛先の定まらない復讐の一撃が、彼を飲み込んで消し飛ばしたのだ。
『奴もサイヤ人だ。俺達の敵だ』
『違う』
『これは復讐なのだ! 俺達ツフル人の!』
『私はまだ地球人だ』
『例えそうでも、お前はツフルの心を持った地球人だ!』
『違う!』
……ごめんなさい、悟飯。
彼に届く筈の無い言葉を胸に、私は目元を押さえて蹲る。
そんな私に、心無しかいつになく憐れむような口調でベビーが言った。
『……それも、もう無駄に思い悩む必要は無い。お前が固執していた孫悟飯は、このベビーが殺したのだからな』
『……良い子だったのに……私は……最低だよ……』
『今のお前にはもう、失う物は無いだろう? 俺と共に残りのサイヤ人を滅ぼすのだ。そしてこの宇宙に、俺とお前の手でツフルの世界を創り上げよう!』
最悪の復讐が始まってしまった。
最悪の復讐鬼が目覚めてしまった。
宇宙最強のサイヤ人が倒された今、私達を止められる者はもう居ないだろう。
……それでも私は、奇跡に賭けたかった。
誰でも良い。
神でも悪魔でも、私が心の底から憎んでいるサイヤ人でも。
誰でも良いから、私達を殺してくれ。
私達の中に残る純粋な私が願ったのは、ただそれだった。
西の都の空は雨雲に覆われ、太陽の光は完全に隠されている。
昼前の時間だというのに真夜中の如き闇に覆われた町には現在外出している者の姿も少なく、ブルマの豪邸に住まう人々もまた全員が室内に居た。
まだ幼い子供である孫悟天とトランクスは普段の明るさを二倍にして山のようにあるおもちゃを弄って遊んでいるが、それを眺める母親の二人の顔色は優れない。
特に長男の悟飯の行方がわからない今、彼の母親であるチチの表情には元気が無かった。
「こんな天気だってのに、悟飯ったらどこさ行っただ……」
「心配要らないわよ。悟飯君ももうそんなに子供じゃないんだから」
そんな彼女を安心させようと励ますブルマだが、彼女の方も心中は穏やかではなかった。
普段であれば、そこまで気にすることでもない。親に何も告げずに外出することはしっかり者の悟飯にしては珍しいが、彼ぐらいの年頃では別段珍しくもないからだ。
彼に関しては雨中に外出したところで交通事故に遭う危険は全く無い。寧ろそうなった場合は、衝突してきた車の方が大惨事になってしまうのが孫悟飯という少年なのだ。
だが彼女らは昨日、悟飯から強力な敵に襲われたという話を聞いている。彼女らは知り合いの戦士達のように戦いには詳しくないが、それを話した際に見せた悟飯の神妙な顔からは並々ならない危機感を抱いた。
あのセルを倒した悟飯が強く警戒する敵――そんな者がこの地球に居ると聞かされて安心出来るほど、今の彼女らの神経は図太くなかったのだ。
或いは彼女らの年齢がもう少し若ければ、そんな気構えもまた変わったのだろう。しかし今の彼女らには幼い子供がおり、自分の命以上に守らなければならない者が居る。それだけに彼女らは、昔よりも神経質になっている節があった。
それは良い意味で臆病になっているとも言えた。
――何があっても、子供だけは守り抜いてみせる。
生まれ持った力は子供の方が強くとも、彼女らは各々の子の盾になることに躊躇いは無かった。
そして程なくして、二人の決意が発揮される場面が現実で起こった。
「うわぁ!?」
「なんだぁ!?」
悟天とトランクスが、その出現に驚きの声を上げる。
――大きな爆発と共に、それは現れた。
深い闇の色に染まった暗黒の鎧。
無骨で刺々しい鎧を全身に纏いながらも細身な体格のそれは、昨日彼女らが悟飯から聞かされた新たな敵の姿の特徴と合致していた。
壁を突き破りながら暴雨風のように現れたそれは、ゆっくりと彼女らの息子の目の前に降り立つ。
その光景に居てもたっても居られず、二人の母親はそれぞれの子の盾となるように覆いかぶさった。
「サイヤ人の子供……一人は孫悟天、もう一人はベジータの子か」
ブツブツと仮面の下で呟きながら、黒い鎧が彼女らと息子達の元へと近づいていく。
そしてその距離を三メートルほどにまで迫ったところで、黒い鎧が無機的な声で二人の母親に言った。
「私達はそこのサイヤ人を殺す。地球人は退いて」
「そうは行くもんですか!」
「そうだ! 悟天ちゃんだけは、死んでもオラが守るだ!」
黒い鎧から放たれたほんの僅かな慈悲の言葉に、二人の母親は間も空けずに拒絶する。
子供を残してこの場を離れるなど、そんなことが出来る筈も無い。それならばいっそ子供と共に死んでやると思えるほどに、彼女らは気丈な母親であった。
そしてそんな母親の一人であるチチに抱きかかえられた悟天が、ひょっこりと彼女の腕から顔を出して黒い鎧と目を合わせた。
「……お姉ちゃん?」
「……っ」
首を傾げた悟天の言葉に、それまで無機的だった黒い鎧が人間的な反応を見せた。
そしてその反応に、悟天がぱあっと笑顔を咲かせて言った。
「やっぱりネオンお姉ちゃんだ! どうしたのその格好? 格好良いね!」
「……ち、違う。私はネオンじゃないっ! ネオンはもう死んだ! 私はベビーだ!」
無邪気な悟天の言葉に突如狼狽え出す黒い鎧。
そして悟天の言い放った言葉から、チチが数日前まで自宅に通っていた一人の少女の姿を思い浮かべた。
「ネオンさん?」
「違うって言ってるだろっ! 私は!」
姿こそ鎧に覆われている為見分けが出来ないが、その声は紛れもなくネオンの物だった。
長男の悟飯が初めてパオズ山の家に連れ込んできた女友達ということもあり、当人達には内緒にしていたがチチが将来の悟飯のお嫁さん候補第一号としてその関係を警戒しつつ暖かく見守っていた少女である。
チチがその名前を出すと、黒い鎧は過剰なまでの勢いでそれを否定した。
「どうして君達はいつも! どうしてどうしてどうして!? どうしてそうやって、いつも私達の心を惑わせるんだぁっっ!!」
幼い子供が癇癪を起こすように狂乱しながら、黒い鎧がその身体に白銀色のオーラを纏う。
チチとブルマには「気」の強さを読み取ることは出来ないが、その力の強大さは同じ空気に触れているだけでも本能的に理解することが出来た。
「うああああああああああっ!!」
黒い鎧が叫び、その手に纏ったオーラと同じ色の気弾を生成する。
それを放つ的は悟天とトランクス、そして二人と密着して離れない二人の母親だ。
当たれば遺体すら残らず、自分達はこの世から消え去るだろう。しかしそう確信しても尚、二人の母親は息子の傍から離れなかった。
――しかし、結論として彼女らの身を黒い鎧の凶弾が襲うことはなかった。
四人に目掛けて気弾を放とうとする黒い鎧の身を、物凄い速度で横合いから割り込んできた黄金色の光がさらっていったのである。
あまりの速度に一同は目に捉えることが出来なかったが、チチの隣で一部始終を見ていたブルマには直感的にわかった。
あれはそう、冷たくてプライドの高い、ほんの少しだけ良いところがある自分の夫――
「ベジータ……」
「来るならさっさと来なさいよ」と、ブルマが苦笑を浮かべながらそうボヤく。
だが、その出来事は彼女にとってこれ以上無いほどに嬉しいことだった。
自分と息子の危機に現れ、間一髪のところで救ってくれた。それは、人造人間と戦っていた時の彼からはとても考えられない変化だった。
黒と金、二つの色が豪邸を飛び出してはもつれ合うように上昇し、雨雲を吹き飛ばしながら激突し合う。
それはサイヤ人の王子とツフル人の新たな王、戦うことが宿命付けられた者同士による死闘の二回戦だった。
「サイヤ人が憎いか?」
サイヤ人の王子が嘲笑し、ツフル人の王が激昂する。
そしてツフル人の王の中に居る一人の地球人の魂もまた、かつてないほどに憎悪を深めていた。
「貴様らを絶滅させた俺達サイヤ人のことが、そんなに憎いのか!?」
「ベジータァァァァァッッ!!」
黒い鎧が吠え、白銀色のオーラを膨れ上がらせながら襲い掛かっていく。
怒りでパワーを増す、まるでどこかのガキのようだとサイヤ人の王子、ベジータは余裕の笑みの裏で冷たい汗を流した。
「貴様だけは、絶対に許さない!!」
「だったら全力で掛かってきやがれ! 負け犬のツフル人さんよ!」
上空で気を発散しながら取っ組み合う、二人の戦士。
そしてその黄金色の戦士を覆う黄金色のオーラには、青白い稲妻がバチバチと弾けていた。